第三章

 第三章


 針嶋新太は新宿記念公園の中村美奈子モニュメントの前で発見された。百年前の爆破テロ犠牲者を悼んで作られた巨大な抽象アートの前のベンチで丸まって寝ていた、そうだ。

 新宿チームからはじめのところに連絡が入ったのが午前0時30分。外傷は無くバイタルも正常だが、意識不明の状態だったため桜上水の陸軍病院に緊急搬送された。命に別状は無いと連絡が入ったのが1時15分を過ぎた頃だ。都も拓巳も待ち疲れてヘトヘトだった。

「とにかく――まあ、それなら――あの馬鹿」

 拓巳はソファに倒れこむと即いびきを掻き始めた。蝶野が拓巳に毛布を掛けながら言った。

「ミヤちゃんはベッドで寝てて。僕は病院行ってくるから」

「眠くないから大丈夫だよ。バイク出そうか?」

 蝶野は真剣な顔で首を横に振った。

「駄目だ。何故なら僕がミヤちゃんの後ろにタンデムするのはかっこ悪いから」

「でも自転車より早いよ?」

「いいから。大丈夫だよ。陸軍病院ならここから近いし、今日はもう寝てなさい。ほら、もしジジが起きたらそばに居てあげて」

 どきりとした。あれから眠ってしまったジジのことを忘れていた。蝶野はそんな都の心を見透かしたように優しく笑った。

「じゃあね」

「うん――。気をつけて」

 蝶野が出て行った途端に、都はとてつもない疲労感に襲われた。ずっと心配していたから、その張り詰めていた糸がぷつんと切れたのだろう。だけど、寝室に入ってベッドの隅っこに遠慮がちに丸まってみても、眠気はなかなか訪れなかった。

 頭の中を、さっき聞いた話がぐるぐると回る。

 アニマロイド、六賢者、巨大科学都市東京がまだ――そこにあった時代の話。

 そして、ジジ。どこから来たのか、本当の名前はなんて言うのか、一体何を想っているのか。本当にG区の中に、誰か住んでいる人がいたとしたら。

 ――そんなことは、思い出さないでいてくれたらいいのに。

 都は、ぼんやりと、壁の本棚を見ながら、そんなことを考えていた。

 時計の針が、こちこちと鳴っている。その音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。

 夢は見なかった。

 正しくは夢を見ないという夢を見た。

 真っ暗闇の中に、ぽつんと一人で立っていた。誰かの声が聞こえる。

『あなたの夢は全て終わりました。どうもありがとうございました』

 どういうことだろうか。そんなことってあるだろうか。

 すべての夢を見尽くしたということだろうか。そうしたら、眠っている間は何を見たらいいのだろう。

(どういうことですか?)

 そう聞きたくて、声を出そうと思ったけど喉は響かなかった。それからもう一度、話そうとしたけど唇が動かなかった。そして気がついた。もう喉も、口も無かったのだ。

 困った。手探りをしようとしても、腕も手も無かった。焦った。逃げ出そうとしたのに、脚が無かった。恐怖した。真っ暗闇なのは目が無いからだと――ようやく、気が付いた。

 どうしよう。どうしよう――何も、無くなってしまった。

 どこか遠くで悲鳴が聞こえた。悲鳴が、聞こえた。

 誰の悲鳴だろう。わからない。だけど、耳はあるのだ。むしろ耳しかないのだ。

 耳を済ませた。どんな音でも聞き逃さないように。もし自分が呼ばれた時に、自分の居場所がわかるように。名前。自分の名前。

 自分が――何と、呼ばれた時に?

 わからない。どうしよう。

 名前を無くしてしまった。突然、真っ暗闇に落下していく感覚に襲われた。だけど既に落ちていくものも無いのだ。身体が無いのだから。何も無いのだから。ただ、風を切る音が響くばかり。早く思い出さないと、大変なことになる。私の名前を思い出さないと取り返しのつかないことになる。

