第六章
「おかあさん!?」
睡蓮の声で、新太は目を開けた。皆、蹲っていた。倒れているものもいれば、膝を突いているものもいる。双子は互いを守りあうように寄り添っている。都はただ床にペタンと座り込んでいる。冬だけがただ表情を変えずに真っ直ぐに前を睨んでいる。
蹲っていた新太は身を起こした。真っ直ぐに立ち上がる。
部屋の真ん中に、ナナが倒れている。微かに上下する腹で、生きているのがわかる。その首輪の位置から幽霊のように光像による人間が浮かび上がっている。
女の人だ。白衣を着ている。長い髪を、一つに束ねて。
「香奈」
女の人は優しい声で、睡蓮に向かってそう言った。聞き覚えのある声。新太にはわかる。これはナナの声だ。ナナと全く同じ声だ。そして、光の像はこちらを見た。
黒ぶちの眼鏡、少し不器用そうな、だけど穏やかな笑顔、白い肌に、長い腕。
新太は言葉をなくした。何と言ったら良いかわからなかった。
其処に立っているのは、新太が今背負っている写真に写っている人。
父と二人で、ぎこちなく写っていた、母の写真。
「新太?」
母の残影が、新太に向かって、ナナの声で語りかけた。
「……本当に、大きくなったね、新太」
「お、かあ、さん?」
光の影は小さく頷いた。目元に小さな光の粒が現れ、それは一筋伝って落ちて空気に消えた。
「南、博士?」
葵が呆然として呟いた。
「えっ!? 南博士?」
母の残像は優しく頷いた。
「おか――お母さん、……お母さん!」
睡蓮がその顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま崩れ落ちた。新太は混乱した腹の奥で、何かが蠢き始める。忘れていた何かが。失っていた何かが。大切な――何かが。
「そういうことか。本名は――針嶋由紀那、だったんだな」
葵が、ぽつりと言った。
大切なこと――思い出さなければ。だけど、喉が甘くつかえて、上手く出てこない。
まるで、大切な言葉が、いつだって必要な時に出てこないように。
頭の中を巡る、幼い時の風景。
いつだって、其処にいたのは。
ナナ、オーガ、カンナ、父さん。
お母さん――。
そして。
――おねえちゃん。
「姉ちゃん?」
新太がポツリと呟いた。
暖かい手、白いワンピース、二人おそろいの麦わら帽子。
その背中を追いかけて、街の中での追いかけっこ。
指人形。絵本をめくる音。
影絵遊び。プラネタリウム。石鹸の匂い。
怖い夢を見て目を覚ましたら、すぐ隣にあった手。
寝室の中だけで聞く、子守唄。
小さい新太の手を握った、柔らかい温もり。
笑い声。
――おねえちゃん。
「姉ちゃん!」
新太は膝に落ちた。涙が止まらなかった。どうして今まで忘れていたのだろう。母の残影は、新太のほうを向いて、穏やかに笑って言った。
「ごめんね――新太。ずっと本当のことを言ってあげられなくて、ごめんね」
そして母は、睡蓮、否、香奈に向かって、言った。
「香奈、ごめんね。寂しがり屋のあなたを置いて、私は死んでしまったのね」
そして博士は弥生に向かって言った。
「弥生。あなたが憎むのは私でしょう。その子たちは関係ない」
他の誰よりも呆然としていた弥生は、突如表情を変えた。そのまま牙を向けてホログラムに襲い掛かった。しかし、白い体は光が作る像を通り抜け、そのまま地面に転がる。弥生は吼えた。だがその声は自信に満ち溢れた強者の威嚇ではなく、恐れ怯えるものが放つ悲鳴のように聞こえた。弥生はぴくりとも動かないナナに襲い掛かろうとしたが、母の残像が優しく言った。
「そんなことをしても無駄よ。私は消えない。かわいそうな子。ごめんね」
弥生はびくっと怯えて後ずさる。あの自信満々で人を見下していた姿からは想像が付かないほど、白い猫は博士の影に怯えていた。
涙がぐずぐずに崩れる。新太は膝に落ちた。肩の上に、睡蓮――否、香奈の手が重なる。
「新太、新太……ごめんね。すぐに、わからなくてごめんね……」
「ねえ、どうして……どうして俺たち、忘れてたんだ?」
「DS法だ。……お父様だ」
「――え?」
「……恐らく二人ともDS法が掛けられていたんだ」
葵が小さい声で言った。
「子守唄は声紋で届く。私の声で無いと効き目は無い。だから私は一番信頼できる子にそれを託した」
弥生は怯えている。九月とオーガは、ナナの咆哮で気を失ったままだ。
「私の記憶辞書じゃなく、記憶そのもの。それをナナの記憶と同期させることで、少しの間私の自我が復活できるようにした」
「そんなこと、お前の研究結果のどこにも書いてなかった」
弥生は、叫んだ。切実な声だった。
「私は全部読んだ。ネットワークに侵入してお前の成果は全て。我々の弱点も、構造も、明かされて居ない力も、秘密も其処で知った。だが、そんなことはどこにも書いてなかった」
「それは我々の共同研究だからだ」
突然やみくろの中の一人が歩みだした。新太は唖然として、その黒い顔を見上げる。男はゆっくりとした動作で、ゴーグルを取り、フェイスカバーを取った。
その仮面の下からは想像と反して初老の男性が現れた。
「お父様!?」
「親父!?」
双子が、唖然として叫んだ。
母の残像が小さく頭を下げた。
「お久しぶりです。太田博士」
「その様子だと、プロトタイプは上手くいったようだな」
「ええ。こんな形で起動するとは思いませんでしたが」
南博士は、天井を仰ぐように上を見て目を閉じた。
「色んなことがあったんですね。ナナの記憶を辿ってみれば、驚くことばかりです。でもこの研究の目的としては、これが正しいのでしょう」
「どういうこと?」
茜が困惑したように言った。返事をしたのは新太のすぐ横に立っていた陰気な男だった。
「南動物工学研究所と太田記憶科学ラボラトリーの共同開発、メモリロイドのプロトタイプです」
「メモリロイド?」
