吾輩は蛙である

富士田けやき

吾輩は蛙である。名前はクソ長い。

「――以上が人界の状況だ。誰ぞ、我こそはと言う者はおるか?」

 静寂が支配する空間。人間や様々な動物たちがふわふわと楽な姿勢で浮かぶ光景は、何処か滑稽にも映る。誰も手を挙げようとはしない。

 それだけ人の世がおぞましい状況なのだが――

「吾輩が征こう」

「大帝が⁉」

「なんと……しかし、確か元凶の国は大帝の――」

「……よいのか?」

「吾輩がやらねば誰がやる。これで議論は終わりだ。吾輩には日課の導引があるゆえ、ここで失礼させて頂く。では、さらば」

「うむ。委細、任せたぞ。青海――」

 話を切り上げ、一匹の蛙が眼を開ける。その瞬間、視界が切り替わり全く別の世界が目の前に広がっていた。天を衝く巌の上、雲より高きところ、己と同じようにふわふわと浮かぶ巌は、空の上の島のような役割を果たしていた。

 ここもまた、その内の一つである。

「おししょーさま! かいぎおわった?」

「うむ」

 成人の腰ぐらいの身長しかない蛙と、同じぐらいの背丈の少女が走ってきた。ふわふわした栗色の髪が美しい少女であった。あと歯が抜けている。

 丁度生え変わりの時期なのだ。

「じゃあ、どーいん!」

「導引、だ。発音が違う」

「どっちでもいいよぉ」

「よくはなかろうが」

 座りながら宙に浮かんでいた蛙が、地面に足をつく。当然の如く二足歩行、腰に手をやって少女を手招く。笑顔の少女は嬉しそうに蛙の横に並ぶ。

「では、日課を始める」

「はじめる!」

「まずは大きく息を吸って、膝の運動から。コォ、おいっちに、おいっちに」

「こー! おいっちに!」

 導引とは仙人の修行である。大きく息を吸って、吐いて、手足の曲げ伸ばしや運動によって血行を促進、健康の維持や病気の克服、果ては不老長寿を目指す。

(そう聞くと仰々しく聞こえるが……誰にでも出来るただの体操である)

