おばけトンネル

マルヤ六世

おばけトンネル



 この[──]県はトンネルが多い。傾斜のある山間部に通り道が必要不可欠とは言え、他県から訪れた観光客が驚くほどの数、トンネルがある。歴史を辿るとこの辺りでは山を境に集落がひしめきあっていて、その行き来のために施工された経緯があるらしい。最も古いトンネルが国道[──]線から[──]交差点を左に曲がった先にある、子津山(ねづやま)トンネルと呼ばれるもので、ゴミ焼却場に続く長い一本道の途中にある。

 その場所には以前、農武村(のうむそん)という村があったらしい。なんでも戦から逃げ延びた農民と武士が手を取り合って造り上げたらしいその村は、三十年ほど前に地元住民の反対を押し切って大規模な工事が行われたそうだ。当時では全国初の県内すべてのゴミを収集できるレベルの広大な施設だったようで、ニュースでも取りざたされたらしい。そこでなにか事故か事件があったのか、このトンネルは地元民には「おばけトンネル」と呼ばれている。このトンネルには狭い歩道が設置されているが、徒歩での通り抜けは推奨されていない。基本的には車両用のトンネルだ。


 伊藤翔太は、自分の住む町にある、このおばけトンネルの調査をしていた。

 最初にトンネルの調査を持ちかけてきたのは彼の妹だった。トンネルの先には市内には二軒しかない全国チェーンのコンビニエンスストアが建っている。妹は贔屓にしているアニメのコラボ商品がそこの系列でしか毎回扱われないことを嘆いていた。

 かといって、妹の代わりに伊藤がもう一軒に向かうには時刻表を無視したバスと、一時間に一本しか来ない電車を利用して隣駅まで行く必要がある。勉学に部活にと忙しい中学生にとって、そこまでするには多大な時間と労力を浪費する。気軽に行ってあげる、とは言いづらい距離だった。

 焼却場は大きな施設なだけあって、建設に伴ってコンビニの他にもアウトレットモールや古本屋、飲み屋や町医者などが一度に増えた。コンビニの裏手には川も流れており、伊藤のような年頃にはいい暇つぶしになるはずだが、休日に家族の車に乗って行く以外でトンネルの先に行った覚えはない。それはなぜか。

 ともかくトンネル内の歩道が狭いのだ。人がすれ違う場合は肩が触れるだろう。加えて柵がなく、路側帯の白線のみで区切られている。元々は人の通り道として作られたトンネルだから、車が通ることなど想定して設計されてはいない。そこを運搬のために大型トラックが通るのだから、当然地域の大人は子供に厳しく教える。あそこはあぶない。とても恐ろしいトンネルなのだ──と。伊藤の両親も子供がトンネルを歩いて通ることにいい顔をしなかった。無論、妹が一人でコンビニに行くことなど許しはしないだろう。

 それに、おばけトンネルなんて名前の場所を子供は通りたがらない。貯め込んでいたお年玉を半分渡すと泣きつかれて、伊藤はしぶしぶ調査を了承した。伊藤としてもトンネルを歩いて通れる安全性を両親に伝えて、クラスメイトとアウトレットモールに行く口実が欲しかった。だから、妹からお年玉を取り上げるつもりもない。


 おばけトンネルに関する都市伝説の内容はこうだ。

 トンネル内で立ち止まってはいけない。おばけトンネルの歩道を歩く人には、出口には大人の影がいて、入り口には子供の影がいるように見える。どちらも両側から挟み込むように追いかけてくるから、立ち止まってはいけない。もしも子供に追いつかれた場合、血まみれの恐ろしい子供に連れていかれてしまう、というものだ。

 ネットや図書館の本に書かれている子津山トンネルの怪談は、表記ゆれはあるものの、内容には大差がなかった。

 伊藤が思うに、この怪談話は歩道の狭さから生み出されたものであるはずだ。子供だけでトンネルを通らないようにという教訓を込めて作られた、寓話。親世代も同じ話を聞かされて育ったらしいので、おそらくは焼却場の建設に付随して生まれたものだろう。

 怪談話を信じているわけではないが、妹を連れ立って二人で歩けるほど安全かは伊藤にもわからない。伊藤は妹にアニメのコラボが終わる前にと拝み倒されて、早急におばけトンネルの調査に赴いた。簡単なことだ。必勝法がある。

 怪談に立ち止まってはいけないと伝えられているなら、普通に進み続ければいいのだ。

 

