第4話 刎頸の交わり

 最近藺相如りんそうじょは少しだけ鬱っていた。

 今日もその美麗な顔を車の窓から少しだけ覗かせ、小さくあたりを探った。早朝の高級住宅街は風でわずかな土埃はたつほかは、人出もさほど見られない。しかしこの一行は緊張に包まれていた。

 何故なら藺相如は今ストーキングされているからだ。廉頗れんぱ将軍に。

「上卿、どうやらこの先にいるようです」

「あぁそう、そんなら今日は病気っちゅうことで」

 御者の声に藺相如は小さくため息を付いて、眉を少しへの字に曲げた。

「藺相如は今日もいないのか!?」

 すでに車をかえして遠ざかる背後から、そんな大声が小さく響いている。

「元気やねぇ」


◇◇◇


 藺相如が恵文けいぶん王と黽池めんちから帰ってきた時が問題の発端だ。

 黽池は正直な所、死地であった。廉頗自身、恵文王が戻らないかもしれないと感じていたほどである。


 その時、ちょうしんに攻められていた。国力差は大きく、このままでは趙は滅ぼされるやもしれなかった。

 そこで恵文王は和議を求めるために秦の領土である黽池まで赴き、藺相如の機転によって目に見えた損失もなく和議をなすことができたのだ。まさに破格の結果である。

 恵文王はその場で耳目を閉じていたため何が起こっていたのかいまいち理解していない部分もあるけれども、ともあれ自分が生きて戻れ、しかも最上の外交の結果を残せた。そしてそれはひとえに藺相如の力である。そう考えたからこそ、藺相如を数少ない上級官位、その中でも筆頭大臣に据えたのだ。


 その時廉頗は上将軍、軍の総大将である。だが上将軍より筆頭大臣のほうが地位が高い。総統だ。エラいのだ。つまり廉頗は藺相如の下になった。

 これが廉頗は気に食わなかった。なぜなら廉頗が体育会系だったから。

 

 廉頗は腑に落ちなかった。廉頗は叩き上げである。

 廉頗にとって藺相如は、いつのまにか王のまわりにいたぽっと出のよくわからないヤツだった。だが廉頗にとって文官とはだいたいそういうもので、特に気にはしていなかった。

 というよりむしろ、その王に対してすら歯に衣着せぬ態度はなんとなく気に入っていた。藺相如は文官らしくひょろっとしてて鍛えてなくて、なんか守ってやらんといかんかもしれんと思ってたら、気がついたら自分より上の地位になっていた。狐に摘まれたような心持ちである。それで、可愛さ余って憎さ百倍。


 もう1度言う。廉頗は体育会系である。

 廉頗は将軍となってからも体を張ってきっちり武功を積み上げてきたのだ。最近も昭襄しょうじょう王の軍を打ち破って昔陽せきようを攻め落とし、ちゃんと功績を上げている。

 一方、藺相如は軍を動かしたわけでもない。王の代わりに秦に璧を持参して中級貴族になり、今度また王と一緒に昭襄王に会って帰ってきただけで筆頭大臣になった。

 けれども何か武功を上げたわけではなく、趙のために何かを得たわけではない。そりゃぁ戦を終わらせたのだから功績があるのはわかる。外交っていうのはそういうもので。

 でも何で俺より上になってるんだ? 口を動かしただけなのに、命をかけている俺より上なの? 解せぬ。


 そんなことが廉頗の頭をぐるぐる巡る。そういえば藺相如は出自もよくわからない。そういえば元々は宦官の繆賢ぼくけんの客だった。

 廉頗にとっては宦官というものもよくわからぬものである。当然ながら宦官は男らしくない。藺相如もなんだかひょろい。宦官に連なるもの。

 ようするに廉頗にとっての功績とは血と汗と筋肉なのだ。それと対極にある宦官からぽっと出た藺相如。なんだか胡散臭い。得体が知れない。王は何か騙されてるんじゃなかろうか?

