黒い翼
俺の鉤爪が、ニーナの肩を掠めた。同時に、彼女の銃弾が俺の頬を。訓練用のじゃなく、実戦用の銀の弾丸だ。闇を祓う聖なる金属が、俺の皮膚を灼く。だが、狙いが甘い。こいつ、全然本気を出せてないじゃないか。
「ニーナ、避けろ……っ」
「きゃ──」
演技を続ける余裕はなかった。叫びながら振り下ろした爪に、さっきよりも重い手応えがある。彼女の肉を、抉っちまった。女の子なのに。ニーナの弾は、今度は俺の肩にめり込む。だが、腕一本壊されたくらいで
「駄目だったか……」
クラウスの溜息は希望であり絶望だった。俺を止めてくれるなら良い。だが、ニーナは──失格なのか、もう!?
「ふたり共で良い。撃て」
「くそ……っ」
冷酷な命令を聞いて、俺は身体に更なる変形を命じる。ニーナの身体が引き裂かれる前に。翼よ広がれ、彼女を包め。爪も指も更に伸びて籠となれ。翼の皮膜を補強して、弾を弾け。
「おじ、さ……?」
「ニーナ。大丈夫だ」
黒翼の繭に包まれてきょとんとするニーナに精一杯微笑む。血塗れの化物の顔で。
大丈夫なもんか。こんな盾、何秒も保たない。最後に抱き締めてやれるというだけ、俺の自己満足に過ぎないのに。なのに──ニーナは太陽みたいに明るく笑った。
「ありがとう、おじさん」
そして、そのままの笑顔で俺の肩に嚙みついた。
「が……っ!?」
小さな唇に、小さな舌。それでも銀の銃弾に穿たれた傷をほじくられるのは痛かった。いや、俺のことはどうでも良い。
「止めろ、あんたまで──」
「うん。私はなるの。
血で紅を施したニーナの唇が、妖艶に微笑み──そして、大きく開く。
「な──」
天井から降る瓦礫をどうにか翼で弾きながら、俺は目を剥いていた。訓練場は、地上にあるのだ。天井が崩落すれば、見えるのは当然、青い空と輝く太陽。二十年振りの──そして、俺を焼き滅ぼす。
「大丈夫だよ、おじさん」
咄嗟に抱え込もうとした俺の腕を制したニーナは、落ち着いていた。何を、と問おうとした俺の視界を埋め尽くすのは──舞い散る黒い羽根。堕ちた天使のように、ニーナの背には六対の夜の色の翼が生えていた。
これが、
俺が呆然とする間に、二対の翼が俺たちを優しく包み込んだ。大きな羽ばたきの音は──残りの翼で飛ぼうというのか。だが、真昼の空だぞ!?
「無理だ、焼け死ぬぞ……!」
「大丈夫!」
俺の悲鳴を掻き消して、ニーナは叫び、地を蹴った。教わってもいないのに、見事な飛び立ち方だった。
銃声が追う気配は、なかった。地上から聞こえるのは悲鳴や怒号、人が呼び合う慌ただしい声だけ。そうだよな、
「おい、翼っ、焦げてる……! 俺を下ろせば──」
「大丈夫だって!」
優しい黒い羽根に包まれて、俺には外の様子は見えない。だが、肉が焦げる嫌な臭いで分かる。
「無理だろ! まだ真昼だ!」
「近くに洞窟があるの!」
下ろせ、下ろさないで言い合いながらよろよろと飛ぶことしばし──俺たちは、確かに森の中の洞窟に不時着した。それぞれ翼も鉤爪も引っ込めて、居心地の良い闇の中で向かい合うと、ニーナは例の太陽の笑顔を見せた。
「ね、大丈夫だったでしょ?」
「……あんた、クラウスの策を知ってて利用したな」
可愛い顔にも騙されないぞ、と。俺は低く唸る。
「俺に手傷を負わせて血を啜れば
「おじさんを連れて、が大事なとこよ。それに、成功したわ」
「あんたは人間だったのに。普通に生きられたのに」
「人の形をしたものを殺して生きていくのは普通じゃないわ」
唇を尖らせるニーナを見て思うのは、彼女の両親だったという
「優しい
大人としては、きっぱり否定すべきだった。だが、それもこの子が人間であるうちは、の話だ。この子がこんなになってしまった今──俺には責任がある、のか? 保護者だか監督者だかの。まったく柄にもない話だが。
精いっぱいの重々しい口調で、俺は告げた。
「家畜の血でも飢えは誤魔化せる……けど、不味いし
「大丈夫よ。私、頑張るから。ねえ、おじさん──」
ぎゅっと拳を握ったニーナの、なんて可愛らしいことか。厳しく躾けるには心を鬼しないといけなさそうだ。前途多難を思って俺は溜息を吐いた。
「ラルフだ。ここまで関わったからにはおじさん、はおかしいだろう」
「うん! ラルフおじさん!」
あくまでものおじさん呼ばわりだった。この歳なら、俺はまあおじさん、なのか。
人生は本当に思い通りにならないことばかりだ。綺麗に死ねると思っても、どうやらまだできないらしい。ニーナを放っては、逝けない。
だから──と、俺は詫びる。決して忘れることができない妻と娘の面影に。年老いたクラウスに。俺はまだ地獄に堕ちることはできない。お前たちの無念も苦痛も、いずれ必ず報いを受けるから──だから、もう少し待ってくれ。
少なくとも今は、まだ。
吸血鬼はまだ死ねない 悠井すみれ @Veilchen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます