後
「やっとここまで来たか……」
疲労を滲ませた声で、鬼平太は長い石段とその先の鳥居を見上げた。この位置からは見えないが、あの先が美里見神社である。
彼の隣では、弥生が申し訳なさそうに立っている。
「すみません。私のせいで、時間がかかってしまって……」
「気にすんな。あれは呪いをかけた奴と、悪気を持っている人間の方が悪い」
ここまで来るのに、三十分以上かかっていた。その間、弥生には五組の悪気を抱いた人間に絡まれてしまっていた。殆どは鬼平太に睨まれて引き下がったが、一組だけはしつこかったので、また喧嘩になってしまったのだった。
さすがの鬼も、一晩に何度も喧嘩では疲れてしまう。弥生に心配されないようにと、それを表に出さずに、鬼平太は石段を上り始めた。
「こんなに絡まれやすくなってんのに、なんで外出したんだ?」
「大学とバイトがあるもんで……」
「学業に労働に、人間は大変だな」
鬼平太は盛大に溜息をつく。俺は鬼で本当に良かったと、心から思っていた。
「鬼平太さんは、ここの神様とお知り合いなのですか?」
「会ったことはない。でも、婆さんが古い知り合いみたいで、昔はよく飲みに行っていたらしい」
「今は違うんですか?」
「ああ。昔、美里見神が縁結びの神だとテレビやら雑誌やらで取り上げられてから、格好も派手になって、高飛車になってきてから、だんだんと疎遠になってきたとか言ってたな」
「神様でも、そういうことがあるんですね」
「意外と神って奴は、世俗に左右しやすいものだからな」
二人は鬼平太、弥生の順に鳥居を潜った。夜の境内に人はいないが、お守り売り場が閉める準備をしているのが見えた。
「弥生、あっちで破魔矢を買ってこい」
「え? 分かりました」
不思議そうにしながらも弥生は頷いて、駆け足でお守り売り場に行った。
売り場の巫女に頼み込んで破魔矢を買った弥生は、それを持って鬼平太の元へ戻ってきた。
「買ってきましたよ。これをどうするんですか?」
「一応持っとけ。絶対に離すなよ」
「分かりました」
不思議そうにしながらも、弥生は鬼平太の言葉に頷いた。
そのまま二人は、鳥居から本堂に真っ直ぐ伸びる参道を、縦に並んで歩く。お守り売り場も閉められて、辺りは星と月明り以外は見えなくなり、仄暗さが漂っている。
「もしも、神がお前に危害を加えようとしてきたら、その破魔矢で身を守れ」
「え? お参りしても、呪いを解いてもらえないのですか?」
「念の為だ」
「でも、この破魔矢は効くのでしょうか?」
「何かを呪うという行為は、例え神であっても、『負』の領域に近付く行為だ。致命傷を与えられなくても、逃げ切れるだろう」
「……はい。そうします」
弥生は複雑そうな顔だが受諾してくれた。
鬼平太が一歩足を踏み出した直後、ぴきんとガラスに罅が入ったような音が響き、周囲が一変した。夜空も建物や木々も黒一色に塗り潰されてしまったが、辺りを見渡せるほど明るい。
「鬼平太さん、これは……」
「神が結界を張ったようだな」
不安そうな弥生に、鬼平太は短く答える。神が結界を解くまで決して外に出られないことは、弥生に伝えられなかった。
神は、参拝くらいでは許すつもりではないようだな……。鬼平太は、そう感じ取り、奥歯を噛みしめる。そんな彼の目の前で、黒い風が渦を巻き、それが散ると、一柱の神が立っていた。
『鬼の子に人の子よ。妾に何用か』
煌びやかな十二単に身を包み、美しい黒髪を靡かせながらも、その顔だけは黒い扇子で隠したままの美里見神は、中性的な声で、二人の鼓膜ではなく心を響かせるように語りかけた。
霊感の無い弥生も、神に圧倒されて、驚きの声すら紡げなくなってしまっていた。鬼平太は相手を挑発するような笑みを浮かべているが、首筋には冷たい汗が流れていた。
「こいつの呪いを解いてほしんだ」
鬼平太が親指で背後の弥生を示すと、美里見神はそれを鼻で笑った。
『何を申すか。こ奴の犬が、妾の大切な木に小水を掛けたのだぞ。罰は受けねばならぬ』