 次の日曜日、伊藤は件のトンネルに訪れた。この日は偶然にも陸上部の練習がなかったのだ。前日に雨が降ったものの、朝になれば天気も良かったことから、滑って車道に転ぶなどという危険性も低いだろうと判断した。装備品は懐中電灯とカメラ、ストップウォッチ。一応、親に説明できる程度の検証はするつもりだ。

 トンネルの前には小さな地蔵が設置され、お菓子や花が供えられており、いかにもそれっぽい。

 トンネル内に入ってみれば確かに歩道は狭く、車の風圧を避けようにすると壁面に当たってしまいそうなほどだった。昼間だと言うのに薄暗く、オレンジ色の道路照明とトラックのヘッドライトだけが頼りだ。懐中電灯を持ってきたのは正解だった。

 車に乗っているときは気づかなかったが、歩いてみるとそれなりに距離がある。半分まで来て五分ほどかかっているということは、全長が八百メートル前後あることになる。これは確かに、徒歩では危険かもしれない。けれど、それも小学生ならばの話だ。ふざけたり横に並んで数人で歩いたりしなければ、伊藤のように問題なく進むことができる。


「……おいでえ」

 と、後ろから声がした。小学生か、もっと幼い子供の声だ。一瞬どきりとしたが、伊藤は聞こえないふりをしてそのまま歩き続ける。しばらくそのまま歩き続け、伊藤は自分が早歩きになっていることに気づいた。まるで怪談を信じているようで馬鹿らしくなり、彼は深呼吸をしてゆっくりと立ち止まった。

「はやくう。おいでえ、はやくう」

 子供が呼びかけてくる。トンネルの出口はもうすぐだ。光が見えている。

 その出口に、男が見えた。影だけだが、咄嗟に伊藤はそれを男だと思った。どくん、ともう一度心臓が跳ねる。噂では、子供に追いつかれたら連れていかれるという。子供はどこまで来ている? いや、陸上部の自分の足でなら、この距離を子供に追いつかれることはまずない。目の前の男の元に走って行けばいいのだ。

 男もこちらへ向かってきている。心強いことに、その手には弓のようなシルエットのなにかを持っていることがわかる。あそこまで行けば、弓で子供の霊を射抜いてくれるのかもしれない。一歩踏み出そうとしたとき、ふと、気になった。

 怪談には大人に会った場合のことが一切書かれていない。そんな噂も聞いたことがない。弓を持っているとも、それで助けてくれるとも。

 こんな時に考え込むことではないのはわかっていた。しかし、一度生まれた疑問は消えない。大人の影の噂がないのは、なぜなのか。

 たったったった、という軽い足音が、子供の影が近づいて来ていることを告げている。いや、やはり悩んでいる場合ではないと意を決して、伊藤はつま先に力を込めた。大人なのだ、助けてくれるに決まっている。彼は肘を背中の後ろまで勢いよく振り、顎を引き、瞼を閉じてトンネル内を駆け抜ける。

 たったったった。子供の足音はやまない。足音に加えて、ずちゃ、べちゃ、と不穏な音が混じっている。もうすぐ迎えに来てくれた大人に会える。そう思って前方に頭を固定し瞼を開いた。

「あだま、あだまあだま、子供、あだま……あだま! くで! くれくれくれ! あだま! 子供あだま!」

 ぶん、と横凪ぎに風が通りすぎるのを、伊藤は偶然にもぬかるみに足を取られて滑ったことで回避する。しゃがみこんだ伊藤の目の前には、巨大な鋸を持った二メートルほどもある大男が立っていた。

「な……っ、なんなんだよ……!」

 赤黒い血で錆びた鋸がどうして弓に見えたのか。

 伊藤は知っていた。技術の授業で習ったそれは弓鋸という。木材を加工するものだが、ものによっては「骨を切断する場合も用いる」工具だ。しかし、彼が教科書や技術室で見たものよりもはるかに大きい。フレームの分厚さを考えると、即死とはいかずとも頭を一発殴られればたちまち動けなくなることだろう。

 大男の衣服はぼろぼろで、柄なのか返り血なのかわからないほどに赤く変色している。それは伊藤の目に、時代錯誤の昔話のような着物に映った。大男は額から上の頭部が奇妙に膨らんでおり、髪の間から目の粗い縫い傷が見えなければ、頭の上半分が別の動物ではないかと錯覚するほどに、四方八方にぼこぼこと隆起していた。お椀を頭に大量に並べて、さらに重ねて、ということを繰り返し、皮膚を被せればあんな形になるかもしれない。

「ま、まえは、あ! いっぱいこ……子供、子供くれだろ! ああ、あ、あだま、だりない! かじごいあだ……ま、おまえ、あだまど、いでがえるるるる!」

 ぶおん、と鋸が振り下ろされる。力任せなそれは完全に、打撃を与えるために繰り出されている。その衝撃を受けたらどうなるかなんて考えたくもない。伊藤は文字通り頭を抱えた。くれ? この頭を? 何を言っているんだ!