 現代風に言うと、朝のラジオ体操であった。

「空気がおいしいね」

「雲の上ゆえな。その分空気も薄いが、身体が慣れてしまえば大したことではない。健康には最適であろう。子どもにとって悪くはない場所だ」

「子どもじゃないもん!」

 歯をイーっとして威嚇する少女の歯抜け姿を見て、蛙は微笑む。

「ここでの生活は退屈ではないか?」

「ぜんぜん! おししょーさまがいるから!」

「ふはは、それは嬉しいな」

「ほんと⁉」

「もちろん」

 嬉しそうにはにかむ少女の姿に、蛙は重ねて笑みを浮かべる。その笑顔は何処か、あの少女を彷彿とさせた。

「繋がり、か」

「なぁに?」

「何でもない。それよりも呼吸が乱れておるぞ。導引のみならず仙道は呼吸が肝だ。身体の中に気を満たし、巡らせ、仙気と成す。わかるか?」

「むつかしい」

「であろうな」

 笑う蛙。彼は千年生きた蛙である。五百年前に千二百の善行を積み、無事天仙となった。それ以降、ここ仙境より人の世を見守り、必要とあらば干渉している。

 今は干渉することも少なくなったが――

「おししょーさま、今日はなにするの?」

「修行をして、学を修める」

「うえええ……かくれんぼにしよ?」

「駄目だ」

「けちんぼ!」

「ふはは、仙人とはそう言うものだ」

 蛙は大笑いしながら少女を躾ける。預かり者ゆえ、丁重に扱い、正しく導かねばならないだろう。せめて、それぐらいは――

 今の蛙はただ、修行と称して預かった少女を清く正しく育てる、それだけを考えていた。それだけを考えて、いたかった。


     ○


 千年前、蛙は足を滑らせて使っていない古井戸に落ちてしまった。これは困ったと這い上がろうとするが、蛙の体躯と手足では非常に難儀で、難しかった。

 毎日天を仰ぐ日々。そりゃあもう、空の蒼さが沁みると言うもの。変容する雲の形を見て、芸術のこともわかった気になっていた。

 井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る、である。

 そんな日々も束の間、突如大雨が降ってきた。物凄い雨ゆえにこんな古井戸、すぐに増水してしまう。これ幸いと蛙は心躍った。

 何せ、水で溢れたなら井戸からの脱出が叶うから、である。

 しかし、ここで蛙は重大な事実に気付く。

『おぼ、ごぼぼぼぼぼ⁉』

 蛙は金づちであったのだ。自らも知らなかった事実に蛙は泣きながら藻掻いた。まさか蛙である自分が金づちなどとは神も思うまい。

『だれぞ、ごぼ、たすげ、で』

 しかしてここは古井戸。誰も近づかぬが道理。このまま増水して、井戸から溢れ出るか、おぼれ死ぬか、その戦いであった。必死に蛙は足掻いた。命がかかっているのだ。当然である。蛙には根性があった。そして希望もあった。

 天にさえ届けば、生還することも井戸からの脱出も叶うのだ。

 だが――

『なっ⁉』

 あと一歩、今一歩のところで、雨がやんでしまう。これ以上水かさが増えることはなく、井戸からの脱出は叶わない。それなのに水はある。

 蛙は絶望した。この世の終わりだと嘆いた。空の蒼さとか雲とかどうでもいい。晴天が忌々しい。あまりにもひどい運命だと、泣いた。

 ゲコゲコ、と。

 すると――

「何か音が聞こえる」

「お嬢様、どちらに行かれるのですか⁉」

 天に、見たことのない景色が現れたではないか。ふわふわで栗色の髪が陽光を反射し、煌めいている。憎々しげな蒼空から少女は救いの手を垂らす。

 小さな身体を優しくすくいあげ、少女は笑った。

 蛙にはそれがとても眩しく、人生ならぬ蛙生を変えるほどの衝撃であったのだ。

 蛙だけに。

『ありがとう。感謝する。この御恩は生涯忘れない』

「よかったね、かえるさん」

 感謝の言葉を投げかけるが、言葉は通じない。己はただの蛙、それも仕方ないことであろう。こんなに言葉が通じぬことをもどかしいと思ったことはなかった。

「お嬢様!」

「ごめんね。わたし、もう行かないと。このお屋敷もね、さよならしないとなんだ。悪い神様がこの辺りをぜーんぶめちゃくちゃにしちゃうんだって」

『……?』

「また会えたらいいね、かえるさん!」

 そう言って去っていく少女を見送りながら、蛙は思った。

『……よくわからないが、その悪い神とやらを倒せばまた会えるのだな』

 とりあえず神様を倒そう、と。


     ○


 蛙は井戸の外に出て世界を渡り歩いた。人の世を渡り歩き、学を修め、言葉を学び、力を得るために修行を重ねた。長く、充実した旅であった。

 あれから五十年――

「カエル殿!」

「おうとも!」

 蛙はくだんの悪しき神の前に立っていた。旅の途中で仲間になった友と共に、災いを振り撒く悪神を討たんと奮戦する。

 蛙はとりあえず体を鍛えた。五十年で蛙にしては大きくなった方である。大岩を持ち上げ、蛙は「ふん!」と放り投げた。神を相手に石くれなどさほど意味を成さないが、あれは目くらまし。本命は――

「コォ! そうりゃア!」

 砕かれた岩の破片。それを最近体得したばかりの仙術で操り、鋭い岩の破片を神に突き立てることによって、一時的に相手の動きを拘束する。

「コォォオオアアあああああああああ! 今ぞ!」

「任せろォ!」

 仲間が怒涛の勢いで動きを止めた神に攻撃を仕掛けた。蛙は全力で、今持てる全ての力を注ぎ、神を止め続ける。口の端から、眼から血が、零れ続ける。

 それでも止めぬ。

 あの少女に会いたい。それもある。しかしもう、それだけではない。人の世を渡り歩いた。世界を知った。人の営みの中で生きた。

 この神は蛙の目線で見れば悪と限らないのかもしれない。繁栄する人に住処を奪われた獣たちの恩讐が、形となった神だからである。それでも蛙は恩讐を否定する。その神が奪ったものを知るがゆえに。

