年明けこそ鬼笑う
夢月七海
前
東京の下町にある小さな居酒屋「面面」では、今夜も店長のおいしい料理とお酒と共に、気のいい常連客達が宴を開いていた。
「新年、あけまして、おめでとうー!」
「もうすぐ一月も終わるわよ!」
「一月何日でも、酒が旨い!」
「いえーい! 今夜も飲み明かそうぜー!」
晴れ着姿の三毛模様の猫耳と尻尾の付いた女の乾杯の音頭に、親友の雪女が思わずツッコミを入れる。それを見ながら、三つ目の男がビールの入ったグラスを煽り、狸の耳と尻尾の付いた男も二本の瓶ビールを掲げた。
ここは、妖怪の集まる居酒屋だった。店長はのっぺらぼうで、このやり取りをニコニコ見ているお婆さんは鬼、お爺さんは一つ目である。
今夜も陽気に飲めば歌えばの大騒ぎを、座敷で繰り広げている妖怪たち。特殊な術によって、人間がこの店に入ってくることはないので、やりたい放題だ。
しかし、座敷の一団とは別に、すぐ隣のカウンターに座った二本角の青年は、むすりと不機嫌な顔をしている。呑んでいるのはコーラ……容姿よりも長く生きている妖怪が多い中、この青年は見た目通り、まだ未成年だった。
「どうしたの、
「店長、どういうことだよこれは」
カウンターの内側から、のっぺらぼうの店長が声を掛けると、鬼平太と呼ばれた鬼の青年は、眉を顰めながら、店長の横に目を向けた。そこには丁度、座敷への料理を配膳し終えた二人の店員が入ってきたところだった
一人は、長い銀髪を三つ編みにした少女、もう一人は、頬に傷のある金髪の少年だった。鬼平太の視線を受けて、少女は頭を下げて、少年は固く口を結んだ。
「ああ、紹介していなかったね。こっちがジェーンで、こっちがアルベルト。今年から雇ったんだ」
「何で人間がいんだよ」
少女は申し訳なさそうに苦笑を浮かべて、少年の方は逆に鬼平太の方を睨み返している。
顔に部位のない店長は表所がなくとも、困った様子でまあまあと彼らを宥めるように両手を上下させる。
「しょうがないんよ。二人とも、事情があって、他に行く当てがないんだ。大目に見てあげて」
店長の猫撫で声を「ふん」と鼻で一蹴して、鬼平太は席から立ち上がる。そのまま、店の出入り口へ向かった。
「あ、ちょっと、お代は」
「婆さんに言ってくれ」
店長の呼び止めを片手を挙げて返して、鬼平太は引き戸を開ける。彼に名指しされた鬼のお婆さんは、肩を竦めて、孫の態度に対して苦笑を浮かべた。
「ごめんね。彼、筋金入りの人間嫌いだから」と、店長が二人の店員にそう弁明しているのを聞き流しながら、鬼平太は外へ出て、そのままぴしゃりと引き戸を閉めた。
□
簡単な妖術で角を隠した鬼平太は、肩を怒らせながら夜道を歩いていた。彼にとって、妖怪しか集まらないあの居酒屋が心の拠り所だったのに、店長が人間を雇ったことに煮え切れない思いがあった。
しかし、東京で暮らしていれば、すぐに人間と出会ってしまう。面面は繁華街から一つ隣の、裏通りにある居酒屋だったが、彼の目線の先には四名の人の集まりがあった。
「やめてください!」
普段ならば、その横を無視して通り過ぎるだけだったが、集まりの中から聞こえた女性の声に、鬼平太は思わず足を止めてしまった。目を向けると、集っているのは人間の男ばかりで、唯一、二十歳前後の女性だけが、その真ん中にいた。
艶やかな黒髪をハーフアップにして、からし色のマフラーを巻いた童顔の女性は、一人の男に右手を掴まれている。それを、必死になって振りほどこうとしていた。
「いいじゃん、姉ちゃん、遊ぼうよ」
「ゲーセンに行くだけだからさ、な?」
にやにやと笑う男たちに囲まれて、彼女は、助けを求めるように鬼平太を見た。目線が合った瞬間、鬼平太の怒りに火が着いた。
「おい」
鬼平太が低い声で呼びかけると、男たちは初めて彼の存在に気付いた様子で、訝しげに振り返った。