 私の名前は――私の名前は――

「みやこ?」

 耳元の声に都は飛び起きた。

「うわっ! ああ」

 声が、出る。心臓が激しく打ってる。手を胸に当てて、手があることに気付く。もちろん、脚もある。ジジが、驚いた顔で此方を見ていた。見える。――目がある。

 当たり前だ。今のは、――今のが、夢だ。

「どうしたの? みやこ」

 都。みやこ。それが自分の名前だ。よかった。大丈夫。忘れるなんて、どうかしている。

「ごめん――怖い夢を見て――」

「大丈夫?」

 黒猫は、甘えるように都の身体に、身を寄せてきた。

「大丈夫だよ」

 その小さな温もりを抱き上げる。

「怖い夢ってどんな夢?」

「あのね――」

 しかし、都はそこで口を噤んだ。自分の名前を忘れる夢。自分の名前を忘れたら、自分がどんどん無くなっていく夢。名前が思い出せないジジがなんと思うか。

「ジジは怖くない?」

 話をはぐらかすように言って、抱きしめると、猫は「怖い」と言った。

「ジジも怖い夢を見た?」

 窓の外はまだ暗い。壁の時計は三時半を指している。

「ううん、違うの。ねえみやこ。聞こえる?」

「何が? ――風の音?」

 窓の外では、再び風が強さを増したようだ。遠くにビル鳴りも聞こえる。G区内は西側のほうが高いビルが多いからかもしれない。

「風じゃない――声。あ、また――」

 ジジは怯えているようだった。都の胸元に身体をぴたりとつけて震えている。

「声?」

 耳を澄ます。ビル鳴りの音は風の向きや強さによって本物の悲鳴のように聞こえることがある。春一番の頃に比べればまだ弱いほうだが、この部屋は位置的に響きやすいのかもしれない。

「ジジ、あれはビルの風の音だよ。聞いたことあるでしょう」

「――みやこ、僕は――あ」

 ジジが小さく竦んだ。都にも聞こえた。確かに今、風の間に混ざった音は――悲鳴のように聞こえた。否、どちらかというと咆哮か。ビル鳴りに変わりはないのだけど。

「大丈夫だよ。ジジ、あれもビル鳴りだよ。こっち側だといつもより音が違うから怖いんだね」

「みやこ――」

「音が聞こえないように、布団に潜る?」

「――うん」

 都は小さく笑って、掛け布団の中に潜り込んだ。ジジを腕に抱えたまま、丸くなる。

 目を閉じると再び柔らかい眠りが降りてきた。ジジの温度が、すぐ腕の中にある。一緒に寝るのは始めてだった。さっきまでの不安はかき消えて、暖かい夢を見る確信と共に、都の意識は落ちていった。


 ◯


 ゆっくりと瞼を開くと、薄暗い部屋にいた。無機質な天井。微かな電子音。

 ここは、どこだろう。最近、そんなことばかり考えていた気がする。思い出そうとしても頭がとてもぼんやりとしていて上手く働かない。

「ナナ」

 新太は、半分無意識で犬の名を呼んだ。新太が弱っている時には、ナナはいつも隣に居てくれる。小さい頃から、熱を出した時も、お腹が痛い時も、不安で眠れない夜も、怖い夢を見た明け方も、隣にある大きなぬくもりを感じると新太は安心するのだ。

「ナナ、どこ?」

 返事は無かった。新太は再び目を開けた。起き上がろうとすると、身体が軋んだ。腰が痛い。脚も痛い。どこかを打ったみたいだ。よくわからないけれど。

「あいた、たた」

 引きつる感覚がして、左腕を見たら点滴の針が刺さっていた。

「何で?」

 薄暗い部屋を見回す。見たことがない病室だった。大きな窓がある。低い位置に大きな月が見える。そして、新太は目をぱちくりとした。

 窓際の椅子に父が腰掛けたまま船を漕いでいる。

 一体いつの間に入院したんだっけ。全く覚えていない。というか、今日はいつだっけ。寝る前に何をしてたんだっけ。ベッドサイドには、小さな電子時計によると時間は四時近かった。日付は五月十五日、金曜日。特に違和感はない。

「――ん?」

 ぱちん、と鼻提灯がはじけて父が顔を上げた。

「ふああ、新太――どうした」

「どうしたって、俺どうしたの?」

「あ、そうか。起きたか。よかったよかった」

 父はそう言うと、ううーんと両腕を上げて伸びをした。そして、あ、と思う間もなく、拳が新太の脳天にヒットした。ゴスッと鈍い音が、骨に響く。

「いっ――てええええ」

 あまりの不意打ちに、目の前に火花が散った。

「この馬鹿者が」

 父は低い声で言った。冷たい、ぞっとする声だ。今まで数回しか聞いたことがない(そして二度と聞きたくないと思っていた)本気ギレの声だ。

「ちょ、ちょっと待って――!」

「あぁ?」

「ご、ごめんなさい。ご、ごめんなさいなんだけど、俺ちょっと何か頭がおぼろげで、その、あの、何が起こっているのか」

 新太は脳天を押さえながら必死に命乞いをした。意味がわからないのに再び殴られたらたまったもんじゃない。

 しかし新太を見下ろす父の目は本気だった。やばい。久しぶりに見たけどこの顔はやばい。怖い。怖すぎてナースコールを押そうとしたら、丁度そのタイミングでナースが入ってきた。