「記憶辞書をベースに動物に会話能力を与える南博士の研究と、意識そのものを記憶に閉じ込める太田博士の研究を合体して、自我をそのまま残す研究です。ナナは一号機で南博士自身の意識を閉じ込めておきました」
「お前――冬、何者?」
「私は南博士の第三助手です。――博士、お久しぶりです」
冬はそう言って、そのまま母の残像に向けて頭を下げた。
「冬人君、久しぶり。あなたは……ずっと香奈の面倒を見てくれていたのね」
「それは、偶然です」
冬は睡蓮を見てから、博士を見て言った。
「私は妹と共に太田博士に拾われました。G区に留まる覚悟を決めた後――生存者捜索中に、香奈ちゃんを発見して、お守りしなければと。彼女はあなたの血を継いで、とても筋が良い。いつかあなたの研究を引き継げるようにと、それだけを考えて教育しました」
「――冬」
「ただ、博士に似たのかは知りませんが、少し、泣き虫です」
そこで陰気な男は、新太が知る中で始めて、微かに微笑んだ。
「ありがとう。冬人君。あなたが、その子のそばにいてくれて本当によかった」
そして母は、再び真っ直ぐ向いた。
「怯えてしまったあなたをどうにかしないとね」
母の残像は、白い猫に優しく、しかし厳しい声を出して、言った。
「――近寄るな!」
「近寄っていないわ。それに近寄れない」
母はそう言って笑う。
「弥生、あなたは最初からそうだった。とても恵まれているのに、いつも怯えて、誰かを憎み蔑むことで自分の存在を認めていた。とてもよくわかる。私が昔そうだったから」
母は独白のように白い猫に向かって語りかけた。
「寂しかった。嫌われるのが怖いくせに、嫌われてしまったほうが楽だからって、人を傷つけて、憎まれて、憎んで、愛されたいのに愛されないことが怖くて、愛することを憎んだりして。自分は人よりも秀でてるからと、それだけの理由で、人を見下して、友だちなんかいらないって突っぱねて。私には睦月しかいなかった。睦月はいつだってそばに居てくれた」
「その睦月を殺したのはお前だ!」
弥生は激昂した口調で言った。
「己の寂しさを紛らわすために、その欲望のままに睦月の身体を研究対象にして、結果殺したんだ。睦月は苦しんで苦しんで死んだんだ。お前の子守唄の実験で。おまえら人間はエゴの塊でしかない。他の生物の命をただのモノだと思って都合が良い時だけ友だちだとのたまって、おもちゃにする」
「そう。睦月は私のせいで死んだ。私が殺したのよ。そして弥生。お前も」
白い猫は怯んだ。
「私はお前に怯えていた。愛してあげたかったのに、睦月を失った直後で、自信をなくして、お前の憎しみは、私の憎しみ。お前の悲しみは、私の悲しみ。だからね、弥生。私は全ての罪を被るよ」
誰も動かなかった。誰も動けなかった。
新太も、香奈も、ただ互いの存在を確かめるように腕をつかみ合ってるだけで。
床に座り込んだ都も、立ち尽くす双子も。冬も、太田博士も。
そしてやみくろどもも、誰も何も言えなかった。
「もう――此処は軍に囲まれている」
母はきっぱりと言った。
「ユニバーサルバリアから出てしまったお前は、間違いなく捕われてしまう。そうすれば、またあの辛い実験台の日々が始まる。だけどね、弥生。あなたが憎むのは私だけでいい。あなたの憎しみは、私が全て持っていく」
弥生は、いやいやとするように首を振った。
だけどもう止める術は無かった。母は小さく、懐かしい旋律を口ずさむ。それは、あの歌だった。睡蓮が口ずさんだ。新太の遠い記憶で鳴る、あの柔らかい子守唄。
母ははっきりと、優しい、慈しむ声で歌った。
おひさまはおやすみ
おつきさまララバイ
弥生は、睦月によろしくね
ねんねん ころころ 夢の中……
猫は突然動きを奪われたように硬直し、その場に倒れた。苦しみの悲鳴を上げた。人間の声とも違う、獣の咆哮とも違う、猫の鳴き声とも違う。あるいはその全てであるような、混沌とした悲鳴を上げながら、猫はその場を転がった。突然起き上がったかと思えば、再びひっくり返る。明らかに正常じゃない動きに、都が怯えて、小さく声を上げた。誰も手出しが出来ない。こんな苦しみ方を見たことがない。
「苦しいよね――。ごめんね」
母は悶絶する猫を見下したまま、ぽつりと言った。その表情は読めなかった。悲しんでいるのか、安堵しているのか。悔やんでいるのか、これで良かったと、思っているのか。
それすらも知らせずに、母はただ一人で全てを受け止めようとしているように見えた。
母の残像は苦しむ弥生から目を放さなかった。
ギャアアアアアアと、悲鳴のような音を立てて、白猫は母の残像に襲い掛かった。それは半透明の影を通り抜けて――部屋の反対側に落ちる。
そしてその場で、ぱたりと動きを止めてしまった。浅く息をしているところを見ると――まだ辛うじて生きていた。救いの手を差し伸べていいのか、どうしたらいいのか。
動くことが出来ない。その時、新太は気付いた。
母の残像が、少しずつその色を薄めている。
「おかあ――さん」
「そろそろ限界みたい。香奈、新太――ありがとうね」
おぼろげになる姿で、母は儚く笑った。そしてようやく、こちらを見た。
「お母さん! 嫌だよ! お母さん!」
「お母さん!」
新太と香奈は同時に叫んだ。だけど母は優しく笑うだけで、ごめんね、と繰り返す。
「ナナ、がんばったね。ナナ――ありがとう」
母は目を閉じて言った。
「太田博士、ありがとうございます。私はこうして一瞬だけでも蘇ることが出来て、本当に良かった」
「嫌よ、嫌! お母さん――行かないで」
香奈の叫びは絶叫に近かった。新太は喉が詰まって、もうこれ以上、上手く喋れない。
「泣かないで、香奈。新太、お願い。お父さんに、よろしく。ありがとうって、伝えて……ね」
その言葉が最後だった。薄くなった光の像は――ぷつりと、音をたてるように途絶えた。
光の粒が最後にきらきらと一瞬だけ舞ったような気がした。
