甘さの決まる夏

藤咲 沙久

炭酸の中で俺たちは


 球を弾く金属音はこんなに響くのかと思わず立ち止まった。

「すげぇ、初めて気づいたわ……」

 校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下で、ひとり呟く。買ったばかりのペットボトルと両肘を平たい手すりに置き、体重を預けてグラウンドを見下ろした。直射日光を遮ってくれる屋根はない。教室にいる間は忘れていた熱気が、項をじんわりと湿らせた。

(案外、賑やかなのな)

 早々に予選敗退してなお練習に励む野球部。回れ回れ。

 姿を拝ませてはくれない女子水泳部。フェンスが憎い。

 窓を開け台詞を読み上げる演劇部。噛んだのは三度目。

 普段は他のざわめきに紛れている部活動を夏休みの校舎が引き立てている。静けさの中でようやく意識できるそれは、炭酸の弾ける音に似ているのではないだろうか。

「あ、新発売のソーダ。……と荒牧あらまき

 右側から馴染み深い声がした。その余韻を感じながら視線を向ける。渡り廊下の前を通り過ぎようとしていたらしい高浜たかはまが、足を止めたところだった。

「目に入る順番が逆だろ」

「あっははは。照れ隠しだよ、気づきなよ」

 照れる様子も理由もないくせに、よく言う。そのまま行くのかと思ったが、高浜は軽やかに陽射しのもとへ踏み出してきた。ペタリ、ペタリ。俺に近づくたび上靴が鳴る。ほんの一瞬前までぼんやりと周りに傾けていた耳は、降り注ぐ蝉の声すら遮断して、高浜の足音に集中した。

「なんで荒牧がいんの?」

 お前こそな、と返しながらもたれていた体を起こす。中学までバスケをやっていたというだけあって彼女の背は高く、人懐こい顔が近かった。辞めた理由までは聞けていない。

「数学の補習。さらにそこでの再テストが最下位だったから、俺だけ片付け手伝わされてた」

「荒牧は三年間ずっと数学ダメだね! ちなみに私は現国の補習で最後まで残ってたよ」

「さすがに補習でビリは初めてだわ。ってか、国語苦手な方がヤバくね?」

「私ら受験生だよ、どっちもヤバいよ」

 いひひ、なんて高浜が歯を見せて笑う。コイツも進学するんだなと思いつつ、志望校がどこなのかまでは……聞けない。いつも同じ、大事なことは質問できないんだ。踏み込んで嫌がられたらと想像するだけで震えそうだった。

 俺が問えるのは、例えばこの程度。

「そっちはどこでやってたんだ? 俺一組にいたけど」

「なるほど、三階は自販機あるもんね。現国は人数少ないからって、すぐそこの準備室だよ。ほら職員室横の」

「ふぅん」

 さすがに暑くなってきたのか、高浜は薄っぺらな鞄から取り出した下敷きで自分の顔を扇ぎ始めた。跳ね返った風が俺へ届く。そんなわけはないのに、鼻腔が微かにいい匂いを捉えた気がした。妙に気まずい。

 話題が途切れたことにも焦りを感じ、うろつかせた目にペットボトルが映る。俺たちと同じで汗ばんでいた。

「それ、まだ口つけてない?」

 俺の視線を追いかけたのか、高浜もソーダを見たらしい。もともと千円札を崩したくて買っただけのものだ。帰りながら飲むつもりだったので封を切っていなかった。

「開けてもない」

「そっか」

 言いながら手に取ったかと思えば、プシッと強い音を立てながら蓋を回し出す。あまりにも自然な動きで、ソーダにうっすら濡れた高浜の唇を視認するまで理解が追い付かなかった。

 ──お前それ、国語が苦手とかいう次元じゃないぞ。意志疎通って知ってるか。こんなことで俺が動揺するわけないだろ間接キスじゃあるまいし。

 声に出せない声を胸中へ吐き出すと、息をついてから俺は冷静を装った。

「……聞く内容を間違ってる。飲んでいいか、だろ」

「いや使用済みかどうかは大事でしょ」

「なんかその言い方やめろ。すごくやめろ」

 人の気も知らないで、下敷きを小脇に挟んだ高浜はまたペットボトルを傾けた。無防備な薄い胸元が軽く反らされる。中身が半分になるまで繰り返されたその動作を、俺は黙って眺めていた。

 いつまでも突っ立っている必要なんてないのに、俺たちはどちらとも「そろそろ帰ろう」とは口にしなかった。まだ、話していたい。少なくとも俺は。

「あー。一度しかない十八の夏が、我々の青春が勉強に溶けていくぅ」

 高浜が少しだけ大きな声を出した。変にわざとらしい調子を可笑しく思いながら、会話が続くことに安堵する。

「ばーか。溶けるほど勉強してないから補習来てんだっての」

「それもそうかー!」

 瞬間、遠くでワッと上がった野太い歓声。二人してグラウンドに意識を持っていかれた。野球部だ。相当大きな当たりだったらしい。

 俺が関心を薄れさせても、高浜はまだそちらを見ていた。蝉の鳴き声がその横顔を縁取る。短い毛先の遊ぶ首筋はやけに白い。このまま額に入れて飾ったら、どれほど綺麗だろう。

