第四章
第四章
突然、目が覚めた。時計を手繰り寄せると、まだ二時を過ぎた所だ。新太は寝ぼけ眼を擦ってから再び布団に潜る。しかし再び目を開けた。何だろう。何か違和感がある。誰かの気配がする。新太は起き上って部屋を見回した。真っ暗な部屋の真ん中に黒い大きな影。
「……ナナ?」
影は小さく頷いた。犬は「静かに――」と声を押し殺して言った。その時、すぐ外でドスン、という音がした。
「侵入者です。坊ちゃんは絶対に部屋から出ないように」
「えっ……侵入者? どういうこと?」
「まだわかりません。私と旦那様で追い払います――どうか、静かに」
「ナナ、待って」
新太の呼びかけを無視して、犬は部屋を出て行った。
「そんなこと言われても……」
布団を捲るとオーガが丸まって眠っていた。起こさないほうが懸命だ。再び布団をかける。
「……いつまでも子ども扱いなんだから」
部屋を出るなとは言われたけれど、ドアを開けるなとは言われなかった。新太は音を立てないように薄く扉を開く。一瞬、父の顔が過ぎる。バレたらまた殴られるかもしれない。まあ、その時はその時だ。
廊下の向こうからは何の音もしなかった。暗闇は静謐と言えるほど静かで、さっきのナナは夢か、悪い冗談だったんじゃないかと思うほどだ。侵入者と言ってもここは8階だ。将校用の宿舎で、エントランスには24時間、武器を持った兵士が警備に当たっている。どこの誰がどうやってそこを潜り抜けて侵入できるのだ。逆にそれが出来るのであれば――相手はかなりのやり手ということだ。
それでも新太は、心配はしていなかった。父とナナの戦闘能力の高さは知っている。ただ、胸騒ぎがするのは……夕方のことを思い出したからだ。
あの、恐ろしい咆哮。G区の内側から響いた、魔物。茜の言葉。
「あらた」
「どうした?」
カンナは飛び上がると新太の肩に止まって囁いた。
「ごめん。カンナが連れてきたみたい」
「何を?」
「あいつら。カンナを追いかけてきたんだ」
新太の脳裏にあの男たちが過ぎった。真っ黒なラバーに包まれた屈強な男たち。もしあいつらだとしたら、敵はG区の中の住民だ。
「――伝えなきゃ」
父とナナはそんなこと知らない。どんな危険があるかわからない。
その時、リビングで大きな音がした。怒号と銃声――そして、ナナの咆哮。
「わ、わ!」
小鳥はするりと新太の手をすり抜けて、部屋を飛び出していった。
「おい――カンナ!」
やっと戻ってきたばかりなのに! カンナは新太以上に戦力にはなりはしない。新太は慌てて、そしてこっそり小さな背中を追った。リビングの扉の手前でちいちいと飛んでいるカンナを捕まえる。恐る恐るリビングを覗くが、中は暗く、何が起きているのかわからない。大きな窓から薄雲を通したおぼつかない月明かりだけが光源だ。
床に人が倒れている。一瞬、どきりとする。父ではなかった。黒いぬめる影。それが二人。死んでいるのか、生きているのかはわからない。父がやったのだろうか。
その時だった。カーテンがゆらりと揺れて、その後ろからもう一つ、大きく黒い影が現れた。腹の底がぞくりと冷える。父ではない。――あの男だ。あの新太を吊るし上げて、下衆な笑い声を立てた男。双子を追い詰め、カンナを連れ去った男たちの一人。
台所側で動く影があった。ナナだ。男は手に持った武器を、そちらへ向けた。
(まずい――)
思わず飛び出そうとしたその時、ゴスッと、脳天に重い痛みが走った。
「――ッ!!」
叫ぶのは堪えた。新太は頭を抑えて蹲る。目の前がちかちかする。そのまま悲鳴と恐怖を堪えて振り返る。立っていたのは、鬼の形相の父だった。
「部屋に居ろって言っただろうが、この馬鹿者」
父は声を殺して言った。新太は言葉を無くしてただこくこくと頷きそれから首を振った。だって、カンナが。そしてナナが。――ナナが危ない。
「おっと」
父はリビングに向けて手にしていた銃を躊躇い無く発砲した。最新サイレンサー独特の空気を刺すような音。男の武器が弾け飛び、醜い悲鳴が闇を裂いた。同時に、ナナが男の腕めがけて飛び掛った。父から訓練を受けた大型犬は――普通の軍用犬とは比べ物にならないほど強い。
「そこにいろ、動くなよ」
父は新太に言い放ち、ずるずると別の男を一人引きずりながらリビングに入っていった。銃口はあの大男に向けたままだ。男は観念したのか、ナナに噛み付かれた腕――恐らく骨が逝っている――を抑えながら、膝でうなだれていた。父はどさりと、引きずっていた男を落とした。
床に倒れた影は、どれもこれもぴくりとも動こうとはしない。
「生憎スタビライザーはこちらの彼で切れてしまったからね。君に対しては手荒にならざるを得ないことについては謝ろう。さて、用件を聞こうか」
男は低い声で呻いた。返事は言葉にはなっていなかった。父は銃口を向けたまま言った。
「その腕じゃ、上ってきた時のように下りるのは無理だな。この高さから飛び降りれば地面に激突して死ぬだけだ。口を割らないのであれば、そうして頂くより無いが」
ゾッとするほど冷たい声だ。新太はカンナが飛んでいかないように手で押さえながら――ごくりと息を飲む。
「坊ちゃん、ベッドに戻りなさい」
いつの間にか、隣にいたナナが同じように低い声で言った。
「この先は見てはいけません。旦那様も望みません。早く」
「ナナ――でも」
「新太」
ナナは窘めるように新太の名を呼んだ。ナナが新太の名前を呼ぶのは、本気で窘める時だけだ。新太は唇を噛んだ。そんな声で呼ばれたら、まるでこちらが悪いみたいだ。駄々を捏ねて困らせているだけみたいだ。しかし、カンナが「駄目だよ」と小さな声で言った。
「あいつらはアニマロイドを追っている。僕たちはみんな、知らないといけない」
「カンナ? 何を言っているのです?」
「ねえ、ナナ。……やよいが目覚めたんだ。あいつら、そう言ってたよ」
「……やよいって何?」
新太は思わず聞き返した。どこかで聞いた名前。だけど、思い出せない。
「なんてことでしょう」
ナナが静かな――しかし、切実な声で言った。
「そんな――一体、誰がそんな――どこで」
「ねえ、弥生って何? ナナも弥生を知ってるの?」
新太の問いに犬は困ったような声でクゥンと鳴いた。カンナはただ黙り込んでいる。
「ごまかさないで」
「ごまかしてません――ただ」
その時、再び銃声がした。「くそっ!」父の叫び声が重なる。ナナが飛び出した。新太も慌てて続く。ベランダの上から父が下を覗き込んでいる。再びサイレンサーの音。一つ、二つ。それから、父は顔を上げた。
「油断した。逃げられてしまったな。まさか手負いで此処から逃げるとは。しかし、こいつらはどうにかせんとな」
ゴロゴロと転がる影を足蹴にしながら父は言った。
「こいつはこっそりお前の部屋まで行こうとしたからな。気付いてよかった。ナナがいなかったら拙かった」
父は先ほど廊下で引きずっていた男を指した。
「俺の部屋に――?」
父はカンナに「大福ちゃん、ちょっとおいで」と呼びかけた。カンナがパタパタと、父の手のひらに乗っかる。小さな身体を父は丁寧に調べた。
「無いな。どこかで落としたか。カンナに発信器が付いていたのだろう。大福ちゃんを拉致したのはこいつらだな?」
カンナはこくこくと頷いた。
「何か言ってたか、聞いていたら教えてくれ」
「……弥生が目覚めるから、八月と九月を連れてこなきゃって」
「なるほど。目的はオーガか」
「どういうこと? 今は五月だよ? 何で俺だけ話が見えないんだよ」
父も、ナナも、そしてカンナまで――新太がわからない話をしている。
「お前には関係ない。黙ってろ」
父が短く言った。押さえ込んでいた強い感情が込上げた。いつも、何も教えてもらえずに、どうして仲間はずれにされるのか。
「何だよ、それ。もしオーガが目的なら、そう言ってくれたら俺ずっと部屋で守ってたよ?」
「侵入者の目的がすぐわかるはずないだろ。気持ちはわかるが、落ち着け馬鹿」
「馬鹿は父さんだろ!」
新太が思わず叫ぶと闇の中なのに父が息を吐いたのがわかった。声を荒げてしまったことがますます子どもっぽく思えて、悔しくて、それでも一度口をついた不満は止まらなかった。
「いつだって放っておいて、勝手に振り回して、何も教えてくれないくせに思い通りに行かなかったら殴って――何なんだよ。俺にどうしろって言うんだよ!?」
「新太、落ち着け。お前はまだ子どもだ」
「子どもじゃないよ! もう十五だ! あと三年すれば成人だ! いい加減、ただのお子様扱いするのはやめろよ! 俺のこと何でも言うこと聞くだけで何も不満も持たない都合の良い馬鹿だと思ってるんだろ!?」
「そんなことはない」
「あるだろ! 学校のことだって、転勤だって、いつだって勝手に押し付けて、どんだけ我慢してるかなんて何も知らないくせに! 俺の気持ちなんて何も知ろうとしないくせに!」
言い過ぎだとわかっているのに、どこで止めたらいいのかわからなかった。月明かりの下で、父は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。深い溜息の後低い声で言った。
「どちらにしても――こいつらをこのままここに転がしておくわけにはいかない。救援を呼ぶから、お前はナナと此処にいろ」
「ちょっと待ってよ、行かないでよ」
「一段落したら、話してやる。今は大人しくしていろ」
「そんなの誰が信じるんだよ!? 何も知らされないで、ただ危険だからって言われて、何も見せないで振り回したあげくに、こんな危険な状態で待ってろとかって意味わかんないよ。あの男たちは、カンナを連れ去ったやつらだよ? G区の住人なんだよ!?」
ナナが、えっと声を上げた。父の顔色が変わった。
「ちょっと待て――どうしてお前はそれを知っているんだ?」
父の声は刃のようだった。怒っているというより、驚いてもいるようだった。
Tシャツの胸元を掴まれ、新太は咄嗟に目を閉じた。殴られると思った。根拠は無いけれど、絶対的な確信を持って。
「旦那様、止めてください!」
ナナが叫んだ。悲鳴のような声だった。カンナが、ぴいぴい鳴いていた。身構える。しかし、拳は飛んではこなかった。ふと目を開いて、一瞬見えた父の顔に、新太は驚いた。
まるで――泣き出しそうな。そんなわけ、ないのに。
その時だった。世界がビリビリと震えた。父がはっと顔を上げる。闇夜を切り裂くような鳴き声。耳を塞いでいたとしても、身体の骨に直接響くような悲鳴。恐怖を掻きたてるような音。父の手が緩んで、新太はそのまま床に落ちた。泣きたくなんか全く無いのに、悔しさで涙腺が緩んでいた。部屋が暗くて良かったと心底思った。咆哮は三度鳴って止んだ。ナナが呟いた。
「オーガは――」
「先ほどスタビライザーを打っておいた。朝までは起きんだろう」
「では様子を見てきます。二人は落ち着いて。旦那様、早いところ手配を」
父は新太の顔を見ずに、何も言わずにリビングを出て行った。すぐに玄関の扉が閉まり、外から鍵が掛かったのがわかった。カンナは、新太の肩に止まって、小さく鳴いた。
「新太、ごめんね。ごめん」
「何でカンナが謝るの」
「カンナのせいだ。カンナがつかまったせいだ。カンナをおいかけてきた」
「違うよ。父さんが悪いんだよ。こんな危険な町なら、付いてこなかったし、みんなも連れてきたくなかったよ。どうしてこんなところに――」
新太がそう言うと、カンナはピィと小さく鳴いて黙った。
スタビライザーで昏睡した三人の影がすぐそこに転がっている。そのまま、見下ろしているのは気持ちよいものではない。かといって、布団を被せてあげるほど、お人よしな気分でもなかった。新太はそのままベランダに出た。身を少し乗り出して下を見る。
ポーチの木々が揺れている。黒い影はもうどこにも見えない。
その時だった。
「父子喧嘩はいけないなぁ。仲良くしないと」
突然、至近距離で声がした。あたりを見回す。ベランダの上には誰もいない。上を見ても、そして再び下を見ても、やはり誰もいない。
「人様の家庭のことに口を出すな、愚か者が」
続いて別の声がした。だけどそれも見えない。
「誰?」
新太が叫ぶと「ほら、見つかっちゃったじゃん」と、再び声がした。この声は知っている。あっけらかんとしてこんな場面に似合わない少年の声。