 荒い呼吸を整えられないまま、踵を返して、伊藤はすぐに来た道を戻った。駆ける、駆ける、駆ける。殺人鬼との距離は開いたが、代わりにその先には子供が待っていた。ふらふらと揺れながら血液を滴らせた子供が、彼に向かって手招きをしている。かと言って車道に飛び出すわけにもいかない。背後からは男が鋸を振り回しながら追いかけてくる。

「なんっ……なんだよ! お前ら、なんなんだよ!」

 ほとんど発狂しそうになりながら叫んだ伊藤の文句に、返事があった。

「はやくう、もどってえ! はやくう! きてるよお!」

 ゆらゆらと揺れながら、車道に転げそうになりながら、子供はこちらに向かって駆けてくる。どうやら伊藤に助言をしているらしかった。確かに、鋸の殺人鬼はあの巨体と異様に大きな頭部による重心の不安定さをものともせず、鉄錆の匂いを伴ってどんどん距離を詰めてくる。

「くそ、くそっ……! ああ、もう……!」

 伊藤は走る。部活動とは勝手が違う。酸素がうまく取り込めず、朦朧とする。こんなに短い距離なのに、足がもつれそうになる。肺が痛い。汗が止まらない。心臓が軋む。手が震える。泣きそうになる。助けて。助けてくれ。誰でもいいから。

「おいついたあ~!」

 小さな手が伊藤の手を掴む。緊張で、口から臓器が飛び出しそうになる。子供は思っていたよりもはるかに幼い。三歳か、四歳。そのくらいに見える。頭の上半分が無く、そこには脳みそも無いので余計に背が低く見える。受け皿のようになった頭からは濁流のように血を流し、目はなく、鼻も半分抉れている。先ほどまではふらふらとしていたのに、伊藤の手を握った瞬間、子供はしっかりとした足取りで走り出した。

 短い足に似合わない大きく跳ぶような一歩。まるで伊藤の歩幅に合わせてくれているかのように、同じ速度で走っている。伊藤にはわかった。きっと、こいつも足の速い子供だった。かけっこが得意だった。けれど、背後の男の一歩一歩が大きすぎる。これでは直に追いつかれる。こいつも、追いつかれたからこそこうなっている。

 ああ、そうだ。そうなのだ。はっきり言って「子供を振り切って走った方が速い」のだ。

「ああ、なんで、あああ……もう! くそっ!」

 伊藤は子供を抱き上げた。恰好をつける余裕はなかった。助けようとしてくれた恩返しだなんて考えてもいなかった。ただ、同じ年頃の妹がいたから、だから思わず抱き上げてしまった。子供は頭がない分、かなり軽かった。小さな頭蓋が揺れて、どしゃどしゃと音を立てて伊藤のシャツを血まみれに汚す。

「掴まってろ! 舌かむなよ!」

 しかし、軽いとは言っても負荷はゼロではない。その上、揺れる頭や柔らかい肌は血まみれでよく滑る。古ぼけた着物は強く握れば生地が千切れ、何度も取り落としそうにる。

 失敗した、どうせ霊だ。死んでいるのに助ける意味なんてあるのかと思いつつも、妹と同じように皮膚の下が温かいものだから、自分のシャツを握る手が震えているものだから、彼は嗚咽交じりで必死に走った。何度か大男の鋸が髪や背中を掠める度に、挫けそうになる心を叱咤して足を動かした。

 彼にとって、八百メートルがこれほどまでに長く感じられたことは今までになかった。

「あああああ! あだま! がえぜ! がえぜがえぜあだまがえぜ!」

 入り口の光が見える。お前の頭じゃねえだろ、と心中で吐き捨てながら、伊藤はゴールテープを切るような気持ちでトンネルから駆け出る。いつもの癖でそのまま五十メートルくらい走ってから、背後に足音がないことを確認して子供を下ろしてやる。

 今になって思えば、あんなに走りにくいと感じていたのに過去最高のタイムが出た気がする速さだった。この子を連れて帰ろうという思いがなければ、もしかすると途中で精神力の方が尽きていたかもしれない。

 頭をふらふらと揺らしながら、子供は辺りを見回すようにして立ち止まっている。お前はこれからどうするんだ? 成仏できるのか? そんなことを聞こうとするが、子供は一度だけ伊藤の足にしがみつくと、そのまま振り向きもせずに町の方へ向かって駆けて行ってしまう。だんだんと、透けながら──。