「犬が勝手にやったことじゃねぇか。大目に見てやれよ」
『ならぬ。その小娘のしつけがなっとらん証拠じゃ。一年耐えればよかろう』
申し訳なさに小さくなっている弥生の前で、鬼平太は「よし」と唇を舐めた。
「それじゃあ、呪いをかけて、ゲームをしよう」
『ほう、何を致すつもりか?』
「俺が、あんたの扇子を叩き落として、その傲慢な面を拝ませたら、俺の勝ち。あんたが、俺を気絶させたら、あんたの勝ち。もちろん、俺が勝ったら、弥生の呪いは解く。俺が負けたら、あんたは俺に何を命じてもいい。そうしないか?」
『ふむ。言い方は気に食わんが、丁度下僕を欲していたところじゃ。承知致そう』
神が扇子を持っていない左手を広げると、空気が再び変化した。本堂や木や石など、それら全てが鬼平太を見つめているような、緊迫感に支配される。
「鬼平太さん……」
「心配すんな。あっという間に終わらせてやる」
不安げにこちらを覗き込んできた弥生に、鬼平太は笑って見せた。そして妖術を解き、鬼の姿に戻ると、真っ直ぐに神の元へと駆け出した。
そんな鬼平太に向けて、神が左手を差し出すと、本堂側から強風が吹きつけてきた。弥生が耐え切れずにしゃがみ込んでしまうほどの風だが、鬼平太は決してひるまず、速度も落とさない。
『ふむ。小細工は効かぬか』
神は冷ややかながらも感心した声を出すと、今度は左手を挙げた。すると、参道の小石がいくつも浮かび上がり、車ほどの速さで鬼平太に押し寄せてきた。
思わず口元を覆った弥生に対して、鬼平太は不敵に笑う。ズボンの後ろのポケットに入れた携帯電話から、金棒の形をしたストラップを引き千切った。
ストラップを手前に構えると、それは本物の金棒と同じ大きさと重さを取り戻す。鬼平太は金棒をフルスイングをして、全ての小石を弾き飛ばした。
攻守一転したように、小石が神へと向かっていくが、それらは神を避けるかのように二つに分かれた軌道を辿り、ぽとぽとと地面に落ちた。やはり、結界内で投げた物は神には当たらないのかと、鬼平太は舌打ちをする。ただ、面白くない思いをしているのは神も同じだった。
『金棒を隠し持っておったとは、小賢しいのぉ』
しかし、不機嫌そうな声を出したのはこの一瞬だけで、扇子の向こうからまたせせら笑いが漏れた。
『じゃが、貴様に出来ることは、この程度か』
美里見神が見抜いた通り、神が堕落したり、人間が道を踏み外して鬼になったりした場合と違い、鬼の両親から生まれた鬼平太には、天気や地形を操る力などは持っていない。彼にあるのは、人間の数十倍の怪力とこの金棒くらいだった。
自身の圧倒的不利を悟りながらも、鬼平太は金棒を右肩に担ぎ、大きな口を開けて笑う。
「それがどうしたんだ。あんたには丁度いいハンデだ」
『……減らず口を叩いておけるのも、今の内よ』
氷の如く冷たい一言と共に、神の左手が地面と平行な半円を描くと、境内の周りを囲む木々が、鬼平太に向けて枝を伸ばしてきた。
自分の頭を狙ってくる黒い枝を、鬼平太は金棒で叩き折っていく。一本折れば、それは引っ込むので、牛歩ながらもじりじりと彼は神の方へと進んでいく。
「鬼平太さん! 後ろ!」
それ故に、背後への注意を怠ってしまっていた。弥生の叫び声に振り返ると、参道の石畳を突き破って、木の根が現れる。
それは、枝よりも素早く動いて鬼平太を絡め捕り、本堂よりも高く掲げた。抵抗しようにも、腕は封じられ、落とした金棒はストラップに戻ってしまう。
「鬼平太さん!」
「……弥生、お前は逃げろ。……後ろに走って行けば、見えない壁に突き当たる……。そこに、破魔矢を突き立てれば、外に出られる……」
切実な悲鳴を上げた弥生に、ギリギリと胸を圧迫されながら、鬼平太は呼びかける。自分がもはや勝てないのだと、殆ど諦めきっていたので、せめて弥生だけでもという思いがあった。
しかし、弥生は逃げ出さなかった。破魔矢をぎゅっと握って、鬼平太を見上げる。
「どうして、鬼平太さんは、初対面の私のためにここまで……」
「どうして、か……」
弥生に問われ、霞みゆく視界の中、鬼平太は自分の過去を思い返していた。
鬼平太は、とある小さな村の中に生まれた。活発で、人間の友達も多い子供だったが、ふとした拍子に妖術が解けてしまい、自分が鬼だということが友達に知られてしまった……その瞬間、彼らは泣きながら逃げ出した。
この出来事は、鬼平太の心の消えない傷となった。両親の尽力のお陰で、鬼平太が正体を現した瞬間を友達の記憶から消してもらったが、彼自身は友達とかつてと同じように接することが出来なくなっていた。
友達とはもう会わない方がいいと、彼は祖母の暮らす東京に引っ越した。しかし、東京でも鬼平太の人間不信は治らず、むしろ深まっていったが……。
「……お前は、俺が鬼だと知っても、怖がらなかった唯一の人間だ……。俺が全てを、賭ける理由は、これだけで十分だからな……」
「そんな、鬼平太さん……」
窒息寸前で苦しみながらも、鬼平太は強がって笑う。それが本心だと伝わったからこそ、弥生はまだ立ち尽くしていた。
『浮世への言付けは終わったか?』
そんなやり取りすら一蹴し、美里見神は仕上げにと根に送る力をさらに強める。神は、悲鳴を上げる鬼平太の様子を見上げていたため、その後ろの弥生の動きは見ていなかった。
弥生は、突進するような勢いで、真っ直ぐに鬼平太を縛る木の根に向かった。そして、持っていた破魔矢を、その根に突き刺した。
「あああああああああ!」
美里見神が、その声帯から布の裂くような悲鳴を上げた。と同時に、突き刺さった破魔矢は真っ黒になり、根と共にぼろぼろと崩れ落ちる。
全身を貫く痛みに身悶えする神だが、意地でも扇子の位置は変えなかった。そこへ、根から解放された鬼平太が、落下するに任せて突っ込んでくる。そのまま神の右手を力いっぱい叩くと、黒い扇子が参道に転がった。
「おのれ……! 小僧め! 小娘め!」
露わになった神の顔は、声と同じく中性的だが、非常に美しいものだった。しかし、その顔の側面から、黒い影が出たり入ったりを繰り返している。
神の苦しみと比例して、天頂が割れて、黒い破片が
「鬼平太さん! 大丈夫ですか!?」
神の足元、全身全霊を使い果たして転がっている鬼平太へ、弥生は駆け寄った。彼を何とか起こして、肩を貸す。
「お前、結構大胆なことをすんだな……」
「私だって、ずっと守られているわけにはいきませんから」
涙目ながらもにっこり微笑み返して、弥生はこの世の終わりのような境内を歩き出す。途中、金棒のストラップも回収してくれた。
「外に出られますか?」
「ああ、もうちょっとしたら、あっちの結界も解けそうだな」
「待て……」
鬼平太が顎でしゃくった、鳥居の方へ向かおうとしていた二人を、参道に俯せとなった神が地を這うような声で呼び止めた。
「この勝負は無効じゃ……。小娘の力を借りるとは、卑怯千万なり……」
「まあ、確かにこれはイレギュラーだな。けど、そもそもルールを決めた時点で、弥生の力を借りてはならないとは言っていないだろ」
振り返った鬼平太は、いけしゃあしゃあとそう言い切った。神は、他者との決め事を絶対に守る分、それに縛られてしまうということを、彼はよく知っていた。
それでも納得していない様子の美里見神へ、鬼平太は弥生に左手の甲を見せるようにと言った。
「見ろよ。弥生の呪いは解かれている。俺たちが勝ったという証拠だな」
「ああ、糞、糞!」
神は、普段ならば絶対に口にしないような言葉を使ってののしり、拳を握って何度も地面を叩く。
「ほら、行くぞ」と鬼平太に促されて、神のことを心配そうに見ていた弥生も、前を向いて歩き出した。境内の結界は全て解け、周辺は普段の美里見神社の光景に戻っていた。
「神様は大丈夫でしょうか?」
「しばらくすれば回復するから、むしろいい薬だ」
弥生の問いに、鬼平太は苦い顔をしながら答えた。これに懲りて、美里見神が理不尽な呪いをかけるのをやめてほしいが、今後どうなるかまでは分からない。
