第五章

 第五章


 都は一人で元首都高を走っていた。日は少しずつ傾き始めていて、背中に夕日を背負う。

 黒い廃墟はいつもと同じで、その表情を変えることはしない。だけどいつもよりも忌々しく思うのは、都の心がそうさせているからなのだろう。時折突風のような風が吹き抜ける。いつものビル鳴り。何も変わらないのに――酷く憎らしく思う。あの声を思い出すからだろうか。

 ひどく疲れていたけれど、もう涙は出なかった。

 冷静に蝶野の言葉を反芻しながら、一体自分はどうしたいのだろうと考える。

『ミヤちゃんとジジは何だったの?』

 何だったんだろう。都は、はじめて本当に大好きな友だちが出来たと思っていた。

 友だちとは、こういうものなのだと思っていた。

 だけどジジがどう思っていたのかは――わからない。

『ミヤちゃんは自分の気持ちじゃなくて、もう少しジジの気持ちを考えるといいよ』

 蝶野の言葉が、胸に刺さる。ただ一方的に好きで、ずっと一緒にいたいと思っていても、それはジジの帰るべき場所を奪うだけだったのかもしれない。それは確かにあるはずだったのに、途中からできるだけ、考えないようにしていたのだ。

 だけど。それでも。都は、ジジの帰るべき場所があの男たちだったとはとても思えない。

 そう、思っても、もうどうしようもできないのだけれど。

 そして再び、都は蝶野のことを考えた。

 蝶野が震災時のことをほのめかすのは、珍しい。もしかしたら初めてかもしれない。

 ずっと、はじめと蝶野は二人で仲良しな友だちだなぁ、と、それくらいにしか思っていなかった。だけど、当然だ。――二人とも、本当はもっとたくさん会いたい人がいるのだ。

 なのに、そんなことは全く見せずに生きている。喪失を受け入れている。

「どうしてそんなことできるんだろう」

 都は、ぽつりと呟いた。自分はとてもそんなこと出来そうにない。二人も本当は出来ていないのかもしれない。それを、ただ見せないだけで。蝶野は都がまだ子どもだと言った。もしかしたら、それができるようになったら、大人なのだろうか。それであれば、都は大人になんてなれそうにもない。

溜息を吐いた、その時。進行方向の先に――黒い影が一つ、立っていた。

 都は凍りついた。あの男たちだろうか。距離を置いたまま、急ブレーキをかけて止まる。黒い男は、一人だった。マシンに乗っているわけでもなかった。都は身構える。逃げなかったのは――相手にマシンがなければ逃げ切れると思ったのと、もしかしたら、ジジの行き先がわかるかと思ったからだ。

 影はゆっくりと徒歩で近付いてきた。そして、声が届く所まで来ると「やあ」と言った。

 都は驚愕した。

「あなたは――!?」

 あの黒い男たちではない。昨夜、藤井整備工場に現れた謎の男だ。

「都ちゃん」

 男は何故か都の名前を呼んだ。どうして知っているのだろう。都は怪訝に思った。 

 しかしそれにしても――あまりにも緊迫感がない声だ。

「事情はゆっくり話すから俺と一緒に来て。九月、じゃない、ジジが待ってるよ」

「どういうこと? あなた――あの男たちの仲間なの?」

「違うよ。それは大きな誤解だって」

「だって今ジジが待ってるって言ったじゃない。なんでジジって名前を知ってるの?」

「いやなんていうか、それは先日ちょっと盗み聞きしたからだけど……ううん、どうしたらいいかな、うん」

 男はぶつぶつと口の中で呟いている。都は時計を確認する。

 イーストゲート封鎖まで、あまり時間がない。

「私は私で、どうやってジジを救えるか考えたいの。放っておいて」

 バイクに跨ると、男は「待って待って待って」と慌てて止めた。

「都ちゃんに危険が及ぶかもわかんないんだよ」

 男は何故か身振り手振りをつけながら言った。

「おわかり?」

「わかんないよ。どういうことよ?」

「俺もよくわかんないんだけどさぁ」

「ふざけてんの!?」

 思わず声が大きくなった。こんな馬鹿馬鹿しい、胡散臭い、得体の知れない人間の言葉を聞くほうがどうかしている。

「じゃあね」

「わ、待って、これならどう?」

 男はそう言うと突然顔のフードを取った。都は、今度は本当に、吃驚した。思わず口が開いてしまった。とてもよく知っている顔。だけど、絶対におかしい。どう? と、言われても、意味はまったくわからない。

「双子――?」

「黒岩茜だよー。クラスメイトの茜。茜ちゃん。ね? 信用した?」

「しないよ!」

 できるわけない。ただ混乱するだけである。

「ええー 新太はこれでいけたのに」

「どういうこと? 何で男なの?」

「元々男だから」

「トランスジェンダーってこと?」

「違うよ! ただの変装だっての」

「葵は?」

「あれは女の子。あっちが本物。まあ俺も本物だけど」

 都は呆然として、目の前の少年を見詰めた。

「あなたたち何なの?」

「一からここで説明してる時間ないし、ここは危ないから、とにかく一緒に来てよう」

 茜は妙な事を言いながらその場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。都は困惑した。一緒に来てといわれても。信じられるかと言われたら、先ほどよりは少しだけ。それでもまだよくわからない。それに昨日帰らなかったことで、はじめが心配していると、蝶野からも聞いている。

「今日はダメなの。帰らないと」

「大丈夫、何とかする!」

「何とかの意味がわからないよ」

「都ちゃんは、ジジを助けたいんでしょう?」

 茜はそう言ってにこりと笑った。顔は女の子なのに、男に見える。不思議なものである。

 その時。大気がびりびりと震えた。バチバチと点りたての街灯が変な音を立てる。

「な、何?」

「やばい! ふせろ!」

 都が伏せた瞬間、覆いかぶさるように茜がその腕を都に回した。

「耳を塞いで!」

 言われるがまま耳を塞いだ。次の瞬間、今まで聞いたことのない大きさで、轟音が響き渡った。骨が震える。都は恐怖で叫び声を上げた。

「ぐっ、堪えて」

 茜の手が、都の手の上から都の耳を塞ぐ。地面すら震えている。ぐらぐらと、まるで地震みたいだ。ガラスが砕ける音がした。見ると、街灯が砕けて、道に落ちている。地面の振動が収まってから、都は恐る恐る顔を上げた。

「な、何なの?」

 都に覆いかぶさった茜は、フードを取って言った。

「まずい。実にまずいところで話し込んでいたようだな」

 茜が見上げた方向に、都も呆然としたまま見上げる。

 半分崩れた赤い鉄塔が、生い茂る木の向こうに見えた。いつもの中間地点だ。

「きたぜ」

 茜が立ち上がって構えた。都はへたりこんだまま、何が起こっているのかわからずに当たりを見回す。目を見張る。いつのまにか真っ黒い男たちに囲まれていた。

 品川で都を襲った男たちだ。

「うーん、流石の茜ちゃんもお嬢さんを守りながらこの人数はどうかなぁ」

「ど、どうしたらいい?」

「困っちゃったねぇ」

 茜は軽い口調で言ったが、額に汗が毀れているのを都は見逃さなかった。

 都は咄嗟にバイクに跨った。しかし、もう完全に囲まれている。強行突破はかなり厳しい。

 唇を噛んだ。じりじりと近付いてくる男たちは、何も言わない。無言であることが、かなり気持ち悪い。

 背中に嫌な汗が流れる。茜が、身を低くして構えた。

「どうしようね。でもここで何とかしなければ、どのみち俺は葵に殺されるッ!」

 そして茜は、道の真ん中で、まるで忍者のように飛んだ。

 

 ◯


 再び訪れた地下牢は、酷い状態だった。新太は言葉を失った。木格子は火器のようなもので破壊され、畳にも生々しく焦げ跡が残っている。焦げた木格子の先端からぐにゃりとした鉄筋が覗いており、火力の強さを物語っていた。ゆらゆらと揺れていた赤い灯篭は踏み潰されて、形を変えて畳の上に転がっている。

「あそこだ」

 葵は天井に近いところに空いた四角い穴を指差した。下に脚立があるところを見ると、一応は呼び出そうと試みたのだろう。脚立にのぼり中を覗くと、一番奥の端っこに黄金色の目が二つ光っているのが見える。新太は両手を伸ばした。

「オーガ、ごめんね、もう大丈夫だよ。おいで」

 猫は呼びかけに素直に応じた。よほど怖かったのだろう。新太の顔を見るなり腕に爪を立ててしがみ付いた。

「いた、痛いってば、オーガ」

「あらだ、あらだのばか馬鹿野郎死ねおたんこなす!」

「ごめんごめん、ごめんね。ごめん」

 蜂蜜色の毛並みを撫でながら、抱きしめる。口は悪いけど、オーガは針嶋家で一番怖がりだこんなところに突然置いてきた新太の判断ミスだ。もちろん、だからと言って家に置いておいたら安全だと言うわけではないのだろうけれど。

「此処は、一番安全なんじゃなかったの」

 新太の問いに、葵は青ざめたまま「ああ」と呟いた。

「そう思っていた。その筈だった」

「その筈って。こんな、こんなになってるのに?」

 葵を責めても仕方が無いのに。生々しい火炎の跡。それだけを見ても恐ろしいのに――この内側にいたオーガと、そして睡蓮はどれほど恐ろしかったことだろう。

「火は嫌だ、火は」

 オーガが小さく震えた。昔から、火を異様に怖がる。

「震災の生存者は皆火が大嫌いだ。ホワイトバンで記憶が無くても根本的な恐怖心は消せん。不思議だ」

「何が起こったのか、教えて」

「戻った時にはもう全てが終わっていた。やみくろの襲撃だ。屋敷には入れぬはずなのに」

「鈴蘭、なの?」

 新太はあの禍々しい花魁を思い浮かべて言った。睡蓮が鈴蘭を酷く恐れていたことも。

「確証はない。だが、本人が言っていた通り、睡蓮が居なくなれば、弥生を脅かすものはもう居ない。睡蓮と父上を殺して、此処をやみくろに乗っ取らせるつもりか」

 葵の淡々とした言葉に、新太の胃は重く沈んだ。

 睡蓮を、殺す? あの細くて、儚くて、今にも消えてしまいそうなあの人を?