「嫌がられてるんなら、さっさと諦めろよ。恥ずかしくねぇのか?」
「ああ゛? なんだよテメェ」
一番近くにいる男が、一歩前に出るのを、鬼平太は腕を組んで冷笑した。それを受けて、彼は瞬時に沸騰した。
二歩目を踏み出しながら、男は鬼平太の顔面に向かった拳を繰り出した。鬼平太はその拳をぶつかる寸前で躱し、彼の空いた脇に向かって、膝蹴りを打ち付けた。
「うべぇ」と苦しそうな声を上げた男を見て、周囲は緊張の糸がピンと張った。相手は只者ではない。脇を抑えて蹲る男を横目に、彼らは身構える。
動かないならばと、二発目を繰り出したのは鬼平太の方だった。二番目に近い男に向かって、拳を突き出す。彼は両腕でガードしたが、勢いは殺せず、自分の腕ごと鬼平太の拳を顔面に受け止めた。
「ストレートはこう打つんだよ」
前歯を吹っ飛ばしながら、仰向けに倒れた二番目の男を見下ろして、鬼平太は口角を上げた。しかし、相手は白目を向いているので、当然聞こえていない。
「わ、悪かったよ、ほら、もう何もしないからさ」
最後に残ったのは、ずっと女性の右手を握って口説いていた男だった。女性から手を離して、降参したように両手を挙げる。
しかし、鬼平太は彼の方へと歩き出した。その激情を抑え込んだような昏い笑顔を見て、男は生唾を一つの見込み、覚悟を決めた。
「ああ、クソッ!」
勢い付けるように駆け出し、鬼平太のこめかみを狙い、右足でハイキックを繰り出す。それを認めた鬼平太も、同じように右足のハイキックで迎撃した。
ビイィィィィン……と、足同士がぶつかり合ったとは思えないような重い音が、夜の四十万に響き渡った。痛みに顔を歪めたのは、男の方だった。
声も出せずに、男は蹲った。鬼平太の足が当たった位置は、ズボンで隠れているが、赤く腫れている。
鬼平太は、そんな彼も、怯えていた女性も、一瞥せずに歩き去った。
「あの、すみません!」
その背中を、女性は追いかけてきて、呼び止めてきた。鬼平太がそれを黙殺しても、彼女は諦めずに追いすがる。
「何?」
先程の男たちを睨む時よりも険しい顔をして鬼平太は振り返ってみせたが、女性は全くめげずに、満面の笑みで深々とお辞儀をした。
その後方では、鬼平太に伸された男たちが、お互いに支え合いながら、こそこそと逃げ出そうとしている。
「先程は助けていただいて、大変ありがとうございました」
「いや、それは別に……」
しかし、鬼平太は彼女のお辞儀ではなく、左手の方に注目していた。そこには、妖怪や霊感のあるものにしか見えないが、手袋の上から御朱印のようなものが浮かび上がっている。
「最近、美里見神社に行ったか?」
「ええ。先週末の早朝、犬の散歩に行きました」
「それ以降、やたらと変な輩に絡まれたりしていないか?」
「はい……先程のようなことが、もう何度も……」
鬼平太に近況を言い当てられて、女性は困ったように瞬きながら、小さく頷いた。
改めて、彼女の左手の甲へと、鬼平太は目を向けた。一見、美里見神社の御朱印のような模様だが、周囲を「この者、これより一年間、悪気を抱いたものと行き当たる」と梵字の文言に縁取られていた。
「あんた、美里見神から呪われてんぞ」
「え?」
「神社に行った日から一年間、苛ついていたり、下心があったりする奴らが、お前に引き寄せられるというめんどい呪いだな」
「なんでそんな呪いが……」
女性は困惑して、眉を顰めた。「神社の神に呪われている」という言葉は、あっさりと飲み込んでしまっていることに鬼平太は驚きつつも、説明を続ける。
「賽銭泥棒とか、境内で騒いだりポイ捨てしたりは当然呪われるけどな、神って奴は妙なこだわりも多いから、参道の石や小枝を拾ったり、鳥居を潜ってこなかったとか、そう言うので怒ることもあるぞ」