「お母さん!」
新太と香奈は、横たわる犬の身体に抱きついた。そして、新太は気付いた。
ナナは――その茶色い犬は、もうほとんど息をしていない。
「ナナ? ナナ?」
その身体を揺らして、話しかけると、犬は薄く目を開けて「クゥン」と鳴いた。
「ナナ? 大丈夫? ナナ? どうしたの?」
「――残念だが、もうその犬はアニマロイドではないよ」
冬がそっと犬の横に膝を突いて、脈を取る。そして小さく首を振った。
「メモリロイドは――まだ開発中だった。不可逆だ」
「ど、どういうこと?」
「その犬は自分の意思で、南博士の自我を起動した。その際にアニマロイドの記憶辞書を上書きし破壊してしまう。この犬は、もう喋れない。人間の言葉で考えることも出来ない、つまり」
冬は其処に倒れる白い猫を見て、言った。
「弥生と同じだ。子守唄を――この子も浴びたのだ」
新太は――首を振った。そんなのは、絶対に信じることが出来ない。信じられない。信じたくない。だって、ナナはいつだって新太のそばに居て。いつだって、優しい声で、いつだって、愛してくれて、いつだって心配して。
「元々この犬型アニマロイドは、いつも君たちとそばに居ることが出来ない南博士が、子守用として開発したのだ。気性の一番優しくて辛抱強い個体を選び、自分の声紋を使って。君たちのそばにいつでも自分の分身が入れるように。メモリロイドの対象を選ぶ時も、この犬は喜んでそれを引き受けた。この犬は、南博士の自我とは別のところで君を愛していたんだろう」
冬が――感情の篭らぬ声で言った。香奈がナナの背中を優しく撫でる。消え入るような声で「ナナ、大きくなったんだね」と呟く。新太は――どうしたらいいのかわからない。
そんなことを言われても――頭の整理が追いつかない。
ナナにはいつだって心配をかけて。ナナのこと、いつも困らせてばかりで。
最後の会話を思い出そうとして――唇を噛んだ。
『もうナナの言葉なんて信じないよ!』
なんて。なんて言葉を投げかけたんだろう。守りたいものがあるだ何て、偉そうに言って、ただ駄々を捏ねて。ナナはいつだって――いつだって正しかったのに。いつだって新太のそばにいて、守ってくれたのに。
「ナナ、俺ナナが居ないと駄目だよ。俺だけじゃなくて、父さんだって、オーガだって、カンナだって――ナナが居ないと、駄目なんだよ」
涙が溢れて――前が見えない。止まらない。
「死なないで――ナナ」
新太は、大声を上げて泣いた。犬は弱く呼吸をしながら、小さくくぅん――と、鳴いた。
「きゃああッ」
突然、都が悲鳴を上げた。弥生が飛び起きた。そして、思い切り吼えた。素早い動作で飛び上がると、その牙を目に付くもののすべてに向けた。
「ぎゃあああああ」
目の前に居た、やみくろの一人の腕に、白い猫が噛み付く。
「こいつ狂ったぞ!」
猫は振り払われると、次に白猫は都に向かった。膝が落ちたままの都は――立ち上がることが出来ない。小さく悲鳴を上げた。その時――黒い影が、二者の間に割り言った。
「――ジジ?」
都が叫んだ。睡蓮が涙を拭って、小さく「九月」と言った。
黒猫はフーっと弥生に向けて――威嚇した。そしてそのまま、小さく呟いた。
「都ごめん――本当にごめん――。都、逃げて」
「ジジ!」
ギャアと声を上げて、弥生が黒猫に飛び掛かる。ジジは、躊躇うことなく白猫に向かって、吼える。其処に、金色の猫が飛び込んできた。
「オーガ!」
新太は叫んだ。蜂蜜色の猫はニャアアアオと威勢良く鳴いて、再び白猫に向かった。
「あいつら――元に戻ったんだ」
弥生は混乱したまま、怒りに任せて吼えた。オーガがその背中に噛み付いたのを振り払うように暴れ白い影はそのまま飛びぬけた。全てを憎んで――吼えた。だけどもうそれは怯えた子どものそれと、何も変わりがない。酷く苦しそうに呻きながらナナが飛び出てきた方向の扉の中に消えた。
「上だ!」
茜が叫んだ。誰もが、膝が崩れて立ち上がれなかった。最初に立ち上がったのは、睡蓮だった。細い背中が、どうしてそんなに速く走れるのか。
ふわりと打ちかけを脱いだ。まるで羽衣のようだ。
「待って」
新太は後を追った。扉を抜けると、冷えた夜風が吹きぬいた。下を見ると、まるで奈落のように真っ暗で脚が竦んだ。
風が強すぎて、立っているのもやっとだ。睡蓮の足音はどんどん上に上っていく。どんどん細くなっていく塔が、不安定にぐらぐらと揺れる。
「姉ちゃん! 危ないよ!」
新太は上を見て叫んだ。
「あなたは来ちゃ駄目!」
睡蓮が叫んだ。
「私が終わらせるから!」
そこで新太はわかった。彼女が何をしようとしているのかも――全て。
「危ない! 新太、睡蓮、戻れ!」
茜の声が聞こえた。
「この先は塔が崩れているんだ――少しの刺激でも更に崩れる!」
新太は上を見上げた。足音はまだ上に続いている。だったらば、尚更――行かないと。もうこれ以上、何も、誰も、失うのは嫌だ。階段は風に揺れた。右で、左で、ビルが近いところで鳴っている。泣いている。
夜の街が泣いている。それはまるでここで死んだ人たちの泣き声のようだ。
ならば、母のも混じっているだろうか。だったらきっと、怖くない。
上を見上げれば欠けた満月。十三夜。月明かりがやけに眩しい。此処は月がとても近い。十二年間、誰も知らなかった景色。十二年間、きっと変わらなかった風景。
香奈の足音が止まった。その時だった。断末魔のような叫び声が響いた。
鉄塔が、ぐらぐらと揺れた。
新太は、懸命に手すりにつかまったまま――這うようにして、鉄の階段を上る。
目の前に見えていたのは、最後の折り返しだった。踊り場に膝を突くと、すぐ上に、花魁がこちらに背を向けて蹲っていた。その先にはもう階段は無い。ただ空がぽっかりと空いている。
月明かりが彼女を照らす。
赤い血が――階段を伝って、流れて、新太のところまで届く。