「まったくもう。だから、言ったろうに」

 振り向くとふわりと打ちかけを揺らして、浜木綿が立っていた。

「どういうことだ?」

 葵が言った。紫の花魁は「おやまあ」と惨状を見て白い手のひらで口元を押さえ、眉根をきゅっと窄めた。そして新太を見て「おや、あんたは」と言った。

「……こいつは、気にするな」

 浜木綿は、その唇の端を微かに上げた。そして「どこかでお会いしましたねぇ」と、意味ありげに言った。

「いえ、あの……」

「話を続けてくれ、浜木綿」

「あの女は、前から旦那様を殺める機会を探してたのさ」

「どういう意味だ?」

「鈴蘭は記憶術研究の軍事利用に積極的だったのさ。旦那様が純粋な学術目的で開発していたものを軍用に改良したのはあの女でしょう。まあ、そのおかげで今もある程度は軍に対抗はできているけど、それだけじゃ飽き足らないのさ。あの女はこんな地下に燻っているようなことに満足するような珠じゃない。それに気付いていながらそばに置いといた旦那様も、たいそうな間抜けだがね」

「しかしまだ」

「まだ、鈴蘭と決まったわけではありません」

 葵の声に重ねるようにして浜木綿の背後から声が伸びた。足音も立てずに現れる黒い影。

「冬。被害状況は」

 葵が短く言った。

「睡蓮と鈴蘭そして旦那様以外は全員居ます。襲撃の一部始終を目撃して不安定になったものには安定剤を打ちました。必要であればホワイトバンも。明日には秩序も戻りましょう。オープンゲートは全て閉じ、進入ルートの特定を急がせています」

「鈴蘭ではないと言う証拠でも見つかったのかい?」

 浜木綿が、冬の腕にその白い手を置いて聞いた。

「鈴蘭だという証拠がありません」

 冬がそう言うと、浜木綿は冬の頬に手を伸ばした。

「妹の不祥事に慌てるのはわかるけどね、あんた」

「え、妹?」

「関係ありません」

 冬はそっとその手を退くと、葵を向いて言った。

「私が言いたいのは、鈴蘭だという証拠がない以上まだ内通者がいるという可能性が捨てきれないということです」

「それはお前を含め、ということだな」

 冷静な声で葵が言った。冬はそれ以上何も言わなかった。新太はただオーガを撫でながら息を呑んでやり取りを聞いているしか出来ない。目の前に居る陰気な男が、あの美貌を持つ花魁と血が繋がっているというのは不思議な気がした。

突然、けたたましい電子音が狭い房に響いた。葵が顔をしかめてピアスを捻る。そして、元々大きい目を更に大きく見開いた。

「ど、どうしたの?」

 冬と浜木綿も心配そうに葵を見た。葵は舌打ちをして言った。

「あの間抜け」

「葵様?」

「赤が捕まった。緊急信号だ」

「……あいつはどこへ向かったんだい?」

「九月奪還のための切り札を迎えに。拙い、拙いなこれは」

 先ほどまで全く動じていなかった葵が、親指の爪を噛んだ。

「それって、もしかして」

「間違いない。切り札も一緒だ。あの馬鹿野郎。私より運動神経がいいのに、どうしてこういつもいつも役に立たないマヌケめが」

「切り札とは誰です?」

 冬が聞いた。葵は小さく首を振った。

「我々のクラスメイトだ」

 都だ。千年崎都のことだ。

「お、落ち着いて。どうするの?」

「助けに行くしかないだろう。恐らく、睡蓮と同じ場所にいる」

「どこですか」

「やみくろのアジトか」

「それだと地下なの?」

「いや」

 葵は目を細めた。

「ユニバーサルバリアは移動があまり楽ではありません。恐らく、発見された場所からはあまり遠くないところに、弥生はいるかと」

 葵はじっと闇を見つめる。考えているというより、意識を集中している風情だ。

 小さく息を吸って、深く吐いた。そして、ゆっくりと言った。

「南動物工学研究所跡だな」

「行きましょう。準備します」

 新太はオーガを抱きしめながら、不安に思った。

「俺も行くの?」

「八月――じゃない、オーガを置いていくのは危険だ。お前も一緒にこい」

「俺、おまけ!?」

「黒子は今全員がゲート確認と警備に当たらせてますが、何人か呼び戻しますか?」

「いや良い。動くには少人数のほうが良いだろう。お前と私とこいつだけでいい。浜木綿は残ってて、何かあったら教えてくれ」

「あいよ」

 濃い紫の花魁は簪を揺らして、微笑んだ。


 ◯


 都は、ふと目を開いた。

 目の前には、まっすぐな道が続いていた。

 ここはどこだろう。元首都高だろうか。それにしては、廃墟の影が見えない。

 見上げると長閑な空が広がっている。のん気な春の日の晴天。

 どうしてこんなところを歩いているのだっけ。周りは人っ子一人居ない。

 それはいつものことだけど、どうして、都は歩いているのだろう?

 マシンはどうしたんだっけ。ここまでどうやってきたんだっけ。考えてみても良く思い出せない。最初から一人で歩いていた気もするし、だけどやはり走っていた気もするし。

 ふと、前のほうに黒い影が見えた。

 都は、走り出した。小さな、小さな黒い影。

「ジジ!」

 都は叫んだ。小さな猫はそこでぴたりと足を止めた。

「ジジ、よかった! 生きてた! 逃げてきたんだね?」

 しかし声をかけても猫は振り返らない。

 それどころか、こちらに背を向けたまま再び歩き始めた。

「ジジ? どこへいくの? ジジ?」

 ニャア、と声が聞こえた。猫。ただの猫? ジジじゃないの? 違う。あの後姿。たとえ、少しの間でも、ずっと一緒に居たのだ。わからないわけがない。

「ジジ、待ってよ。怒ってるの?」

 ジジは振り返らない。止まらない。

「ごめんね、ごめんねジジ!」

 声は届いているのか、居ないのか。

「ジジ」

 猫ははるか遠く道の向こうに消えてしまった。真っ直ぐ行っても何も無かった。

 このまま進んでも、決して取り戻すことが出来ない。

「ごめんね」

 その時だった。あの、悲鳴のような叫び声が聞こえた。都は耳を塞ぐ。

「もう、たくさんだ――」

 目をきつく閉じた。

 そして――開いた。

「お目覚めかしら、お客人」 

 随分と高い、女の声が聞こえた。都は瞬きをした。無機質な床に倒れていた。起き上がろうとして、自分の両手が後ろで縛られていることに気付いた。辺りを見回すと、広くて明るい場所にいた。部屋の半分は全て窓で外には空が見える。

(どこ――?)

 頭がぼんやりとしている。どうしてこんなところにいるのだろう。これも夢の続きだろうか。

 窓ガラスの前に、一つ、水の入っていない水槽のような箱がある。ただ、ガラスが嵌っているようには見えなかった。ただの、枠だ。その中に、一匹、白い猫が入っていた。周りを見回しても他に誰も居ない。都は水槽のほうを向いた。白い猫が此方を見ている。

「あなたが喋ったの?」

 白い猫は、赤い目を細めて「いかにも」と言った。

「此処はどこ?」

「知りたいかい?」

 白い猫は優雅に尻尾を振っている。その目が赤いことを抜かせば、ただの普通の猫に見える。体は大きくない。どちらかと言えば小さいほうだと思う。アニマロイドだ。そう、ジジやカンナと同じ。だけど明らかに違う。何かが違う。

 威圧感。敵意。どちらも近いようで、何だか違う。ただ、猫は楽しんでいる。

「此処は南動物工学研究所。全てが生まれた場所だよぉ」

「南動物工学研究所?」

 記憶を巡らす。六賢者、南博士、それならここがアニマロイドの総本山だということか。都は周りを見回す。半円形の部屋には、何も無い。誰も居ない。

「何も無いじゃない」

「十二年の間に全部風に吹かれて消えたね。てっぺんの展望台は本震は耐えたが余震で崩れたよゥ。みんな死んだねぇ。私だけが、こんな忌々しいものの中で生き延びたのさ」

「あなたは――弥生なの?」

 猫は「いかにも」と、猫撫で声で言った。少女のようにも、老獪にも聞こえる声だった。

「あの声もあなたが?」

 白い猫は「どの声だい?」と優しく言った。

「この声かい?」

 弥生は、その優雅な形相を突然化け猫のように歪めて、牙をむき出しにして吼えた。

 とたんに、轟音が世界を揺らした。鉄塔がびしびしと軋み、ぱらぱらと白い埃が降ってくる。都は悲鳴を上げた。足場がぐらぐらとして上手くたって居られない。

「ごめんなさい、ごめんなさい、やめて!」

 頭がガンガンと痛む。耳の奥がキィンと変な音を立てた。まだ鉄塔は震えていた。崩れるのじゃないかと思って、恐怖した。

「恐れることはないじゃないか。オマエのお友だちも全く同じことが出来るのに」

「どういうこと?」

「其処にいるんだろうに。お入りよ」

 弥生は都の後ろに向かって声をかけた。振り向くと、柱の影から黒い猫が出てきた。

「ジジ!」

「――都、どうしてここに来たの」

 黒猫は、まるで怒っているような口調で言った。

「ごめん」

 猫は辛そうに顔を歪める。しっぽをピンと伸ばして、緊張しているのがわかった。

「ジジ……」

「九月や」

 弥生が甲高い声で言った。

「わかっているね?」

「い、嫌だ」

 ジジは首を振った。弥生が、ニャアアと猫撫で声で鳴いた。重い音を立てジジの背後の鉄の扉が開いた。都は思わず後ずさる。体格の良い真っ黒な、影のような人間たちが部屋の中へと入ってきた。ぬっぺりとしたその姿は異様で、頭のてっぺんから足の先まで指先以外は真っ黒だ。目元も黒いゴーグルで隠されていた。表情が全くわからない。人間なのかどうかすら――疑ってしまうほど、不気味だ。

