海電車

アラタ ユウ

海電車

 学校が嫌いだった。


 狭い見えない牢獄の中に、沢山の個性をこれでもかと押し込めて。

 

 草食動物も、肉食動物も関係ない食物連鎖の中に放り出されて、否応なくお互いに噛み付かざるを得なくなる、そんな場所が。


 卒業する頃には、箱から出てくる心太のようにみんな同じような顔になって。


 ――そうやって、大人が誕生する。


 私はそんな学校を堪らなく嫌悪していて――でも、だからこそ、あんな不思議な世界に迷い込んだのかもしれない。


 無限の海と、無限の線路。

 そして、彼女。


 私はこれからも、あの日の事を思い出しながら、不器用に生きていくのだろう。


 そう思いながら、今日もまた、彼女と電車に乗る。






* * *







 朝。


 うるさい目覚ましを鳴き止ませ、私はそっと目を開く。


 カーテン越しに入り込んだ日光が、ワンルームの四角い部屋をほんのり白く染めている。


 すうっ、と息を吸うと、冬特有の冷たい空気。気道を通り、肺に到達する。私の頭がひんやりと覚醒する。


 横たわったまま耳を澄ますと、微かに雀の声。チュン、チュン、と可愛らしく鳴いている。二種類聞こえるから、夫婦か兄弟だろうか。


 私は外に目を向けるのをやめて、布団からむくりと上半身を起こす。

 ベッドから降り立つと、冷たい床に足の裏がびっくりした。声を出すのを我慢して、冷蔵庫を開けに行く。


 白い箱の中には、ペットボトルが二本と、昨日作り置きしておいた肉じゃが。手前のペットボトルを掴み、ぱきりと蓋を開けて中の水を咽喉に流し込む。


「……っは」


 唇を離して、ため息。


 冷えた潤いが気持ち良い。生きてるって感じがする。

 そのまま三分の一程飲み干し、「よし」と気合を入れた。朝ごはんはこれだけで良い。


 ペットボトルを机の上に置いて、学校に行く準備を始める。


 顔を洗い、髪を整え、シワを直した制服を装着。冷凍庫から凍った白ごはんを出して、解凍。

 合間に歯磨きを済ませ、終わったら赤い弁当箱にミニトマトと肉じゃが、そして解凍したご飯を詰める。

 蓋を被せ、少しの間保冷剤で冷やしてから、小さな鞄に保冷剤ごとそっと入れた。昨日のうちに教科書類は入れておいたから、これで学校の準備は終わり。


 流れるような作業の後、時計を見るとまだ五時半。始業は九時だから、通学時間を含めてもまだ余裕がある。


 ……どうしよう。


 いつものように迷ったけれど、やっぱりいつも通り家を出る事にした。

 ブラウンのダッフルコートに腕を通し、白いマフラーを首に巻く。通学鞄と弁当を持った後、ローファーを履いて玄関のドアを開けた。音を立てないように閉めて、そっと鍵を掛ける。


 ほう、と息を吐き、くるりと横を向く。

 タイツを履いていても、スカートの中は相変わらず寒い。肩にかけた通学鞄の位置を調整して、冬の朝への一歩を踏み出した。

 