 これは後になって伊藤が曾祖母から聞いた話だが、あのトンネルの先には昔、働き手にならない男や乳が出ない女を追い出して隔離するための山があったという話だ。能無しをあつめるから能無村(のうむそん)と呼ばれていたらしい。酷い話で、時代が進むと今度はただ力持ちなだけでは疎まれて、学のないものも追いやられるようになった。そして、飢饉になれば口減らしに子供を捨てるための村にも変化していった。

 読み書きが苦手なある青年は、捨てられてきた子供の中にとても賢い子供がいることに気づいた。この子供の賢さに気づけば、村に戻してもらえるのではないかと交渉しようとした。そしてその土壇場で気づいた。

 この子供の脳を、自分のものと取り換えたらどうか。そうすれば、力持ちで賢い男として村に必要な人間に戻れるのではないか。しかし、交換しても「なにもおきなかった」のだ。そうして男は思ってしまう。もっとたくさん、頭の中に脳が必要だと。

 そして月日は流れて、因習が忘れ去られた頃。村の子供たちは神隠しにあうが如く、徐々に数を減らしていた。原因を突き止めようとトンネルの先に入った村人は異様な光景を目にした。頭の上がない大量の子供の死体と、それらすべての頭脳を自分のものとした怪人の姿を。狂気にまみれた男はとても常人の手には負えず、不可思議な子供の死体に助けられてようやく逃げおおせた。そして、村人たちは村を捨てて遠くの地に移り住んだ。子供を山に踏み込ませないように子頭山(ねずやま)の名をつけ、恐ろしい噂話を流した──。

 どう考えても、最初に自分の頭を切開した時点で鋸男は死んでいるはずだ。そこから先は、きっとただの妄念と、執着が動き続けただけだったのだろう。戻る村なんてどこにもないのに、大男は安寧の地という幻想を求めて未だに彷徨い続けている。


 そして、きっと。あの子供にも帰るところはない。捨てられたのなら、地面の下の両親に抱きしめられて天国に昇るだなんていう幸せな成仏も待っていない。もしもトンネル入り口の地蔵が供養として機能しているなら、あの日、子供は伊藤の前に現れなかったはずだ。

 怪談話の表と裏について考えながら伊藤は唸る。事実として起こった上に、解決したわけではない。あの殺人鬼が一度逃したからといって消え去るとは到底思えない。現に、助かった人物がいたからこそ怪談話の最後が「血まみれの子供に連れていかれる」なのだ。男に捕まっていれば、噂の元となる証言が存在しないのも当然だ。

 ならば、あの子供は端から成仏などする気がないのだ。はるか昔から何度でも、トンネルを歩く人間を助けるために入り口に残っている。自分を殺した男に幾度となく追いかけられる悪夢を繰り返しながら、そこを通ろうとする人間の手を取るために立ち向かってさえ行く。あの子供は、出口の殺人鬼が消えない限りいつまでもここで人助けをするつもりなのだろう。

 伊藤は持っていた飴玉を地蔵に供えながら思う。自分にどうにかできる問題ではないが、せめて、なにかできることはないだろうか。村やトンネルの名前も今では当て字を使われて変えられてしまった。これでは、昔の人々の警告が、あの子供の努力が無意味になってしまう。

 

 結局、伊藤はトンネルの怪談話を事細かに伝えることにした。彼が書いた過去の忌むべき歴史とこのトンネルの実話怪談は、彼の背中の傷や血濡れのシャツの目撃も相まって瞬く間に町に伝わり、町民の少数は、車で通る際にすら手を合わせて命乞いをするようになった。

 そして、トンネルの出口にも社が設置された。これは、少しでも殺人鬼の気が休まるようにという願いからだった。彼だって元々は被害者だったのだ。だから、もう誰も厭う者はいないのだと、そう教えてやる方がいい。それに、そうしないと結局あの子供はこのトンネルのことが心残りになってしまうだろうから。

 伊藤は出口の社が建立されると共に陸上部を辞めた。しばらくは噂を確かめにくる人間もいることだろう。いくら供養してもまだ殺人鬼が諦めていない可能性もある。だから、トンネルの入り口に看板を立て、さらにそこに人を配置して脅迫紛いの警告をすることにした。過去にあの子に助けられた経験のある年寄りを集め、彼らと交代で。もしも無視して入ったなら、その時は今度は伊藤が代わりに手を引っ張るつもりだ。


 ──無論、トンネルの中に愚か者を助けに行こうとするあの子の手を。

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