二人で支え合いながら歩いていく内に、あと数歩で、鳥居を潜れるほどの距離まで来た。鬼平太は、夜空を差すように堂々と立つ赤を仰ぎながら、ひっそりと感慨に浸っていた。
「あれを潜ったら、一人で歩けるから」
「大丈夫ですか?」
「むしろ、このままの方が危険だろ……。石段まで降りたら、お別れだ」
「そう、ですね」
「俺たちは住む世界が違うからな。こんな偶然、二度と無いだろうよ」
「はい……」
ぽつりぽつりと降ってくる別れの言葉を、弥生は俯きながら聴いていたので、彼女がどんな顔をしているかを、鬼平太は最後まで知ることはなかった。
「待て」
その時、二人の背後から美里見神の厳かで力強い声が響いた。二人が振り返ると、地面に倒れた美里見神が、左手に赤い光を宿したまま掲げていた。
まさか、また弥生を呪いをかけるつもりか。顔色を変えた鬼平太が、神の投げた赤い光から、弥生を庇った。
弥生の悲鳴が上がる中、鬼平太は赤い光を受け止めた。しかし、目を開けても、自分の体には何も変化がない。
すると、美里見神がケタケタと笑った。
「喰らったな……。今、貴様らは、私によって強い縁を結ばれた」
「は?」
「貴様らは、別れを望んでいるようだったからな、むしろ逆のことをやってやったわい」
「は?」
神に真っ赤で鋭い爪で指差された自身の左手首を確認すると、真っ赤で太い縄が結ばれており、その反対側は弥生の左手首に繋がっていた。
目を丸くして、美里見神を見ると、してやったりという満足そうな顔をして、息を吹きかけられた蝋燭の火のようにふっと消えてしまった。
「は?」
「え?」
このまま別れるはずの二人は、しばし、きょとんとしたまま見つめ合っていた。
□
「いやー、新しく人間のお客さんが来てくれるなんて!」
「私、妖怪のお話が大好きなので、皆さんとお友達になれてとても嬉しいです!」
「嬉しいにゃー。あ、ジェーンちゃん、新しいビール、おかわりー」
「はい、ただいま!」
妖怪専用居酒屋・面面に初めて入店した弥生は、あっという間に常連客に囲まれてしまった。三つ目と化け猫に囲まれても楽しそうに笑っていて、店員の少女が持ってきてくれたビールを受け取っている。
その様子をカウンターから、面白くなさそうに鬼平太が眺めていた。内側では、のっぺらぼうの店長が、関心の声を挙げる。
「弥生ちゃんも、こっちに大分馴染んでいるみたいでよかったねぇ」
「よくねぇよ」
美里見神によって無理矢理結ばれた縁は非常に強力で、鬼平太と弥生は、あちこちでやたらと顔を見合わせた。さらに、鬼平太がいればこの居酒屋の術も関係なくなり、ただの人間である弥生も入ってこれた。
呪いではない以上、これを神に解いてもらうのは難しい。このままずっと、弥生とはこんな関係なのかとため息を吐く鬼平太に、鯛の煮つけを運んで来た少年の店員がぼそっと呟いた。
「そっちだって、人間連れてきてんじゃねぇか」
きっと睨んだ鬼平太を、少年は無視して去って行った。どうやら、以前に人間であることを鬼平太からねちねち言われたことを引き摺っているらしい。
そんな複雑な心境を抱える鬼平太とは真逆に、弥生はすっかり打ち解けて、座敷の妖怪たちと宴会を楽しんでいた。だが、ふと隣を見ると、鬼のお婆さんが笑いながらも、着物の袖で目元を拭っている。
「お婆さん、どうしましたか?」
「何、私は嬉しんだよ」
彼女は、そっぽを向いているカウンターの孫の背中を眺めて目を細めた。
「人間嫌いだったあの子に、また人間の友達ができて」
「ええ。私も、鬼平太さんとお友達になれて、すごく嬉しくて楽しいです」
お婆さんの言葉を受けて、弥生も優しく微笑み返す。
そんなやり取りを聴いていた鬼平太は、まあ、そんな悪いことばかりじゃないかと、手で隠した口元で、こっそりと笑った。
年明けこそ鬼笑う 夢月七海 @yumetuki-773
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