* * *




 アスファルトを擦る硬質な音を響かせて、早朝の街を歩く。普段よりも人は少なく、少し気分が上向く。


 自宅のアパートのすぐそばの交差点で、赤信号に捕まる。

 普段感じるチリッとした苛立ちが、今は瑣末な事のように思える。朝だからか、それとも通りに私一人しか居ないからか。

 多分どっちもだと思うけど、どちらかというと後者だ。煩くないのが好きなのだろう。


 横断歩道をいくつも渡り、大通りを越え、駅前の広場に辿り着く。

 思っていた通り誰もおらず、また口元が緩くなる。段々と明るくなっていく空を背景に、私はすうっと大気を吸い込む。


 ――朝の匂い。


 春夏秋冬で変わるけれど、冬の朝はキリッとしていて鋭い。

 静謐で、あまり生き物が見えないからか、私以外の時間が止まって見える。空気さえも。

 温度が下がるごとに分子の動きは低下する、と化学の授業で習った事を思い出して、こういう事? と憶測してみる。

 うん……やっぱり違うかも。


 息を吐き出し、気を引き締める。

 これから電車に乗り、学校に行く。行きたくはないけれど、行かないと私の中の人間が死んでしまいそうだから。

 一度崩れたら、多分取り戻せない。


 ローファーを鳴らして、駅のロビーに入り込む。いつも見るうどん屋だけが開いていて、その他の店は閉まっている。四つある改札は無人で、無人駅だから当たり前なんだけど、人が居ないのはやはり気が楽だった。


 改札を抜け、線路が走る駅のホームに侵入する。端から端まで見渡し、向こう側のホームも確認。


 よし。誰もいない。


 すぐ側の自動販売機で缶の紅茶を買い、プルタブを開けた。溢したら大変だけど、多分大丈夫だろう。

 ちまちまと中身を飲みつつ、ホーム奥にある待合室に足を運ぶ。


「あ」

「あ」


 私は声を上げる。聞こえないけど、向こうも声を上げる。

 待合室の中に気怠げに座っていたのは、人だった。いや、人以外おかしいんだけど。


 もっと具体的に言うと、女の子だった。

 そして、見覚えのある顔だった。


「……」

「……」


 彼女の目が、ガラス越しに私の顔を眺め、上から下まで身体を検分するように走った。そしてまた顔に戻ってくる。

 嫌いな目つきだ。


「……」

「……」


 溜息を吐きそうになるのを堪えて、私は何も見なかったように待合室に入り、端の席に座る。

 彼女との間は四席ほど離れていて、私としてはもっと離れて座りたいところだったけど、物理的にこれが限界だった。


 紅茶の缶を傾けつつ、さりげなく横目で彼女を観察する。


 緩くパーマを掛け、茶色に染めた髪。

 校則にぎりぎり引っ掛からないくらいに着崩した制服。

 整った顔立ちに、それを引き立てるような自然なメイク。

 片足に巻かれた、青いミサンガ。


 名前は……なんだっけ。あまり人の名前を呼ぶことがないから、この人の事も覚えていない。

 でも確か、クラスの中でもかなり華やかなグループに居たはずだ。

 独りの私とは正反対の、男も女も同じくらい五月蝿く、同種の生物としての上位の群れに。


 敬遠するには十分な理由だった。


 私はそれきり興味を失い掛けたが、

「なぜ」という疑問が僅かに糸を繋ぎ止める。


 なぜ、彼女はここに居る?

 こんな時間に、しかも、一人で。


 彼氏でも待っているのか、とも思ったが、それは無いんじゃないかと考える。何度か彼女を学校の至る所で見かけたが、交際している人間が放つ匂いは感じられなかった。断定はできないが、男という線は無いんじゃないかと思う。


 女の勘だ。

 勘だけど、これが結構当たったりする。


 考えている内に紅茶を飲み終わったので、コン、と音を立てて肘掛けに置いた。音に反応して、びくりと彼女の背中が伸びる。

 目が合った。


「お、おはよう」


 気まずそうに挨拶してくる。おずおずと伺う様子は小動物じみていて、私は少し警戒心を緩める。


「……おはよう」


 言うと、彼女は素早く頷いて前を向いた。気まずさに耐えられなかったらしい。


 まあ、そうだよねと一人納得して、前を向く。待合室の中は暖房が効いていて、冷えた鼻頭や耳がじんわりと温まっていく。


「……」


 ……でも、少し意外だった。私の中での彼女のイメージは、その明るい茶髪も相まって、もっと軽薄で鋭かったように思う。いつも他の怖い人達に囲まれていたから、レンズが曇ってそう見えていただけなのかもしれないけれど。


