第10話  あとがき

主人公弘のモデルとなったボクサーSさん。


私がエントリーしていた新人王トーナメントで闘ったかつての対戦相手。私と対戦した時のSさんの戦績7戦2勝(1KO)5敗。


当時の私の戦績2戦2勝(2KO)。


デビュー戦を1ラウンドKO、新人王トーナメント1回戦もKO勝利。その日の試合で1番良い試合をした選手に贈られる“がんばれ元気賞”という賞を戴いてスポーツ新聞にも記事が掲載された。


絶好調、まさに前田一郎のような心境。


次、対戦するSさんの戦績を聞いて、こりゃ楽勝で3連続KOいけるな!1ラウンド最短KO記録更新できるんちゃうか?


自分の思い上がった思考。今、思い出しても恥ずかしくなる。


本当に余裕かましてプロボクシングというのを舐めていた。後に待っている恐怖も知らず、脳天気に。


そして、Sさんとの試合。


1ラウンド開始のゴングと同時にグローブを合わす事なく突進。


1ラウンド最短KO記録更新を本気で狙っていたので1秒も無駄にできなかったから。


私のあまりの勢いに防戦一方のSさん。


コーナーに追い詰めて連打しようとしたらガードを固めたSさんがスルリと逃れる。あまりの突進力で自分が止められず、横にくるりと1回転したほど。


その後もガードを固めるSさんをコーナーからコーナーに追い立てる。スタミナの事なんて一切考えていなかった。判定までいくなんて思っていなかったから。


Sさんはガードをしっかり固め、そのガードの隙間からジッとこちらを見つめる。


後に、この目が恐怖のどん底に私を陥らせる事になるなんて、この時は夢にも思わなかった。


1ラウンド終了のゴングが鳴る。


クソっ!最短記録狙ってたのに!


2ラウンド。


1ラウンドで仕留められなかった事で、是が非でも2ラウンドで仕留めようと躍起になる。


ガードをしっかり固めるSさんのがら空きになっているボディに狙いを定める。私の読み通り肝臓を狙った左のレバーブローがまともに入る。


動きが止まるSさん。


KOチャンスとばかりに猛烈に、スタミナが空になるまで攻め立てる。ガードを固めるSさんを追い立てた。


2ラウンド終了のゴング。


私のスタミナは、ほぼ空状態。


3ラウンド。


まるでこの時を待っていたかのようにSさんの反撃が始まる。


私が攻めているというのは変わらないけれど、1つ違った事。


私の打ち終わり。


それを待ってからSさんが連打をしてきた事。


ここで私は気がつく。


ずっとガードの隙間から私を見つめるSさんの目。


ずっと死んでいなかった。


KO寸前になると、目に力が無くなり、明らかに弱々しさが伝わってくる。


ところがSさんの目。


虎視眈々とはこういう事をいうのだろう。何かを狙っている目を、ずっとしていたのだ。


もう、この事に気がついてからは、Sさんの目が怖くて怖くて仕方なかった。


最終ラウンド。


ずっとガードを固めていたSさんが私を倒しにくる。判定では勝ち目がないことがわかっていたのだろう。


この時の私の心境。


お願い!早くラウンド終了のゴングが鳴ってくれ!


もう倒す事なんて微塵も考えていなかった。ただただ早くゴングが鳴って終わって欲しいと心底思っていた。


ホント、誰の目もなかったら、背を向けて走って逃げていた事だろう。


「ラスト30!」


どっちの陣営が言ったかわからないが、その言葉の後、ギアを上げたSさんの連打が私を捉える。


Sさんのパンチで顔面がのけぞる。


そこで終了のゴング。判定の結果は私の勝ち。


しかし、試合に勝って勝負に負けた心境。もう怖くて仕方なかった。


レフリーに右手を上げられながら、ちっとも嬉しくなかった。


後楽園ホールを出て、応援に来てくれた仲間たちが祝勝会をしてくれるとの事で近くの居酒屋へ。祝勝会の途中、小便がしたくなり居酒屋のトイレに行った時。


なんと、トイレでSさんとばったり出くわした。Sさんも残念会を同じ居酒屋でしていたのだった。


リング上では話す時間がなかった私はSさんに言った。


「Sさん、あなたは強かった!僕、正直、Sさんの事、舐めてました!もう、Sさんがガードの間から見てくる目が怖くて怖くて仕方なかったです!ありがとうございました!」


「いやいや、僕の方も絶坊主さんの勢いに圧倒されました!強かったです!絶っっ対、新人王になって下さい!」


この時思った。


プロボクサーっていうのは、対戦する相手の夢を踏みつけて勝ち上がらなければいけない、相手の夢も飲み込んで闘わなければいけない残酷なスポーツなんだって。


結局、私は準決勝で力尽きSさんの期待には答えられなかった。


でも、私の12戦しかないキャリアの中で、技術的に強かった選手は他にいるけれど、あんなに恐怖を感じた選手はSさんが断トツで1番。


後にSさんは私に負けた後、発奮して連勝しA級ボクサーになった。そして、私もA級ボクサーに上がり、初めての試合の時。


メインイベントは日本チャンピオンがタイトルを返上し、世界タイトルに挑戦する前の前哨戦。そのセミファイナル戦が私の試合だった。


そして、その日本チャンピオンの対戦相手は・・・Sさんだった。


たぶん、その日本チャンピオンにしてみれば、安パイとして選んだ噛ませ犬と思っていただろう。


しかし、私はそう思わなかった。Sさんの強さを知っているから。


しかし、結果は4ラウンドKO負け。


あの居酒屋で会って以来、Sさんとは会っていない。もし、再会する機会があればSさんに伝えたい。


あなたは私が闘った中で1番恐怖を感じたボクサーでした!と。


最後に。


この物語を書き終わった感想。


何の世界でも同じだと思うけれど、栄光を掴める人間はごく一握り。だいたいの人間は、努力が報われない。


だけど、どのボクサーもリングに上がる恐怖、その代わり得られる恍惚感。


たった数分間の為に何十時間何百時間も血と汗を流し厳しいトレーニングを重ねる。


そして勝ち名乗りを受けて右手を上げられた瞬間、全てが報われる。


チャンピオンになれなかった全てのボクサーに幸あれ!


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