「……茜? どこにいるの?」
暗闇に向かって問いかける。
「あったりぃ!」
さかさまに飛んできたように、しゅっと足先から脚――そして、身体がふわりと現れた。くるりと一回転それは器用にベランダの縁に立った。
「こんばんは。やっぱり――俺の勘が当たったな。外れたことないからな」
「何の話!? って言うか、今どこから出てきたの?」
「ん? 下にぶら下がってたの」
「ぶらさが――!? この、って、ベランダに!? ここ八階だよ!?」
「この程度の高さ、私たちには遊び場所に等しい」
もう一人の声がした。そして身体がふわりと現れる。縁に降り立った影は、茜に向かって呆れたように言った。
「まったく。お前は迂闊すぎる」
「あ、あ、葵?」
「当たり前だろ。他に誰だと思うんだ」
葵は新太に一瞥をくれるとベランダの中に降りた。重力を全く感じさせないほど軽い。茜と葵は全く同じ格好をしていた。G区の中で茜がしていたのと同じ、忍者のような黒装束。
「な、何してるの?」
「この阿呆がやみくろの襲撃の可能性が高いと言うのでな。此処で張っていた」
「やみくろ?」
「あの黒いゴムみたいなやつら。カンナちゃんに発信器付いてたからさぁ」
茜はそう言ってつぶれた豆みたいな黒い塊を取り出した。
「あっ――それ」
さっき父が探していた奴だ。カンナはしょんぼりと肩を落とした。新太は「大丈夫だよ」とちょいちょい撫でる。カンナは「あらた、好き~!」と、ふるふると身体を振った。
「張ってたって、いつから?」
「二時間くらいかなぁ」
「そんなずっとぶら下がってたの?」
双子は同時に頷いた。
「正直、お前の父ちゃんが強すぎて出る幕がなかった」
「下手に出たら流れ弾に当たるな。思ったより過激な人だ。父から聞いた印象とは違う」
葵がさらりと言った。
「父って? お前らのオヤジ? 何で俺の親父を知ってるの?」
「お前は知らないことが多すぎる」
葵は静かに言った。
「全て話してやる。私たちのことも、アニマロイドのことも、そして弥生のことも」
「えっ?」
「その代わり」
茜が顔の前で両手を合わせて、小首を傾げた。
「お願い、猫ちゃんをちょっと貸して」
「は?」
「オーガをちょっとだけ、借りたくてさ」
「それは駄目です」
新太の代わりに返事をしたのはナナだった。いつのまにこちらに戻ってきたのか、犬は身体を低くして、今にも飛び掛らんばかりに双子を見ていた。新太は慌てて、両手で制する。
「ナナ、こいつらはさっきのやつらとは違うよ。落ち着いて」
「いいえ、変わりません。あなたたちも弥生の力を手に入れたいのでしょう」
「ナナ? お前は――そうか。七月か」
葵が静かに言った。
「あなたには関係ありません」
ナナが冷たい声で言った。
「随分と嫌われたものだな。こちらとしても危害を加えるつもりは無いが、協力いただけないのであれば、手荒な手段に出ることも可能だ。残念ながらそこにいるあなたの可愛い大事な坊ちゃんはノーガードで毎日我々と顔をあわせている。我々がその気になれば本人の意思とは無関係に、ありとあらゆる場所に――たとえばあなたがたが彼を出来るだけ離しておきたいあの境界の内側に連れ去ることが出来る。嫌なら坊ちゃんをこの部屋に監禁でもしてろ。それが出来ないなら、口を出すな。何を知るかを選ぶかはこいつの自由だろう」
葵の挑発的な言葉とは裏腹に、ナナは静かな声で言った。
「子どもは知らなくても良いことがあるのです」
しかしその言葉は、新太に火を点けた。
「馬鹿にすんなよ。もう子どもじゃないよ! ナナまでそんなこと言うの?」
「子どもです!」
ナナも声を荒げた。剣幕は譲らない。どうして、そんなことを言うのだ。新太にだって、守りたいものはたくさんあるのに。何も知らないでいて、幸せでいられるような子どもなんかじゃない。一体、いつまで待てばいいんだ。問題は、今この瞬間目の前にあるのに?
カンナが――ピィ、と小さな声で鳴いた。
「カンナもこども?」
「カンナも子どもです」
ナナが静かな声で言った。茜が、にやりと笑った。
「ああ、そうだよ。僕たちは子どもだ」
葵が頷く。
「だから自由なんだ。どこへでも行ける」
双子はふわりとベランダの縁に立った。月明かりの下、手を差し出して同じ顔をして笑う。
「新太、こい」
「え?」
「連れてってやる。そして、全部教えてやる」
ざわりと、不安と期待が身体を通り抜ける。月を背景に映える二つの影はあまりにも蟲惑的で。その手を掴めば――きっと、全てわかりそうで。
「いけません!」
ナナが叫んだ。その声が、新太を決心させた。新太は走って、自分の部屋に戻った。掴んだのはリュックと、深く眠りに付くオーガ。ランニング用のスニーカーを履く。
走ってリビングに戻ると唖然とするナナを横を、新太はすり抜ける。
「行くよ」
眠るオーガを、双子に向かって放り投げた。
「ナイス!」
茜が抱きとめる。
「坊ちゃん!?」
「ナナ、俺、知りたいんだよ」
葵がこちらに手を差し出している。この手が信用できるか何てわからない。この先に危険が無いとは言い切れない。また心配させる。父さんもナナも、きっと。だけど、それでも――あちらに飛んでいけば、全てがわかるのではないか。愚かでもいいし馬鹿でいい。
ただ、知りたい。知りたいんだ。
「坊ちゃん、いけません、旦那様が戻ったら全部――」
「もうナナの言葉なんて信じないよ!」
新太は叫んだ。そして走った。葵の手を取る、――そのまま、身体がふわりと浮いた。
「新太!」
カンナがすぽんと新太のパーカーのフードに入った。
「カンナ、馬鹿!」
言葉は風の中に消えた。新太の身体は完全に中に浮いていた。
握った葵の細い手に、全てを委ねて。
目の前に薄く光る町とはくっきりと区切られた、夜よりも深い闇に沈んだ影が広がった。
そして新太の身体は――何もかもから、自由になった。
○
「う、うえ……」
スタビライザーがもたらす眠りは深く、オーガが目を覚ますことは無かった。それだけが救いだったかもしれない。勢いで双子の自由落下に身を任せた新太は、地面を確かめるようにしてうずくまった。まだ膝がガクガクする。
「ねぇ、大丈夫?」
茜が心配した声で言った。ほんの少し笑いが含まれていることに気付いたが、反論する力はなかった。
「都会っこは柔だな」
葵にいたっては、呆れているのを隠そうともしない。
「う、るせ……」
不確かなものに身体を預けた自分が馬鹿だった。身体が重力に対して自由になった瞬間、新太はそう思ったのだ。勢いというものは恐ろしい。地面に衝突する数秒前まで新太と葵は手を繋いだまま落下し続けた。そこから葵はパラシュートのようなものでほのかに減速をかけたが――それでも衝突は免れなかった。葵は見事に着地を決めたが、体勢を立て直せない新太は、茜が咄嗟に投げたエアクッションにさかさまに落ちた。それが無ければ、首の骨が折れていた気がする。胃に何も入ってなくてよかったと心から思った。
「まあ葵の付帯落下は荒いよね。俺も絶対やだもん」
「知らん。こいつが猫を茜に投げたのがいけない。自業自得だ」
葵は短く言った。教室とは話し方が全く違う。こちらのほうが素なのだろう思った。
「これを着ろ」
葵が黒い服を突き出した。この前と同じ、隠密の黒装束だ。ジャージとTシャツの上に着た。
「歩くの?」
「いや、これだ」
茂みから取り出したのは、折りたたみ式の電動オートバイクだった。新太は茜の後ろに乗った。スピードは思ったより速く、真っ暗闇の中ライトを付けずに進むので生きた心地がしない。
「大丈夫、昔から乗ってるけど、俺死んだこと無いし」
そんな、能天気な茜の言葉を聞きつつ、まばらな街灯を遠くに見ながら、できるだけ暗い道を選び渋谷に向かった。オーガは平和な寝息を立てている。そしてカンナはこの小さな冒険に少し興奮しているようだった。バイクは廃屋の裏に止まり、瓦礫の狭間に開いた穴にすっぽりと収まった。
「これから、どこに行くの?」
「地下だ。中に入る」
先日、双子が襲われていた桜丘町の片隅に入り口はあった。一見見るとただの壁にしか見えない場所から、地下階段が現れたときにはさすがの新太も興奮した。
「っと、俺はここでお別れです」
「どこへ行くの?」
「九月の確保」
「場所がわかったのか?」
葵が驚いたように聞いた。
「灯台下暗し。弥生が鳴いているから本人、つか本猫も気付いたかもしれない。急ぐよ」
「気をつけて」
茜は返事をせずに後ろ手だけ振って、そのまま垂直に上に消えた。特に取っ掛かりも無いただの壁をまるで猿みたいに登っていく。口を空けて見ていると葵が「おまえはこっちだ」と、言った。
「あの咆えている獣が弥生なの?」
ああ、と、歩く足を緩めることなく葵が答えた。
「化け物だ。……ただし、元はそいつらと何も変わらない」
そいつら――葵は新太の前を飛んでいるカンナを顎で示した。
「アニマロイドってこと?」
「そうだだ。史上最強にして最凶のアニマロイド。さてどこから話すのが一番いいか」
階段の一番下に到達すると、葵は小型電灯を取り出し照らした。半分崩れた地下道だった。下水とも、茜と通った地下鉄とも違う。床は人が歩くための通路であったことがわかる。パネルが剥がれたり崩れかけたりしているが――壁も天井も床も白っぽい素材で作られているからか、葵の持っている小さなライトでも明るく見える気がした。天井にボロボロの看板がかけてある。「新都心線から副都心線乗り換え 300メートル」と書いてある。
「ここはかつて使われていた地下道だ。G区内にはこのような通路がごまんとある。まるで蟻の巣だ。たちまち迷うぞ。ちゃんと後ろに付いてこい」
新太は、茜と同じ黒装束の背中を見ながら頷いた。葵のほうが細いはずなのに威圧感がある。
しばらく逡巡した後、葵は静かに口を開いた。
「今から話すことは、全て六賢者に近い人物から聞いた内容だ。……お前はアニマロイドの飼い主だ。知っておくべきだと思うから、話す」
「……うん」
「今から、二十年ほど前の話だ。アニマロイドは南博士が札幌大学博士課程の途中で、齢十九歳にして立ち上げた小さな研究だった。それが数年で一気に国の最重要認定プロジェクトまでのし上がった。ペット型ロボット研究はたくさんあったが動物本体の自我をベースに会話を可能とさせる方式は革新的だった――そうだ。スポンサーも多く付いた。資金集めのために商業用として作った愛玩アニマロイドは、大ヒット商品となった」
「……商品」
「愛玩用アニマロイドに限らず、それまでもずっと小動物は商品だった。しかし、その画期的な発明がただの愛玩で終わるわけはなかった。軍が熱心にアプローチをし、南博士のバックアップに付いた。博士の周囲には反対もあったようだがな。……戦闘用アニマロイドの開発が始まった。大型犬は護衛および戦闘用、猫は暗殺用、そして小鳥はスパイ用。お前の家にいる三体はそれらのプロトタイプであると思う」
「は? こいつらはそんなんじゃない!」
新太は吃驚して叫んだ。そんなんじゃない。絶対、そんなんじゃない。
「……お前もさっきの戦いを見ていただろう? あの犬はどのように戦った? 小鳥もやみくろの情報を持ってきたはずだ」
「それは――それは――でも」
ナナやカンナだって好きでそうしたわけじゃない。上手く言い返せずに――だけど納得も出来ずに唇を噛んでいると、まあ落ち着け――と、葵は威厳すら感じさせる声で言った。
「お前の気持ちはわかる。開発が進んでいた、というだけで今のそいつらが殺人マシンだという話をしているわけではない。能力があると言ってるだけだ。お前はもう少し冷静に人の話を聞けるようになったほうがいい。お父上も言っていただろう」
「父さんのことは、いいよ。続けて」
「研究所のプロトタイプには共通の名づけ方がある。噂によると南博士の最初の飼い猫が睦月、つまり一月の雅称だったということから月、年月の月の名前が着いていると」
「月……?」
「ナナは七月、オーガスタは八月、そしてカンナは神無月、十月だ」
「ほん、とだ」
まったく気付いていなかった。
「さて、それでは弥生は何月だ?」
「睦月、如月……だから、三月?」
……三月?