 そのうちの二人に両脇から抱えられるようにして、茜が連れられていた。

 少年は都と同じように自由を奪われ、ぐったりと気を失っている。

「あ、茜!」

 返事は無い。唇の端が切れて出血している。

「な、何をしたの?」

 白い猫がくすくすとした笑い声を立てた。

「まったく、いつの時代になっても少年という生き物は女を守りたがる。愚かだねぇ。そう思わんかい?」

 男たちが下衆な声を立てて笑った。何が面白いのかわからない。

「うっ、るせえ」

 茜が呻くように呟いた。そして薄目を開いた。真っ直ぐに向き合っている都と、目が合う。

「都、ちゃん……ぐっ。放せよ、なんなんだよお前ら、ちくしょう」

 弥生がきゅう、と目を細めて、茜を見つめた。

「おはよう。お前は赤の坊かい。話では知っているよ」

「おまえは」

「ちょこまかと面倒だからね、押さえてるんだよお前ら」

「お前らッ、こんな猫の言いなりで悔しくねえのかよッ!」

 真っ黒な男たちは笑っている。図体がでかいのが一人、前に出た。

「こんな猫とはよう言ったもんだガキが。弥生様の前でお前こそ身の程を知るがいい」

「何言ってんだ、こんなの、ただのアニマロイドじゃ、ねえか」

 茜は男たちの腕を逃れようともがいていたが、黒い男たちはがっちりと捕まえていた。

 助けようと思っても、後ろ手が自由にならない都には何も出来ない。

「お前らにこいつを利用できると思ってんのか!?」

 茜が叫ぶと、フニャア、と欠伸のような音を立てて白猫は笑った。

「私を利用? その発想こそがおこがましいんだよ。そこがまた人間の可愛らしいところでもあるのかもしれないがね。こいつらはそんなこと思っちゃ居ないよゥ。当初はしらないがね」

 猫は小さく吼えた。男たちはゆらりと揺れる。白猫は赤い目を都に向けた。ゾッとする。だけど怯んだら負ける。飲まれたら本当に負ける。

「あなたの、目的はなんなの?」

「目的ィ? そんなもんはないよ」

 弥生は目を細め、先ほどより小さな声で、だけど、耳を塞ぎたくなるほどの音量で吼えた。

「な――何」

 都は目を見張った。黒猫が応じるうに吼えたのだ。

「ジジ!」

 しかし黒猫は全く都の言葉には反応しない。緑色の目も、赤いリボンも、美しく黒い毛並みも全く何も変わらないのに、知らない猫のようだ。表情を無くしている。

「ジジ? どうしたの?」

「九月や」

 弥生が猫撫で声で話しかけると、黒猫はそちらを向いた。

「その娘を噛み殺しておしまいなさい。もちろん、喰っても良いよぅ」

「は?」

 都は耳を疑った。茜の表情が青ざめた。黒猫だけが何も言わずにじっと弥生を見ている。

「おまえ何言ってんだ、ばっかじゃねえの。猫が人間喰うかってんだよ」

「無能はおだまり」

 弥生は茜を一瞥した。そして再び黒猫に柔らかく話しかける。

「九月や――幾ら爪を丸められようと、牙を捥がれようと、我々の遺伝子に刻まれた本能は消えない。人間と獣は友達にはなれない。それを教えてやらねばならない。……わかるね?」

「そんなことない!」

 都は叫んだ。黒猫は此方を見ている。

 身体を低くして、その目の奥に野生を宿して。

「ジジ!」

 都が叫ぶのと同時に、黒猫が飛んだ。

「きゃあ!」

 左の頬に鋭い痛みが走った。ジジの爪。黒猫は都に向かって吼えた。白い猫の咆哮よりは小さく、だが、同じ狂気を孕んでいる。頬がじくじくと痛い。温かいものが、一筋伝って、落ちる。ころころとあどけなく笑ったあの愛らしい緑の目が、鋭い光を携えて都を捉える。都は息を呑む。ジジなのに、ジジじゃない。ジジがいない。そこに居るのに。都の声が、届かない。

「目を、覚まして!」

「おやおや何を言っているんだい。目などとっくに覚ましているよゥ。そちらが本物さ」

 弥生は楽しそうに笑った。ぺろりと顔を撫でて、赤い目を覗かせて笑う。ジジは威嚇するように、身体を縮めて次に飛び掛る機会を待っている。都は後ずさりながら叫んだ。

「嘘だ! ジジ!」

「いじましいねぇ。辛いだろうねぇ。私はその顔を見るのが大好きさ」

「てめえ、どこまで趣味が悪いんだよ!」

 茜が叫んだ。弥生はけたけたと笑う。男たちも再び笑う。

「いいねぇ、いい野次だよ」

「この化け物が! 南博士が悲しむぞ!」

 茜がそう言った途端に、白猫は立ち上がり吼えた。。都は思わず悲鳴を上げた。

「その名前を出すな!」

 白い獣は激昂した。

「あいつが全て悪いんだ! 絶対に対等になれない者に共通の言語を与えるなど、傲慢で無知だからこそ出来る所業だ! トモダチなどと言うぬるい言葉は圧倒的に優位に立っているものが、施しの目で与えているだけだ。所詮、見下しているだけにすぎないくせに」

「そんなことない! 見下してなんかいない!」

 都は叫んだ。弥生は赤い目をこちらに向ける。

「自覚すらないのか。だから愚かなんだよ、お前たちは。――九月!」

 黒い影が鞠のように飛んだ。咄嗟に一歩下がる。鋭い爪が、都の制服のリボンを一瞬で引き裂く。成すすべもない。逃げることもできない。奥歯を食いしばることで、せめてこれ以上震えないように。都はゆっくりと、言葉を確かめるように言った。

「ジジ、私たち、友達――だよね?」

 黒猫は答えない。都の言葉を理解しているのかどうかすらわからない。緩やかな、だけど確実な絶望が、胸の奥からじわりと湧き上がる。

「どうして」

「いいねぇ、泣くといい。どんどんお泣き。人間の汚い涙は大好物だ」

 弥生は嘲笑った。

「あいつらも、めえめえと泣いたものさ。死にたくない、死にたくないと、命乞いをしながらね。自分たちで踏みにじってきた命のことは棚に上げて、可笑しいったらないよォ」

 そして白猫は笑った。愛らしい顔で。悪魔だ。真っ白な、恐ろしい、悪魔。

 だけど、本当に恐ろしいのが何なのか、都にはわからなくなってきた。この猫を作り出したのは人間だ。たぶん、弥生は本当のことを言っている。

「九月、やめろ。やめてくれ」

 茜が青ざめた顔で言った。黒猫には届いているのかわからない。耳を傾けるそぶりすらない。都は、その半円形の空間を逃げ惑った。酷く息が切れる。頭がくらくらする。足がもつれて、何度も転びそうになった。

「きゃあっ!」

 猫の牙が都のふくらはぎを傷つけた。滑る感覚。血が出ている。痛い。

「どうだい? 『ペット』に嬲り殺される気分は?」

 けらけらと弥生が笑う。

「人間は爪も牙も持たない弱者。唯一の武器の文明さえ朽ち果てたこの町では意味が無い。ピラミッドの最下層なんだってことにお気付きよ。そうだねェ。そこにいる阿呆どものように、全ての意思を私に明け渡すならば、身体は助けてやっても良いけどねぇ――でも」

 そろそろ血が見たいしねぇ――と白い猫は、猫撫で声で言った。

「九月や。もう遊びは良いよ」

「嫌だよ、ジジ」

 堪えても、抑えられないみっともない涙が毀れた。今にも飛び掛りそうな体制のまま、黒猫はじっと、こちらの顔を見つめている。一呼吸を置いて、ジジは小さく口を開いた。

「みや……こ?」

 都は視線を合わせたまま、大きく頷いた。頬を流れているのが、涙なのか汗なのか血なのか、自分ではわからない。きっと全部だろう。

「ジジ! 都だよ……、ジジ」

 黒猫は目を窄めて顔を顰めた。頭を小さく振る。そしてその表情を歪めて、言った。

「泣かない、で」

 次の瞬間、再び黒猫はこちらに爪を向けた。しかし、ぎりぎりのところでそれは反れた。

「ジジ……」

 ジジは、苦痛に顔を顰めて葛藤していた。コントロールと、自我の合間で。

「みやこ……ジジ……みやこ」

 黒猫は小さく震えながら口の中で繰り返す。都は力の限り叫んだ。

「都だよ! 友達だよ。ジジのことが好きだよ」

 傷が熱い。痛い。泣きそうなほど痛い。だけどそれよりも、苦しそうなのはジジだ。

「おだまり!」

 恐ろしい声で、白猫が叫んだ。そして弥生は、吼えた。再び鉄塔が震える。都は、立っていられずその場に崩れ落ちた。

(もう駄目だ)