「私、今すごいカッコいいこと思いついた」

 ふざけた想像から現実に引き戻される。三秒ほど考えて、俺は冷静に返した。今度こそフリではなく、本当に。

「なんで自らハードルを上げた」

 それに対し、高浜がキラキラと輝かせた瞳で俺を振り返った。つまりツッコミは華麗に無視しようって魂胆だな。

「青春とは炭酸である!」

「……は?」

「炭酸なんだよ、みんなさ。強炭酸とか微炭酸とか種類はあるけど。夢中になってるときはガーッと勢いがあって、胸があっつくて、でもそれってこう、今だけ! っていうか」

 伝わる? と小首を傾げられる。うまく理解できたかわからないが、楽しそうに話しているのを止めたくはなくて、そっと頷いた。笑顔が眩しくて少しだけ目を細めてしまう。

 高浜は俺の反応を確かめてから続けた。

「強いのは……野球部とか。エースも熱いけど、ベンチ勢なんかレギュラー目指すぞって気迫がじゃん。教室でいつも本読んでるあの子は、弱くて静かに見えるけど楽しそう。それもシュワい炭酸なの。あとはそう……恋とか。恋とかでもいい」

 キラキラ、キラキラ。それは照り付ける太陽に光った汗だったのかもしれない。それでも、煌めく表情が、表現が、俺の視界をますます細くさせる。

「弱くっても抜けかけでも、ちゃんとシュワシュワしてる。きっと大人になったら忘れちゃうシュワ感を、おー、お? ……何うた?」

「もしかして謳歌」

「それ! オーカしてるよね。みんな今しかないシュワシュワを生きてるんだ」

(なあ、お前の青春はどうなんだよ)

 何に打ち込んで、何に没頭して、誰に……恋したんだよ。お前の炭酸はどんな色と強さなんだ。俺の中で聞けない問いが泡みたいに浮かんで、そのまま弾ける。

 パチパチ跳ねる痛みを耐えるうち、ふと閃いた。

「……俺も今、すげぇカッコいいこと思いついた」

「あは。ハードル、ハードル」

 自分のことを棚に上げやがった。それはもう、高浜自身のハードルと同じくらい軽々と。言った俺も気恥ずかしさがあって、それを誤魔化せないかと彼女の口調を真似てみた。

「青春とは、過ぎ去ってからわかるものである。……なんて」

「過ぎ去って、から?」

「さっき言ったベンチ組とか。今そう感じるヤツもいるだろうな。でも実際は悔しくて悔しくて、ちくしょうこんな夏なんか、とか思ったりさ」

 大会があるような部活に所属した経験はなく、彼らの想いは予測するしかない。なのにどうしてだろう。どこか重なるものを感じて、俺の言葉は滑らかに連なり出た。

「レギュラーになれなくても、甲子園に行けなくても、それでも熱い青春だったなんて。……たぶん、思い出になってからじゃないと言えねぇよ」

 いつか思い出になる。その時が来る。

 突飛で、素直で、いつだって自由。そんな高浜史織に三年間ずっと目を奪われ続けた。どれくらい時間が経てば、それを青春であると振り返れるのか。〝いつか〟はいつ来てくれる。早く、いっそ早く区切りをつけて欲しかった。

「荒牧は?」

「俺?」

 心なしか落とした声で聞かれ、なんのことかと数度瞬きをした。俺がなんだって?

「荒牧は、思い出になってからわかる青春、してんのかなって。……思った」

「まぁ、そうかもな」

「ふぅん」

 今度は高浜が俺の口真似をしたように思えた。気のせいかもしれない。

 向かい合った俺たちの間に何かが存在するような、不思議な気持ちになる。正体は掴めない。その曖昧な輪郭を撫でるようにフワ、と風が吹いた。涼しくはならなかった。

「んー、いい加減暑い! じゃあ荒牧、帰るね」

 二人で帰路につくのだといつの間にか思っていた俺には、やや気の沈む宣言だ。間髪を入れず「俺も」と乗ればよかったのに、完全にタイミングを外してしまった。何も言わない俺をジッと見上げると、高浜は一呼吸ほどの沈黙を残して静かに歩き出した。俺は動けなかった。ペタリ、ペタリ。また耳が上靴の音を追う。

「荒牧!」

 ハッと顔を上げる。俺の名前と一緒に勢いよく飛んできたのはペットボトル。唐突なパスをほとんど反射的に受け止めて、驚きを隠せないまま高浜を見た。

「それ、残り飲んでもいいよ!」

「はあ?! 馬鹿、もともとこれ俺の──」

 俺のもん、かつ、高浜が口を付けたもん……だ。飲みかけかどうか一度確認されたことを思えば、その許可に意味を感じずにいられない。いくら大雑把な性格といえ、そんな、でも。いやまさか。痺れるほどの甘やかな期待に喉の乾きを覚えた。

「だ、大事なんじゃなかったのかよ。飲むぞコラ……」

 右手で掴んだ容器の中では、ぶん投げられた衝撃で強さを増した炭酸が暴れている。蓋を開ければ一気に溢れ出すだろう。……やりやがったな。

 踵を返して駆け出した高浜の背中はすぐ階段へ消えていったが、足音はまだ聞こえている。もう少し近づいていい、もしこの泡立ちがそういうサインであれば、俺は追いかけるべきなんじゃないか。数学を解くよりずっと必死に考えを巡らせた。

「……っ高浜!」

 高三の夏。直射日光に焼かれた胸がシュワリと熱くなる。いつか振り返る青春たんさんの味は、この夏に懸かっているのかも、しれない。


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甘さの決まる夏 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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