焦燥感につれ (仮)

時御門智尋

第1話

明朝、塩原邸をバックパックと小さなボストンバッグを持った少年が黒い外套に身を包み、手には使い込まれた様な折りたたみ式の傘を携えて、慎重に、庭の草花をかき分けて家を出た。馬靴風なブーツに泥を付けて、最寄りのバス停へとそそくさ急いで走り向かった。

 彼はバスを待っている間、何をしようか少し迷った。「塩原の家を出た」この事実が如何様に我が身に降り掛かるかを考える事に精一杯で、自分の趣味の品々が入ったバッグパックを開けることさえする気にならなかった。自虐と絶望に駆られた彼を、雪の寒さに震えた身体で無理に忘れさせた。傘にも雪が積もり出した。

 午前の6時半、本来であれば来るはずであろうバスが来ない。雪で遅れていることに気づいたが、乗り換えるバスまでの乗り換え時間は30分あるから、まあ問題無いだろうと考えていたが、違う問題が発生した。

 遅れを知った刹那、道の先に少年と同じ様な外套を纏った、しかし膝丈のスカートを履いたうら若い、20歳ほどの女性を目撃した。少年も見てすぐ隠れたつもりだが、その女性も視認した様で、少年の横へとゆっくりと上品に歩いてきて、

「何処に行くのですか? 皆も心配しておられますから、取り敢えずお家に帰りましょう。何か悩みを抱えているなら、私で良ければお聴き致します」

 少年に付いていた、というより懐いていたという表現が良かろうか、彼のメイドであった。彼も彼女には大変愛想良くしてもらっていたので、断固として断るべきか迷ったが、すぐにこう放った。

「智瀬、ご足労面目ない。僕はかの学校が嫌であると、前々から父さんにもそう話していたのは知っているだろう。今日こそは決意したのだ。あの学校に居る意味無い、と」

 メイドは微笑んだその顔を少し落として言った。

「……家族や私たちメイド、執事には眩しい笑顔をしていた貴方が、部屋で虚無に等しきお顔であったのを、知っていますよ。その度に、大丈夫ですか? と、訊けば無理にでも笑って赤子の様に頷かれてました」

「赤子か……確かにそうかも知れないな」

 彼は思い当たる節がある様で、遠く、消えかえの月を覗き見ていたが、やがてメイドにこう掛けた。

 「いいか、智瀬。僕は今から横須賀に行く。朋友を頼るから衣食住は心配いらない。金もある。それと、家族が嫌いな訳でも決して、断じて無いからそう伝えてくれ、分かったか」

 メイドの肩を掴んで、真剣な眼差しで彼女を揺らしながら、半ば泣きべそ掻いて、そう告げた。

 「……良いのですか? 柊嘉様。あなたの想い人も酷くお辛いと思いますよ。…………帰りましょう。さあ……!」

 彼女が少年の腕を引っ張ったが、その腕を振り解き、

 「先程に告げた事、よろしく頼むよ」

 彼女にハグをして、何十秒だったろうか。仙台に行くバスは既についていた。着いたバスに足をかけた少年を離さんとする彼女に向かって、

 「大丈夫。僕には神の御加護が付いている。真なる徒を揶揄ったりはしないはずだ」

 この言葉を聞いて泣くまいとしていた彼女も、膝を折って泣き出してしまった。ただでさえ遅れているバスの運転手がいい加減に彼らにこう告げた。

 「危ないですし、遅れますから、次のバスをご利用下さい。ね」

 少年は退かずにこう告げた。

 「8時半に横浜行きのバスが出るのです。それに乗らなくてはいけません」

メイドが泣きながらも彼の足を掴んでいたが、彼は彼女を立たせてこう言った。

 「大丈夫。大好きだから」

 この言葉の意図する事は一つ二つの生易しいものでは無かったが、それを直ぐに汲み取れた彼女は、諦めようか諦めまいか、悩みの中でもただただ「行かないでほしい」という願いの中で必死に、どうしても諦めきれずに、最後の力で彼の腕に絡みつき、

 「私は……貴方も大好きですよ」

 これには彼も面食らって、流石の英断を変える気持ちになりかけたが、ふと、頭が空っぽになって、一つの、それは皆が想像する様な、真鍮製の皿二つを凧糸の様な細さの針金がついている天秤が現れた。

 その皿にどれほどの代物…それは、自分の想い人との関係や、自分の命であろうか、それをワニだらけの川を渡るかの如き動きで皿に乗せた。落ちる。みるみる落ちる。

 それは七面鳥落としかと見間違うかの様な速さで、それを覗く1人の童子は無邪気な顔だった。やっと止まった皿に手を添えて、もう一方の皿に「学校」を投げ入れると、無邪気な童子は顔を背けて天秤を見なかった。

 あゝ、壊れてしまった。その壊れ様は童子が癇癪を起こして親から貰った大事な縫いぐるみを散り散りにするかの様に…はたまた犬の食いちぎりかと見紛うものだった。皿は外れ、台は割れて、針金に至ってはぐちゃぐちゃに、それは乱麻の様で、針金には見えなかった。

 壊れた天秤を拾い上げ、それで分かった事を整理しだした童子は、いきなり結論付けた。「行こう。行くしか無い。背に腹はかえられぬ」

 メイドは、その瞬間的な彼の心情の変化に気がついていて、彼の濃茶色の瞳を覗くしかなかった。

 「智瀬、頼む、頼んだぞ。僕を見つけ出そうとしてもらって結構。実に結構。……ああ、泣くなよ」

 「泣くなよ」そう言われてメイドは泣き腫らした顔を上げて、同時に力を抜いてこう放った。

 「行って……らっしゃいませ。足を滑らさないでくださいね」

 少年は、いつも通りに学校に行く際にかけてくれるその言葉を聞いて、その瞳を見て安心した。彼は、

 「行ってくるよ」

 そう言い残してバスの乗車券を千切るかの如く抜き取り、左側の、入口に一番近い椅子に座り込み、メイドに手を振っていた。満面の、桜を思わす顔だった。

 運転手がそんな様子に声を掛けて、

 「良いのかい」

 決意変わらずの彼はそのまま運転手を見ずに、

 「……はい。お願いします」

 泣き腫らした顔を二つ見た運転手はほくそ笑んで席に座り、「発車します」と、アナウンスをかけた。

 彼は、バックパックに手を突っ込む気には、やはり成れなかった。

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