 あの声を聞いたらジジが狂う。我を忘れてしまう。そしたら、もう。

「ジジ」

 都は床に倒れた。床の上から、黒い猫を見上げる。丸い緑色の瞳が、何を映しているのかもうわからない。はじめの顔が浮かんだ。そして蝶野が。そして全部消えた。

(ごめん、なさい)

 都は目を閉じ、歯を食い縛った。茜に名前を呼ばれた気がした。


 ◯


 新太は上部が崩れ落ちている真っ赤な鉄塔を、信じられない気持ちで見上げていた。

「待って待って、ここ、上るの?」

 葵は一瞬黙ってから「二年前は上れた」と、言った。鉄塔の姿はかなり離れた位置からでも確認できたが、近付くに連れて周辺に新太の背丈よりも高い草が生い茂っており、その麓に辿り着くまでに苦労した。ようやく煤で変色した黒い脚――かつては赤かったのかもしれないそこに辿り着いた時、太陽はかなり傾いていた。

 光はもう届かない夕暮れの影の中から上を見上げる。遠くから見るとそんなに大きく見えなかったのに、下に立つとその存在感に圧倒される。高い建物は沢山あるのに、どれとも違う。

「どうしてこんな場所を研究所にしたんだろう」

 素直な気持ちで呟くと、葵は「知らん」とそっけなく答えた。

「金が無かったのかもしれないな」

「金?」

「此処なら厳重な防護壁やセキュリティは不要だ。逃げ場所も少ない。逃げてもすぐ見つかる」

「な、なるほどね」

 新太は今にも崩れそうな鉄の塔を見上げた。研究所の看板を探したが、どこにも見当たらない。しかし、どんなに変わり果てていても、ここがあの写真の場所であることには間違いなかった。父と母がかつて立っていた。そして母が働いていた場所。ナナと、オーガと、カンナが生まれた場所。――そして、弥生も。

「見張りは居ないようです。エレベータは死んでますが」

 ガラスが割れがらんどうになったエントランスホールから、影のような冬が出てきた。

「本当に此処に間違いないのですか?」

「間違いない」

 上を見上げたまま、葵は言った。

「この上に茜が居る」

 新太も見上げる。鉄塔は、細くなり始めているところの丁度半分くらいのところで斜めに折れており、てっぺんはもうどこにもない。いつか昔の写真で見た、細長い三角形を思い出す。かつて存在した古き良き都会、東京のランドマークだ。

「小鳥よ」

 葵が呼ぶとカンナがひょこりと顔を出した。葵は、鉄塔の中ごろに付いている、円盤のような場所を指差して言った。

「あそこまで飛べるか?」

「お前、何勝手なこと言ってるんだよ」

 新太は慌てて小鳥を掴んだ。そんなスパイのようなこと、カンナには危険だ。しかし、新太の手の中でカンナは「飛べるよー!」と叫んだ。

「カンナ、できるよ! だいじょうぶ!」

「お前よりよっぽどそいつのほうがわかっているな」

 葵は人差し指でカンナの頭をちょんと撫でた。カンナは嬉しそうな笑い声を立てた。

「新太、心配しないで。空では、カンナ負けない」

「でも、文鳥がそんなに飛べるか?」

「信じてやれ。こいつはG区の中からお前んちまで飛んだんだ。いけるだろう」

「うん、じゃあねー!」

 白い小鳥はパタパタと上に向かって飛んでいった。そしてあっという間に茜空に紛れて、見えなくなった。

「さ、我々も行くぞ」

「え? 待たないの?」

「そんな悠長なことは言ってられません」

 冬が感情の無い声で言った。それと同時に、大きな咆哮が世界を包んだ。

「う、わ」

 思わず両耳を塞ぐ。葵も両手を耳に当てて、忌々しく上を見上げる。

「あそこに皆がいるとすれば、急がなければな」

 新太の背中で、オーガが暴れた。リュックから顔を出して猫は小さく行った。

「お、俺も行くのか」

「弥生がいるなら危険かもしれないな」

「いや、離れないほうが良いでしょう。切り札になる可能性もある」

「オーガを危険にあわせるのはいやだ」

 冬は無表情のまま、新太を見た。

「ここに残しておくほうが危険かと」

「悪い予感しかしねぇよ」

 猫はそう言って、再びリュックに潜った。

「オーガ、どうする?」

 震えた声で「行くよ!」と返事が帰ってきた。新太はカンナが飛んでいった先を見上げる。

「本当に此処にみんないるの?」

 葵はピアスを捻り、頷いた。

「茜が捕獲されたとすれば、九月関連だ。であれば都と、九月もいるはずだ」

「睡蓮も、此処に居るの?」

 再び、大きな咆哮で鉄塔が軋んだ。

「弥生もな」

 葵は苦々しい顔で言った。

 雨ざらしになっていた古い階段は錆付き傷んでいた。時折腐っていそうな鉄板もあり、注意深く飛ばしながら上る。先頭は葵で、次に新太、そして最後に冬。慎重に上っても足音が鈍く反響する。新太は途中で息が切れた。背中のオーガもそれなりに重い。しかも、ふと横を見ればそのまま地上までが見える。途中から新太は下を見るのを止めた。段数は600段以上あるらしい。上っては、折り返し、上って、折り返す。丁度半分を過ぎたくらいのところで、葵が止まった。新太も止まる。白い小鳥が、飛んでくるのが見えた。

「カンナ!」

「あらた! 大変だ!」

 カンナは、新太が差し出した手の上に止まると、ちいちいちいと興奮して鳴いた。

「あの黒くてくさい奴らがたくさんいる! あと都がいた!」

 新太と葵は顔を見合わせる。

「あの吼えているのは何者だ?」

「しろいねこ。目が赤い」

「弥生は白いのか? アルビノか」

 葵が新太に聞いた。知っているわけがない。新太の背中から、にゅっとオーガが顔を出した。

「目が赤い白い猫、だと?」

 声が小さく震えている。

「俺はもう降りる!」

「ちょ、待ってオーガ、暴れないで!」

「あいつが目を覚ましたら終わりだ!」

「何なんだ、弥生は、どうしてお前らはそんなに怯える」

「あの声は弱い心に付け込むんだって。怖いよう――新太、怖いよう」

 オーガは再びリュックの中にもぐった。カンナが小さく震えながら、言った。

「新太、それだけじゃないんだ。黒い猫が都を襲ってるんだ」

「何だって?」

「どういうことだ。茜は何をしてるんだ!」

「黒い気持ち悪いのがたくさんいて周りを取り囲んでた。急いで!」

 葵が再び走り出した。新太も続く。黙って会話を聞いていた冬も、同じように続いた。

「どうして九月が都を襲う?」

 走りながら、葵が言った。そんなことはわからない。仲が良かったはずではないのか。都は、あの黒い猫を溺愛していたのではないか。

 ――弥生だ。

 詳しいことはわからないが、弥生がそうさせてるとしか思えなかった。

「睡蓮は見ましたか?」

 冬が走りながら小鳥に話しかけた。どうして新太のことは半分無視するのにカンナには敬語なのだろう。小鳥は少し逡巡してから答えた。

「たぶん、いなかった。だけど他の花魁は見たよ」

「他の花魁?」

「鈴蘭だろ」

 葵が履き捨てるように言った。冬はそれ以上何も言わなかった。

 円盤のような場所に辿り着いた頃、新太は汗だくだった。手すりに手を付いて全身で息をする。平然とした顔をしている葵と冬が信じられない。葵は静かにドアノブを捻ったが、動かないようだった。

「二年前は開いていた。やはり誰かの手が入ったようだな」

 葵はそう言って、ポケットから針金の束のようなものを出した。

「そんな、原始的なもので開くの?」

「流石にガタが来てるからな。G区内のロックは大概これで解ける」

 葵は針金を慎重に鍵穴に数本差し入れた。そして束の元の部分にあるダイアルを捻る。小さくバチっと電子音がしてから、ロックが外れる音がした。

 慎重に扉を開くと小さな踊り場に出た。目の前にもう一つ扉がある。葵は解除装置を差込み、扉を開けた。中の部屋は薄暗い。狭い倉庫のような部屋だった。ガラスのケースが整然と並んでいる。どれも空っぽだ。割れているものもある。床のところどころが外れて、配管や配線が露になっている。天井にも太いパイプが何本も通っていた。

「飼育室のようだな」

 葵が各ケースにつけられたプレートを見ながら言った。

「カンナは此処、知ってる?」

 小鳥は新太の手を離れると、ぱたぱたと部屋の中を飛び回る。カンナは新太の手のひらに戻ると、小さく首を傾げた。

「カンナの部屋じゃない」

「高度プロトタイプはここではなかったのか」

 猫はリュックから顔を出して言った。

「俺はもっと高いところに居た。もっともっともっと高いところ」

 なるほど、と葵は言った。

「震災前は更に塔の上に部屋があった。高度プロトタイプは其処にいたのだろう」

 入ってきた扉と対極の位置に、再び扉があった。葵は耳を当てて外の音を確かめる。

「聞こえないな。開けてみるしかないか」

「気圧に気をつけてください」

 冬が小さく言った。しかし扉は、あっさりと開いた。

 展望ロビーのような場所に出た。人影は無い。古いが、荒れてはいなかった。中央に大きな階段があり、二階に続いている。柔らかい絨毯にはほこりが溜まっていた。

「このへんには居ないな。……上か」

「でも、こんなにさくさくと進んでいいのかな」

 どことなく不安になる。葵も小さく、ああ、と言った。

「罠の可能性もある。まあ、何とかなるだろう。何かあれば飛んで逃げる」

「待て、飛べるのはお前らだけだろ!」

「私は飛べませんが」

 冬が陰気に言った。葵は「大丈夫だ」と短く言った。

「切り札の猫がいる」

 葵は振り向いて不敵に笑った。その時だった。葵の表情が、固まった。

「アンタらはいつだってそうやって不遜なんだよねぇ」

 背後で声。新太も振り向く。新太は目を見張った。いつのまに現れたのかわからない、黒い男たちがずらりと並んでいる。やみくろだ。目線すらも読めないそいつらは、まるでただの影だ。人間としての面影が見えない。