 私はもう一度紅茶を飲もうとして、全部飲み干した後だったのを思い出す。代わりに鞄の中から読みかけの文庫本を取り出した。水色を少し濃くした、空色のブックカバー。


 ツルゲーネフの『はつ恋』。私には縁もゆかりも無い北国の文学だけど、ページ数が少なかった事が目に止まった。 

 恋とか愛とかはさっぱり分からないし、理解したくもない。それでも、人間って不思議だなぁ、と思いながら読んでいる。


 はらりとページをめくり、文字の川に目を落とす。耳を澄ますと、隣の彼女が身じろぎする音が聞こえてくる。微かな咳払いも。


 全身を感覚器官にしつつ三ページほど読み進めた所で、電車がやってきた。早朝だからか、いつものアナウンスは流れない。


 待合室の窓からは線路が見えて、見覚えの無い真っ白な車両が、カタン、コトンと軽い音と共に滑り込んでくる。

 少し驚いたけど、なんの事はない。たぶん何かの歴史人物や、文化遺産とかをモチーフにした車両だろう。あまり知られていないけど、この九州の北に陣取る県は時々びっくりするほど歴史が古い。


 本を閉じて鞄にしまう。肘掛けに置いた空き缶を取り、隣の彼女には目を向けずに待合室を出る。


 ゴミ箱に缶を捨て、停車した車両の前に立った。中を覗くが、昔ながらのベンチ式の座席には誰も座っていない。やはり時間が早すぎるのだろうか。


 そんな風に思っていると、巨人のため息のような音が長く響き、ドアが開く。乗り込むと同時、隣の車両に入っていく彼女が見えた。


 ……本当、なんで居るんだろう。


 考える間にドアは閉まり、くぐもった重い加速音が耳をかすめる。

 席に座った私は、ぐぐっ、と進行方向とは反対に引っ張られた。景色がだんだん、目では追えない速さで通り過ぎていく。


 それらを見送って、少し目を瞑った。すぐに開く。


 鞄からさっきの本を取り出し、続きを読み始める。車内の暖房は待合室よりも薄くて、マフラーに半分ほど顔を埋めた。隙間風が寒い。


 ちら、と顔を上げて、向こうの車両を確認する。

 私の方を見ていたのか、また彼女と目が合った。


「……」

「……」


 ぺこりと会釈すると、慌てたように頭を下げられる。


 なんだろう。

 私、そんなに変な顔してるかな。


 考えて、思考ごと丸めてゴミ箱に投げる。

 面倒くさい事はあまり考えたくはない。容姿とか、経歴とか、個人ではどうにも出来ないことは。


 息をついて、また小説に目を戻す。電車の音のリズムに合わせて、身体の力を抜いていく。


 あと二十分ほど経ったら、学校の最寄り駅に着くだろう。そうしたらまた一日、あの牢獄に閉じ込められなければならない。


 嫌だけど、残り二年かそこらの辛抱。そうすれば、私は晴れて自由の身となる。雁字搦めのこの街に、ばいばいと告げることができる。



 そうしたら。


 私は。



 どうするのだろうと、紙の端のページ番号を見つめながら、私の思考はぐるぐると同じ所を廻っていた。





* * *





 異変が起きたのは、それから五分ほど経ってからだった。


 ふと私が顔を上げると、外が墨を塗ったように真っ暗になっていた。トンネルに入ったのかと思ったが、学校までの路線には一つもないことを思い出し、何かがおかしい事に気付く。


 振り向くと、窓から外を流れる風景が見えた。しかし、塗りたくられたような闇が果てなく続いているばかりで、側に壁があるのか、広大な真っ黒い空間がどこまでも広がっているのか、距離感さえも定かではない。