誰かが、最近、三月の話をしていなかったか。そう思った瞬間に、睡蓮の言葉を思い出した。
『三月の子守唄を思い出すまでは――』
「つまり――そうか」
葵が振り向く。
「どうした? 何か知っているのか?」
「なんでもない」
睡蓮から秘密だと言われたのを思い出し、新太は口を噤んだ。葵は再び話始めた。
「弥生は一号・睦月の娘で、目指したのは【天才型】だったそうだ。頭の良い個体が選ばれ、そこに南博士がチューニングを加えた。ただ弥生が生まれてすぐの、最も影響度が高い時期に、起きてはいけない事件が起きた」
「……何があったの? 震災?」
「違う。震災の数年前だ。南博士は、実験中の事故で睦月を死なせてしまった」
葵は淡々と時折ライトで看板を確認しながら、淡々と言葉を重ねて行く。
「睦月は、南博士の全てだった。小学校時代から、博士の唯一の友人だったんだ。博士は表面上は冷静を保っていたが、受けたショックは相当のものだったそうだ。その時に、弥生のチューニングを誤ったのではないかと言われている。誕生したのは、IQ300とも言われる天才型アニマロイド。しかし失敗作だったんだ」
「失敗?」
「知能だけに力をつぎ込むあまりに、性格がバランスを崩したんだ。アニマロイドは、恐らく途中までは博士の記憶辞書をベースに作られていた。つまり博士の性格をある程度踏襲していた。南博士は頭が良いが、人付き合いが苦手でコンプレックスが強く、臆病だったと言われている。そちら側の性格が酷く強く出たらしい」
「そう、なんだ」
「そこに高い知能が加わった。非常にプライドが高く……その反面、コンプレックスが強く恨みやすい。本当の自分を人に開示するには臆病すぎて、人を見下すことで、自分のバランスを保つ。弥生はまず冷静に事態を把握した。自分の状況を理解した。そして母を殺した南博士を、自分を実験台にする人間を憎んだ。誰も信じず、誰も愛することが出来ず――憎み、蔑むことで自分を作っていった。南博士を凌ぐ知能は狡さへと形を変えた。弥生は博士の研究概要を理解し、また知らされていない自分の能力を発掘した。それは他のアニマロイドや、普通の動物の心を奪いコントロールする術だ。そして準備が整った時、表面上は従順に見えた弥生は見えないところで人間に牙をむき始めた。研究員が数人、犠牲になった。その中には南博士本人も入っていた」
胸の奥がざわついた。研究員だった母は、弥生を知っていたのかもしれない。
「下っ端の研究員が二人、研究所の催眠ガスシステムの誤作動で命を落とした。それは全て妹のエイプリルのせいにされ、南博士の意思に反してエイプリルは処分されてしまった」
「違ったの?」
「確証はない。だが、エイプリルにシステムハックする知識は無かったというのが博士の見解だ。彼女は言語能力を発達させたマルチリンガル・アニマロイドだったが、理数の方面の知能数値は平均レベルだったらしい」
「ということは、弥生が工作したの?」
「おそらく。しかし弥生は狡猾で権力者の前ではその本性を出さなかった。だから誰も当時は弥生がそんなことをするだなんて思わなかった。しかし、南博士は気付いた。自分が生み出したその化け物の正体に。何とか動作を止めようとして、失敗した――南博士は大怪我を負った。弥生は処分される代わりにユニバーサルバリアに入れられた」
「ユニバーサルバリア……?」
「当時の最先端の檻だ。外からの物理攻撃を受けない代わりに内側からは解除できない。バイタルコントロールが自動で半永久的に行われる。さすがに一体の開発に弱小国の国家予算並の金額をかけている高性能アニマロイドを、二体続けて殺すわけには行かなかったらしい。そしてユニバーサルバリアの中にいた弥生は震災で死ぬことも無く廃墟の中で生き続けてしまった」
「南博士は死んだのに?」
「そうだ。そして先日、廃墟の中で、その弥生を発見したのがやみくろたちだ」
「やみくろって、あの――?」
黒くて滑る影のような男たち。
「そうだ。先日私たちが襲われていたアレだ。私は身軽だが腕力がどうも無くてな――茜が奇襲でやられてしまって……。助かった。改めて礼を言う。やみくろとは地下に生き汚水を飲み腐ったもののみを食べる生物――と、近代古典の引用してつけた大層な名だが、元は都内を根来にしていたただのチンピラ集団だ。下水跡や地下鉄跡を通路に、未だに火事場泥棒のようなことを続けている」
葵は立ち止まり、ライトで天井を照らした。十字路だ。葵は看板を確認して右に曲がった。
「道、全部覚えているの? すごいね」
「すごくはない。この辺はよく通るからな。今は誰も居ないが――昔は此処に毎日何千人もの人間が行き来してたんだ。迷路みたいな町だったんだな、東京は」
「葵――たちは、G区内を全部把握しているの?」
「ほんの一部だ。我々の活動区域は軍によって制限されている」
葵の言葉に新太は驚いた。
「軍は――君たちの存在を知っているの?」
「もちろん、知っている」
葵の答えは短く、そしてシンプルだった。
「蝶野先生が言っていた噂は大体合ってる。お前のお父上も知っている筈だ」
「え!?」
今まで自分が信じてきた全てが、足元から崩れ落ちていく。信じていたのに――此処でもまた、裏切られた気持ちだ。
「ショックか?」
足を止めずに、そして声色も変えずに葵が言った。
「人様のご家庭の事情に口を挟む趣味は無いがお前は少し甘ちゃんだな。日本国の陸軍大佐がその全てを家族にべらべら喋るとでも思うのか?」
「ほっとけよ」
そんなの言われなくても十分にわかっている。新太は手のひらを握った。どうせ新太は、何も知らない。何も教えてもらえず、何も任せてもらえない。それはきっと自分が頼りないからなのだ。だけどそんなのどうしろって言うんだろう。
「お前らは、何なの?」
「端的に言うと、私たちは六賢者の生き残りだ」
「六賢者の――生き残り?」
葵は「そうだ」と、小さく言った。
「十二年前、全てが燃える中で、防火壁の奥の奥に閉じ込められた人間が少なからずいた。そのうちの一つの集団が太田記憶科学ラボラトリー。それが、我々の母体だ」
「太田――記憶科学?」
「六賢者の一人、記憶コントロール科学、ディギンス・シュレーマン法の世界的権威、太田大貫博士とその助手、および付属研究者たちの集団だ。50名程度か。大学院生も含まれていた。そしてたまたま来ていた博士の子どもが二人、それが私と茜だ」
「お前らも? お母さんは?」
「母は震災よりも前に病気で死んでいる。正しくは私たちの出産で命を落とした」
「――ごめん」
「構わない。お前のお母上もいないのだろう。東京にはそんな子どもはたくさんいる」
「そう……だね」
「我々の父は変わり者でな。この震災を、そして閉じ込められたこと事態を、言葉が正しいかわからないが好機と捉えたんだ」
「どういうこと?」
「そう。太田博士の専門は記憶コントロール。その研究をするのにうってつけ、と――彼はその助手たちと共に、内部に残っていた人間全ての記憶に手を入れて、誰にも知られない場所で一つの世界を作り上げてしまった。――のだ」
わかるか? と葵が聞いた。新太は首を振った。
「『東京ゴースト』意味はそのまま、東京の亡霊。我々の組織の構成員のほとんどは、東京に生存する唯一の生き残りとして、生かされている。父は悲しみにくれる研究員や、ここまで辿り着いた一般市民の記憶を少しずつ丸めて、壁の内側に一つの町を作った。外の世界から分断された、取り残された世界。G区の内側で、ちりゆく花のように、最後の東京の魂を宿して生きている。……それが東京ゴースト。いわば父の作品だ。今は500名を越えている」
「どういうこと? ――みんな、記憶が無いの?」
「私と、茜、そして鈴蘭という花魁以外は、皆何かしら手を入れられている。強制はしていない。それでもほとんどの者が自分の意志で、悲しみの記憶を捨てた。……その結果、ほとんどの者にとって震災は生まれる前の出来事として記憶に刻まれている」
「生まれる前の出来事!?」
「そうだ。悲劇だが、自分ごとではない。歴史の教科書で学ぶ、戦争のようなものだ」
「でも、そんなことって――」
想像を絶する。誰かの手の内で、幻想に生きているだけの、毎日。
新太にはわからない。そんな日々に一体何の意味があるのだろう。
葵は立ち止まり、新太を見た。少女の大きな瞳の奥に、ただ静かな影があった。
「言いたいことは、わかる。私も、そんなのいくら幸せになれるからと言われても真っ平御免だと思う。思っていた。だけど、最近になって少しだけわかるようになった。大人たちは、失ったものが大きすぎた。……この廃墟の大きさを、考えてみろ」
どこまでも続く影。聳え立つビルの残骸。異世界。
「全てのビルの、全ての窓に、明かりが灯っていた。全ての地下道に、地上に、毎日人が溢れていた。たった十二年前の、その日までは。突然、消えた。失ったものが、大きすぎたんだ」
葵は静かに繰り返した。
「その立ち上がれないほどの悲しみと苦しみの中に居て、それを取り除いてもらえると手を差し伸べられたら――その手を取ってしまう人を、弱いと非難する権利は誰にも無い」
「……そう、だね」
新太はぎゅっと唇を噛んだ。どうしてだろう。父のことを考えていた。
「お前も一瞬記憶を失っていただろう。痛くも痒くもないし、自分を失うわけでもない」
葵は穏やかな声で言った。
「――軍は、どう関与しているの?」
「研究結果を軍に提供している」
葵は短く言った。
「その代わりに我々は内部での活動が許されている。六賢者のプロジェクトを震災で軒並み失ったことは、軍にとっても大きな痛手だった。どんな形であれその一つが生きているならば、秘密裏に継続したほうがメリットが大きい。ましてや東京G区など日本中誰もが忘れ去った地だ。バレることは絶対にない。エネルギー含め生活資源の多くは軍からの支給品だ。それを知っているのは――ほんの一部の人間だけだがな」
G区内で続く――秘密裏のプロジェクト。
六賢者。記憶コントロール。悲しみを忘れるために作られた、閉ざされた町。
こんな廃墟の真ん中で、楽園と呼ぶには、あまりにも寂し過ぎる。
「偽りの日常には夢や華が必要だったのだ。たとえ張りぼてであっても文化を守っているという自尊心も。それを守るように――黒子が動く。私と茜は仕掛けを知っている」
「じゃあ、睡蓮は?」
葵は振り向いた。意外そうな顔で言った。
「どうして睡蓮が出てくるんだ?」