「姉ちゃん……」
声をかけた。嗚咽を漏らしながら、睡蓮は顔を上げた。
腕の中には、白い猫が生き絶えていた。その首筋には、細い簪が刺さっている。
「私が終わらせなければいけなかったの」
香奈は、その顔を、弥生の顔に押し付けて言った。か細い声は、涙に濡れていた。
「ごめんね、弥生。ずっと、ずっと――苦しかったね」
「姉ちゃん――そいつは」
新太は、言葉が浮かばない。弥生が悪いとはどうしても言えなかった。
南博士が震災で死んだのは弥生が与えた深手の傷によるものだったという。あの白い猫は、都を殺そうとし、浜木綿を殺し、オーガと九月を操って、新太たち全員を殺そうとした。
「ごめん」
だけど新太は呟いた。謝罪の言葉など、全部、エゴだとわかっていたけれど、それでも。
下から上ってくるヘリコプターの音が響く。それはあっという間に二人の高さまで上がり、ぐるぐると塔の周りを回った。ぱっと付いたサーチライトが、目に入る。眩しい。
「あらあら――随分とまぁ」
スピーカーから聞こえてきたのは、聞いたことのある女の声だった。
ヘリの扉が開く。中にはよく知っている、豪華な身なりの花魁が立っていた。
「美しい姉弟愛だこと。涙が止まらないわねぇ。――化け物退治、ご苦労様」
二人は呆然と花魁を見詰めた。乗っているのは軍用ヘリだ。奇妙な光景だった。
「おせえんだよ! ばか!」
少し下のほうから、茜が叫ぶのが聞こえた。鈴蘭は――高笑いしていた。
途端に下のほうが騒がしくなった。軍が突入してきたのだろう。新太は、震える香奈の肩を抱いて抱きしめる。そのまま、風に飛ばされて落ちないように。ぐらぐらと塔は揺れて、みしみしと嫌な軋み方をしていた。
下のほうからドンドンと足音が響いた。誰かが上ってくる。それが誰かなど考えもしなかった。二人で、ただ寒さに震えて蹲っていた。
踊り場に一人、背の高い軍人が現れた。父は――泣きそうな顔を押さえて、笑顔を作った。
「新太、香奈!」
「父さん――」
「お――父さん?」
「香奈、新太」
呆然とする二人に、父は両手を伸ばした。
「おいで――そこは危険だ」
二人で、手を伸ばす。同時に、父が掴む。引っ張られる。その強さに、安堵する。
そのまま踊り場に崩れ落ちた。三人で抱き合った。そして結局全員が泣いた。香奈は大きな嗚咽をもらして、泣いた。その腕に弥生の身体を抱いたまま。何度も何度も、しゃくりあげて。ヘリコプターの音がうるさくて、他の何も聞こえなかった。
「ごめんなさい――」
新太は、小さな声で言った。父は何も言わずに、ただ頷いて、二人を抱きしめた。
◯
「害獣駆除作戦は無事完了。被害者一名、G区侵入罪逮捕者十九名および保護一名です」
ロビーに運び込まれた担架の上で、隊員が交信する言葉をぼんやりと聞いていた。
双子が隣にいて、心配そうにしている。都は二人に聞いた。
「私の記憶は……消されるの?」
どちらがどちらだかわからなかったので両方に聞いた。
片方が頷き、片方が首を振った。そして双子は互いの顔を見て「おまえは大体」と異口同音に言った。都は思わず、笑った。
片方がフードを取った。それでも、どちらだかわからなかった。
「ホワイトバンを受けたほうがいいと思う」
そう言ったのは、少女だった。
「だけど都ちゃんが選んでいいと思う、俺は」
「何を言ってるんだお前は。掟を知ってるだろうが」
「その場合の掟って法律の話? それとも俺らの?」
「両方だ、両方」
「法律の場合は、あらぶりモノに拉致誘拐だから、都ちゃんに罪はないだろ。俺らの場合はあいつと違って内部に深く入ったわけじゃないからなぁ。勝手に消していいのか、これ」
「――お前は無駄口が多い。それに私たちが決めることじゃない」
少年が――茜が、都のほうを見て、聞いた。
「っていうか俺は都ちゃんが選ぶのが良いと思うわけ。そりゃ俺らのことを言いふらされたら困るから、そうなったら俺らも本気で行くよ? でもそうじゃないのであれば、何も見なかったことにするって言うなら――記憶は、無理に消さないほうがいいと思う」
「私は――大丈夫。絶対に言わない。出来れば忘れたくないよ」
忘れたくない。とても怖かったし、そして悲しかったし。今でも脚が少し震えているくらいに、恐ろしかったけれど。
「ジジのこと――一つも、忘れたくないの。全部、覚えていたい」
「じゃあ茜、お前が鈴蘭に掛け合え」
「――っていうか、猫たちはどこ行ったの?」
「話題逸らすな。八月と九月はとっくに回収されたよ」
葵はそう言って隊員たちを見た。冬人と呼ばれていた男が、近付いてきた。
「冬、お前どうして裏切り者のフリをしたんだ?」
「旦那様から指示を受けてたんです」
「何だと――?」
「旦那様は弥生の調査のためにずっとやみくろにもぐりこんでたんです」
「え? だって、昏睡状態って」
「嘘です」
「嘘?」
「ダブルバンを受けたのは本当ですが、旦那様にそんなものが効くと思いますか? 浜木綿の裏切りを知った旦那様は、そのまま昏睡したフリをして身を隠し、やみくろに紛れ込んだんですよ。全部真っ黒にするのも考え物です。誰が紛れ込むかわかったもんじゃない」
「どうしてばれなかったの?」
冬は茜を見て、少し切なそうに言った。
「もう既に、やみくろの連中は弥生にコントロールされていたんです。個体としては自失状態だ。目立ったことをしなければばれません」
都はゆらゆらと揺れていた男たちを思い出した。表情すら――隠して、ただの影に成り果てる。何だか哀れに思った。
「ゴーストを出たいなら出ればよかったんです。難しいことじゃない。研究成果だって、いくらでも加工はできた。浜田博士は、ただ勇気と覚悟が無かっただけなんでしょう。十二年間も中にいれば何もかも変わってしまう。外に出たい出たいと言いながら、出るのが怖かった。そこを弥生に付け込まれてしまった」