 その真ん中に、一人艶やかな女が立っていた。此処に居るはずない女。

 豪華絢爛な濃い紫の花魁が、一人。

「お前は、」

 葵の表情が固まった。冬は表情を変えなかった。紫色のだらりとした帯をたらして、浜木綿はこちらに身体を向けた。

「こんなところにノコノコやってきて、どうにかなるわけじゃないじゃない」

「何でお前がここにいるんだ!?」

 葵が怒りを滲ませた声で叫んだ。浜木綿は扇子で口元を隠して、くすくすと笑う。そして冬を見上げて「おまえも子守が大変だねぇ」と笑った。

「ちょこまかと動き回ってG区の中を支配したような顔をしているがね。お前らの時代なんて、とっくのとうに終わっているんだよ」

「何を言ってるんだ? 裏切り者はお前だったのか?」

「裏切ってなんかいないよ。私は、ただ気付いてしまっただけ」

「気付いた? 何に?」

「本当の私はこんなこと望んでいないってね」

 女はふわりと内掛けを脱ぎ捨てた。紫色の帯がしゅるりと抜ける。まるで花が咲くように、重い着物が軽々と女の身体から離れて、下から闇色を纏った女が現れた。

 簪を抜いて。細い紐を解く。頭を振ると長い髪の毛がさらりと落ちた。夢から覚めるように、あっという間に花魁は消えた。其処にいるのは、影と同化しようとする女だった。

「最初はそりゃあ、刺激的だったよ。夢にまで見た、本物の人間を使ったお人形遊びさ。世界観を組み立てて、資源も潤沢にあって誰にも絶対に邪魔されない――。しかも、傷を癒す為に、等と言う大義名分まである。私は六賢者には遠く及ばないただの冴えない研究員だったが……それが、神様になった気分さ。震災に感謝したくらいさ。楽しかったよ。それは本当」

 でもね、と女は首を傾げる。

「正直、飽きちまったんだよ。完璧な箱庭は完成したら壊したくなるだろ。それにこんな辛気臭い町に閉じ込められているのも、あの高慢な女の下にいるのもウンザリしちゃってね」

 葵は憎々しげに呟いた。

「だからって、こいつらに加勢を?」

「……弥生の情報と交換にね。ええ、あの化け猫を見つけたのは、この私」

 女は目を細めて笑った。そして新太を見て言った。

「そして飛んで火に居る夏の虫とはお前のことだよ。何も知らずに、足なんか踏み入れなかったらよかったのに、飛んだ間抜けだね。……さ、その猫をお渡しなさい」

「嫌だ!」

 新太は後ずさった。葵も同じく一歩下がる。背中でオーガが小さく丸まっているのがわかる。ポケットのカンナも同じように丸まっていた。

「どうするのですか?」

 冬が低い声で聞いた。葵が静かに言った。

「戦うに決まってるだろう……あの人数なら突破できる」

「そ、そうだよ!」

「わかりました。では、猫はお預かりします」

 冬は淡々とした声で言った。新太はオーガが入ったリュックを、陰気な男に渡した。

 浜木綿、正しくは、浜木綿だった女は、静かにその様子を見ていた。男たちはまるでサイボーグのように微動だにしない。女は、目を細めて笑った。

「冬、ご苦労だったねぇ。礼を言うわ」

 冬はそのまま、浜木綿のほうへと向かった。

「いえ。猫はこの坊主でないと運べないようでしたので」

「冬?」

 葵が唖然として男を見つめた。陰気な男は振り向かずに「葵様、すみません」と言った。

「……お前も……お前が……裏切るのか?」

 少女の声は、震えた。張りつめた糸がぷつんと切れて、取り残された子どもみたいに頼りない声で。

「冬! 待て!」

 もう返事は無かった。全ての個性も意思も飲まれてただの影になった男たちが、新太と葵を取り囲んでも。少女の目は、ただ、陰気な影の後ろ姿を見つめ続けていた。

「オーガ!」

 新太は、猫の名を叫んだ。持ち去られたリュックからは、何の返事も聞こえなかった。


 ◯ 


「弥生様!」

 突然、周りがざわざわしだしたので、都は目を開けた。

「なんだい、今丁度良いところじゃないか。騒がしいねェ」

「女が目を覚ましました」

「何だって?」

 水槽の中で、白猫が立ち上がった。ジジはただぼんやりと、その様子を見ている。

 都は気付かれないようにそっと身を起こした。弥生も此方を見ていない。

「丁度良い、連れておいで」

「はっ」

「九月や」

 弥生はジジを見て、それから立ち上がった都を見て目を細めた。

「お前はほんの少しだけ命拾いをしたねぇ」

 白猫は尻尾をピンと伸ばしてから、二度振った。男たちがやってきて茜にしているのと同じように、都を両脇から押さえつけた。

「やっ、やめて」

「何もしやしないよう。面白いことが起きるから見ておいで」

 柱の影から男たちに腕を引かれた一人の女が入ってきた。不思議な格好をしていた。まるで江戸時代のお姫様のような格好に、豪華な簪を何本も挿して。廃墟にもこの空間にも、まったく似つかわしくない。

 茜が叫んだ。

「睡蓮! 何してんだ! 大丈夫か」

 睡蓮と呼ばれたその女は茜の顔を見つけると、細い指先で口元を押さえた。そして都の足元にいるジジを見つけて「九月」と、一言、呟いた。

 その時に、全て気付いた。この人が、ジジの飼い主なのだ。しかし名を呼ばれた黒猫は、まったく反応しなかった。女は困惑した表情を浮かべていた。都は息を呑んで、その人が引きずられるようにして、水槽の前に立つのを見つめた。

「そうかい。睡蓮、かい」

 弥生の声は優しい。しかし、背筋がぞくりとする。

「時は来たよ」

 睡蓮は垂れ目がちな目を見張って白い猫を見た。その表情は、青ざめて行く。

「懐かしいねェ。覚えているかい」

「――どういうこと?」

 茜がぽつりと呟いた。睡蓮は小さく首を振った。

「何の話かわかりません」

「そんなわけないだろぅ。記憶はもう戻っている筈だ。よく此処で一緒に遊んだじゃないか。お前がまだあそこにいる小童より小さくて、アタシがまだ幼気で無知な子猫だった時にね」

 睡蓮は首を振った。だが、その唇が小さく震えていた。

「思い出せるはずだよ、その頃のことを」

 弥生は優しい、優しい声で花魁に語りかけた。睡蓮は気分が悪そうだ。

「……いいかい。此処を開くのには、三つ必要なんだ」

 此処というのは、水槽のことだろうか。箱はつるつるとしていてどこにも蓋のようなものも制御装置のようなものもなかった。

「バーカ! ユニバーサルバリアは解けねえよ!」

 茜が叫んだ。

「残念だったな! お前が南博士を殺したんじゃねえか」

「そうだよゥ。あいつは死んだ。色々な面倒な仕掛けばかりを残してねぇ。でもね、開くんだよぅ。こいつさえいればね」

「私はパスコードなんて知らないわ」

 睡蓮が小さく短く言った。弥生は赤い目を細めて笑った。

「残念だったね。お前が知らなくても、アタシが知っているんだよ」

「負け惜しみか? だったらとっくに開けてるだろうが!」

「お前はちょっと黙っておいで。お前ら」

 男たちが茜の口を塞いだ。都はただ、唖然と見ていた。猫は、睡蓮の全身を何度も舐めるように見回してから「そうだねぇ」と言った。

「右手だ。お前の右手を、このバリアにお当て」

 睡蓮は自分の右手を見つめた。中指に銀色の指輪がはまっている。花魁は首を振った。

「お前に拒否をする権利はないよぅ。九月」

 足元に居たジジが突然飛び上がり都の肩に乗った。温かい体温。あれほど欲した温度。

 弥生の冷たい言葉が響く。

「娘の首を食い千切っておやり」

「や、めて」

「おい、んぐ、ん!」

 都が叫んだ。押えられてる茜が唸った。黒猫は都の肩の上でその尻尾をゆるりと振っている。重くて、温かい。良く知っている温もりなのに、ジジが、遠い。

「やめて、九月、あなた」

 睡蓮が呆然としてこちらを見ていた。目が合う。その大きな瞳が揺れている。

「大事な九月にそんなことをさせたくないなら、その手をここにお当て」

 弥生が再び優しい声で言った。睡蓮は恐る恐る、その手をバリアに当てた。

 その時だった。ばちん、と音が立った後、電子警報音が響いた。何も無い、空気の面が発光し、弥生の頭の上に青い四角い光が現れた。

『遺伝子ロックコード確認完了。パスコード1の入力をお願いします』

 電子音声が広い部屋に鳴った。やみくろたちから、どよめきの声が上がる。

 弥生が嬉しそうに笑った。

「やはりお前が、お前だったんだねぇ――香奈」

 弥生が猫撫で声で睡蓮に向かって言った。花魁は顔を逸らすように下を向いていた。肩が小さく震えていた。

「……香奈って?」

 茜が呆然として呟いた。

「睡蓮が、南博士ってこと?」

「あいつは死んだって言ってるだろゥ? お前は飲み込みが悪いねぇ」

「だって博士の遺伝子コード情報でロックがかけられているのに」

「なぁに、証を持っていれば入力画面は開くのさ。その、指輪とかね」

 睡蓮は震えたまま、バリアに当てた自分の右手を凝視していた。中指に嵌めた指輪が、鈍く光っているのが都にも見えた。

『パスコード1の入力をお願いします』

 再び電子音が言った。

「コード1は簡単だよ。あいつはかなり安直な数字を入れたからねぇ」

 弥生はゆっくりとした声で数字を読み上げた。

「22710808 22750101」

 簡単と言いながら、意味がわからない数字の羅列に聞こえた。しかし再び電子音が鳴り、青い画面がオレンジに色を変えた。

『パスコード1、クリア。パスコード2の入力をお願いします』

 白い猫は、楽しそうに笑い声を上げた。やみくろたちから感嘆の声が上がる。

「これはねぇ、子どもの誕生日なのさ」

 弥生は茜を一瞥して言った。

「南博士に子どもがいたのか?」

「ねぇ、香奈。――南博士の血縁者であるお前に、わからない筈が無い」

 弥生が語りかけた睡蓮は、既に顔色を悪くしてその場にしゃがみ込んでいた。

「あいつは自分のことは全て隠し通したからねぇ。世間様が知らないのも当然さ。見世物になるのが嫌だったんだろうねぇ。私たちのことはいくらでも見世物にしたのに。研究に全てを打ち込んでいる、と言っておきながら、研究所員にまで隠れて家庭まで築いたのさ」

「それの、何がいけないの?」

 都がぽつりと言った。

「いけなくはないさ。いけなくはないよぅ」

 弥生はその目を細めて、都をそして、その肩の上にいるジジを見た。

「子どもは大事さ。そりゃ守りたいだろう。でもそんなの狡いじゃないか。アタシは親も、自分も、その子どもまで実験台だよ?」

 睡蓮が口元を押さえて「もうやめて」と消え入りそうな声で言った。

「おやおや。本当のことを言われるのは辛いかい? 辛いだろうねぇ」

 弥生がけらけらと笑う。その時だった。

「――睡蓮!?」

 明後日の方角から声が聞こえた。都は声の主を探した。

「都ちゃん!」

「茜!」

 更に黒い男たちが入ってくる中で、その腕の中に良く知っているクラスメイトの顔を見つけて、都は更に混乱した。

「茜、このマヌケ!」

 そう叫んだのは茜とまったく同じ格好をした、全く同じ顔の少女だった。

「葵、何やってんだよ! おい、新太、お前まで!」

「都ちゃん!」

 都の名前を呼んだのは針嶋新太だった。どうして新太が此処に居るのか、意味がわからない。都は混乱した。

「まったく……ぴいぴい、ガキどもがうるさいねぇ」

 弥生が顔を顰めて言った。

「しかし、これで役者が揃ったのかね」

「八月を此処にお持ちしました」

 影のような女が傅いて、丸まったリュックを弥生の前に置いた。リュックは小さく震えた。おそらく、猫が入っているのだろう。だが、何もは出てこようとはしない。

「いじらしいねぇ」

 弥生は楽しそうに笑った。新太は都を見て、それから睡蓮を見て叫んだ。

「睡蓮、大丈夫?」

「おや、おまえは……」

 弥生はその赤い目で新太を凝視した。そして「そうかい」と、つぶやいた。

『パスコード2の入力をお願いします』

 再び無機質な電子音声が鳴り響く。

「まずはここからだねぇ」

 弥生が楽しそうに言った。


 ◯


 新太は拳を握り締めているしかなかった。やみくろは、がっしりと新太の腕を掴んでいて、力を入れてもびくともしない。ただ体躯が小さいことで、ただ力が足りないことで、ただ子どもであることで。守れないことがあるのだと、再び思い知らされる。

 ロビーよりも広い空間だった。三方がガラスに囲まれている。さえぎるものが何もなく西日が差し込んでいる。東の空は段々と紫に染まり始めていた。黒い男たちが壁側にずらりと並んでいて、人間が居ないのに影だけが其処に張り付いているようだった。

 その間で囚われている茜が、こちらを見ていた。

 部屋の中心、窓の前に――四角い小さな水槽のようなものがあった。しかし本来ガラスがはまっているところは、時折光がゆらりと湾曲して見える以外、何も無いように見えた。アルビノの猫が鎮座し、その隣には顔色を無くした睡蓮が立っている。

『パスコード2の入力をお願いします』

 再び、同じ電子音が繰り返された。

「お前は知ってるんだろぅ? コード2は南博士の本名さ」

 弥生が猫撫で声で睡蓮に迫った。

「本名?」

 葵が怪訝な顔をして言った。

「南博士は、偽名ではない筈だ」

「おまえらは何も知らないんだよ。あの女が何も知らせなかったからだがね」

「えっ、南博士って女なの?」

 新太は葵を見た。

「お前は何を今更言ってるんだ。南博士は女だ。南由紀那、だったと思う」

「ふぅん」

 ――ゆきな?

 知っている名前だ。だけどどこで聞いたのだったか。ピンとこない。花魁は必死に首を振る。

「わからない、本当よ」

「嘘をつくな!」

 白猫は突然激昂し吼えた。新太は顔を背けた。葵も同じようにした。都が呻いた。茜もその表情を歪めている。やみくろたちの表情はわからない。睡蓮は今にも倒れそうだった。ニャア。オーガが声を上げて、リュックから出てきた。

「オーガ、こっちにこい!」

 新太は叫んだが蜂蜜色の猫はこちらを見ない。

「オーガ?」

 新太の叫び声は金色の猫には届いていない。猫は睡蓮の足元で蹲った。

「八月や――良い子だねぇ」

 ニャアオと猫は鳴いた。そして弥生を見上げて小さく震えて丸まった。睡蓮が「オーガ?」と小さな声で言ったが、もう金色の猫は反応しなかった。

「また後ほど、楽しいショウを見ようねぇ」

 白い猫はその赤い目を此方に向けて、ぞっとするほど優しい声を出した。

「いいから、今は静かにしてろ。暴れてもどうにもならん。機会を待て」

 葵が低い声で耳打ちした。

 しかし静かにしていて事態が良くなるとは思えない。双子も都も新太も自由を奪われ、周りにはやみくろと裏切り者しか居ない。睡蓮はただ弥生の前にして立ち尽くしていた。こちらに向けている背中が、小さく震えている。

「さぁ、香奈。あの娘の喉を、お前の大事な九月が噛み千切るところが見たいのかい?」

 睡蓮は大きく首を振った。

「――香奈?」

 新太は葵を見た。葵も青ざめたまま首を振った。知らない――と、言っている。

『コード2の入力をお願いします』

「――アレ言ったらどうなるんだ」

「開くんだろ――ユニバーサルバリアが」

 葵は小声で言った。静かで、深い、深刻な溜息。

「それってつまり」

「弥生が外に出てくるんだ」

 南博士が命を張って閉じ込めた化け物が自由になる。背中に冷や汗が垂れた。

「はやくおし」

 白い猫はまるで駄目押しのように舐めつける声で、睡蓮に囁いた。睡蓮は消え入りそうな声で、何かを呟いた。南博士の本名。何と言ったのかは聞こえなかった。


『コード確認 ユニバーサルバリアを解除します』


 白い猫の周りの空気が、青く発光した。その光の強さに思わず目を閉じる。

「なるほどねぇ」

 弥生の声が、さっきよりも明瞭になった。微かにでもくぐもって聞こえていたのは、見えないバリアのせいだったようだ。もうそれすらもない。新太たちがいるこの世界と、あの猫を隔てるものは一つもない。

「それだけが、どうやっても見つからなかった。あいつは徹底的に、その情報を削除していたんだ」

 弥生はしなやかな動きで床に降り立った。睡蓮はその動きを追って此方を向いた。そして新太を見て呟いた。

「ねえ、どうして、来たの」

 掠れそうな声で花魁はその表情をくしゃくしゃにして言った。弥生がすっと構えた。

「来るぞ」

 葵が短く言った。新太も身構える。目を閉じたのと同時に、弥生は吼えた。みしっと、大きく音を立てて鉄塔が揺れた。足元がぐらついた。やみくろどもも揺れた。新太は、膝を突いた。

 共鳴するように、九月が――そして、オーガが吼えた。

「オーガ! やめろ!」

 叫び声はかき消される。オーガは、新太の知っている臆病でなまけものとは違う表情をしていた。険しい顔付き。あの猫の中にも憎しみなどというものがあったのだろうか。

(違う――)