「うーん、そういうことはやっていませんが……あ、」
首を捻っていた彼女は、はっと顔を上げた。
「連れていた愛犬が、境内の木におしっこをしちゃっていました」
「……そんなことかよ」
鬼平太は頭を押さえて、溜息をついた。そして、女性の顔を指差す。
「ともかく、早めに神社に行って、神に許しを請うんだな。うちの犬が粗相をしまして、すみません、ってな」
「はい。ご忠告、ありがとうございました」
女性は深々と頭を下げた。それから踵を返し、鬼平太が向かおうとしていた方とは反対に歩き出した。
やっと一段落が付いたので、鬼平太もそのまま歩こうとしたのだが……。
「おい! 危ねぇだろ!」
「すみません! すみません!」
背後で、ドンとぶつかる音がして、いかつい男の声に先程の女性が必死に謝る声が聞こえてきた。
鬼平太が振り返ると、想像通りの光景が広がっている。呆れながらも速足で、青筋を立てている男の前で、赤べこのように頭を下げ続ける女性の背後に立った。
「何してんだ」
「……チッ、気を付けろよ」
男は鬼平太の迫力に気圧されて、すごすごと退散していった。
ほっと安堵の息をついた女性が、鬼平太を見上げて、再びお辞儀をする。
「ありがとうございました。また助けてもらって……」
「今すぐ呪いを解いてもらった方がいいかもしれねぇな」
「そうですね……」
女性は、不安そうに左手首の腕時計に目を落とす。時刻は、九時を過ぎている。お参りをするだけならば、出来るのだろう。
しかし、問題はその道すがらだった。ここから美里見神社までは、徒歩で十五分ほどかかる。その間に、一体何人の「悪気」を持った人に行き当たってしまうのだろうか。
「あの、一つお願いがあるのですが、」
「なあ、」
俯いていた女性が何か言い掛けるのを、そっぽを向いた鬼平太が遮った。
鬼平太は、辺りを見回し、すぐそばにあった裏路地に彼女を招く。そこは袋小路になっている。唯一開いている道路側から、誰も来ないことを確認し、鬼平太は女性と向かい合う。
「お兄さんは、呪いとか神社に詳しいですね。祓い屋さんみたいな、お仕事をしているのでしょうか?」
「そんな曖昧なもんじゃねぇよ」
女性の見当違いな一言を、鬼平太はせせら笑う。自分の妖術を解いて、本当の姿を彼女に見せた。
どこにでもいそうな、ダッフルコートの少々背の高い少年。その軽く癖の付いた黒い髪を搔き分けて、真っ赤な角が二本生えているのを見て、女性ははっと息を呑んだ。
「正真正銘の鬼だから、ああいうのには詳しいのさ」
鬼平太は、自虐の色合いを込めて言い切る。この姿を見た人間は、例外なく、腰を抜かすか、逃げ出すかのどちらかだった。
しかし彼女は、目を輝かせて、鬼平太の手を取りそうな勢いで、感動していた。
「私、『泣いた赤鬼』のお話が好きで、いつか鬼さんに会えたら、お友達になりたいと思っていたんです」
「お、おお……」
「あ、馴れ馴れしくてすみません。私は、
「……鬼平太だ」
彼女の勢いに流されて、鬼平太も自己紹介してしまう。初めて、鬼である自分を怖がらない人間と出会ったが、喜びよりも戸惑いの方が強かった。
しかし、これによって、彼女を驚かせて、自分に頼ろうとするのは止めさせようという目論見は外れてしまった。鬼平太は、諦めの気持ちのまま、妖術を掛け直した。
「とりあえず、さっさと神社に行って、呪いを解いてしまおう」
「はい! よろしくお願いします!」
裏路地を出た鬼平太を、弥生は微笑みを絶えさずについてくる。
一番災難に遭っているのは俺じゃないのか? 当人が見ていないのを良いことに、鬼平太は顔を盛大に顰めながら歩いていた。
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