「何が自由だよ。外なんか出たって不自由しかないよぅ。つまらないったらないね」
豪華な花魁姿の女性がやってきた。
「鈴蘭――お前」
甘い花の香りがする。睡蓮と、呼ばれていた花魁とは違い、とても強気そうな人だった。
「どうせ、おまえらはわっちが裏切り者だと思ったんだろう。憎まれ役は辛いわァ」
「お前が危ないことばかり言うからだろう!」
「あーら、そうやって過ちを人のせいにしてるばかりじゃ、いつまでたっても小童は小童じゃ。ふふふ。だから私の手のひらで踊るしかないんだよ」
「こんの性悪ババア!」
スパーン、と小気味良い音を立てて、双子が一人吹っ飛んだ。
残った葵が呆れたように、馬鹿か――と、呟いた。
「おまえさんも災難だったねェ」
鈴蘭は、扇子で口元を隠しながら言った。
「あの――私の、記憶は取るんですか?」
花魁は目を細める。濃い睫毛に縁取られた瞳を見ながら、何故か都は蝶野を思い出した。
「その制服は一校だね?」
鈴蘭は、何故か懐かしむような口調で言った。
「双子の手が届くところだからね。良い子にしているならば見逃してやろう」
「え?」
「マジで?」
女の言葉に驚いたのは、双子だった。
「珍しいですね」
「ええ。わっちは、可愛い女の子には弱いのでね」
「嘘だ」
「嘘だ」
「嘘なものかい」
「あの――ありがとうございます」
お礼を言うべきところなのかわからないが、都は花魁に向かって言った。
「あ、都ちゃんついでに俺の女装のことも秘密ね。胸を多く詰めてることも秘密――」
葵のパンチが、そのまま茜の顔面に入った。
「お前はその話ばっか人にしてるんじゃない!」
鈴蘭は高い声で笑った。笑いそうになった冬を葵が思い切り睨みつける。笑ったら駄目だと思ったのに、つい、吹き出してしまった。
そして――笑ったら、気が抜けてしまって。都は目を閉じた。
ふと、はじめの顔を思い出して、会いたいな、と思った。途端に何だか安堵して、まるで糸がぷつりと切れたみたいに――夢の中へ、意識が落ちていくのが、わかった。
◯
眠い。眠っていたのだろう。幾ら眠っても寝たり無い気がするし、もう起きてしまいたい気もする。薄く目を開ける。白い天井。どこかで鳥の声がする。大きな窓があって、白いカーテンが光を受けて揺れている。新太はそのまま寝返りを打つ。光の匂い。もう大分日が高いのだろう。部屋は薄暗いのに窓の外は大分明るいのがわかる。
白いカーテンの前に誰かの人影。大きな影。知っている人。
「新太――寝てるか?」
影が話しかける。新太は頷く。そして首を振る。眠くて、ぼんやりとする。起きたいのに、起きられない。
「これから父さんは独りで思い出話をしようと思う。お前はもう少し寝ているといい」
新太は、僅かに頷いた。そして父に背中を向けて丸まった。
背中に、静かな声で、父の言葉が重なる。
「お前が生まれる前のことだ。南博士の研究が外国のメディアに酷くバッシングされたことがあった。動物に言葉を与えることはエデンの知恵の実を人間が動物に与えるのに等しい、神の領域を侵す冒涜行為であるとね。一部の過激な人たちから南博士は執拗な攻撃を受けた。南博士は若くして天才と言われた科学者だったが、偉大だからと言って人よりも強いわけではない。それどころか寂しがりやで、いつも自分に自信の無い、優しいけれど臆病な人だった。そのバッシングで南博士は大分参っていてね――特にその頃、一番愛した睦月が死んでしまって、本当に意気消沈していた。南博士は自分の家族に被害が及ぶことを恐れてそのプライベートを全て隠し、その情報も抹消した。そして次に生まれる予定だった二人目の子どもには自分が南博士であることは絶対に知らせないと決めたんだ」
父は小さく鼻を啜った。
「二年後、大きな地震があった。大変な災害だった。正直に言うと、父さんも当時のことを思い出すのは今も辛い。苦しい。そして怖い。日本中がそうであったし東京の人は尚更だ。南博士は死んでしまった。父さんは香奈と、まだ赤ちゃんみたいなお前の二人――そしてナナとオーガと九月、それに最後に研究所から火の東京を飛び越えてうちまで辿り着いたカンナと残されて途方にくれたんだ。父さんは母さんを愛していた。南博士は寂しがり屋だったと言ったが、本当の寂しがり屋は父さんだ。その時にやっと気付いた。もう何もかも遅すぎたと言うのにね」
瞼の上で淡い光がちかちかする。遠くの空にヘリコプターが飛んでいる音がする。
「それから、お前ら二人はずっと泣いていた。母さんは忙しい人でそんなずっと一緒にいられたわけではなかったんだが――だからこそかな。特に香奈は、このまま干からびて死んでしまうのではないかと心配になるくらいにずっと泣いていた。優しい子だったからね。それに母さんも父さんも泣き虫だ。二人の血が合わさって、とても泣き虫だったんだろうね。父さんは泣いているお前たちを見ているのに耐えられなくなってしまった。そこでしてはいけないことをしてしまった。求めてはいけない人に助けを求めてしまった」
新太は薄目を開けた。逆光になっていて父の顔は見えなかった。
「――太田博士?」
影の動作で父が涙を拭ったのがわかった。
「――そうだ。父さんは当時はまだ封鎖されていなかった東京G区の中で、生き延びているという噂だった太田博士の元をたずねた。震災から二月経っていない、とても寒い二月の夜だ。小さい子どもにDS法をかけるのは危険だと知っていた。だけど父さんは自分の中の悲しみだけで手一杯で、このまま全員駄目になってしまうよりは、そのほうがいいとその時は思ったんだ。香奈と、新太から――たとえ、母さんの記憶を奪ったとしても、これから先いくらでもいくらでも、父さんと、残されたナナとオーガと九月とカンナで愛情を与えていけばいいと。そう思わないと、父さんが立ち上がることができなかった。一番弱かったのは父さんだ」
