黒い翼

 俺の鉤爪が、ニーナの肩を掠めた。同時に、彼女の銃弾が俺の頬を。訓練用のじゃなく、実戦用の銀の弾丸だ。闇を祓う聖なる金属が、俺の皮膚を灼く。だが、狙いが甘い。こいつ、全然本気を出せてないじゃないか。


 マズい。


 貴贄エーデルシャフの血の、甘い香りが俺の脳を揺らす。痛みが、吸血屍鬼レーベンデトーデの本能を刺激する。この獲物を喰らえ、傷を癒せと。


「ニーナ、避けろ……っ」

「きゃ──」


 演技を続ける余裕はなかった。叫びながら振り下ろした爪に、さっきよりも重い手応えがある。彼女の肉を、抉っちまった。女の子なのに。ニーナの弾は、今度は俺の肩にめり込む。だが、腕一本壊されたくらいで吸血屍鬼レーベンデトーデは止まらない──止まれない。俺の爪は、次は彼女を貫く。そして、噴き出る血を俺は啜ってしまうんだ。


「駄目だったか……」


 クラウスの溜息は希望であり絶望だった。俺を止めてくれるなら良い。だが、ニーナは──失格なのか、もう!?


「ふたり共で良い。撃て」

「くそ……っ」


 冷酷な命令を聞いて、俺は身体に更なる変形を命じる。ニーナの身体が引き裂かれる前に。翼よ広がれ、彼女を包め。爪も指も更に伸びて籠となれ。翼の皮膜を補強して、弾を弾け。


「おじ、さ……?」

「ニーナ。大丈夫だ」


 黒翼の繭に包まれてきょとんとするニーナに精一杯微笑む。血塗れの化物の顔で。

 大丈夫なもんか。こんな盾、何秒も保たない。最後に抱き締めてやれるというだけ、俺の自己満足に過ぎないのに。なのに──ニーナは太陽みたいに明るく笑った。


「ありがとう、おじさん」


 そして、そのままの笑顔で俺の肩に


「が……っ!?」


 小さな唇に、小さな舌。それでも銀の銃弾に穿たれた傷をほじくられるのは痛かった。いや、俺のことはどうでも良い。吸血屍鬼レーベンデトーデの傷に口を寄せたら、その血を取り入れたりしたら。


「止めろ、あんたまで──」

「うん。私はなるの。吸血屍鬼レーベンデトーデに」


 血で紅を施したニーナの唇が、妖艶に微笑み──そして、大きく開く。吸血屍鬼レーベンデトーデの俺をして耳を塞ぎたくなる激しい咆哮が、空気を大地を揺るがせる。訓練場を擁する本拠地ハイムの石壁をも。


「な──」


 天井から降る瓦礫をどうにか翼で弾きながら、俺は目を剥いていた。訓練場は、地上にあるのだ。天井が崩落すれば、見えるのは当然、青い空と輝く太陽。二十年振りの──そして、俺を焼き滅ぼす。吸血屍鬼レーベンデトーデになりたての、ニーナ諸共もろとも


「大丈夫だよ、おじさん」


 咄嗟に抱え込もうとした俺の腕を制したニーナは、落ち着いていた。何を、と問おうとした俺の視界を埋め尽くすのは──舞い散る黒い羽根。堕ちた天使のように、ニーナの背には六対の夜の色の翼が生えていた。


 これが、貴贄エーデルシャフ吸血屍鬼レーベンデトーデ? なりたてで、もうこんな力が? クラウスが恐れるのも十分な理由があったのか。


 俺が呆然とする間に、二対の翼が俺たちを優しく包み込んだ。大きな羽ばたきの音は──残りの翼で飛ぼうというのか。だが、真昼の空だぞ!?


「無理だ、焼け死ぬぞ……!」

「大丈夫!」


 俺の悲鳴を掻き消して、ニーナは叫び、地を蹴った。教わってもいないのに、見事な飛び立ち方だった。


 銃声が追う気配は、なかった。地上から聞こえるのは悲鳴や怒号、人が呼び合う慌ただしい声だけ。そうだよな、本拠地ハイムの一角が崩れたなら追跡どころじゃないか。クラウスは──これくらいで死ぬとは思いたくないが。


「おい、翼っ、焦げてる……! 俺を下ろせば──」

「大丈夫だって!」


 優しい黒い羽根に包まれて、俺には外の様子は見えない。だが、肉が焦げる嫌な臭いで分かる。こいつニーナ、翼が燃える端から再生させて飛んでやがる。黒い繭を抱え、煙を上げながら飛ぶ八枚の翼──まるで悪夢だ。


「無理だろ! まだ真昼だ!」

「近くに洞窟があるの!」


 下ろせ、下ろさないで言い合いながらよろよろと飛ぶことしばし──俺たちは、確かに森の中の洞窟にした。それぞれ翼も鉤爪も引っ込めて、居心地の良い闇の中で向かい合うと、ニーナは例の太陽の笑顔を見せた。


「ね、大丈夫だったでしょ?」

「……あんた、クラウスの策を知ってて利用したな」


 可愛い顔にも騙されないぞ、と。俺は低く唸る。


「俺に手傷を負わせて血を啜れば吸血屍鬼レーベンデトーデになれる……貴贄エーデルシャフの力があれば逃げることもできる、ってか? 行き当たりばったりにもほどがある……!」

「おじさんを連れて、が大事なとこよ。それに、成功したわ」


 吸血屍鬼レーベンデトーデになってなお、ニーナの目は青空の明るさを湛えていた。悪びれない明るさに、俺は頭を抱える。


「あんたは人間のに。普通に生きられたのに」

「人の形をしたものを殺して生きていくのは普通じゃないわ」


 唇を尖らせるニーナを見て思うのは、彼女のだったという吸血屍鬼レーベンデトーデたち。どんなだったかは分からないが──保護された時には、この子はもう人間じゃんだろう。闇の中でないと生きていけない子──クラウスは、きっと人に戻そうとしたんだろうが。


「優しい吸血屍鬼レーベンデトーデもいるわ。おじさんがそうでしょう? 私を、殺さなかった。人を傷つけずに生きる道は、ないの?」


 大人としては、きっぱり否定すべきだった。だが、それもこの子が人間であるうちは、の話だ。この子がになってしまった今──俺には責任がある、のか? 保護者だか監督者だかの。まったく柄にもない話だが。


 精いっぱいの重々しい口調で、俺は告げた。


「家畜の血でも飢えは誤魔化せる……けど、不味いし狩人イェーガーにも追われるぞ」

「大丈夫よ。私、頑張るから。ねえ、おじさん──」


 ぎゅっと拳を握ったニーナの、なんて可愛らしいことか。厳しく躾けるには心を鬼しないといけなさそうだ。前途多難を思って俺は溜息を吐いた。


「ラルフだ。ここまで関わったからにはおじさん、はおかしいだろう」

「うん! ラルフおじさん!」


 あくまでものおじさん呼ばわりだった。この歳なら、俺はまあおじさん、なのか。




 人生は本当に思い通りにならないことばかりだ。綺麗に死ねると思っても、どうやらまだできないらしい。ニーナを放っては、逝けない。


 だから──と、俺は詫びる。決して忘れることができない妻と娘の面影に。年老いたクラウスに。俺はまだ地獄に堕ちることはできない。お前たちの無念も苦痛も、いずれ必ず報いを受けるから──だから、もう少し待ってくれ。


 少なくとも今は、まだ。

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吸血鬼はまだ死ねない 悠井すみれ @Veilchen

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