 不安が、ひたひたと心に迫る。


 天井を見上げると、汚れが目立つ劣化した蛍光灯。傍の電光掲示板がきらめいて、


『本日はご利用いただき、誠にありがとうございます』


 と、オレンジ色の表示が流れた。次に停まる駅の表示は無く、横にあったプラスチック製の路線図もいつの間にか綺麗に消えている。

 非常停止ボタンを目だけで探して、それらしきものが何処にもない事にため息が出そうになった。


 カタン、タタンと、車両が線路の上を走る音が響く。


 焦りが心を擦り減らしていくのを感じつつ、私は同時にホッとしている自分にも気がついていた。


 なにせ非常事態だ。今日は多分、学校には行けない。もしかしたら、これからずっと、永遠に、なのかもしれない。


 そう思うと、私の心に小さな青い炎が灯ったような気がした。これは多分、蛮勇とか向こう見ずとか、そんな捨て鉢な気分になっている時の原動力で、私を強くしてくれるものだ。前に首を吊ろうとした時にも、同じような感覚が来たから分かる。


 ふぅ、と細く息を吐いて、目を閉じた。

 肺の空気を出し切って、鼻から新しい酸素を取り入れる。



 大丈夫だいじょうぶ。

 怖くない。

 死ぬのは全然、怖いことじゃない。



 前と同じように言い聞かせて、昂った気持ちを落ち着かせる。

 十秒ほど黙想して、そっと目を開いた。


「………」

「………」


 ああ、そういえばこの子もいたんだった。


 静かに思う私の前には、先程会釈を返したばかりの彼女が立っていた。つり革を両手で掴み、よく見るとその手は震えている。

 状況を怖れているのは明らかだった。


「……大丈夫?」


 少し迷って、その言葉を選んだ。

 彼女は目を見開き、ふるふると首を横に振る。


「そっか」


 冷静に言い、自分と同じ気持ちなのだと遅れて理解すると、少し嬉しくなる。

 胸の奥を焦がすように燃えていた炎が、ぱちぱちと音を立てた気がして、私は機嫌が良くなった。

 横の席をぽんぽんと叩く。


「隣、座る?」

「え……」


 彼女は私と座席とを交互に見ていたが、最後におずおずと頷いた。つり革から手を放し、肩幅一つほど離れた場所に沈み込む。


 異常な空間に居るからか、それとも子猫のように庇護欲を誘うからか。他人が近づけば拒絶反応を起こす私なのに、彼女が隣に座ってもあまり気にならなかった。


「変なとこ、来ちゃったね」


 そう言うと、怯えたように私を見ていた彼女は雰囲気を和らげる。


「そうだね」


 彼女はそう言って上を向くと、大きく深呼吸した。細い喉が空気を吸い上げ、滑らかな肌に覆われた喉仏が上下に動く。

 息を吐ききったあと、彼女は顔を上げて私を見た。


「……私、凪沙。佐倉凪沙さくらなぎさっていうの。よろしく」


 ようやく名前が判明した。確かにそんな名だったような気がする。


「よろしく。えっと……」

「佐倉でいいよ」

「そっか。じゃあ、佐倉で」


 私の方は……名乗るのが礼儀か。多分向こうは覚えてるんだろうけど。

 そう思って自己紹介しようとした時、身を乗り出すように佐倉が言った。


「雪海」

「え」


 びっくりした。


 普通、仲良くない人間の下の名前なんて覚えていないだろう。私なんか、半分以上のクラスメイトの顔と名前が一致しない。


長峰雪海ながみねゆきみ。自己紹介の時、綺麗な名前だなって思ったから。覚えてる」

「はぁ、それはどうも」


 軽く頭を下げると、佐倉は淡く微笑んだ。

 かと思えば、何故か急に血の気が引いたようにさっと顔を青くし、真一文字に唇を引き結んで前を向く。


「ごめん……」

「は?」


 え、私何かした? 


「気持ち悪かったよね。ごめん」

「ちょ……ええ?」


 今の会話にそんな要素あった? 

 普通の人なら、まず素直に喜びそうな歯の抜けるようなセリフだけど…………あ。え、まさか、そういう事?