しばらく、沈黙が続いた。
「二人に術をかけてもらった帰り。お前らは車の後部座席で平和な顔をして寝ていたよ。安心しきって幸せそうで、そんな寝顔を見るのが久しぶりで、まるで天使みたいで、だから父さんは自分がしたことは間違ってないと、自分に言い聞かせたんだ。そしてお前らを守るためならこの先何でもすると。成人したら全てを話そうと思った」
――だけど。
「誰も通らない夜のハイウェイは月だけが大きくて綺麗だった。香奈に呼ばれたような気がしたが、あまり記憶が無い。丁度半分を過ぎたくらいの時だっただろうか。突然、襲撃を受けた。やみくろみたいな奴らが、当時からG区の中にも跋扈していた。無法地帯だったからね。追いはぎみたいなものだ。父さんだって馬鹿じゃない。備えはしていた。だが応戦している間に、九月と一緒に香奈がどこかへ消えてしまったんだ」
父は再び、鼻を啜った。
「怖かっただろうに。記憶を失ったばかりで、まだ意識もはっきりしていない中で、怖がりのあの子は銃撃戦に驚いて逃げ出してしまったんだ。父さんがそれに気付いたのは全て終わって車に戻ってからだった。あの子はもうどこにもいなかった。探そうにも真夜中で光もなく声も聞こえず、G区の中にまぎれてしまったら探す術はなかった。一人になったお前が、車の中で泣いていた。父さんは――お前を置いて、あの子を探しにハイウェイを降りるわけにはいかなかった。どうしたらいいのかわからなかった。DS法を受けてしばらくは意識が不安定になる。その時期に独りになったら、全部忘れてしまう。後日、何度も探しに行った。だが焼け落ちた街を歩くたびに、そこには絶望しかなかった。しばらくしてG区は閉鎖された。もう探しにいくことは出来なくなった。その時に香奈に持たせていた父さんの結婚指輪のことを思い出した。キープリングといってどこに居るのかわかるんだ。それを見たらG区の中に反応があった。香奈はG区に居た。電波が狂うだって? そんなのは嘘だ。ひっきりなしに中に入っては次々と崩れ行く街で行方不明になる人たちが耐えないが故に、軍が無理やりつけた理由だ。香奈が生きているのはわかっていた。だが軍属である以上、父さんは境界を侵すわけには行かない。中を自由に捜索できるようになるためには――只管、昇進するしかなかった」
その管理を一手に担うところまでに、偉くなるしかなかった。
「何が正しかったのかわからない。お前らに謝りたいことは山ほどあるのに、今になって何を言ったらいいのかもわからない。一つだけ言えるのならば――父さんも、母さんに会いたかった。会えなかったのはバチがあたったんだな」
父はそこで初めて、小さく笑った。新太は目を開いた。箱ティッシュを渡すと、父は泣きながら、笑っていた。
「父さんによろしくって、言ってたよ。ありがとう、ごめんねって」
「そうか――。新太、お前は、父さんを許してくれるか」
父の声は震えていた。
「何、言ってんの。馬鹿じゃねえの」
新太は、それ以上、言葉を紡げなかった。笑っているのに涙が毀れた。それから、ぐしゃぐしゃに、泣いた。消された記憶も、奪われた思い出も、何か一つが間違っていなければ、共にあったであろう家族の日々も、どんなに泣いても、戻るわけじゃない。
そんなのわかってるのに、溢れ出るものは止まらなかった。
なぁんだ。結局、俺も父さんと母さんの子どもだ、と思った。
馬鹿みたいに、泣き虫な家族。そんなところだけ、そっくりな四人。
「――新太。お前は、受けなければいけない治療がある」
ひと通り泣いた後、父は新太の手を握りながら、言った。
「うん。多分、わかってる」
「そうか」
父が顔を上げると、病室の扉が開いた。白衣を着た、女の人が一人、コツコツとハイヒールの音を立てて入ってくる。とても綺麗な人だ。だけど、医者には見えない。見たことがある気がするのに、誰だかわからない。
「吉田中尉。お願いしていいだろうか」
「もちろんです、針嶋大佐」
知っている声だ。だけど、誰だか、思い出せない。その人、吉田中尉は新太の顔を覗き込んだ。
「規則だから、ごめんね。許してね」
「――あなたは」
「貴方にはDS法が掛かっているから、掛かりにくいかもしれない。その場合は、口は災いの元――という言葉だけ、お伝えしますわ」
ふわりと、濃い花の香り。誰だかわかったけど、知らないことにしておこう。
新太は、小さく頷く。
強い白い光。今回、何度見ただろう。
目の奥の痛みすら懐かしく感じながら、新太は目を閉じた。
エピローグ
誰かの手が、額に触れた。知っている手のひら。大きな手。耳元で囁く、優しい声。
「起きなさい」
新太は目を開ける。部屋はまだ薄暗い。寝ぼけ眼を擦る。
「――どうしたの?」
何か幸せな夢を見ていた気がするのに。新太は再び目を閉じる。
「起きろ」
父が笑って言った。
「もう行かないと間に合わない。早く、着替えろ」
Tシャツとジーンズにパーカーを羽織ってスニーカーを履いて、背中を追いかける。
「どこに行くの?」
「いいから」
後部座席を見ると、猫と小鳥が寝ていた。車は走り出す。明け方の街は静謐で、人通りのない東京は全てが死に絶えて見えた。否、死に絶えたのかもしれない。ここはもう滅んだ街で、今車は遺跡の中を走っている。そう思ってしまうほど、静かな道。車は元首都高に入る。表記上ではまだ軍用の時間だ。警備兵たちが並んで、敬礼をしている。
「何かあるの?」
新太が聞いても、父は何も言わなかった。
車は、朝に向かって走っていた。朝日が強い光を放って、影絵のような廃墟の後ろから顔を出す。新太は思わす目を閉じた。眩しい。溢れるような太陽の光。目の奥が痛い。
目を窄めていると、進行方向のハイウェイの上に、何か影を見つけた。だんだんと近付くにつれて、それがヘリであることに気付いた。
どうして、ヘリがハイウェイに?