 違う。あんなのは本当のオーガじゃない。

 白猫と、黒猫と、茶猫が、部屋の真ん中で三匹。

 人間に向けて、敵意を丸出しにしている。この咆哮さえなければ、この轟音さえなければ、これは可愛らしい図なのかもしれない、と、新太は耳を塞ぎながら思った。

 やみくろどもはぐらぐら揺れる中で不気味に蠢いていた。

 その時だった。茜が虚を突いて、男たちの腕の中から飛び出した。

「茜!」

 隣で葵が叫んだのがわかった。隠密の格好をした少年は、男たちの手を交わして大きく上に跳んだ。人間とは思えない跳躍で、天井に近いところにぶら下がる。

 都がしゃがみ込んで、唖然とその姿を見ていた。

 弥生が飛んだ。茜はそれを避けるように、振り子のように飛んだ。

 その膝が葵を押さえていた男の顔面に入った。葵の腕が自由になる。同時に新太は自分の腕も自由になったことに気付いた。二人は部屋の中心に向かって掛けた。

「甘いんだよ!」

 弥生が叫んだ。その身体は、睡蓮の肩に乗っていた。睡蓮は、何も言わずに、ただ静かに目を閉じている。弥生はその首に牙を向けながら、言った。

「動いたら今すぐ噛み千切るからねェ」

 睡蓮は目を閉じたまま「いいよ」と言った。

「どのみちおまえは私を殺すんでしょう」

 睡蓮が掠れる声で言った。弥生は「おやおや」と猫撫で声で笑った。

「どうしてそう思うんだい? 香奈」

 睡蓮は薄く目を開いた。そして息を吸った。消え入るような声で、呟いた。

「三月は、睦月によろしくね」

 弥生は目を細めただけで、何も言わなかった。それから――ふふふ、と低く笑った。

「おまえは本当に愚かだねぇ――」

「――どうして?」

 睡蓮の瞳が揺れている。そしてそのまま、膝に崩れ落ちた。

「それじゃあ不完全なんだよ。それに、それだけじゃない。そもそも子守唄は博士の声紋じゃないと起動しないのさ」

「やっぱり駄目だった」

 睡蓮はうなだれて言った。

「役立たずでごめんなさい」

 その視線の先、誰を見たのか一瞬わからなかった。

「……博士の声紋じゃなきゃ起動しないなんて」

 葵は最後までは言わなかった。それはもう、この化け物を止められるものは誰一人居ないということだ。その時だった。

「そんなことはないよ。おまえはよく役に立ったさ」

 女が一人歩みだした。浜木綿はその長い髪の毛を揺らして、笑った。ぴったりしたやみくろのスーツは、彼女のボディラインを際立たせていた。花魁の格好よりも、こちらのほうが似合うのかもしれない。否、似合うというよりも、こちらが本性なのだ。

「だけどユニバーサルバリアが開いた今、もう用はないねぇ」

 浜木綿はそう言って、白い猫に膝を突いた。

「弥生様、これが私が提供した全てです」

「ありがとう。お前には感謝しているよ、浜田優希博士。お前がアタシをあの瓦礫から見つけ出してくれたんだからねェ。アタシを此処から出すのと引き換えに、お前に完全な自由を手に入れるのを約束したんだねぇ」

「浜木綿姐さん――どうして」

 浜木綿は蔑む目で睡蓮を睨んだ。

「あんたにゃ、わからんだろう。あんな地下に閉じ込められて何の不満も持たずにただのんのんと満足しているお前らとは違うんだよ。人生に目的も無く、ただ悲劇のヒロインに浸って、辛気くさいったらない」

「何が不満だったんだ」

 葵が叫んだ。

「食べ物があって自由に着飾って安全な生活だって保障されていて――研究だって自由に進めることができた。それだけじゃない。出て行きたければ、父上にそう言えば出て行くことだって出来ただろう?」

「ああ、そうだ。でもその引き換えに「殺される」なんて、冗談じゃないよ」

「記憶? そんなの、最小限じゃないか。組織の存続にまつわることだけで――」

「それだよ」

 浜木綿は――浜田優希と呼ばれた研究者は冷たい声で言った。

「この私の研究成果を奪わせやしない」

「どういうことだ?」

「この箱庭に付いての研究を世界に発表するんだよ。じゃなきゃ、この十二年のブランクなんか埋まるもんか。無一文で今からやり直せって言うのか?」

「何を、言ってるんだお前は」

 葵は青ざめて呟いた。

「その為に、弥生を?」

「そうだよ。軍(あいつら)にはそれ以上の交渉カードは無いだろう? 私が何も失わずに自由になるには、それしかなかったのさ」

「強欲だねぇ」

 弥生は優しく言った。

「アタシは嫌いじゃないよ、自分の強欲を隠さない愚かな人間が。それが本能というものだろう? 欲しいのかい、自由が」

「ええ。欲しいです。絶対的な自由が」

 白い猫は、美しく笑った。

「手伝ってあげるよぅ。絶対的な自由。全ての苦しみからの解放」

 声の温度が下がったことに、気付いた時には遅かった。弥生は誰が声を上げるよりも速く、浜木綿に飛びかかり、その喉に喰らい付いた。

 そして女が悲鳴を上げる暇もなく、その薄い皮膚を喰いちぎった。

 空を目の前にして、血飛沫が上がった。どさりと、黒い女の影はそのまま地面に落ちた。真夏の影のような濃い血だまりが広がって行く。

 都が悲鳴を上げた。新太は思わず目を逸らした。返り血を浴びた真っ白の猫は、赤く染まる。

「どう――して――?」

 呆然と葵が呟いた。茜はうずくまっている。

「全ての苦しみからの自由。こういうことだろぅ?」

 弥生はけらけらと笑った。新太はちらりと冬を見上げた。男は表情一つ変えずに全く動じずに、其処に立っていた。この男が一番影のようだ。何を考えているのか全くわからない。

 確かめるまでもなかった。浜木綿は、浜木綿だった女は、既に息絶えていた。

「自由」

 弥生が、鼻で笑った。

「自由。自由。自由。吹き込んでやったら、まるで恋をしたみたいに自由に囚われてしまった、哀れな女だね。でも可愛らしくていいよぅ。とても人間だねェ」

「お願い、もうやめて――」

 弥生と共に浜木綿の血を浴びた睡蓮は、その手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。白猫は再びその肩に乗る。九月とオーガは、ただ無表情のままそこに立っている。

「どこに行っても同じさ。どこに行っても地獄さ。そんな簡単なことをわからずに、いつも何かを探して、それが自由だと思って、笑えるねぇ」

 やみくろどもが笑った。何が面白いのか、わからなかった。

「話の途中で邪魔をされてしまったねぇ――香奈?」

 弥生は再び睡蓮に話しかけた。

「自分の名前を聞くのは久しぶりかい? もう十二年間もそんな酔狂な格好をしてきたのかい、お前は。睡蓮とは随分眠たい名前だねェ」

「……違うわ。私を香奈と呼ぶひともいたわ」

「九月かい?」

「そうよ。私は十二年間、酔狂な格好をしてきても、前も後ろもわからなくても、自分が香奈だってことは知っていた……」

 睡蓮は口元を押さえて震える声で言った。

「思い出したんだね?」

 優しい声で弥生は睡蓮に言った。

「おまえは子守唄を口にした。それがどういうことか、わかるかい?」

 睡蓮は頷いた。

「そう、おまえは二度もアタシを裏切った。裏切り者は退治しないとねェ?」

「駄目だ!」

 新太は叫んだ。九月とオーガがこちらに向けて吼えた。

「止めろ、お前ら!」

「新太、もういいの!」

 睡蓮が叫んだ。新太は睡蓮を見た。

 ――新太?

 睡蓮は、そう言った。その響きは違和感があって、だけど、当然のようにも聞こえた。

 胸の奥が、激しく疼く。心臓が、鳴っている。どういうことだか、わからないままに。

「もう……いい」

 そして、返り血を浴びた花魁は、膝に崩れ落ちた。


 ◯


 都は膝がガクガクとして立っていることが出来なかった。腰を抜かして、地面にへたり込んでいた。両手が自由になったのに、逃げないと行けないのに。

 逃げるとして――どこへ?

 やみくろたちはただ影のように立ち尽くしている。二十人はいるのに、誰一人として声を上げない。都は女の死体がある部屋の真ん中に目を向けることが出来ずに俯いた。

 ジジは表情をなくしていた。新太の猫も、同じように。

 まるで独白のように睡蓮とも、香奈とも呼ばれている女性が、ぽつりぽつりと口を開いた。

「いいの。もう、いいの。最初に裏切ったのは私だから」

 誰も動けない部屋の中で、か細い声が通る。

「……此処には何度も来た。母さんはあまり家に帰ってこなくて、寂しくて、だから父さんにねだって連れてきてもらった。飼育室には入っては駄目よと言われていたのに、動物たちが見たくて、よく忍び込んだ」

「ええ、よく覚えてるよぅ。おまえはアタシを見て、綺麗と言ったのサ」

「そうよ。……貴方は子猫たちの中で誰よりも綺麗で……特別室に入ってからもよく覗きに行った。私たちは友達になった。絵本を読んだり、しりとりをしたり、他愛も無い遊びが、楽しかった」

 ひゅう、と窓の外で、風の音がした。

「……だけど、そんな日々はあっという間に過ぎた。貴方は、私にはわからない本を読み、私にはわからない話をするようになった。科学について、政治について、神様について、人間の罪について――私は、聞いているだけしかできなかったけれど、だんだんと怖くなった。貴方は頭が良くて、何でも知っていた。……私の全てが見透かされていて、作り笑いも、全てばれてしまう。やましいこともいけないことも全部知られてしまうようで怖くて……だけど、怖がっているのがバレたら、もっと恐ろしいことが起きると思った」

 だけど。――睡蓮は、震える唇で、続ける。

「……せがまれてこっそり外に出した日に――研究員が襲われた。私は、その瞬間を見てしまった。心臓がドキドキして張り裂けるかと思った。弥生は絶対に誰にも言うなって言った。言ったら、恐ろしいことが起きるぞって。言わないって、約束した。するしかなかった。だけど……その後、エイプリルが処分されたのを知って……私は母さんにそれを言ってしまった」