「えっと、佐倉?」


 頭に浮かんだ可能性を確かめるべく、私は佐倉に話しかける。彼女は気まずそうに俯いていて、分かりやすく拳まで握りしめていた。返事は無い。


「今の、喋ったこともない人の名前を覚えてるとか気持ち悪い、って意味?」

「…………」

「なるほど……」


 この佐倉とかいうクラスメイト、何となく予想はしていたけれど、滅茶苦茶分かりやすい。私が言った瞬間、まるで鞭で叩かれたかのようにびくりと背を張ったのだ。何かに怯え切っているようにも見える。


 面倒くさいなあ、とため息が出そうになったけど、我慢した。これ以上この子と気まずい空気になったら、普段から人と話さないコミュ障の私では流石に対処しきれなくなる。


 座席に手を突いて、佐倉の方に少し移動した。近づく私に、なんだなんだと彼女は狼狽する。


「な、何。長峰さん」

「ええと……」


 無意識に、肩上でばっさり切った黒髪に手が行く。くるくると指に巻き付けて弄っていると、言いたい事が見えてきた。


 恥ずかしいけど、この際仕方無いか。


 髪から指を抜く。

 佐倉の整った顔立ちを見つめ、言った。


「やっぱりさ、佐倉の事、これからは名前で呼んでもいい?」

「…………」


 困惑している。

 もう一押しか。


「私も、凪沙って名前が素敵だなぁって思ったから。海みたいで、透き通ってる感じがする」

「……え」

「だから私の事も、名前で呼んでも――」


 言いかけて、私は言葉を失った。呆然となる。


 佐倉の頬に朱が刺していたから、ではない。


 太陽が――白く輝く光の渦が、私たちの乗る列車を丸ごと呑み込もうとしていたのだ。


「っ!」


 ごおっ、と音を立てる膨大な光の奔流が、車両全体をがたがた揺らし、みるみるうちに前の車両を一両、また一両と、輝かしい朝日が差し込むかの如く、外の暗闇を純白へと塗り替えていく。