「この前、お世話になったんだ。あの人も記憶を改ざんされているの?」
「睡蓮は少しだけ特殊だ。私たちも睡蓮がどこからやってきたのか知らない。彼女は最初から記憶が無かったそうだ」
「最初から、記憶が無かった?」
「G区に取り残された迷子を父が拾った。震災のショックで記憶が無かったらしい。当時まだ十歳やそこらだった睡蓮は、ゴーストの中では飛び抜けて若い。だから花魁になったんだ」
花魁は親父の愛人だと茜が言っていた。腹の奥が何故か竦むように痛んだ。
「お前の親父は――何なの? そんなに愛人とか――」
思わず口にしてしまった。葵は少し目を丸くしてから、恐らく今夜初めてはっきりと笑った。
「お前は本当に馬鹿正直だな。まあお前が思うようなことではないのだが、どちらにしても関係ない。それに今は睡蓮は罪人だ」
「何をしたの?」
「禁じられた術を使った。そのせいで父上は未だに昏睡状態から目覚めん」
「父って、東京ゴーストのリーダー?」
「そうだ。六賢者の一人、DS法の第一人者太田大貫博士だ」
「何があったの?」
「詳しくはわからん。その場には睡蓮と父上しかいなかった。睡蓮を投獄しろと言ったのは鈴蘭だが――本人も拒否しなかった。私は父上が睡蓮の記憶を戻そうとしたのに睡蓮が抵抗したのだと思ったのだが。よくわからなない。そして猫が行方不明だ」
「猫?」
「睡蓮が最初から飼っていたアニマロイドだ。名前は九月。恐らくそいつの兄弟だ」
葵は、新太の背中を指した。気配からすると、オーガは眠り続けている。
「赤いリボンを付けた黒猫だ。G区外に出てしまった可能性もあるのでな。ずっと捜索しているが、茜が見つけたらしいな」
「――赤いリボンを付けた黒猫――?」
「知っているなら言え。こちらばかり開示させるな」
「確か、都ちゃんが拾った猫が、黒猫だ」
「――千年崎都か。なるほど」
だから灯台下暗しか、と葵は呟いた。
「九月は早く確保しなければいけない。弥生が呼んでいる。万が一、あちら側の手に渡ったら拙いことになる」
「でも、やみくろがその化け物の弥生を手に入れたとして制御できるの?」
「制御できるのかは知らん。恐らくできないだろう。ユニバーサルバリアが解除されて居ないのであれば弥生は仲間、アニマロイドを呼んでコントロールするつもりだ。だからやみくろはお前の小鳥を奪った。そして小鳥の話から、猫の存在を聞きつけ――発信器をつけて帰した」
「猫のほうがいいってこと?」
「恐らく九月とオーガは弥生の姉弟か、もしくは子どもだ。血が濃いほうが影響を受けやすい。やみくろの連中は恐らく、第二の我々になりたいのだ。アニマロイドはヒューマロイドへの投資を削ってまで軍が資金を注入していた期待の研究だ。それを盾に軍と交渉するつもりなのだ」
「そうまでもしてG区の中にいたいの?」
新太は真っ暗な迷路を見渡す。寂しくて、不気味で、古くて、汚いだけの町。こんなところに、長く居たくない。地上に上ったとて、瓦礫だらけの煤だらけ。どこまでも廃墟が続いているだけの場所。人が、生きる場所じゃない。
「G区の内側にいたいわけではないだろうが、金が目的だろうな。ただ、震災でつぶれた技術がいくつも眠っているという噂はある。本格発掘はされていない。宝の山だという話も――無いわけではない。ただ、それが本当に存在したとて、愚かとしか言えないがな。滅ぶべくして滅んだのだ。この町は。私はそう思う」
静かな声で、しかしきっぱりと、少女は言った。
「技術は人を幸せにしないってこと?」
葵は首を振る。
「そうとは言わん。でも全てが必ず幸せに繋がると思うことは愚かだ」
葵は悟った風に言った。きっと新太が見てきたものとは違うものを、この少女は見て生きてきたのだ。同じ国に生きて、全く違う十五年間。葵は、くるりと此方に背を向けると「もう少しだ」と言った。
それからは無言で二人、地下道を歩いた。
◯
「待てって。どこ行くんだよ?」
バイクにまたがった途端、背後で声がした。真っ暗な工場の前に、拓巳が立っている。
月はさっきから隠れたり現れたりで――街灯もない町の隅は、G区じゃなくとも真っ暗だ。
埃っぽい夜風が通り抜ける。
ごうごうと、ビル鳴りとは違う低くて太い風の音がする。海が近いからだろう。
工場は静かで音がしない。裏の孤児院からも人の声はしない。
夕方、拓巳に拾われた都はそのまま藤井整備工場の裏にある孤児院に行った。
昔、居た院だ。事情を――詳細を省いて、話して、今晩は世話になることにした。
渋谷に戻って元首都高に乗るには遅すぎる時間だったし、何よりマシンの整備も必要だった。拓巳は何も聞かずに都のマシンを引き取った。それから一度も、会話をしていなかった。
「ほっといて」
泣いていることがばれないように俯いたまま言った。声が震えそうになるのを堪える。
「私は行かなきゃ行けないんだよ」
ジジが。ジジが、泣いている。
「おまえなぁ、いい加減にしろよ。蝶野呼ぶぞ?」
「林ちゃんは関係ないでしょ」
「甘ったれんのもいい加減にしろよ」
拓巳は、呆れたように言った。
「甘ったれてなんか――」
「甘ったれてんじゃねえか。ずっとジジがジジがってぐずぐず泣いてばっかで、お前も針嶋もアニマロイド失ってから阿呆みたいに自分見失いやがって」
「何で、一緒にすんの」
「一緒だろ。どっちも甘ちゃんだろ。お前、今どこに向かおうとしてた?」
「事故現場だよ。ジジはきっとあの周りで私を待ってるよ」
そこはG区ではない。だから危険じゃない。そう言うと拓巳は「ふざけんなよ」と怒鳴った。
「おまえは十五年間、このクソみたいな町で育ったくせに何も知らねえのか? このへんにどんな有象無象が潜んでるかも、その中をガキでしかも女がこんな真夜中に通って、どうなるのかの想像も付かないのか?」
「どうも――何ないよ」
「それ、お前の兄ちゃんと蝶野が聞いたら何て言う?」
都は黙った。唇を噛む。そんなの、わかってる。全部わかってる。このへんは軍の警備もろくに追いついていない無法地帯だ。この時間に外に出ること事態が、狂気じみている。東京で育っていてそんなこと知らないはずがない。だけど、それならばどうしろと言うのだろう。
「寝てろよ。日が昇ったら、一緒に行ってやるから」
「それじゃあもう遅いよ」
「今だって変わらねえだろ、わかんねえ女だな」
「藤井にはわかんないよ――藤井には、家族だって友だちだっているじゃない」
都はそう言って、その場にしゃがみ込んだ。
「――泣けばいいと思ってんの?」
冷たい声で幼馴染は言った。拓巳の言葉は、思ったより突き刺さった。
「泣けばとりあえず誰かが何とかしてくれる――とかいう、甘ったれた根性大嫌いなんだよ。受け止めろよ。黒猫見捨てたっていうなら、まずその事実を。駄々捏ねて解決するなら誰だってそうするよ。今までそれで何かが叶ったことがあったか? そんな甘っちょろいこと言ってるなら、まだ新太のほうがわかってる」
「そんなの――わかってる、けど」
涙がぼろぼろと毀れたがしゃくりあげるのは耐えた。泣いてると思われるのは癪だった。だけど止められない。拓巳が言ってることは、正しい。どこまでも正しい。だけど正しい意見がいつだって救いになるわけじゃない。それが――甘えだと拓巳は言っているのだ。
都はただ暗闇に向けて黙って泣いた。
月も隠れてしまった。そんな空気は、読まなくてもいいのに。
「ちょっとぉ、女の子泣かすなんて趣味悪いよ」
突然、その暗闇から声がした。
「誰だ?」
拓巳が緊張した声を上げた。都は咄嗟に立ち上がる。夜の空気が冷たいことに、今更気付く。
「こんなこと言っても信用して貰えないだろうけど、危害は加えないから警戒しないでね」
真っ黒な男が暗闇から、薄闇の中へ姿を現した。頭のてっぺんから両手両足まで真っ黒だ。
フードの下、目だけ出ている。
「誰だ――お前、この間のやつらか」
「違いますぅ。みんな間違えるんだからやんなっちゃうな。それよりさっきから話を少し聞かせてもらったわけだけど、九月、っていうか、猫ちゃんに何があったの?」
嫌な予感が背筋に走った。黒の男――あの、追ってきた男たちの一味だ。
しかし都の思考を読むように、目の前の男は「だから違うって」と言った。
「あんなべったり気持ち悪いやつらと一緒にしないで」
「だからお前、誰だよ」
拓巳が男と都の間に割り入り、凄むように言った。
「おーっと、お前とやりあう気はないよ。強いんだもん、拓巳くん」
「なっ――何で、俺の名前を知ってんだ!?」
「まあまあ」
黒い男は、ううんと両腕を組んだ。
「九月は行っちゃったか。こりゃ、弥生マジやばいかも」
「弥生――? 今、弥生って言った?」
ジジも言っていた。弥生が目覚めたと。
「弥生って――何のこと? あの、中で吼えてる化け物のこと?」
「吼えてるって――あれ、ビル鳴りじゃねえのか」
黒い男は「ごめんごめん」と首を振った。
「口が滑っちゃった。今のは忘れて。何でもナイナイ」
「おい、巫山戯てんのか」
「ごめん、そろそろ行くね」
「ちょっと待て!」
「ばいばーい」
拓巳が踏み出すより速く、闇は闇に戻った。足音を全く立てずに、気配は消えた。影がどこへ行ったのかわからなかった。
「……何、今の」
「……知らん。徒歩で現れて、徒歩で消えたのか?」
「まさか……」
真横で、暗闇が唸っている。町の影は、かつてなく深く。得体の知れないものが、その奥で動き出している。その気配だけを、感じながら。
都と拓巳は呆然と風の鳴る音を聞いていた。
◯
暗い通路の行き当たりで葵が右の手を翳した。鉄の扉が、鈍い音を立てて自動的に開いた。
再び暗闇に繋がっていた。空気の匂いが違う。外が近い。新太は上を仰いだ。影と影の狭間に切り取られたように、星空が覗いた。
「此処から先は人がいる。お前は喋るな」
「……わかった」
新太は葵の黒い背中を追って、暗い路地を抜けて行く。
影と影の合間に、光を知覚する。それは、ぼんやりと地表を照らし、少しずつ近付くと人の気配を感じた。
路地から出ると坂道の町が現れた。大きなビル跡の合間にひっそりと隠れるように、赤い灯篭が地面に近いところで揺れている。そして新太は亡霊を見た。正しくは亡霊たちを見た。
あの日、茜と脱出した時のように、和装をした人たちが歩いていた。
祭りではない。しかし、時間は深夜の筈なのに、それにしては多い気がした。男もいるし、女もいた。連れ立って歩いている者たちもいたし、一人で歩いているものもいた。老人もいたし、若そうな人も居た。小さな子どもを抱いた、母親のような女の人も。
