Season 2

寒天、北極星、かまくら

 見上げても月はなく、ただどこまでも降るような星空が広がっていた。いつかもこんな空を見たな、と彼女はそんなことをぼんやりと考える。しんしんと昼の間も降り続いた雪は辺りを白く埋め尽くしていて、全ての音が吸い込まれていくような気がした。


さくちゃん、準備できたよ」


 静寂の中で、鈴を鳴らすような明るい声に振り返ると、コテージの扉から淡い色の頭がのぞいていた。淡褐色ヘイゼルの瞳はいつにも増してきらきらと輝いて、何か楽しいことが始まるのだ、という予感に満ち満ちている。


 呼ばれるままに元来た道に足を踏み出すと、きし、きし、と踏み締めるたびに雪がかすかな音を立てる。

 ゆっくりと歩くうちに扉は閉まって、また元通りの暗い夜が戻ってきた。開けっぱなしにしていては冷えてしまうから、合理的判断だ。闇はいつだって彼女のそばにあって、だから怖くはない。けれど、一度明るさに慣れた目には、その道はやけに暗く見える。コテージの入口の灯りはすぐそこに見えるのに。


 もう一度振り返ると、真北に柄杓ひしゃくの形に並んだ北斗七星が見えた。指先を空に向け、その柄の先からゆっくりと下ろしていく。一際目を引く一等星たちほど明るくはないけれど、確かにそこに見える、道標みちしるべの星。


「冷えちゃいますよ」


 低い声と共に、ふわりと暖かいもので後ろから包み込まれる。その温かさで、ようやく自分の体が冷えていたことに気づいて頭だけで見上げると、ほんの少し呆れたように笑う無精髭の顔が見えた。こんな静かな夜に、足音にも気づかなかったなんて、と自分に呆れてしまう。

「……忍者ですか」

「朔さんが迂闊なんですよ。そんなにぼんやりして、熊でも出てきたらどうするんですか」

「雪のせいで聞こえなかったんです。こんなに降り積もるのなんて、初めて見るし」

「まあ、冬将軍なめてましたねえ」

 知り合いのコテージが借りられるから、と誘われたその地域は普段はそれほど大雪が降るようなところではない。なのに、辿り着くのさえも一苦労するほどの雪に埋め尽くされたこの光景が、けれど何よりも心落ち着くのはきっとこの人とあの子のおかげなのだろう。


「天気予報くらいチェックしておくべきでした」

「迂闊なのはお互い様ですね」


 そう言って笑った彼女に、見下ろす顔がほんの少し驚いたように目を見開いた。微かにその瞳にいつもとは違う熱が浮かんで、柔らかなストールごと彼女を包み込んでいた腕に力が込められる。けれど慌てたようにすぐに緩んだ。

 じっと見上げていると、目だけが泳いで、ややしてほう、と何かを諦めたようなため息が降ってくる。なんですか、と口を開きかけた彼女の機先を制するように、ニッといつも通りの笑みがその顔に浮かんで、近づいたかと思うと額にやわらかいものと、微かにざらりとした髭の感触がした。

 離れた顔がやけに甘く緩んで、けれど何も言わずに腕を解く。そのまま何事もなかったかのように戻っていく後ろ姿に、ほんの少しだけためらいを感じたけれど、右手で額に触れて、ついでにやけに騒ぐ心臓に鎮まれと心の中で唱えてから、いつも通りの——どちらかといえば感情が足りないとよく言われる——顔で後を追った。


 外の冷たい静謐さとは裏腹に、部屋の中は暖かく、何かの音楽が流れていてなんだか余計に落ち着かない気がしてしまう。

「あ、朔ちゃん。遅かったね。そんなにお星さまがきれいだった?」

 じっとこちらを見上げる淡褐色の瞳はきらきらと輝いて、そして何かを差し出してくる。大きなお皿に乗った白い半球型。一部が削り取られていて、やや形が崩れているように見えるそれは——。

「もしかして、かまくら?」

「そうなの。寒天と牛乳をまぜてつくったんだよ。ほんとはくりぬいて、中にいちごを入れようと思ったんだけど」

「ちょっと柔らかすぎて無理でした」

 そう言って苦笑した顔は、先ほどの熱を宿したそれとは違うようで、けれどじっと見つめるとやっぱり目が泳いだから、何事かは彼にとってもあったのだろう。くすりと思わず笑った彼女に、かたわらからふふっと笑う気配がする。

 目を向けると、何やら先ほどよりもさらに輝くばかりの笑顔がそこにあった。

「おとうさんは、朔ちゃんのだからね」

「……はい?」

「迷子になりそうになったら、ちゃんと見つけてくれるから大丈夫だよ。あとエリは何も見てないから大丈夫だよ」

「えっ、ちょっとエリちゃん何を見てないって……!?」


 したり顔で頷く幼な子に、とりあえずは明日は本物の大きなかまくらをつくることだけは約束させられて、静かで暖かい、なんだか落ち着かない夜は、そうして更けていった。

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