12/23 : 新月

 ずっと、どこまでも深い闇の中にいるような気がしていた。自分の手さえも見えない暗闇の中で、出口を探して彷徨さまようこともできず、ただ膝を抱えて何かが現れるのを待っている、そんな八方はっぽうふさがりの。

 そこに、微かな、けれど確かな光が差し込むようになったのは、いつからだっただろう。


「ねえさくちゃん。明日の準備はもうばんたん?」

「そうだね、お菓子も用意したし、夕食はけいさんが用意してくれるって言ってたから」

「おとうさん張り切ってたよ。朔ちゃんに美味しいもの食べてもらうんだって」

 朔の部屋のお気に入りのビーズクッションの上にちんまりと収まって、まばゆいばかりの笑顔のエリにみかんを差し出す。先日、当の父親からお裾分けしてもらったばかりのものだった。夕飯前なので、お菓子よりはいいだろうと渡したそれに、エリはさらに顔を輝かせる。


 今日は急な残業でどうしても迎えに行けなくなったらしい。明日の予定の確認のついでに告げられたその情報に、ならば自分が迎えにいくと提案したところ、わざわざ音声通話で連絡がきた。

 よく考えれば——考えなくても——ただの隣人に大切な子供を預けるなんて、普通はしない。そう気づいて自分の言葉を取り消そうとしたのに、相手から出てきたのはひたすら恐縮する言葉と、もし本当に迷惑でないなら、といいつつも懇願するような響のこもった声だった。


 結局あまり深く考えずに引き受けて、こうして彼女の部屋で二人でみかんを食べているというわけだ。

「朔ちゃんは、寂しくないの」

 不意に投げかけられた唐突な問いに、淡褐色ヘイゼルの瞳を見返す。そこには単純な疑問だけが浮かんでいて、だから、この小さな天使には誤魔化しても仕方がないと小さく頷く。

「寂しくなくはない、と思う」

「じゃあなんでひとりでいるの?」

 これまた率直な問いに、夕暮れの街を眺めながら、どうしてだろう、と自問する。ついでに、そろそろ彼が帰ってくる頃だろうかとパーカーを羽織ってベランダに出る。ついてきた小さな姿にも上着を着せて、見下ろした街はきらきらと光る宝石箱のように見えた。


「綺麗だねえ」

「そうだね」


 マンションのすぐ下の道、流れる人々の間に不意にが見えた。長い黒髪を靡かせて、人混みをすり抜けていく。遠目にでもなぜだかはっきりとわかる金の双眸が一人の男を捕え、たのしげに笑ったかと思うと、鋭利な刃を持つ鎌を取り出し、すっとその男を小さな路地へと引き込んだ。

「朔ちゃん? 大丈夫?」

 不安げな淡い色の瞳に、何でもないと首を振って、背中を押して部屋へと戻る。


 明るい部屋の中で見る天使のような姿にかげりはない。それに一度だって、彼女自身に何かが起きたことはなかった——それでも。

 不意に温かいものが頬に触れた。目を向ければ、ふわふわとした巻き毛に包まれた、口を真一文字に引き結んだ顔がこちらをじっと見つめていた。

「大丈夫だよ」

 何が、と問いかける前に、ピンポーンとのどかなチャイムが鳴った。彼女が動くより早く、エリが玄関へと駆け去ってしまう。声をかける前に扉が開いて、頼りない玄関の灯りの中で、ふわりと柔らかい光が差し込んだように見えた。


 もう見慣れた、くたびれているのに、ひどく温かい笑顔。


「エリ、ダメだろう。ちゃんと確認してからじゃないと」

「しょうがないよ、朔ちゃんのきんきゅうじたいだから」

「え?」

 慌てたようにこちらを見た顔が、彼女の姿に気づいてほんの少し眉根を寄せて、後ろ手に鍵をかけてから、靴を脱いで大股で近づいてくる。ただぼんやりとそれを見つめていると、彼女の目の前で顔を覗き込むようにして膝をついた。何かをためらうようにしばらく逡巡して、けれどついには彼女の頭を自分の肩に引き寄せた、ちょうど先日、彼女がそうしたように。


「怖いのは夜の闇? それとももっと違うものですか?」


 静かな声が、淡々とそう尋ねる。内面では嵐のように吹き荒れる彼女の心を、可能な限り凪いだままにとどめようとするように。

 ただ首を横に振ると、ほんのわずか、苦笑する気配がする。彼女の頭を宥めるように撫でて、それから温もりが離れた。そうして、小さな包みを手渡してきた。


「クリスマスプレゼント——にはちょっと早いんですが、少し散歩に行きましょう」


 それが包みを開けるのを促す言葉だと気づいて、のろのろと手触りのいいクラフトの包み紙を開くと、箱に入っていたのは黒い鉄の枠とガラスでできた角灯ランタンだった。中にはクリスマスツリーを見上げるサンタクロースとトナカイ、それから雪だるまスノーマン。これでもかと冬のモチーフを詰め込んだそれは、逆さにして戻すと雪が降ってくる。