新太は不思議な気持ちで、その親子連れとすれ違う。
新太と葵は完全に影にとけ込む忍者の格好だが、それを目にとめる者はいなかった。むしろ、見えてすらいないのではと思うレベルで、みんな二人を無視をした。男も、女も、歴史の授業で見た江戸時代劇のような格好をしていた。違うのは、髪型だけだ。新太は新潟に住んでいた時に父と一緒に行った花火大会を思い出した。あそこではまだ浴衣を着る風習が残っていた。
和装の男や女たちは、言葉少なに、廃ビルに吸い込まれて行く。そして、新太はその一つ一つが、店であることに気付いた。色んな場所から、湯気が出ている。こんな深夜なのに、良い匂いがする。
「……ラーメン?」
つい呟くと、葵がばっと振り向いた。新太は慌てて、小さく首を振った。ごめん、のつもりだったが、葵はただ小さく「このへんは食堂街だ。今の時間は人が多い。行くぞ」と言った。
なるほど、食堂街。廃ビルの内側の一階に色んな飲食屋があるようだった。新太が想像していた『亡霊』の生活とは全然違う印象だった。こっちからは魚を焼く匂いがするし、あっちの煙はどう見ても焼き鳥だ。
(……ちょっと、楽しそう)
不謹慎かもしれないけれど、そんなことを思った。そして彼らのほとんどが、震災の記憶を持たないこと――すなわち、真実の自分を知らないことを、不思議に感じた。
「我々は基本夜に活動している。昼は色々なものが見えすぎてしまうのでな」
足早に進みながら葵が言った。何人もの人間とすれ違ったが、誰も二人を気には止めなかった。坂道を静かに下っていく。
どこかから、シャランと鈴の音がした。それはシャラン、と繰り返す。歩いているにしては少し遅い速度だ。葵が小さく舌打ちした。
「――鈴蘭だ。隠れるぞ」
葵は新太の腕を取るとビルとビルの隙間、人一人でギュウギュウな場所に滑り込んだ。意図しなくても身体が密着して、新太は焦った。しかし葵は何も言わず指の前に指を翳した。新太はこくこくと頷く。心臓が色んな意味でバクバクして、その音が聞こえてしまいそうだ。
鈴の音はだんだんと近付いてくる。かくれんぼで、鬼が近付いてくるような、緊張感。
どこからか、ふわり、濃い花の芳香が鼻を掠めた。
そして新太は壁の隙間から、薄闇の世界に、極彩が映えるのを見た。
赤い灯篭。その合間を、背の高い花魁が一人、鈴の音を立てて歩いていく。
簪は誰よりも豪奢で、真っ赤な帯をたくし上げて、ゆっくりと、ゆるりと。夜の街に妖しく映える。睡蓮とは違う。穏やかさも、柔らかさも無い。まるで美しく獰猛な獣のような。
新太は息を呑んだ。ほんの一瞬、鈴蘭が此方を見た気がした。花魁は赤い唇の端をくっと上げた。
(――ばれた?)
限界まで心音が跳ね上がる。しかし次の瞬間、狭い視界から、彼女の姿は消えていた。鈴の音が遠ざかって行くのが聞こえた。
葵が声を潜めて言った。
「屋敷に向かっているようだ。我々も急ごう」
「あの人は、なんなの?」
「父上が倒れている今、ゴーストの事実上のナンバー1だ」
「何で隠れる必要があるの? 敵じゃないんでしょ?」
「面倒な女なんだ、あれは。お前の存在がばれたら色々と厄介だ」
葵はそのまま、細い路地を奥に進んだ。何とか人二人が通れる位の通路に出ると、葵と同じ黒装束が歩いていた。葵を見て脚を止める。
「葵様、鈴蘭様が探しておられました」
「後で行くよ。それより冬は?」
「冬様は睡蓮様のところかと」
「手っ取り早いな。行くぞ」
葵はそのまま、細い坂を下った。その後に続く。
「冬って?」
「黒子を束ねる人間だ。ついでに私と茜のお目付け役兼教育係だった。昔は睡蓮も奴から教育を受けていた。吃驚するぐらい何でも知っている。無口だがな」
葵は坂の下にあるビルの脇にある鉄の扉を開いた。再び階段だ。今度は更に下に続く。再び地下通路が現れた。
「このへんのビルは地下で繋がっているんだ」
「本当に蟻の巣みたい」
葵は手をかざして、また鉄扉を開けた。再び地下道だ。小さな灯りを付けた。
「この先は普通のゴーストは入れない」
「どこへいくの?」
「屋敷、まあつまり研究所だ。睡蓮のところに行こう。猫はそこが一番安全だ」
「睡蓮――」
茜が睡蓮のことを教えてくれると言っていたのを思い出した。交換条件だったのに、結局何もまだ教えてもらっていない。
「睡蓮が気になるのか?」
ストレートに葵が聞いた。
「……ううんと、睡蓮は弥生と関係あるの?」
話を逸らすために何気なく聞いた。すると葵は、ことさら驚いたように言った。
「何だって?」
「えっ、いや、何となく、その」
言葉に詰まる。葵はしばらく新太を睨んでいたがすぐにまた歩き始めた。
「勘が良いのか、それとも知っているのか、どっちなんだ」
「どういうこと?」
「隠さなくても良い。お前の母親は南研究所の所員だったんだろう? 何か知っているのか」
「残念ながら、何も知らないよ。睡蓮と南博士は関係あるの?」
ああ、と葵は低い声で言った。
「私は関係者じゃないかと見ている」
「関係者って?」
「南博士の妹か親族か、子どもの可能性もあるな」
「そうなの? 南博士って結婚してたの?」
意外だった。新太が昔少し聞いたことがあるのは、博士は人嫌いで公にも出て来ず、自分の何もかもを人に閉ざしていた、ということくらいだった。
「未公開な以上、可能性がゼロではないだろう」
葵が扉を開けると、見覚えのある板張りの廊下に出た。屋敷だ。睡蓮が近い。
「赤のフリをしろ。顔を上げるなよ」
葵は茜と逆のことを言って足早に廊下を進んだ。俯いたまま、その背中を追う。屋敷の中を通る人間の格好は多種多様だった。黒装束や和装の者もいるが、白衣を着た人間ともすれ違う。
「屋敷の中は混在ゾーンだ。記憶を多く残すものも多い。普通のゴーストはここには入れない」
葵が静かな声で言った。途中、半分開いた障子があり、何気なく覗くと中には見たことがある姿があった。紫色の帯。あの花魁は、何と言ったか。たしか浜木綿だ。
花魁、花魁、花魁。新太の胸がざわざわとする。
「ねえ、花魁は全員お前の父さんの愛人なの?」
「本当の愛人は鈴蘭だけだ。いや、愛人なのかはわからないが、そういうことになっている。花魁の格好をしているのは、三人だけだ」
「……何で花魁なの?」
「知らん。……鈴蘭と浜木綿の二人に関しては、箔を付けたかったんじゃないか?」
「箔?」
「簡単に言うと、身分の違いを付けたかったのだ。……姫じゃなくて花魁って言うのが微妙だが、あいつらの気性からすれば、まあそっちの方が合ってたんだろう」
「鈴蘭が……偉いのはわかるけど、浜木綿もなの?」
「そうだ。彼女はこの研究の立役者の一人だ。この……東京ゴーストの基礎設計(グランドデザイン)をしたのは浜木綿だ。彼女は元々江戸文化の研究者で、明治から平成ぐらいまでの前近代文化や風俗にも詳しい。この世界は彼女の作り上げた設定で出来ている」
「な、なんで?」
「閉じ込められて生きる者たちには、夢と見紛うような世界観、とやらが必要なんだ。……まあ、我々にはよくわからないが、夢の渦中にいるものと、これが夢だと知っているものでは見え方は違うからな」
「……じゃあ、睡蓮は?」
「睡蓮は……わからん。ただ、父上が側においておきたい理由があったんだろう。或は、おいておかねばならない理由、か。私はそれこそが、南博士との関連だと思っているがな」
見覚えのある階段に出た。葵と新太は、コンクリートの螺旋階段を駆け下りた。
扉を開けると、あの赤い光が揺れていた。木格子は閉じている。
その向こう側に、先日と何も変わらない様子で、美しく若い花魁が静かに座っていた。
「睡蓮!」
思わず声を掛けると、優しい雰囲気を持つ花魁はゆっくりと顔を上げて「あら」と、驚いたように言った。
「また、いらしたのね」
そして睡蓮は、柔らかい笑顔を作った。新太も思わず笑う。何かを言いたかったけど、何と言葉をかけて良いものかわからなかった。
「げ、元気?」
口にしてから、閉じ込められている人にそれは無いだろうと思ったが、睡蓮は「ええ」と言って優しく微笑んだ。
視界の端で葵が呆れた顔をしているのが見えて新太は慌てて表情を無に戻した。
「葵様、これはどういうことです」
突然、光が届かない部屋の隅から、低い男の声がした。ただの闇だと思っていた新太は驚いて声を上げそうになった。葵は影を向いて言った。
「冬、見逃してくれ。こいつは八月の飼い主だ」
葵が声をかけた先には、よく見ると長身の男が一人立っていた。黒隠密の装束を着て、完全に影に溶けている。顔が覆われているから表情は読めない。その声も雰囲気も陰気だ。
「八月?」
新太は言われる前にリュックを下ろすと中を開いた。オーガはまだ寝ている。新太は、取り出して、腕に抱いた。
「まあ、貴方が八月……。本当にいたの……」
睡蓮が格子の向こう側で目を丸くした。そして表情を少し沈めた。
「九月は見つかったのかしら?」
「居場所はわかった。今茜が確保に向かっている」
「そう、良かった」
「葵様、どんな理由でも外部の者を連れ込むのは関心しません」
「非常事態だ。鈴蘭には言って無いだろうな?」
「言ってはおりませんが勘付かれているかと。貴方以上に勘の鋭いお方だ。ご存知でしょう」
「あいつが鋭いのは女の勘だ。我々のものとは質が違う」
「どちらも違わぬかと。そんなことより、その猫は本当に八月なのですか?」
冬と呼ばれた男はオーガを見て、葵に聞いた。
「八月じゃなくて、オーガです。オーガスタでもいいですけど」
新太が答えた。番号のように呼ばれるのはあまり気分が良いものではない。話題の中心にいるオーガは、まだ寝ていた。いくらスタビライザーが聞いてるとは言え、この渦中でずっと寝っぱなしというのもいかがなものか。
「案外、図太いんだな」
葵が新太の心を読んだかのように言った。睡蓮小さく笑った。
「睡蓮、思い出した?」
新太が聞くと、睡蓮は小さく首を振った。
「何の話だ?」
葵が新太と睡蓮を見比べながら聞いた。
「何故、部外者のこいつに話して私たちに話さないのだ?」
「――新太様はお外の方ですから」
葵のきつい口調に、睡蓮は何一つ様子を変えずに答えた。冬が低い声で言った。
「睡蓮は内通者がいると考えていると。今、その話をしていました」
「内通者?」
睡蓮は、はい、と小さく頷いた。
「あの時、見たのです。もう一人の人影を」