 なので周りの武官とか部下に愚痴るようになった。


「藺相如ってなんかおかしくないか?」

「はぁ」

「なんかさ、鍛えてないしさ」

「文官ってそういうもんじゃないんすか」

「でもよう、なんか解せなくね? 俺のほうがかっこよくね?」

「はぁ」

 曲がりなりにも廉頗は上将軍で総大将である。立場上、部下が全否定するのも難しい。それに趙の中でも藺相如のことを詳しく知る者はほとんどおらず、誰も反論のしようがなかった。知らないんだもの。

 廉頗も自分の言うことに誰も強く反対したりしないものだから、なんとなくそのような気分になってきた。藺相如はなんかずるい。おかしくない? 出自がわからないとかきっと卑賤の出に違いない。ずるいずるい。

「ちくしょー。藺相如に会ったら罵倒してやる!」

 そんな感じで宮中で騒ぎ始めたのである。廉頗の声は素でもでかい。当然その声は藺相如の耳にも入る。それで藺相如は廉頗に会わないよう避けるようになった。


「あの人も悪い人やないんやけどなぁ、ちょうと鬱陶しいわ」

「上卿、反論されないんですか?」

「うぅん、まぁ今のとこはこれでなんとかなっとるしねぇ」

 藺相如は困ったように涼しげな目元をかく。でも限界はあるかなぁ。そんなことを呟きながら、宮廷の前と自宅を毎日往復するのだった。

 けれどもそんな状態を続けることは難しかった。廉頗は体育会系の中でも特に元気と根性が溢れていたから。何せ上将軍にも上り詰めるほどだ。だんだんストーカーはエスカレートした。

 藺相如が外に出たその日も往来で廉頗が待ち構えていた。

「暇なんかな。まあ今平和やしね。天気もええし。しゃあないわ、帰ろ、車回して」

「まて! 卑怯者! 逃げるんじゃねぇ!」

 そんな声が響き渡り、誰もが当たりを見回した。


◇◇◇


「上卿、今日のはあんまりにもあんまりです。私どもは上卿をお慕いしてお仕えしておりますが、さすがに今日の態度は腹に据えかねます」

「まぁ人はようけおったからねぇ」

 今日は時間をずらして遅く出てみた。廉頗も仕事があるだろうと思ってのことだが、そんなことより藺相如のほうが重要だったらしい。お陰で昼少し前で賑わう大通りでただでさえでかいあの声が響き渡ったのだ。

「そういう問題じゃございません。私は、上卿が辱められるのが我慢ならないのです」

「言われるだけやったらたいしたことないんよ」

 藺相如は退職を願い出た部下にやんわり翻意を促した。けれども従者の逆ハの字に上った眉尻は元には戻らなかった。反対に藺相如の眉はハの字に下るが。


「そうはいってもですね、今日のは酷すぎます。上卿は逃げ回ってばかりです。悔しくはないんですか。私でも卑怯者とまでいわれると我慢できません。まして上卿は筆頭大臣じゃありませんか。上卿は廉頗将軍よりお立場が上でしょう。どうしてそんなに卑屈になる必要があるのです」

「うぅん、そうやねぇ……私は文官やし、あないな筋肉だるまに襲われたら太刀打ちできへんわなぁ」

 藺相如の仕事は内政と外交である。だから王の覚えがめでたければ国内の評判などさほど気にする必要もない。けれども家人ですらこうなのだから、やはりこのような不満は蓄積するのだろうなと考えを改めた。