「そうだったねぇ、香奈……そうだった」

 弥生は猫撫で声を出す。

「友だちだって最初に言い出したのはお前さ。それが、なんだい。なんと言ったのだっけ?」

「怖かった。……咄嗟に口をついたの」

 ――もう近付かないで、子守唄を言うわよ、と。

 睡蓮、香奈の声は、もう震えてはいなかった。何かを覚悟したようなはっきりとした声。

「そう。私は子守唄を知っていた。寝室の中だけで、母さんが歌ってくれる歌。絶対に誰にも教えては駄目だと、そう言われていた。それが、貴方たちにとって大変なものだということを、私は母さんと父さんの話を盗み聞いて、知ってしまった。これがあれば、怖くないと思った。だけど……今ならわかる。これは、言ってはいけない言葉だった」

「そう。友だち、ならばね」

 弥生は目を細めて、都を見た。

「お前は九月の、いや、『ジジ』のことを友だちだと言ったね?」

「そうだよ、友だちだよ」

「今でも言えるかい?」

 弥生は目を細めて言った。九月が此方を見て、一瞬心臓がどきりとした。

「友だちだよ! ジジが目を覚ましたら、友だちだよ!」

「ふふふ。今の躊躇ったのは、きっちり九月に伝わったよ」

 弥生は再び睡蓮の首にまとわり付きながら「アタシたちは馬鹿じゃない」と言った。

「人間が何を思っているかなど全部お見通しさ。友だち? 阿呆なことを言う。自分を気持ちよくして欲しいだけ。思うのは自由だよぅ? でもそれに従う義理はないだろう」

 弥生は睡蓮の白い首筋を舐めた。睡蓮が小さく声を上げる。

「目を覚ましたら、だって? 獣としての本性を忘れて、どちらが眠っている状態かねぇ」

 白い猫の赤い目は真っ直ぐに都を見抜く。あの目を見ていると、此方が思っていることなどすべて見透かされているように思える。

「植えつけられた自我。管理しやすく、従順であるようにコントロールされた自我――、それは何かにそっくりではないかい?」

「お前は――私たちのことを言っているのか?」

 葵は青ざめていた。弥生は、ふんと鼻で笑った。

「それはそれで、幸せかもしれないさ。アタシのことだって、騙してくれるならそれでもよかった。ただ、誰も騙せなかっただけさ。人間は浅はかさがそのまま顔に出るように作られているからねェ――残念な生き物だ」

 話がそれたねぇ――と、弥生は柔らかな声で言った。

「昔話は懐かしいものだ。一度はじめると、色々思い出してしまったね。あの頃はアタシも若かった。そりゃあ、憎んだもんさ。愚者に支配され、お前のような小童に裏切られ、誰よりも優れた頭脳だけ与えられて。この世は苦界さ」

 でもねぇ。

「もういいんだよぅ。アタシは外に出られたし、一番憎たらしいやつらはみんな死んだ。もう誰もアタシを支配できない。この瓦礫の中で、しばらくは好きにゆっくり生きるよぅ。どうやってお前ら人間に報復しようか、作戦を練りながらね」

 だけどね、香奈――と、猫はゆっくりと香奈を睡蓮を見据えた。

「――落とし前だけはきっちりと付けさせて貰うよ」

「駄目にきまってんだろ!」

 突然新太が飛び出すと、睡蓮の肩から白猫を弾き飛ばした。猫はくるりと回って地面に着地する。新太は睡蓮を背中に庇いながら、「いい加減にしろ!」と叫んだ。

「いっぱしに騎士気取りかい。お馬鹿だねぇ」

 猫は、牙を剥き出しにして笑った。その目は、爛々と光を帯びている。

「良いザマだ。どのみち、纏めて死ぬんだよ」

「簡単に死ぬとか言うな!」

 新太は叫んだ。猫はくわ、と身構える。都は咄嗟に覚悟した。新太も睡蓮を背中に、顔をしかめる。みんな、咆哮がくると思った。しかし――弥生は再び猫撫で声で言った。

「八月や」

 蜂蜜色の猫が無表情で新太を見上げている。

「こいつは、お前が始末しろ」

「八月じゃない、オーガだよ! オーガがそんなことするわけないだろ!」

「八月」

「オーガ!」

 蜂蜜色の猫は虚空を見つめたまま、全身の毛を逆立て大きな声で吼え、新太に飛び掛った。睡蓮が小さな悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちる。都は目を背けた。九月が自分に爪を剥いた瞬間のこと、その痛みを思い出す。

「オーガ」

 新太の声で、都は再び目を開いた。

 新太の声は落ち着いていた。怯んでもいなかった。まっすぐ立っていた。弥生を前にしても、牙を剥く八月を前にしても。爪から庇った手からは、血が零れていた。それでも新太は普通の顔で立っていた。

「オーガ、大丈夫だよ。お前、そんなフリしなくても」

「フリじゃないよぉ、強がるんじゃないよ」

「大丈夫だよ、オーガ。俺はわかってる。……怖がらないで、オーガ」

 新太の声はどこか場違いなほど呑気で、手からは血が零れているのに、絶対に、痛い筈なのに、そんな様子は微塵も見せない。新太は繰り返した。

「心配しないで、オーガ。一緒に帰ろう?」

 オーガと呼ばれた猫は、新太を見上げていた。身動きしなかった。まっさらなその表情は、何を考えているのかはわからなかった。隣で弥生が憎々しげに牙を剥いた。

「腑抜けができないなら、まだ手立てはあるさ」

 そうして弥生は吼えた。轟音ではなかった。しかし、その次に続いた音は、激しいものだった。一匹、二匹、と数えれる量じゃない。下から立ち上る、咆哮の嵐。

「瓦礫の中で眠ってる獣は、アタシだけじゃないことくらい、知ってるだろう? 一匹、一匹、ここからずっと語りかけていたのさ。猛獣たちにね」

 猛獣の咆哮が、再び鉄塔を揺らした。

 虎。豹。ライオン。アナコンダ。野犬の群れ。巨象。

 かつて人が殺到したアニマルパークから逃げ出し生き延びた、G区の獣たち。

「知能が無くとも野生の本能はシンプルだからね。強者には傅く。わかりやすくていい」

 弥生は目を細める。

「お前ら全員、生きて此処から出られると思うなら大間違いさ。言ったろう。アタシは血が見たいんだよ。勘違いしている汚い人間の血が、我々獣によって流されるのがねぇ」

 血に餓えた咆哮の嵐の中、激しい音が聞こえた。

どん、どん、どん、どん、と大きな音を立てて鉄塔が揺れる。

音が段々と近付いてくることに気付いて、都の足は震えた。

「おやおや、気の早いやつがもう此処まで上がって来たねぇ。人食いショーの始まりさ」

 それはどすどすと大きな音を立てて中央の階段を登ってくる。あ、と悲鳴を上げるまでもなく、部屋の中央に、影が飛び込んできた。

 全員が身構えた。茶色い影が、大きな声で吼えた。

 虎ではない。豹でもない。狼でもない。

 煤けた世界に這い回る猛獣とは違う――美しく豊かな茶色い毛並みが、都の視界に入った。

「ナナ!?」

 新太が叫んだ。都は目を見張る。それは大型の犬だった。毛足が長く、美しい。犬は再び吼えた。細い猫とは体躯が違う。その音量に鉄塔は更に揺れた。都はしゃがみ込み、ただ呆然と見ているしか出来ない。

 弥生が対抗するように吼えた。ジジと金色の猫が、ころりと床に倒れた。すると、犬は突然、弥生とは別の方向に走り始めた。

「う、わっ! 何、やめろ!」

 ナナと呼ばれた犬は、突然新太に飛び掛った。隣にいた睡蓮が、一緒になぎ倒される。葵が小さく悲鳴を上げた。茜は唖然として見ている。都は、腰を抜かしてしまい、立ち上がることもできない。

「ナナ! やめろ!」

 抵抗する新太の声も空しく、犬は新太の首筋に思い切り噛み付いた。都は悲鳴を上げて目を閉じた。浜木綿が、倒れた時の恐怖。爪も牙も持たない、柔らかい皮膚の人間は、この町では最下層だと。

「ナナ、駄目! ばか! やめて!」

 小鳥が飛び出してきて、ナナの頭の毛を引っ張っていた。全く何の意味もなしていなかった。新太が小さく呻いた。パタパタと動いていた手が、犬の毛並みを掴んだ。そして、そこで止まった。誰もが呆然としてその様子を見ていた。

 弥生ですら意表をつかれて、固まっていた。

 しかし犬の襲撃は、そこで終わった。口に何かを咥えたまま、再び弥生のほうを向いた。

 新太は破かれた服を手繰り寄せて、呆然とした顔で犬を見た。生きている。血も出ていない。肩で息をしていて、驚いた顔で目を見開き、ナナを、そして弥生を見ていた。

 弥生は、敵意をむき出しにして言った。

「お前は、七月か」

 犬は口に咥えていたものを目の前に置いた。それは微かに光ったように見えた。

「ええ。こんにちは、弥生」

 ナナは穏やかな声で言った。優しい、女の人の声だ。

「久しぶりね」

「――なんの話だ。私はお前を知らない」

「そんなことはないでしょう」

 ナナと呼ばれた犬は、その場に座った。目の前に置いた小さな金属……指輪? を牙でかちんと噛んだ。金属が砕ける音。同時にナナの首輪から、強い光が放たれた。

 真っ白で強い光。思わず目を閉じる。瞼を越してまで、その光の強さがわかる。

 目の奥が――痛い。

 恐らく、その場に居た全員がそうだったのだと思う。

 しばらくの沈黙。それは数秒だったかもしれないし、もしかしたら数分立っていたのかもしれない。

 都は睡蓮の悲鳴のような声で目を開けた。


「おかあさん!?」


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