ヘリの目の前で、父は、車を止めた。
「降りなさい。お別れの時間だよ」
新太は車を降りた。父は後部座席の、オーガを抱き上げる。カンナは「むにゃあ」と声を出して起きると「あらたぁ」と、半分寝ぼけたまま、パーカーのフードの中に納まった。
ヘリの前に、一人の人影があった。
「待たせたね」
父が影に向かって歩いていく。新太も急いでその背中を追う。
「いえ」
細い女の人の影。ジーンズに、薄ピンクのカットソーを着ている。
短く切りそろえられたボブの髪が、朝の風に揺れている。
その隣には大型の茶色い犬が大人しく座り、足下には影のような黒猫がいた。
どちらも、逆光で表情がよくわからない。新太は目を細めた。
「こいつは、まだ少しアレでぼんやりしていてね」
父はこちらを指して言った。一体何の話をしているのだろう。まだ頭が半分薄もやの中にいるような気がして、意識がはっきりしない。フードの中から、カンナのいびきが聞こえてくる。
「大丈夫です」
女性は、穏やかな顔で笑顔を見せた。とても、綺麗な人だった。
「本当に行くのか? 世田谷にも設備はあるぞ」
「行きます。時間が限られていますし、それに一度、外の世界を見てみたいんです。母の母校にも行きたい。わがままばかり言ってごめんなさい」
「それがお前の選択なら私は出来る限り支援するよ」
それから父は茶色い犬の頭を撫でた。そして首筋を擽ってから、抱きしめた。
新太はただぼんやりとその様子を見ている。温かいものが胸の奥にあるのに、それが何だかわからない。父は、小さく涙を拭ったようだった。
「たった一匹、たったひとりのための研究か」
はい、と、その人は静かに言った。
「それでも可能性があるならば、私は出来ることをしたいんです。自己満足でも、もう一度この子に声と言葉を。この子が今の状態に辛抱強く耐えているのだから――私も、頑張ろうと思ったんです」
そしてそっと涙を拭った。そして犬に向かって、言った。
「あなたがそう望むのであれば、ね」
茶色い犬は、女性の足元に大きく身体を摺り寄せる。
「うん、わかってるよ。ありがとう」
その人はそう言って涙を拭った。そして新太を見た。
「元気そうね」
「――うん」
新太は小さく頷く。胸の奥がぎゅうと潰れるように痛くて、戸惑った。思考が付いてこない。ただ、朝日が眩しくて、目を窄める。
そっと、冷たい手のひらが頬に触れた。中指に嵌めている、指輪の感触。
すぐ目の前に、彼女の顔があった。
「新太。――新太」
その声は涙に滲んでいた。そしてその表情も、いつの間にか霞んだ。
いつの間にか、目から温いものが溢れ出して、それが頬を伝うのがわかった。声を出そうとすると、喉の奥が甘く詰まる。新太は唇を噛んで、堪えようとした。だけど、もうそれは止まらなかった。
あふれ出す涙と一緒に、弾けるように、頭の中の靄が消えた。
「姉ちゃん」
睡蓮――否、香奈の細い腕が、新太の肩に回った。ふわりと、甘い香りが鼻を突いて、それがやけに懐かしくて新太は声を上げて泣いた。
「また会おうね」
香奈の掠れた声が耳元で聞こえた。新太は頷く。何度も、何度も。
そして身体がふわりと離れた。
新太はしゃがんで、足元に感じる大きな温もりを、抱きしめる。
「ナナ」
クゥン、と犬は優しく耳元で鳴いた。優しい声で『坊ちゃん』とは、もう言ってくれない。叱ってもくれないし、心配してもくれない。そしてもう、一緒にいることも出来ない。
「ごめんね、ごめんねナナ――ごめんね」
最後は声にならなかった。犬はぺろりと新太の頬を舐めた。
「俺、大人になるから。ナナにもう二度と心配かけないように、ちゃんと大人になるから。だから、絶対戻ってきてね。絶対――」
ニャア――と声がした。目を覚ましたオーガが、此方に歩いてくる。
蜂蜜色の猫は、ナナの前に立つと「俺がいるから大丈夫だ」と、言った。
「オマエが戻ってくるまで、針嶋家は俺がまもる!」
新太は思わず吹き出した。香奈も笑って、父も笑った。ナナは優しく猫の頬を舐めた。
ありがとう、と、あの声が聞こえた気がした。
「もう――行かないと」
香奈がもう一度涙を拭って、顔を上げた。父はもう泣いていることを隠さなかった。新太は手の甲で、涙を拭って、そして笑顔を作った。
「いってらっしゃい」
明るく大きな声で。帰ってくるその日まで。
「絶対帰ってきてね」
香奈は、あの穏やかな、優しい笑顔を浮かべて、大きく頷いた。
「ナナと一緒に。絶対に戻ってきます」
香奈の足元に居た黒猫が、新太のところまでやってきて小さく言った。
「あのね、みやこにごめんねって伝えて。あと、ありがとうって。あと、あと、大好きだって。ずっと、友だちだって!」
「もちろん。わかってるよ。絶対に伝える」
九月は安心したように、頷いてそして香奈の腕の中に戻った。ヘリがアップに入る。プロペラが回りだすと、爆音で全ての音が消えた。最後に一回、香奈が振り向いて小さく手を振った。
「ありがとう!」
新太は叫んだ。
「またね!」
声はもう届かないけれど、きっと聞こえたのだろう。
姉は小さく頷いて、それからお辞儀をした。そして兵士に促されて、ヘリに乗りこんだ。
それはあっという間に地面を離れ、爆音を立てながら広い、広い東京の空へと上っていった。