「……スノードーム、ですか?」

「だけじゃないんですよ、これが」

 そう言って、得意げに笑った顔は無精髭なのに、やけに子供じみて見えた。ランタンの横のねじを巻くと、軽やかな音楽が流れ出す。いつかも聞いた、あの、やたらと喜びに満ちた音楽が、もっときらきらと繊細な音で。

「綺麗ねえ」

 エリがうっとりと雪の降るランタンのオルゴールを見つめてそう呟いた。その頭を撫でて、それから蛍太は朔の腕を引いて立ち上がる。


 外は、ひどく冷え込んでいた。エリと手を繋いだその人は、ランタンを朔に差し出してくる。右手で受け取ると、空いた大きなその手が朔の左手をごく自然に握りしめた。そうして、ゆっくりと歩き出した。向かったのは近くの川の遊歩道。街灯の少ないその場所は、闇が濃いから普段の彼女ならこんな時間でなくとも近づかない。


 けれど、今は雪降るあかりと響く讃美歌のおかげで、蠢く影も不吉な予兆もどこにも見えないようだった。だからこそ、歩きながら思い切ってそれを伝えてしまうことにする。


「あれが何なのか、私にもわかりません。けれど、それは確実に死に紐づいていて、必ず誰かをさらっていくんです」

 死は常に彼女の身近にあった。親しい友人にその死の影が見えた時、なんとしても阻止しようと手を伸ばしたが、何の役にも立たなかった。それはまるで、とでもいうように。

「だから、攫われる前にどうにかしてしまおうと思っちゃうわけですか?」

 静かな声は、呆れたような響きを含んでいる。他人から言われてみれば、確かにあまりに愚かな振る舞いに思えた。


 いずれにしても、どうやっても死は彼女には訪れなかった。

 何かが常に邪魔をする。あるいは誰かが彼女を見つけ、救い出してしまう。

 まだ、お前の番じゃない。


 そう突きつけるように。翻せばそれは彼女には何もできない、という証左にも思えた。ただ死を視認して、見せつけられるだけ。結果、彼女は常にいつが見えてしまうのかに怯え続ける。

「そばにいれば、いつかあなたやエリちゃんの死の影それを目にしてしまうかもしれない」

 特別な人であればあるほど、絶望は深くなる。温かさや幸福を感じるたびに、その場から逃げ出して、そのまま全部を終わらせてしまいたくなる。これ以上、因果のわからない死を——大切な人の終わりを突きつけられるくらいなら。


「大丈夫だよ、朔ちゃん」


 ランタンを握った手を、エリがそっと包み込んだ。驚いて目を向けると、真剣にこちらを見上げる瞳とぶつかる。

「おとうさんがいるから、大丈夫」

「はい?」

「朔ちゃんは夜なんでしょ」

「ええと、夜、というか新月、月のない夜だね」

「お月さまがない夜は暗いよね?」

「そうだね」

 何を言い出すのだろう、とその顔をじっと見つめていると、エリはほらね、と何だか得意げに頷いた。そうしてランタンのスイッチをオフにした。真っ暗ではないけれど、河原の遊歩道は星が見える程度には暗い。

「明るすぎるとね、見えないんだって」

 そうしてエリが指差した先に、ごく小さな、けれどはっきりと黄緑色の光が見えた。ふわりふわりと明滅するそれは、一度だけ、彼女も見たことがあった。


 ほんの微かな、けれど人の命のように息づく鮮やかな蛍の光。


 こんな季節にあるはずのないその光は、エリがもう一度ランタンを点けると幻のように消えてしまった。言葉を見つけられない彼女の手に、エリが父親の手を重ねる。


「おとうさんはぴかぴかのお日さまじゃないけど、だから、朔ちゃんがいいんだよ。朔ちゃんも、明るすぎると眩しいでしょ」


 エリはお日さまも大好きだけどね、と無邪気に言うその笑顔に、苦笑する気配がして、見上げるとやっぱりどこか困ったような無精髭の顔が見えた。

「まあ、大して頼りにならない蛍の光程度ですが、君の心を和ませる程度には役に立つかも?」

 か細すぎて影も作れないしねえ、と彼は肩を竦めて笑う。それからほんの少しためらう気配のあと、力強い腕が、それでもそっと朔を引き寄せる。


 月のない夜に重なる影を、淡い光を放つ淡褐色ヘイゼルの瞳が得意げに見つめていた。

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