ゆらり。赤い灯が揺れる。格子越しに、花魁の表情を妖しく灯す。新太はゆっくりと、息を飲んだ。この鼻を掠める甘い香りは、一体どこから来るのだろう。
「もう時間がありません」
睡蓮はその長い睫毛を伏せて呟いた。
「全てをお話いたしましょう」
穏やかな声が蝋燭の火のように微かに震えた。
「あの夜、旦那様が私の部屋に参りました。皆様がどう思われているかは知りませんが、夜中に旦那様が私の元へいらっしゃるのは初めてのことで、私は大層驚きました。旦那様は白光灯篭をお持ちでした。目にするのは初めてで、興味深く見ておりますと、突然頼みがあると旦那様が申すのです」
「頼み?」
「私の記憶を戻すと仰るのです。正直なところ、意味がわかりませんでした。だって、私の記憶は最初から無かった。私は、煤けた廃墟を九月を抱いて一人さまよい歩いているときに旦那様に――正しくは、冬に拾われました。震災のショックで記憶を亡くした遺児であると、ずっと、そう言われていました」
「違うのか?」
葵は冬を見た。男は、首を縦にも横にも振らず、ただ睡蓮に続きを促した。
「……今となっては真相はわかりません。しかし、旦那様はそれは違う、と申すのです。何が違うのかわかりません。しかし、旦那様はこう申されました。『それよりも前に私はお前の記憶を消したのだ』と」
「それよりも前?」
「はい、そうです。旦那様は確かにそう仰りました。それは、私が焼け野原をさまよう前かと伺いますと、そうだと仰います。そしてこう仰ったのです」
――弥生が目覚めた。三月の子守唄を、思い出して欲しい。と。
「父上は本当に?」
「もちろん細かい言葉じりは違うかと思いますが、概ねこんなことを」
睡蓮は――少しの間暗闇を見ていた。そして再び口を開いた。
「弥生の名を聞くのは初めてでした。三月の子守唄と言われても、何のことだかわかりません。私は旦那様がきっと何かを勘違いされているのではないか、と思いました。しかし……」
どきりとした。睡蓮は新太を見た。そして目を細めて、腕の中にいるオーガを見た。
「……その話を、私の腕の中で聞いていた九月が、異様に怯え出したのです。『そんなはずはない』と。『弥生は死んだのだ』と。私は大変驚きました。旦那様は九月に『残念だが本当だ』というようなことを仰ったと思います。そして九月に『お前は三月の子守唄を知っているのか』と、申しました。九月は知りませんでした。ただ、子守唄は何よりも恐ろしいものだと――そのように」
「子守唄は歌じゃない?」
葵が怪訝な顔をして眉間を寄せた。睡蓮は「はい」と頷いた。
「南博士の子守唄はアニマロイドが恐れる最後のものだ、と」
「子守唄は停止コードです」
冬が短く言った。睡蓮はしばらく逡巡するように沈黙した後「はい」と、赤い灯をぼんやり見つめて言った。
「待て、何故お前が知っているのだ?」
「南博士の論文はグローバル・アカデミア・アーカイブに全て残っています。六賢者のものは震災後、ひと通り目を通しました。子守唄とは音声に乗せたリセットコードです。南博士は誰でも操作できるような停止スイッチを作るのを嫌がった。しかし愛玩用とは違い、軍利用も視野にあったプロトタイプには、暴走した際の停止コードを付けることが、研究倫理委員会の規定できまっていた。そこで音声で、子守唄を歌うように声をかけることで――アニマロイドを止めることができる音声コードを開発したのです。それが通称「子守唄」と呼ばれています。言葉はアニマロイドごとに違うので、三月の子守唄は、弥生にだけ作用するものでしょう」
睡蓮は、ゆっくりと頷いた。
「はい。昔九月について調べていた時に、恐らく同じ論文に行きついていたのを思い出したのです。アニマロイドは記憶装置と人口声帯が相互作用することによって人間的思考を手に入れる――そうです。そのため子守唄によってそれを停止してしまことは――脳は正常なのに、言葉を失ってしまうことに等しいと。それはアニマロイドにとって想像を絶する苦しみになると」
「何故父上は睡蓮がそれを知っていると?」
「旦那様は九月が普通のアニマロイドではないことに気付いておいででした。確かに、屋敷内の他の猫たちと九月は一線を隔しておりました。恐らく南博士が、何かしら関係あると思われたのでしょう。九月だけではなく、その九月と一緒にいた私も……」
「私もそう思った。それか南研究所の関係者と言う可能性もあるだろう」
葵はそう言ってちらりと新太を見た。
「こいつの親も、研究所の関係者だ。そして、七月と九月と十月の飼い主だ」
「……まあ。七月と十月もいたの」
「えっと、七月と十月じゃなくて、ナナとカンナね」
そして新太が手にしている猫はオーガスタ――八月。睡蓮の猫が、その兄弟らしき九月だ。
「旦那様は、私にその話をした後も、どこか躊躇っておいででした。曰く、十二年も前の記憶を戻すのは、そしてディキンス・シュレーマン法で消した記憶を無理やり戻すのは、危険なのだと説明されました」
「どういうことだ? 父上は十二年前にDS法でお前の記憶を消したのか? いつ? 十二歳未満の子どもにDS法を行うことは禁忌だぞ?」
「わかりません。ただ、旦那様はそう申したのです。私は自分にDS法がかけられていることも、何も知りませんでしたので、ただ驚くことしかできませんでした」
「あのー。話の腰を折ってすみません。ディギンス……何? DS法って何?」
じろり、と冬がこちらを睨んだ。新太は縋るように葵を見つめた。
「ディギンス・シュレーマン法、通称DS法は二十一世紀後半にディキンス博士とシュレーマン博士によって確立された記憶コントロール術だ。出来事や時系列の記憶ではなく対象の記憶を抹消することができる。記憶を消すと言っても、消しゴムで消してしまったり脳の一部を損傷するのではなくて、その回路が通じないようにするんだ。ただ犯罪などに使われると困るので、使用には免許が必要だ。取得するのは簡単ではないし、当時の日本にも父を含め、行えるのは数人しかいなかったそうだ」
「なるほど……」
そういう方法があるのなら、ゴーストの人たちの記憶を書き換えるのも容易だったのだろう。
「……父上がそれを応用して誰でも比較的簡単に使えるようにした記憶コントロール術がホワイトバンだ。白光灯籠という特別な機材を使い、対象から事象時系列記憶などを全部消すものだ。これは震災前からグリーフケアや、心理カウンセリングなど医療の分野で使われるようになっていた。DS法はよっぽどのショックがない限り記憶は戻らない。無理やり戻すと、脳内分泌物が乱れて自我や精神状態のバランスを崩す可能性がある。……逆に、ホワイトバンは小さな綻びや時間経過によって戻ったりもする代わり、脳や記憶へのダメージはほとんど無い。ホワイトバンは知識と機材があれば誰でも出来る」
「……ホワイトバンには免許はいらないの?」
「免許は不要だが、白光灯籠は容易に手に入らない」
「なるほど」
「もちろん、腕のよしあしはあるが。簡単に言うとこんなところだ」
「つまり、DS法は対象――人一人を忘れたりとか、そういう細かい設定をすることが可能だけど、ホワイトバンはざっくりここ一週間の記憶を消す、とかそういうこと?」
「そうだ。細かくしっかり消すのがDS法、ざっくり広く消すのがホワイトバン。ホワイトバンは馬鹿がかけても、まあ安全だ。茜がお前にかけたみたいにな」
葵の言葉に、睡蓮が目を丸くした。そして笑った。
「……何がおかしいの。茜のあれ、三日くらいしか保たなかったよ。というか、茜の顔みたら思い出したし」
「それは珍しいな。DS法にかかっているとホワイトバンにかかりにくい言う特性がある。記憶を失ったことは?」
「あるわけないだろ!」
新太が声を上げると、冬が「そろそろ続きを」と睡蓮に言った。
「はい。――旦那様があれほど私に低姿勢に願い出るなど、よほどのことだ。DS法の解禁は大人の私の心を壊す可能性もあると、旦那様は仰いました。それでも私は、それが必要なことであればかまわないと申したのです」
睡蓮は、ゆっくり目を細めた。
「……己が誰かもわからず、ただ漠然とした不安の中で生きてきただけ。芝居にも馴染めず、かといって他に行く当てがあるわけでもなく、逃げ出すほどの情熱もない。惜しいものは何もありません、と」
「……父上は解禁をかけたのか?」
「はい。しかし、その時に突然、別の箇所で――恐らくホワイトバンが起こったのです」
「どういうことだ?」
「部屋には私と九月、そして旦那様しかいませんでした。私は言われるがままに目を閉じました。その時、障子の開く音がして、瞼ごしに強い光を感じました。目をきつく閉じていましたがその光量に私は気分が悪くなりました。しかし、これが旦那様が仰る『解禁』なのだと思って、耐えたのです。九月が私の名前を呼びました。そして旦那様が、何でしょう、呻くような声を上げたのを聞いたのです。やがて光は収まりました。酷く気分が悪くてそのまま気を失ってしまいそうでしたが――耐えて旦那様の指示を待ちました。しかし誰も何も言いません。不安になり……しばらくしてから目を開けました。すると部屋の真ん中に旦那様が倒れておいででした。障子は開け放たれ、床には二台の白光灯篭が落ちており――九月の姿は消えていました。意味がわからず、どうしたらいいのかもわからず旦那様を揺さぶりましたが、脈はあれども意識はもどりません。そこに――鈴蘭姐様がいらっしゃいました」
「その後の騒ぎは知ってるよ。鈴蘭が、睡蓮が父上をダブルバンにかけたから捕らえろ、と騒いで、投獄されたんだろう」
「はい。白光灯篭を2台使うダブルバンは禁忌。二人で部屋にいたことにも、鈴蘭姉さまは非常に怒っておいででした」
「鈴蘭は嫉妬深いからな」
「あの方は、自分の知らない所でことが進むのを嫌う傾向があるだけです」
「庇うな。……しかし今の話だともう一人登場人物がいる」
「睡蓮が目を閉じているときに部屋に入ってきた人物?」
「そうだ。九月はそこで光を浴び、記憶を失ったか。恐らくは連れ去られて、その途中で逃げ出したのだろう。一方父上はあれから目覚めない――」
「そして私はずっとここにいます。一人で旦那様が申していた三月の子守唄を――思い出そうとしています」
そこで睡蓮は黙った。部屋の四隅の闇に、沈黙が沈み込む。
「――だから、裏切り者がいる、と」
「私の部屋は屋敷の奥。あそこまで入れる人間は限られている」
「目星は付いているのか?」
睡蓮はそこで黙った。
