12/20 : ローストビーフ

 年末進行を覚悟してあれこれ仕事を推し進めた結果、思いのほかスケジュールに余裕ができた年の瀬。クリスマスも間近ということで、あれこれ準備を仕込み、ついでに週末のささやかなパーティに向けて料理の試作をすることにした。


 昨日から下味をつけておいた牛もも肉のブロックに、熱したフライパンで焼き目をつける。百二十度に予熱しておいたオーブンで、じっくり焼くこと三十分。それから予熱でさらに三十分おいたら出来上がり。


「意外と簡単だな」

「おいしい?」

「——のはず。味見してみようか」


 興味津々と覗き込んできた娘の頭を撫でてから、焼き上がった肉をトングで取り出して、まな板に置く。薄く切ったその断面はほどよく火が通って、きれいなピンク色をしている。

 半分に切って、娘の口に放り込むと、その顔がぱあっと輝いた。

「美味しい!」

「そうか?」

 自分でも食べてみると、シンプルだけれど、下味がしっかりついていて確かに悪くない。

「これなら朔ちゃんも喜んでくれるかな?」

「だといいな。あとはソースを用意しておかないとな」

 とはいえ、本日分は試作だから、とりあえずは今夜の夕飯に残りを何枚かカットしておく。贅沢品だが顔馴染みの精肉店の店主が融通を効かせてくれて、市場価格と比べれば破格の値段で譲ってもらったのだ。例年はローストビーフそのものを購入していたのだが、今年は塊肉をと注文したところ、何やら感慨深げな顔をされた。きっと店主も覚えていてくれたのだろう。


 ——手作りローストビーフはエリが生まれる前からの、この家の伝統だった。


 懐かしい面影が脳裏に浮かんで、それを懐かしいと感じられたことに自分でも驚いて口元を押さえる。元々さしてクリスマスなど祝う習慣のなかった彼に、誕生日だクリスマスだ結婚記念日だ、さらにはひな祭りにこどもの日にと、隙あらば些細な祝日もとにかく祝って楽しんでしまう。そんな習慣をもたらしてくれたのがエリの母親だった。


 いつでも明るく笑っていて、何事にも前向きで。彼が仕事に打ち込むことも、何もかも全部穏やかに包み込んで肯定してくれていた。なんの翳りもない真昼の太陽のようなその存在に、どれほど救われていたことだろう。

 あまりにその光が強すぎて、本人さえも死神の影がすぐそばに迫っていることに気づけなかった——否、気づかなかったのは彼だけで、彼女は本当は気づいていたのかもしれない。


 伸ばした手は届かなかった。全てが手遅れで、だからエリをお願いね、二人で幸せに、とそれだけ言って、最後まで笑って目を閉じた彼女のその面影は、いつの間にか曖昧になっていたのに。


 忘れられるはずがない。幸せになどなれるはずがない。彼女を救えなかった自分だけがのうのうと。


「おとうさん」

 静かな呼びかけに、はっと我に返る。目の前には、彼女と同じ鮮やかに美しい淡褐色ヘイゼルの瞳がこちらを見つめていた。とても綺麗な、穏やかな色で。

「朔ちゃん呼んでくるね」

「え?」

だから」

「ちょ、エリ——」

 けれど、不思議とエリは彼の手をするりと逃れ、そのまま玄関へと駆け抜けていく。

「だいじょうぶ。ちゃんとお隣にいくだけだから」

 本来ならたとえ隣でも止めるべきだとわかっていたのに、どうしてだか動けなかった。呆然とその背を見送って、扉が閉まるとやけに部屋の中が静かに感じられた。カチ、カチ、カチ、と掛け時計の針の音まで聞こえる気がするほどに。


 ずいぶん長い間待った気がしたけれど、実際はきっと数分も経っていなかったのだろう。ガチャリと扉が開いて、見慣れた赤いパーカーとまっすぐな黒髪がドアの向こうの光に浮かび上がって、すぐに暗くなる。それでもほのかに明るい気がするのはどうしてだろうか。


、なんですか?」

「え?」

 こちらをじっと見つめる黒い瞳はいつも通り静かで、けれど、いつになく困惑の色を浮かべていた。細く白い指先が伸びてきて、彼の頬に触れる。それが濡れているのに気づいて、え、ともう一度声が漏れた。


「なん……で……」

「まあ、そういう巡り合わせなんですね」


 微かに滲んだ視界の中で、静かな、あまり感情の見えない、それでもほんの少し呆れたような笑みを含んだ声が聞こえた。柔らかい手のひらが彼の頬を拭って、それからまなじりに親指が触れる。反射的に目を閉じると、気づかないうちに溜まっていた雫が溢れてさらに頬を伝うのがわかった。

「鈍いですね」

「……もうちょっと言い方」

「その辺は期待しないでください」

 ほんの少し不貞腐れたような声音に、思わずふき出して、そのまま変なスイッチが入って笑いが止まらなくなる。呆れたようなため息と共に頬に触れていた手が後頭部に回って、肩に押し付けるように引き寄せられた。同時に後ろから温かい体がくっついてくる。

「ひつようだからね」

「そうだね」

 幼い声と、静かな声が示し合わせたようにそう言って、彼を包み込む。

「……だいぶ年長者としては、情けなくないですか、これ」

「まあ、どちらかといえば」


 呆れたような言葉よりも、彼の頭を柔らかく撫でる指先の感触の方が多分正直で、だから、彼はしばらくはその二つの温もりに甘えてしまうことにしたのだった。

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