 だから藺相如は説得の方法を変えることにした。

「なぁ、文官と武官の違いてなんや思う?」

「そりゃぁ文官は内政を行い、武官は戦争を行うものでしょう?」

「せやね、やから書類仕事は私は廉頗将軍よりずっと得意やし、私より廉頗将軍のほうがずっと強いんよ」

「それはわかっております。ならそのように反論されればよろしいではないですか」

「ううん、そうなんやけどねぇ。そうしたらどうなる思う?」

「上卿の面目が保たれるでしょう?」

「ほんまに?」


 部下は戸惑う。

 藺相如の言うことは火を見るより明らかで、子供にだってわかる。

 武官がいなければ国は守れないが、文官がいなければ国は保てない。

 役割が違えば論功行賞も違うのだと、ただそう述べればよいだけではないのだろうか。

「多分廉頗将軍もそんなことはわかってると思うんよ。だからねぇ、普通そんな往来で言わはることはないと思うんよね。だから多分誰かが煽ったんやと思うんやなぁ」

「煽った?」

「そう、タイミングよすぎるん」


 その時、趙は絶妙な立地とバランスにあった。

 趙は西は秦、南は、東はせいえん、北は匈奴きょうど。この時代の常とはいえ、先王の代から含めると、趙は接する全ての国と戦争状態にある。実際直前まで秦に攻められ、現在は和議はなったものの秦はやはり信用しきれない。

 下手に動くと挟撃される恐れは十分にある。


 そして恐らく秦の昭襄王は先年の件から趙が気に食わないのだろう。そうすると、他国と結んで趙を攻めたいと考えてもおかしくはなく、他国も同様に考えてもおかしくはないのだ。

 そして現在趙を武で守っているのは廉頗。そして外交で守っているのは藺相如だった。だから、どこかの国の間者が藺相如を排除しようと廉頗将軍におかしなことを吹き込んでいる、それは十分にありうる推測。


 けれどもそこで暗殺とか謀殺とかしようとせずに、廉頗は単に堂々と悪口を言ったり怒鳴りつけたいと言って藺相如を追い回すのにとどまっている。つまり廉頗自身は実にまっすぐで子供のように純粋な部分を持ち合わせる男なのだ。

 全然害がない。間者は対象の選択に失敗している。だから藺相如も放置していた。


 親子兄弟ですら陥れ合い殺し合うこの時代、その範囲なら別にさほど仲が悪いとは思われない。実際、先代の武霊ぶりょう王の骨肉争う人間関係がよほど酷かったから、恵文王も『あーあ、またやってるよ』くらいで気にもとめていなかった。

 外側からはむしろ出来の悪い欺瞞情報、仲が悪いかのように装って何かを企んでいるようにすら見える。


 だから藺相如にとって、廉頗が予想以上に暑苦しい以外はさして気にする必要もなかった。

「なあ、廉頗将軍と秦の昭襄王で上なんはどっち?」

「そりゃぁ昭襄王でしょう」

「うん、でも私は昭襄王も別に私より上やとも思とらん。そやなかったら璧持って返った時も黽池のときもあんなことよう言わんわ。そう思わん? やから別に廉頗将軍も別に怖いわけやないんよ」

 部下は青くなった。あの狂気の沙汰を思い出したのだろう。

 上やと思わん、と言い切るのもどうかと思った。


「それならどうして廉頗将軍から逃げ回るんです?」

「今秦が攻めて来んのはさ、私と廉頗将軍がおるからやと思わん? 私が口先で秦追っ払って、攻めて来ても廉頗将軍が守るやん」

「それはそうだと思いますが、口先なのは否定しないんですね……」

「そいでさぁ、私と廉頗将軍が争うたらそれこそ趙の危機やん? どっちかおらんようなったら秦はすぐにでも攻めてくるで。やから喧嘩したらあかんのよ。でも会うてしもたら絡まれるんや。宮では誰がみとるかわからんからな。やから会わんのが1番やいうわけ」

 部下は平伏した。

「なるほど、そのような深謀遠慮がお有りでしたのですね。ご慧眼に感服致しました」

「まぁ説得するん面倒かったんはあるんやけど。でもなぁ。正直待ち伏せされたらかなわんわぁ。こっそり進めてる外交が壊れてまうやん。廉頗将軍めっちゃ目立つし。せやなぁ、この話こっそり流しとって。廉頗将軍も頭は悪うないからわかってくれるやろ、多分」