 命を賭し、戦うのだ。

『人成らざるものよ、何故だ? 何故、同胞の想いを踏み躙る?』

『人に救われた。人の友を得た。それだけだ』

『……裏切者めが』

『滅べ。貴様は充分、破壊した』

 人の剣が、人の執念が、恩讐が、獣のそれを打ち砕いた。

 神を討ち、友が歓喜を全身で示していた時、蛙はただ一匹、恩讐の神に祈りを捧げていた。獣たる蛙ならば、この神を崇め奉るべきであったのだろう。

 されど、蛙はそうしなかった。

「カエル殿!」

「うむ、やったな」

「ああ、貴殿のおかげだ。本当に、我らは最高の仲間だ!」

「……ああ」

 人の世に生き、多くを学び、人を知ったから。もう、他人ではいられない。

 もう、別の種族であると壁を作ることも出来ない。

「リーダーを胴上げしましょ」

「ほう、吾輩の出番だな」

「ちょ、ま、待て。カエル殿、話し合おう!」

「そォれィ!」

「ちょおおおお⁉」

 笑顔の花が咲く。皆が笑っている。だからよいのだ。これは正しいことなのだと、蛙は己が所業を飲み込んだ。

 人の世を救い、彼らは英雄となった。人であろうが蛙であろうが英雄は英雄、様々な国が総出で祝宴を開いてくれた。ここでもまた笑顔の花が咲き誇り、蛙は幸せそうな人々を見て微笑む。

 祝宴はひと月も続き、人々の喜びの大きさを示すこととなる。世界を救った英雄たちの進路はまちまちであった。大国の要請を受け、将軍などの要職に就く者、そういう堅苦しいのを拒み元の国に只人として帰る者、蛙もまた後者。

 仲間たちとの別れを惜しみつつも、蛙はあの井戸のあった屋敷に戻る。

 そこには――

「あら、大きなカエルさんね」

 あの時とは全然違う容姿の、されど同じ雰囲気をまとった老女がいた。たくさんの家族に囲まれながら、五十年ぶりに己が土地へ足を踏み入れたのだ。

「あの時、そこの古井戸で命を救って頂いたただの蛙にございます」

「まあ、あの時の。覚えておりますよ。あの時はこんなに小さかったのに、とても大きくなられたのですね。驚いてしまったわ」

 覚えていてもらえた。世辞かもしれないが、それでも蛙はこみあげてくるものを抑えるので精一杯であった。

「おばあさま、大きなかえるさんとおともだちなの?」

「ええ、そうよ。私の古いおともだち」

「そうなんだ! わたしともおともだちになって、かえるさん!」

「う、うむ。吾輩は構わぬが」

 世界を救った蛙は、ただの大きな蛙としてこの家に仕えることとなった。老女の友として、そして孫娘の守り手として――

 孫娘も大きくなったタイミングで蛙に転機が訪れる。かつての仲間が数人、屋敷に訪ねてきたのだ。大きな災厄は去ったが、世界はまだまだ荒れており、悪意はいくつも形を得て、多くの害を振り撒いている。

 彼らは同志を集めていたのだ。あの時と、同じように。

「迷うことなど無いのですよ、カエルさん」

「……しかし、吾輩は」

「私は大丈夫。あの子も大きくなりました。だから、心の赴くままに。友情とは決して、何かを縛る物ではないはずよ」

「……その言葉、甘えさせて頂く。されど、恩は必ず返すのが吾輩の主義である。この命続く限り、屋敷に仕えさせてもらうぞ」

「ありがとう、カエルさん」

「こちらこそだ」

 蛙はかつての仲間と共に旅に出る選択をした。彼女とは今生の別れとなるだろう。それでも彼は人の世を良くしたいと願ったのだ。

 仲間たちと共に。

 多くの苦難があった。小さい悪は見え辛く、周到で、探し出すのも困難であった。巨悪との戦いとはまるで違う苦労を強いられた。時間もかかった。

 己の寿命もよく知らぬ、妙にデカい蛙ならばいざ知らず――

「私はここまでだ。すまぬな、友よ」

「構わぬさ。あとはこの蛙にどんと任せておけ」

「ああ。任せた」

 最後の友と拳を合わせ、彼が去っていくのを見送った。人の命は短く、儚い。蛙は人の仲間たちを全員見送り、彼らの遺志を継ぐ。

 より良き世のため、彼は旅を続けた。仙道を修め、善行を三百積み、気付けば仙人もどきである地仙となった蛙は、人の世に生きながら人とは違う悠久を生きる。仲間だけではない。友となった孫娘も見送った。

 あれが一番、堪えたかもしれない。

 旅の中でもあの屋敷には足しげく顔を出し、彼女の血族が健やかに過ごしているか、その確認だけは怠らなかった。彼女に似ている子、似ていない子、様々であったが蛙は皆を愛し、皆もまた家の守護者である蛙を愛した。

 多くを見送り、世の中も変わった。気づけば人の世に彼らに害成す悪は中々芽生えなくなった。その理由は、人の敵がいなくなったから。

 もはや、敵となろうと言う生き物自体がいなくなったのだ。

 その頃には千二百の善行を積み、蛙は地仙から天仙へと昇格、仙人の住まう清浄なる土地『仙境』に住む許可を欲しくもないのに与えられ、半ば強制的に仙境住みとなった。まあ、ここからは俗世が良く見えるため、都合は良かったが。

 その後も度々、何かあれば俗世に降り立ち、悪を討った。やり過ぎだ、人に偏り過ぎだ、と他の仙人からバッシングを受けるも、知ったことではない。

 上司である真人からも結構きつく言われた。

 それでも彼は世のため人のため、動くことをやめなかった。仙人なのに腰が軽すぎる、二百年ほど前までは皆がそう言っていたほどである。

 だが、人の世は際限なく発展し、膨れ上がり、増長を重ねた。蛙は自らの行い、仲間たちの遺志が正しかったのか、疑問に思うようになった。そもそも、今の人に仙人が手を貸さねばならぬことは、ほとんどない。

 肩入れし過ぎた結果を見下ろし、蛙は静かに己が役割の終焉を知った。二百年前の人の世で起きた、人同士の大戦を機に、蛙は滅多に俗世へと出向くことはなくなった。されど、あの屋敷にだけはお忍びで通う。

 何代、何十代経ても恩を返し切ったとは思えず、新たな子が芽生える度に出向き、世話をして、仙境に戻る。そんな年月を重ねていた。

 そしてある日、

「カエル様」

 彼女の何十代も先の血族である老女がベッドの上から蛙に声をかけた。

「む、なんだ?」

「我が国は国力の差を、技術の遅れを、何かよからぬ方法で覆そうと考えているようです。大国からの経済的な圧迫に耐えかねて」

「……うむ、存じておる」

「私たちはとても豊かになりました。経済的な圧迫を受けてなお、食うに困ることはありません。それなのに何故、人は争うことを選ぶのでしょうか」

「……吾輩は蛙ゆえ、わからぬ」

「……仙人が同族の争いに介入することはない、でしたね」

「ああ。人同士の戦いの枠に収まる限り、吾輩は手を出せぬし、出さぬ」

「それを解した上で、それでもお願いがございます」

 老女が手を叩くと、彼女の息子とその妻が赤子を抱え、現れた。その貌を見て蛙は表情を険しくする。

「この子はまだ生まれたばかり。自国を制御できなかった私たちはともかく、この子には何の罪もありません。ですから、何卒――」

「……皆まで言うな。吾輩はこの家に命を救われ、恩を返すと決めたのだ。子育てとて初めてではないぞ。ぬしも、そこな小僧も、吾輩がおしめを取り換えたのだ。覚えてはおるまいがな。ゆえ、任せよ」

「感謝いたします」

 父母から赤子を受け取り、蛙は彼女を覗き込む。蛙の顔をペタペタ触りながら、事態の重さも何のその、へらへらと嬉しそうに笑っていた。

「さすがカエル様、人見知りする子なのですが」

「娘をお願いいたします、カエル様」

「ああ。必ずや、立派な淑女に育て上げて見せよう」

 父母が深く頭を下げる傍ら、蛙は今一度老女に視線を移す。

「最後にもう一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」

「ふっ、強欲な娘だ。構わぬぞ」

「……私たちを――」

 最後の願いを聞き届け、蛙は赤子を連れて仙境に戻った。それから毎日、俗世の様子は見続けてきた。赤子が育つ傍ら、歯が生え、抜け、言葉を解し、話せるようになった頃、とうとう彼らの国は愚かな決断をした。