「――鈴の音を聞いた気がします。ただそれだけで断定はできませぬ」
「……鈴の音? でも、それは――」
その時だった。新太の耳にもシャランと、鈴の音が聞こえた。
「おやおや、もしや、あたしの話かい?」
全員が振り返る。睡蓮が小さく悲鳴を飲み込んだのがわかった。
新太は目を大きく開いた。そこに立っていたのは、先ほど路地で見かけた花魁だった。花魁の格好はみなそう変わらないのに、柔らかな睡蓮とも、理知的な浜木綿とも違う。結い上げられた髪、髷の部分に刺さった半月の櫛や鈴が付いた簪も、艶やかで豪華な打掛にも――まったく負けない派手な顔立ちの女。
薔薇は刺があるから美しいのだという――陳腐な台詞が脳裏を過ぎる。
しゃらしゃらと鈴の音を鳴らす簪が揺れる。首や手首は驚くほど細いのに威圧感がある。
「――鈴蘭。どうしてここに?」
「お前がいつまでたっても来ないから探してたのだよ、葵」
新太はごくりと息を飲んだ。鈴蘭はその大きく派手な目を細めて、新太を見た。
「客人とは珍しいこと。坊やはどちらのお方かしら?」
「……私の客人だ。お前には関係ない」
「おやおや。旦那様が不在の今――東京ゴーストの全権はわっちにある。お前が次期当主だとしても、今はまだ小童。女郎で言うのならば、突き出しもまだ済まぬただの新造。この鈴蘭の許可無く勝手なことをしてもらっちゃ困りんす」
鈴蘭の言ってることはよくわからなかったが、つまりは葵を馬鹿にしているのはわかった。
鈴蘭の目は新太にじっと固定されていた。息を呑む。完全に、気圧される。
生まれて初めて、女の人に対して、怖い、と――思った。
鈴蘭は小さく笑うと、ゆるりと優雅な仕草で睡蓮のほうへと向き直った。
「で、睡蓮や。おまえは今何を言おうとしたのかい?」
「いえ――何も」
「昔からよく言ったよね。口は禍の元だと――ねぇ、睡蓮?」
睡蓮は完全に青ざめている。蛇に睨まれた蛙――否、毒蜘蛛に囚われた紋白蝶だろうか。
貫禄が違いすぎた。鈴蘭は薄い笑みを浮かべたまま、葵を見た。
「まあいいよ。……で、青。あの声はやはり弥生かい?」
葵はどこか観念したような溜息を吐いた。
「そうだ。間違いないだろう」
「ゾクゾクするねぇ。さすが最凶といわれるだけある。あの声はどうやって出しているんだ?」
鈴蘭は冬を見た。
「アニマロイドの人口声帯には音量自動調整機能が付いている。それを自分でハックして最大値を書き換えたとしか思えません」
「いいね、早いところ奪還しておいで」
鈴蘭は赤い光に照らされて妖艶に笑った。葵は静かに言った。
「……奪還などしない。元々あれは我々のものでもない」
「馬鹿をお言いでないよ。わかってんだろ。壁の中のものは全てわっちらのものサ。上様との取り決めでもそうなっているんだから」
「そんなのは後から決めた勝手な取り決めだろう。それに、弥生は我々がどうにもできるものではない。早いところ制御しないと大変なことになる。……G区内の獣が操られ始めたらどうなると思うんだ?」
「どうやって制御するつもりだい? 弥生はユニバーサルバリアに入っているのだろう? 外からの攻撃は届かないよ。だから震災を生き抜いたのじゃないか。一方、相手の武器は音だ。バリアの中に居ながらも、力を発揮することはできるんだ」
鈴蘭はぱらぱらと扇を弄びながら退屈そうに言った。
「ユニバーサルバリアは南博士でないと解けぬ。しかし南博士はもういない。化け物の始末も出来ずに死んだ。つまりお前が子守唄を思い出さない限り――誰も止められない」
お前、と指された睡蓮は、青ざた表情で俯いていた。
「それはつまり、お前が消えれば弥生を止める方法が無くなるということでもある」
柔らかい笑みを浮かべた、邪悪な花魁は言った。
「鈴蘭、どういうつもりだ」
「どうもこうも。この扉の鍵はあの忌々しい赤しか持たぬ以上、わっちにはどうにもできん」
「弥生は本当に危険です。あれだけは絶対に止めなければ」
「おだまり」
ぴしゃりと、鈴蘭は言った。
「この先、此処の研究だけでどれだけ対等に上と――つまりは軍と交渉できるかはわからないだろう。おまえらは気苦労も無くただのんのんと喰っちゃ寝してるだけかもしれんが、やつらが気を変えれば、ゴーストは解体されたって可笑しくは無いんだよ」
それは困るんだろう? と女は言った。その目は何故か、冬を見ているようでもあった。
葵が静かな声で言った。
「その時はその時だ。命をとられるわけでもあるまい?」
鈴蘭は目を細めて少女を睨みつける。
「おまえは何もわかっちゃ居ない。そんなことだからいつまでたっても半人前なんだ。だから勉強なんて内で幾らでもできるのに、わざわざ外の学校にやられるのさ。人の心がわからないんだよ、お前は」
「どういうこと?」
新太は思わず、口にした。鈴蘭はその扇子で口元を隠したまま、ふふっと笑った。
「世界が本物か偽りかなど関係ない。東京において、外と此処と、どちらが人々が幸せに暮らしていると思うかい? わっちらはその幸せを守っているんだ。夢と幸せの番人さ」
「夢と幸せに化け物はいらないだろう」
「そういうのを奇麗事と言うのだよ。かまわないよ。子どもは一度は通る道さ」
鈴蘭はゆっくりと全員の顔を見てから、扇子をパタンと閉じた。
「弥生について詳細がわかったら必ず知らせるんだよ。子守唄についても同様さ。隠し立てしたら次は容赦しないよ」
そして花魁は濃い花の香りを残したまま螺旋階段の奥に消えた。
睡蓮が大きく息を吐いた。
「本当にわからん。どうして父上はあのような邪悪な女をそばに置いているのだ」
葵が親指の爪を噛みながら言った。
「鈴蘭は元々優秀な科学者です。酔狂な芝居にも世界にも真っ先に溶け込んだ。言っていることには一理あります。同意はしませんが」
「本当の幸せなど、どうでもいい。ただ、弥生は――駄目だ」
葵は吐き捨てるように言った。
「賢者の手に負えなかったものを、愚者がコントロールできるわけがない」
「私もそう思います、ただ」
睡蓮も静かに言った。
「それで滅びるのであれば――因果応報であるとも、思うのです」
「それは、守るものがないから言えるんだ」
葵が短く言った。睡蓮はそのまま口を噤んだ。
「どういうこと?」
「こんな作り物の世界でも、生きている人がいる限り私は守らなければいけない。たとえ人間が作り出した化け物であろうとも、負けるわけにはいかない。無責任なことを言うな」
「そんな言い方はないんじゃない?」
「何とでも言え。甘えた子どもに何を言われても痛くも痒くもないわ」
葵は冷たく言った。カチンときたが言い返したら、それこそ甘えた子どもの証拠であるような気がして、新太は黙った。
「喧嘩をしても仕方が無いでしょう。八月を、こちらへ」
睡蓮は、何一つ変わらない穏やかな声で、そっと新太に言った。
「この子はこちらで預かります。恐らく此処が一番安全なことには変わりないでしょう。葵、そして新太さん。もうすぐ夜が明けます。――あなたたちは、学校の時間ではなくて?」
新太は驚いて顔を上げた。学校のことも、外の世界のことも、すっかりと忘れていた。腕時計を見ると、五時十二分を指している。文字盤を見たら、突然疲労が身体を襲った。
そしてふと残してきた家のことが気になった。父とナナはどうしているだろう。きっと心配して、もしかしたら学校に乗り込んでくるかもしれない。もし見つかったら、ここには二度とこれないかもしれない。それは、新太にとっては恐怖だった。
「……学校なんて、行ってる場合なのかな」
しかし葵は、いや、と言った。
「睡蓮の言うとおりだ。もうすぐ夜が明ける。此処に居てもどうにもならん。八月の安全が確保したのであれば、とりあえずの目標達成だ」
「でも」
「九月と茜の行方が気になる。一度外に出よう。睡蓮、すまなかった」
さりげなく葵が謝ったことに新太は気付いた。
睡蓮は答えなかったが、何も変わらず優しく微笑んでいることが、その答えだと思った。
◯
都は一睡も出来ないまま朝を迎えた。日がうっすらと昇ってから、同じく寝不足の拓巳の運転する軽トラで事故の現場に戻る。
しかしそこには微かにタイヤ跡の痕跡が残るだけで、何も無かった。
「ジジ」
名前を呼んでみた。だけど空っぽな風以外、何も返ってこない。夜中泣いたのに、まだ涙がこみ上げてくる。こんなお別れになるなら、もっと美味しいもの食べさせてあげればよかった。
もっとたくさん、色んな話をすればよかった。もっとたくさん、抱きしめたかった。
手を握れば、まだすぐ其処に体温がありそうな気がするのに。もう二度と会えない気しかしなくて、都は再びぐずぐずと泣いた。成長してからこんなに泣いたことなんて、果たして今まであっただろうか。
「――泣くなよ。元々お前の猫じゃないだろ」
都が睨むと、拓巳は困ったように目線を泳がせた。慰めている心算なら全くの逆効果だ。
学校に行く気はしなかったのだけど、昨日の今日だ。行かないとはじめにも蝶野にも心配される。
泣きすぎて、目が腫れているのが恥ずかしくて、ずっと下を向いていた。拓巳はずっと居眠りをしている。新太も船を漕いでいるし、双子もぼんやりとしているようだった。
蝶野が首を傾げる。
「そんなに課題たくさん出したかなぁ? それとも昨日なんかイベントあったっけ?」
だけどそれに答える余裕もなくて、途中からは都も寝ていた。
泣くのって疲れるんだな、と思った。
「で、どうしたの?」
放課後。呼び出されて、職員室。黙り込んでいると、温かい蜂蜜入りの紅茶が出てきた。
一口飲んだら、再び涙腺が緩みそうで、都は言葉を飲み込む。手渡されるままに、林檎を齧る。甘い。ジジは結局この林檎を食べたんだっけ? そんなことばかり考えてしまう自分に、嫌気がさす。なのに結局、泣いてしまう。
「――ジジ、が」
其処まで言ったら、喉が詰まってそれ以上の言葉が出てこなかった。しかし蝶野はそれで全てを察したようだった。
「そっか。それは寂しいね」
優しい声で言った。
「何があったのかは――教えてもらえるかな」
都は首を振った。だけど、まっすぐこちらを見る蝶野の目を見て、それから小さく頷いた。いきさつを話すと、案の定、優しい先生は溜息を吐いた。
「南に、行ったの?」
「海を見せたかったの。まだ明るかったし。ごめんなさい」
「あそこに行くのは、はじめと一緒の時じゃないと駄目だって、言われているよね。ミヤちゃん、自分がまだ子どもだという自覚はあるのかな? しかも、こんな風には言いたくないけど女の子だ」