新太は――今、彼女が見ている風景を思った。
十二年間ずっと囚われていた、亡霊の街――東京G区。
朝日の中で見るそれは、それでも優しく美しいだろうか。
日は完全に昇り、太陽は柔らかく初夏の東京を照らしていた。
○
「はい、これ」
蝶野は、本から顔を上げて意外そうな表情を浮かべた。
そして満面の笑みで、都が差し出した紙を受け取る。
「早いね~。一番だよ」
「まだみんな書いてるよ。提出が今日だって忘れてたみたい」
「今日で五月は終わりだからね。提出するまで帰さないよ。どれどれ――」
蝶野は都の書いたレポートに目を通しながら、小さく頷いた。
「うん。いいね。『私が知らなかったのは本当の友だちについてでした』と言う書き出しは、なかなかセンスがある。高校生らしくて実に良い」
「ちょっと、声に出して読まないでください先生」
「うふふ。先生って言うのはこういう嫌がらせを思う存分できるから良い商売なのさ。うん、うん、ほう――」
読みながら、途中で蝶野は黙った。都は思わず――下を向く。居心地が悪い。教室に戻ろうかと思ったが、今更それもわざとらしいし。
「ジジの爪が私を傷つけた時、一番辛かったのはジジだと思います」
蝶野は、読み上げてから、ちょっとっち向いて、と言った。
顔を向けると、蝶野の手がほっぺたに当たった。
「うん――もう傷も消えたね」
「うん。もう大丈夫だよ」
「手のほうも?」
「もちろん!」
「怖い夢は見なくなった?」
「たまに、みる」
「はじめちゃんが心配してたよ」
「うん――まあ、知ってる。でも本当にもう大丈夫」
都は、大きく頷いて言った。
そうは言っても、本当は、あれからもたくさん泣いた。怖かったし、魘されもした。悲しくなったり、悔しくなったりもした。たくさん考えた。弥生の言葉、あのジジの背中、睡蓮の涙、そして、南博士の覚悟。
そしてジジと過ごした日々のことを。
ひとつ、ひとつ、思い出を辿っていくと、ようやく理解できた気がした。
ジジがどれほど、都を想ってくれていたか。
自分が抱える想いで精一杯で、それを受け止めるだけの心が無くて、わかろうともしないで、ただどこにも行かないで、なんて駄々を捏ねていたのが自分だ。
恥ずかしかった。子どもだと思った。相手のことをちゃんと見ていないで、一緒に居たいだなんて、言う資格は無い。だからジジは、居なくなった。帰るべき居場所に、帰ったんだ。
それが一番、良かったのだと思う。だけど、都が、あの子を好きだと思った心は本当だ。
そして、今寂しいと思うのも本当。それでいいんだと、思った。悲しくてもいいんだと、気付いた。それを認めて、やっと涙が止める術を見つけた気がしたんだ。
「学期の初めにも聞いたけど、それで、友だちはできそう?」
蝶野が悪戯っぽい笑顔で聞いた。
「みんな友だちになったよ、多分」
それはよかった! 最高のクラスだと、蝶野は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「俺が知らなかったのは、茜の乳が詰め物だったことです、っと」
「だーーー! それは書かれちゃ困るッ!」
「それ東京関係なくない?」
「関係なくていいんだろ?」
「ちょっと待て、何故藤井まで茜のことを知ってるんだ」
「黙っておけなかったんだって。茜が」
「だって俺、黙ってるの性に合わないんだもん」
「だもん、じゃないだろう。いい加減にしろこの馬鹿者」
「っていうか、俺だけハブなの傷つくわ」
「ハブとかじゃないし。けっこう辛かったし」
「私が知らなかったのは、藤井君が案外寂しがり屋だと言うことです、っと」
「葵、それ本当に提出するの? 蝶野先生、勘違いしない?」
「何の勘違いだ」
「新太は何にするの?」
「俺は何にも知りませんでした、っと」
「確かに」
「確かに」
「確かに。そして今も」
「フォローなし!?」
都が教室の扉を開けたら、最高のクラスが爆笑していた。
「林ちゃんくるよー」
「げ、まだ終わってねえ」
「俺、終わった」
「お前は黙れ。清楚な茜に戻れ」
「清楚だよ」
「机の下の脚が蟹股になってる」
「これは葵が元々ガニマ――痛ッ」
「いいから黙って書け、お前ら」
友だちって言っても、本当に変なのばかりだ。
友だちは、作るものじゃなくて発生してしまう事件なのだと、はじめが言っていたのを思い出した。そういえば、はじめと蝶野だっていつも馬鹿みたいな喧嘩ばかりしている。
だけど、都は知っている。
拓巳の言葉も、新太の叫びも、茜が守ろうとしてくれたことも、葵が走ったことも。
だから、都は考える。これから、自分は何ができるのか。
大切な友だちを、もう失わないために。そして、笑っていられるように。
ジジには笑っていて欲しいと思う。
だったら、きっと、ジジも同じことを思ってる。
拓巳が笑った。新太も笑ってる。双子は同じ顔して膨れている。都もつられて笑う。
そしてふと、ここがきっと自分の居場所――故郷になるのだと、心の奥で思った。
(了)
東京ゴースト 十月 @rain_in_october
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