 止められなかったのだろう。世の流れとはそう言うもの。

 それは仙人とてどうすることも出来ない。

「ぬしは特に似ておったな。あの人に。この子もだが」

 蛙は哀しげに、眼を瞑る。


     ○


 蛙は早朝、目を覚ました。彼女にバレぬよう動き出そうとするが、いつの間にやらベッドに潜り込んでいた少女が抱き着いていたので、それは断念する。

「おししょーさま?」

「少し出かけて来る。すぐ戻る故、離して欲しい」

「やだ」

「わがままはいかんぞ。仕事である」

「やだもん!」

 何か察するものがあったのだろう、頑として聞き入れぬ少女の頭を、蛙は優しく撫でつけた。あの人に似たふわふわの栗毛をくしゃくしゃと。

「必ず戻る。さほど時間はかからぬよ。約束する」

「ぜったい?」

「もちろん。吾輩はな、約束を守る蛙なのだ」

「うん」

「では行って来るぞ」

「だめ」

「……ええ」

「おみやげ、ほしい」

 上目遣いの少女に、

「ふはははは、まったく、祖母が祖母なら孫も孫だ。あの人はあまり吾輩に頼みごとをしなかったものだが、もしかすると若ければ、こうやってわがままを言ってくれたのやもしれぬな。あいわかった、何が欲しい?」

 蛙はきょとんとした後大笑いした。

「ケーキ」

「うむ、承知した」

 少女は唇を噛みながら手を放した。蛙は今一度少女の頭を撫で、

「いってきます」

「いってらっしゃい! ぜったいだよ!」

「……無論だ」

 仙境にポツンと立つ一軒家から出て、俗世へと向かう。


     ○


 それは地獄のような光景であった。とある大国の締め付けに耐えかね、一つの国が自らの国民すべての命をくべて、神下ろしを敢行したのだ。百万の命を喰らい、その巨人はまず彼らの国を消し飛ばした。跡形もなく。

 あの屋敷も、守り手を祀った古井戸も、全部が消えた。

 全長数キロを超える巨大なる魔神は世界に破壊を振り撒いた。あらゆる兵器の攻撃も通じず、戦艦は沈められ、如何なる大国も魔神を前に膝を屈するしかなかった。世界中が怯え、祈る。誰か、助けてください、と。

 魔神は止まらず、破壊を振り撒く。口から放たれた熱線は山河を焼き、その射線上にあるすべてを飲み込んだ。もはや救いはない。

 誰も彼もが絶望していた。

 人の欲が争いを招き、人の恩讐がこうして形となった。いずれ、こうして世界が終わる日も来るのだろう。人が欲を抱き続ける限り。

 飛べぬ身で、当て所ない空を目指し続ける限り。

 民間人を乗せた船が、魔神の視界に入った。あまねく全てを消し飛ばさんとする怪物は、すぐさま熱線を放つ。船は蒸発、数多の命が消える。

 はずだった。

「……え?」

 船が突然の横波に飲まれ、射線上から外れたのだ。

 魔神は、首を傾げる。奇妙な海の動き、どう見ても普通ではない。

 何かの作為が、ある。

「そこにおるのか、あの子たちが。何と惨い所業か。これが吾輩たちの旅、その行く末とは……あまりに虚しく、涙も出ぬ」

 百万の命の塊、その中に蛙は守るべき存在であった命を見た。口をぎゅっと結び、それでもなお、人の枠を超えた争いを収めるために、俗世へと降り立つ。

 曇天を裂き、現れるは一匹の蛙。

 かつて金づちであった蛙は大海の上に立ち、魔神と向き合った。あまりにも異なる大きさである。だが、この蛙は天仙なのだ。

 千二百の善行を成し、蛙を超え、人を超え、仙人と成った。

『私たちを、止めて(救って)ください』

 最後の願いを胸に――

「承知しておる。委細、任せよ!」

 蛙は両の手を合わせ、仙道を発動する。千年生きた蛙の、大いなる力。天より降り注ぐは仙境に在る山ほどの大きさの巌。大海より伸びるは、巨大なる大渦。

 魔神の影響下にあった曇天は、白く染まり、美しき稲光を湛える。

「滅べ、人の恩讐よ」

 蛙は天地を征し、ただ一匹魔神との戦いを開始した。

 世界の命運をかけ、最強の仙人が今一度、人を救う。

 かつては古井戸の底より天を見上げるただの蛙だった。井戸から出て、世界を救い英雄と成った。英雄を捨て世界を巡り、人を救い、仙人と成った。


 吾輩は蛙である。名を青海雲雷天蒼大帝と申す。

「推して参る!」

 まあ要するに――

 井戸の底より出でた蛙、である。

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吾輩は蛙である 富士田けやき @Fujita_Keyaki

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