 そしてこの話はその日の夜には廉頗の耳に入った。

 そして廉頗はさっそく藺相如のもとに押しかけた。深夜に。


◇◇◇


「真夜中にドンカンうっさいわ!」

「誠に申し訳なかった!!」

「話聞けやあ!」

「夜分、誠にあいすみません」

「い、いやあんたに言うとるわけでは……」

「申し訳なかったぁ!!」

「黙れいうとんじゃぁ!」

 藺相如の部下は藺相如が人を怒鳴っているのを初めて聞いた。そして部下は働かない頭で藺相如が廉頗を全然恐れてなどいないんだな、と実感した。

 日も変わろうという時分。邯鄲は大都といえど、流石にこの時間帯に街を往来する者は賊か狐狸妖怪の類と決まっている。そんな中、藺相如の宅の扉が叩かれた。戸が叩き割れそうなほどの打撃音と大音声とともに。

 すわ討ち入りかと思って飛び起きた藺相如が警備の者に様子を見に行かせたところ、廉頗が門の前で仁王立ちしていたそうな。半裸で。罪人用の鞭を持って。

 一応人定は確認したので藺相如はやむなく廉頗を邸内に入れた。あまりにも近所迷惑だったからだ。目立つし。そっからもカオスだった。

「わしをこの鞭で殴れぃ!」

「阿呆かぁ! そんな趣味ないわ!」

「このわしの気がすまんのじゃぁ!」


 部下は廉頗の付き添いで来た貴人に茶を立てた。

 その貴人はとこにつこうかと思っていたところ、鬼神のような廉頗にいきなり襲撃されたらしい。ご愁傷様である。

 通常、大夫の家を訪れる場合は紹介を介するものである。それ以前に通常は予め伺いを立ててから来るものであるが、伺いを立てた上で半裸で来られるとそれを丁重にもてなさないと面子が立たないわけで、その非常識な様子を思い浮かべるとかえってよかったのかな、などと部下は思っていた。

 藺相如は廉頗を実に雑に扱っていた。

「わしは自分が卑しいことが心底わかった。貴兄がそれほど国のことを考えていたとはつゆとも考えてなかったのだ。誠に申し訳ない」

 廉頗は床につくほど頭を下げた。実際ついて、床石が割れて藺相如のまなじりがつり上がった。美丈夫の怒り顔というのはなんだか迫力があるなぁと部下は思った。

 散々藺相如に罵倒されて気が済んだのか、いくら言っても藺相如が鞭で打とうとしないから諦めたのか、廉頗はやっと服を着た。藺相如も胸を撫で下ろした。肉だるまは圧迫感があって暑苦しい。


「ま、まぁ、わこてくれたらええねん」

「わしは貴兄のためなら首を刎ねられても惜しくないぞ」

「そんなんいらんから早よ帰って」

 藺相如は付き添いの貴人に厚く詫びを入れた後、土産を持たせて帰らせた。廉頗も何故か土産を持って帰った。

 翌朝、藺相如の宅の扉が修繕される姿が見られた。


◇◇◇


 この騒動の前にも後にも、藺相如は変わらず廉頗が動きやすいよう見えない敵を排除していた。廉頗はそのおかげで随分動きやすかったはずである。それを知ってか知らずか、恵文王の治世の間は廉頗は趙の守りの要として大変な功労をあげた。

 恵文王が没した頃から藺相如は病に苦しむようになった。そして恵文王の子である孝成こうせい王が立った後、廉頗は少しずつその信を失っていった。

 秦の間諜の影がチラついていたが、すでに藺相如は病によってその影を払う力を失っていた。廉頗のその強烈なキャラクターが万人に受け入れられるものではなかったのも一因かもしれない。

 孝成王が秦の間諜の言葉に誑かされて、将軍位を廉頗から趙括ちょうかつにすげ替えようとした時、藺相如は既に死の床にあった。けれども這って参内し、趙のためには廉頗が必要たと孝成王に直訴した。

 だがそれは入れられず結局趙括か将軍となり、長平ちょうへいの戦いで秦軍に敗れ40万人が生き埋めになったという話は長く語り継がれることになった。


 廉頗が藺相如の訃報を知ったのは戦場であり、その慟哭は天をも震わすほどであった。敵も味方もその哭に打たれ、一刻ほどは干戈の音が聞こえなかったという。



ー付言

原典:史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一

最後の一段落は完全な創作です。

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藺相如と愉快な仲間 Tempp @ぷかぷか @Tempp

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