「ある、けど」
「世田谷駐屯所が拡大してから、まだ安全になってきてるけどね。軍の目が行き届いていないところは、この間の双子襲撃についてもそうだけど、何が潜んでいるのかわからないんだ。男の子だって同じだ。高校生なんて一ひねりだよ。誰も守ってくれないんだから、せめて――手の届くところに居てよ」
「ごめんなさい」
都はそう言って、黙った。
「ジジの本名は、九月だって言ったの?」
「うん。何か、知ってる?」
「いや、変な名前だなぁって思っただけだよ。まるで番号みたいだ」
「番号?」
「南博士のプロトタイプか。そんなこと、言ってたね」
独り言のように蝶野は呟いた。そして紅茶を一口飲む。
「ミヤちゃん。もうジジのことは忘れなさい」
蝶野は突然、そう言った。
「どうして? 嫌だよ」
「ジジ、というよりジジを取り巻くものが危険すぎる。アニマロイドは東京が清算できて無い過去の文明の遺産だ。そういったものには嫌なものが取り巻くって、太古から決まっているんだよ。巻き込まれるかもしれない。いや、もしかしたらもうミヤちゃんは足を踏み入れちゃってるかもしれないんだ」
「そんなこと」
「あるだろ。一歩間違えたらミヤちゃんだって事故に巻き込まれてたかもしれない。その男たちは、どう考えてもまともじゃない。だからジジはミヤちゃんを置いて向かっていったんだよ。ミヤちゃんはジジに守られたんだ」
「私がジジを守りたかったのに」
都は声を上げた。涙が毀れていた。甘ったれだって、きっとまた拓巳にも言われる。
蝶野は、ずっと黙っていた。そして都の涙が止んだ頃に、ようやく口を開いた。
「ミヤちゃんとジジは何だったの?」
「何だったのって……?」
「ペットだったのかな。それとも、友だちだったのかな?」
「友だちだよ!」
「だったら、ミヤちゃんは自分の気持ちじゃなくて、もう少しジジの気持ちを考えるといいよ」
「ジジの……気持ち?」
「そう。ジジを守りたかった、って言うのは結局ミヤちゃんの気持ち。それは優しさかもしれないけど、その反面、自分勝手でもあるよね。自分の気持ちを一方的に押し付けてばかりなのだったら、それは友だちと言うのかな?」
都は、両方の手のひらを握り締めた。膝の上で、ほのかに震える。
「ジジはミヤちゃんを守りたかった。そして守った。そのジジの気持ちを尊重するのが、今できることだよ」
「もう、会えないの?」
声が震える。蝶野は少し声を和らげて言った。
「会えるかもしれない。でも会えないかもしれない。僕は明日会えると思ったたくさんの友だちと、ある日突然会えなくなった。……だったら、その反対もあるかもしれないだろう? もう二度と会えないと思っても、またふと会える日もくるかもしれないよ」
都は蝶野を見た。蝶野はマグカップを見ていた。何か言葉を見つけようとしたのに、上手く見つからない。こんなにも自分は――子どもなんだ、と思い知る。蝶野は顔を上げて笑った。
「今日はちゃんと帰るんだよ。はじめが心配している」
「……うん」
都は、今できる精一杯の笑顔を作って、頷いた。
◯
新太は、眠い目をこすりながら溜息を吐いた。学校に、父は来なかった。軍の関係者も、誰も来なかった。モバイルにも連絡は入っていなかった。それがどういうことなのかはわからないけれど、良い意味ではないことは、察することができた。無視するほどに、怒っているのかもしれなかった。考えれば考えるほど、家に向かう足取りは重くなる。
結局、学校では葵とも茜とも、何の会話もしなかった。二人は、二人だけで何かを話していたが、新太を仲間には入れてくれなかった。そして授業が終わると、気づいたら二人とも消えていた。
一方で、都がとても気落ちしているのがわかって、彼女の元に居た黒猫がどうなったのかは聞けなかった。あれがアニマロイドだったのなら、本当に【九月】なんだろうか。九月は、オーガを知っているだろうか。
そして新太は、オーガのことを考えた。今どうしているだろう。目覚めて、知らないところにいるのは恐ろしいだろうな、と思った。
それからナナのことを思い、鳩尾のあたりがキュウと痛んだ。あの優しいナナも、未だに怒っているだろう。当たり前だ。でも新太だって、怒っていたのだ。あまりにも理不尽だから。あまりにも子ども扱いするから。だけど葵や睡蓮の話を聞いて、新太は思い知った。自分が本当に、何も知らない、何も考えていない、ただの子どもだったことに。
本気で知ろうと思えば、アニマロイドのことだってナナたちのことだって、きっと知ることが出来ただろう。東京がどういう町だったか、教科書以外に書いてあることだって、ネットアーカイブで幾らでも見つかるはずだ。自分で知ろうとしないで、教えてもらえないことに駄々を捏ねて、ただ与えられるものを受け取るだけで、自分からは何も掴み取ろうとしなくて、環境に甘んじて。自分の頭で、本当に考えたことがあっただろうか。
だから子どもなのだ。子どもだといわれるのだ。
それで信用しろだなんて、ちゃんちゃらおかしい話だ。
家のドアの前で、新太は深呼吸をした。
父はまだ仕事の時間だ。でも、中に居ることも考えられる。もしいたら絶対に殴られる。この間の今日だ。ごめんなさいでは済まないかもしれない。だけど、仕方ない。この間はただよくわからないままその場しのぎの「ごめんなさい」だった。新太が子どもだから、それで免れただけだ。
だけど、父よりも気になるのはナナのことだった。ナナの好きな鳥のササミを買ってみたものの、こんなのでごまかされるとも思わない。新太は深呼吸をした。一回、二回。
「――ただい、ま」
扉を開けると、中は薄暗かった。
「ナナ――?」
返事はない。
「父さん?」
しばらく待った。だけど、返事は無かった。リビングには西日が淡く差し込んでいた。昨夜、転がっていた男たちはもうどこにも居なかった。窓はきちんと施錠されていていつもと何も変わらなかった。唯一つ内側から食い込んだままになっている弾丸が――昨夜の襲撃が夢などではないことを物語っていた。
他の部屋も全て確認した。家は空っぽだった。
新太は呆然としたまま、ソファに座った。そしてぼんやりと――今まで家に帰ってきて、誰も居ないことなどあっただろうか、と考えていた。思い出せない。父は居ないことのほうが多かったけど――ナナは必ず此処に居てくれたのではなかったか。
「――どこ行ったんだろう」
きっと父と一緒に基地に行ったのだろう。昨日のこともある。ナナは重要な証人だ。もしかしたら、軍ではナナがアニマロイドだと知られているのかもしれない。
ふと、サイドテーブルのフォトスタンドを見た。
赤い鉄塔の前で、父と母が写っている。「南動物工学研究所」の看板。父は随分若い。腕章を見ると、まだ中尉のようだ。新太が知っている母の姿はこれだけだ。震災でプリント写真もデジタルアーカイブも全て失った、と父が言っていた。唯一残ったこの写真で、母は父に肩を抱かれてぎこちない笑顔を作っている。黒くて長い髪をひとつに束ねて白衣を着ている。黒縁眼鏡が研究者っぽい。どちらかというと垂れ目な父と違って、丸い目が童顔に見せる。新太の目は、母譲りだった。
ナナは、母をよく知っているのだと言っていた。優しいけれど不器用で、だけど真面目な研究員だったと言っていた。どうしてそんな人が父のような(怒っている時以外は)調子のいいタイプと結婚したのかよくわからない。普段の言動からして母が父のタイプだったようにも思えない。だけど、ナナはそんなことありませんよ、と笑っていった。
「坊ちゃんも大人になったらわかります」
大人になったら。
新太はソファに背中を預けて、天井を仰ぐ。一体自分は、いつ大人になるのだろう。知りたいことがたくさんありすぎて、だけど知ったところで自分の無力さを思い知らされるだけで、守りたいものも守れない。
同じ年なのに葵や茜、それに拓巳のほうがずっと大人びている。色んな町に住んで、色んな人と出会って、人生経験は多いと思っていたのに、そんなの全く関係が無いんだ。
だって、今まで――何も感じてこなかったんだから。本気で苦しいと思ったことも、本気で何かを得たいと思ったことも、何一つ無かったのではないか。
「あらたったった」
胸元からごそごそとカンナが這い出てきた。
「どうしたの? あらた」
「どうもしないよ」
どうもしないはずなのに鼻の奥がツンとした。やばい、涙が出る、と思った。
「カンナはあらたのこと好きだよ。カンナはあらたの味方だよ」
「――ありがとう」
思わず、笑みが毀れた。小さな文鳥に励まされるなんて、その言葉に救われた気になるなんて、どこまでも弱い。だけど仕方がない。弱いものは弱いんだ。守りたいものがあるのなら今から強くなるしかないんだ。
その時だった。ドスン、とベランダで音がした。
まさかやみくろたちが?
新太が身構えると、其処には全身で息をしながら葵が立っていた。
「すまない、睡蓮が攫われた」
新太がガラス戸を開くと同時に、葵は言った。
「何だって!? どうして?」
「やみくろだ――やみくろたちが――」
「オーガは?」
「天井の排気口奥に隠れて九死に一生を得た。臆病者でよかった」
葵は褒めてるんだか、けなしてるんだがわからない口調で言った。自信を纏っていた少女は、不安を隠さず親指の爪をがりっと噛んだ。
「どうして内部に入り込める? 警備は万全だった。睡蓮を襲う理由もわからない」
「……南博士との関連がバレたとか?」
「……それを知っていた者も一握りの筈なのに。やはり、内通者か」
「誰だかわかったの?」
葵は首を横に振った。
「ただ、鈴蘭の姿も消えた。それだけじゃない。――父上の姿も消えている」
「何だって!?」
葵は右手をこちらに差し出して、言った。
「とりあえず来い。お前の力が必要だ。オーガはお前以外を信じない。穴から出てこないんだ」
「わかった――行く。えっと、エレベータで下りるから、二分後に下で」
新太がそう言うと、葵は「このほうが早いのに」と言って、ベランダから飛び降りた。上から覗いたら、まっさかさまに落ちていく。途中で、くるりと回って葵は何ともなしに着地を決めた。
「……猫かよ」
恐怖を通り越して呆れる。どうして昨夜は、これについていこうと思ったんだろう。新太は、バックパックにオーガの好きな猫缶。そして、父と母の写真も詰め込んで、家を飛び出した。
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