 あっという間に光は前方三両を白く塗り替えると、勢いを衰えることも無く私達の座る四両目に迫った。


 きゃあ、と佐倉が短い悲鳴を上げる。私は微動だにもできず、外界を白一色に塗りつぶす光を見つめたまま。


 フラッシュが目の前で焚かれた時のような、強烈な残光。

 肌を包む空気が湿り気を帯び、電車の揺れる音が僅かにしか聞こえなくなる。

 さあさあと、水が流れるような穏やかな響き。


 視界は奪われていたものの、周囲の状況の変化から、私は今の光が天国への門などではなく、唯のトンネルの出口だった事を悟っていた。


 目を瞑り、明滅する視界を落ち着かせて、また開く。


 何度かそれを繰り返しているうちに、眼前に広がる風景がくっきりと見えるようになってきた。


 私の前に居るのは、佐倉。いや、これからは凪沙か。

 目を閉じて顔をしかめ、私のスカートをぎゅっと握りしめている。

 更にその向こう。窓の外に広がっていたのは、見渡す限り鏡のようなコバルトブルー。そして、その青さに勝るとも劣らない快晴のクリアブルーだった。


 海。そして空。


 暗闇を抜けた電車は、どこまでも続く水平線の彼方を目指して、ただひたすらに、鏡のような海面の上を滑るように走り続けていた。


「凪沙」

「……」

「凪沙ってば」

「……いや」

「いやじゃない。ほら、目開けてみて」


 子どものようにいやいやする凪沙の肩を掴み、窓の方に向かせる。スカートを皺くちゃにしていた手を剥がそうと触れると、そのまま掌を握りしめられた。

 反射的にぎゅっと握り返してみると、嫌がっていたのがだんだん大人しくなり、長いまつ毛にふちどられた瞼がゆっくりと開く。


「……わあ!」

「ね? 凄いでしょ」


 瞳いっぱいに青を映す凪沙に、気分が上がっていた私は、あたかもこれが自分の手柄であるかのように自慢してみる。答えるように、彼女はうん、うんと何度も素直に頷く。


「この星全部、海に満たされたみたい。綺麗……」

「そうだね。どうなってるんだろ……」


 好奇心に掻き立てられた私は、電車の窓枠を掴み、思い切り開け放ってみた。


「うわあっ」


 のけぞる程の風圧とあふれんばかりの潮の匂いに、もんどりうって尻餅を付く。

 一部始終をぽかんと眺めていた凪沙は、転がっている私を見ると、「くっくっ」と突然笑い始めた。

 情けない姿勢のまま、私は唇を尖らせて抗議する。


「笑うなっ」

「いや、だって「うわあっ」だって……くくっ……!」

「ちょっ……笑うなって……」

「くふっ、ふふっ。ふふふふっ……!」

「……っ……ふ、ふふっ。あはは。あはははっ!」


 鍵をかけて固まっていた口角が、無理矢理にこじ開けられていく。ぎこちない笑いが漏れる。


 凪沙の笑顔に絆されるように。幸せが、人と人との間をゆっくりと伝播していくように。


 五秒も経つと、私達は互いにお腹を抱え、座席の上でげらげらと笑い転げる阿呆と化していた。浮かんできた涙を拭い、呼吸を落ち着けつつ凪沙に言う。


「……いや、でも驚いたよ。こんな事、普通に考えてありえないよね」


 凪沙もお腹をさすりつつ、窓の外の海に目を向ける。


「本当。ていうかこの電車、水の上を走ってるんでしょ? どうなってるんだろ」

「……神様の力とか? 見たところ、線路も水の上に浮いてるみたいだし」

「普通なら沈むでしょ」

「ロマンが無いよね、凪沙って」

「ゆ、雪海もありえないって言ったじゃん」

「忘れた」

「もう!」


 くす、と笑うと、凪沙も仕方なさそうに口角を上げる。冗談が通じるくらいにはなってきたなと思っていると、湧き水のような声がふいに背後から響いた。


「お客様」


 はっとして振り向くと、そこには紺色のスーツに身を包み、見事なまでの白髪を垂らした女性。瞳は海の色と同じ鮮やかなブルーで、年齢は私達と同じくらいにも見えるが、しなやかな立ち姿からは仙人のような老成も感じられる。


「切符を拝見いたします」


 淡々と、しかし滑らかな口調で言うと、彼女はすっと片手を差し出した。


 ……え、切符?


「あの、私達電子マネーで……」

「切符は皆様、お持ちですね」

「え、いやだから」

「拝見いたします」


 何も言う暇も与えてくれず、彼女は音も無くこちらに歩み寄ると、私の脇の本を拾い上げた。


 じっと見つめ、呟く。


「拝見しました。では、次の方」

「え、えっと?」


 戸惑う凪沙の前に立った彼女は、すっと片膝を床に付き跪く姿勢をとると、凪沙の白い右足を包むように持ち上げた。視線の先にはくるぶしに巻かれたミサンガ。細い指でその輪に触れる。


「……」


 しばらくすると、彼女は手を離して立ち上がり、ぽかんと呆けている私達に向かって言った。


「拝見しました。切符を確認いたしましたので、お好きな時に降車する駅をお知らせください」


「…………」

「…………」


「では、ごゆっくり。本日は当海電車をご利用いただき、誠にありがとうございます」


 一礼すると、白髪の女性は私達の前を通り過ぎ、振り返りもせずに前の車両の方へ歩いて行ってしまった。


 固まっていた私たちは、しばらく女性が消えて行った方角を幽霊でも見たかのように眺めている。


 不意に凪沙が呟いた。


「あんな人、いた?」

「…………」


 知らない、と言うべきか。それとも他の車両に居たから気が付かなかっただけだと言うべきか。


 どちらにせよ、この電車は四両編成で、私たちは一番奥の車両にいる。彼女は背後から現れたから、今まで後ろの車掌室にいたとしか説明はつかないのだが……。


「……まあ、居たんでしょ。どこかに」


 言い切って、話を終わらようとする。深入りしない方が身のためのような気がした。


「……だよね。うん。切符とか言ってたから、きっと車掌さんだよ」


 凪沙も賛成のようだった。


 私達はそれから少しの間無言になり、車掌さんらしきあの女の人の事、切符のこと、そしてこの「海電車」なるものに付いて考えた。 


 勿論、答えは出てこない。


 当たり前だ。そもそもここが何処なのかさえ、全く分かっていないのだから。 


 そんな時。


「……あ」


 凪沙が小さな声を発した。視線で問うと何でもないと首を振られたが、彼女は少し考えて、私の方を伺うように見て言う。


「あの人が言った事が本当なら、行けるかも」

「行ける?」

「紫街道駅」

「……ああ」


 そうだった。そういえば私、学校に行く途中だったんだ。嫌な事思い出したな。


「――紫街道駅ですね。承知致しました」

「っ!?」


 振り向くと、先ほど前の車両に移ったはずの女の人が、すぐ側の手すりの前に立っている。凪沙がそろそろと手を伸ばしてきて、私の制服の袖を摘むように握った。


「揺れにご注意ください」


 女の人はそれだけ言うと、今度は目の前で跡形もなく姿を消す。まるで最初から、そこには誰も存在しなかったかのように。


「……」

「……」


 そして、変化は起こった。


「――え?」

「は?」


 一つまばたきをした瞬間――周囲の一面の海は霧のように掻き消え、代わりに湧き立つ真っ白な雲海が顕現した。


「……空?」


 呟く間に、それも一瞬で消える。次に目を開くと、来た時のような真っ暗闇が辺りを支配していた。


「……」

「……ここ」


 目を凝らすとぽつぽつと白い光が見え、振り返ると青く光る惑星の端。

 それを確認した瞬間、また周囲の光景はテレビのチャンネルを変えるように消え去ってしまう。


「――っ」

「っ」


 言葉を失っていた私達が最後にまばたきをすると――そこは、見慣れた学校の最寄駅のエントランスだった。


 改札を出た後の、紫街道駅。

 駅前広場の木製ベンチの上に、私達は知らない内に座っていた。


「……」

「……」


 隣で、朝の風に吹かれた凪沙がぽつりと声を漏らす。


「……どう、なってるの」

「…………」


 私はしばらくの間呆けていたが、ふと思い出した。膝に抱えた文庫本を目の高さに持ち上げる。


「……ああ。やっぱり」


 薄い文庫本を包んでいた空色のブックカバーは、まるで元からその色だったかのように脱色され、白い合成革が朝日を反射して煌めいていた。


「……雪海?」


 凪沙が聞く。私は彼女を振り返り、柔らかく微笑んだ。彼女の右足を指さす。


「私達、これのおかげで帰ってこれたみたい」


 視線の先には、かつては真っ青だった――今ではサンゴのように色が抜け落ちたミサンガが、凪沙の華奢な足首に巻きついている。


 凪沙はそれをじっと見た後、


「そっか」


 呟いて、私の袖を掴んでいた手を離した。

 代わりににっこりと笑って、猫のように私の肩に自分の頬を擦り寄せてくる。すぐに離した。


「じゃあ、行こっか」

「うん」


 私達は立ち上がると、冬の朝日が差し込む広場の出口を目指し、並んで歩き始める。


 学校という名の牢獄へ。

 私と凪沙の、戦場へ。


 不思議な電車から見えた海を、そっと心に抱きながら。







 


 

































 








 

 


 


 







 


 






 


 

 

 


 






 












 




 




 













 

 


 


 



 




 




 



 




 




 


 


 


 




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