「今の音一体どうしたんですか――、ってちょっと、君、大丈夫?」

「問題ありません。うちの粗忽者が大変ご迷惑をおかけしまして」

 父はナースに向かってとても優しい声で言った。看護師は、少し遠慮がちな声で、しかしきっぱりと言った。

「大佐。お気持ちは察しますが、ここは病院ですし、ご子息は入院中です。怪我を増やさないでください」

「はっは、ご心配なく。こいつは私に似て石頭なので問題ありません。朝には退院させます」

「しかし、ドクターのご意見をお伺いしないことには」

「意識が戻れば大丈夫と仰っていましたが」

「それは……そうでしょうけど。君、本当に大丈夫?」

 未だに頭を押えている新太の顔を覗き込んで、看護師は言った。今だ。今しかない。

「大丈夫ですが、あの、俺どうして入院してるんですか?」

 二人きりになったらまた言葉が通じなくなる可能性があるので、早口で聞いた。

 父と看護師は顔を見合わせて、それから同時に「覚えてない?」と聞いた。

「――覚えてないって言ってるじゃん」

 思わず泣き声になる。それでもベッドから吹っ飛ばなかったのだから、父が手加減したのはわかっていた。

「どこまで覚えてないんだ」

「どこまでって――その」

 朦朧としたまま新太は頭を捻った。

 たしか拓巳と公園に居て、悲鳴が聞こえて、荒廃した渋谷の地上を走った。双子が暴漢に襲われていたので、助けに入った。カンナが奪われて追いかけて――下水道に入って――そして。

 花魁と、廃墟。――そして、少年の横顔が浮かんだ。

「アレ?」

 散漫としている。まとまったと思ったら、散り散りになる。断片的で記憶が繋がらない。

「何がアレだ?」

「いや――よくわからないくて――あれ、ううん」

 看護師が小さく溜息を吐いた。

「――とにかく、今は寝てください。大佐は、今日はお帰りになられますか?」

「いえ、もうあと数時間なのでここに居ます」

「もう殴っちゃだめですよ。ここは病院です」

 看護師はそう言って静かに扉を占めた。新太は身構える。父が手を上げたので、再び来るかと思ったら、その手は新太の頭の上に置かれた。父はそのまま、新太の頭をぐりぐりと撫でた。

「カンナの話は聞いている。お前がクラスメイトを助けるのに勇敢だったことも聞いた。だが、身のほどは弁えるべきだ。話の続きは明日聞く。とりあえずもう寝ろ」

「――うん。心配かけて、ごめんなさい」

 新太が小さく言うと、うむ、と父が言った。ようやく少し、安堵して、新太は目を閉じた。


 朝になり、医師の面会があった。新太は何の問題もなく退院した。

 病院から仕事に戻る父に家まで送ってもらった。

「今日は寝てろ。夕飯までには帰る。基地のブリトー買ってくる」

「俺、明太チーズ」

「了解」

 すっかり穏やかに戻った父に手を振り新太はマンションの玄関を潜った。守衛に挨拶し、エレベーターのボタンを押す。時間にして、たった一日帰らなかっただけなのに、随分と玄関のドアが懐かしく思えた。

 ナナは、それはそれは怒っていた。ナナに叱られるなんて、一体いつ以来だろうか。

「そうですよね。坊ちゃんはもう大人ですし、ナナの心配など不要でしょう」

 普段、声を荒げることが決して無い穏やかな犬は、少し突き放したような声で言った。

 そんな風に言われるほうがずっと堪える。

「ごめんってば」

「知りません。それにナナに謝っている暇があるなら、旦那様に謝りなさい」

「もう一生分謝ったよ……。でもまた謝る。そしてナナにも謝る。ごめん。ありがと」

 優しい犬はぺろりと新太の頬を舐めた。

「旦那様には、坊ちゃんしか居ないんです」

「わかってる。それは同じだし。……でもナナたちもいるだろ」

「ナナたちはペットです。人間じゃない」

 ナナはやけにきっぱりと言い放った。

「そ、そうだけど、でも家族だろ? そういえばオーガは?」

「ああ、それが――」

 ナナの話によると猫はずっと何かに怯えているのだと言う。

「最近風が強くてビル鳴りの音が良く聞こえるでしょう。あれが怖いようです」

「怖くなんかねえよ!」

 ソファの下から蜂蜜色の猫が飛び出してきて新太の足元に身体を擦りつけた。

「オーガ」

 抱き上げる。猫は新太の胸元で丸くなる。

「大丈夫?」

「怖くねえって言ってるだろ。うるさいだけだ! あれは何の声なんだよ?」

「声じゃないですよ。ビルです」

「おまえに聞いてねえ!」

 猫はいつになく機嫌が悪かった。口調がかなり荒れている。

「オーガ、落ち着いて」

「俺様に指図するな!」

 しかし言葉とは裏腹にオーガは新太の腕の中で小さく丸まってしまった。

「だいたい、お前、あのチビはどうしたんだ」

 ナナもはっとこちらを見た。

「そうですよ、カンナはどこ?」

「ああ、カンナは――」

 カンナは――。

「カンナは連れ去られた」

 新太がそう言うと、犬と猫は同時に「え?」と言った。

 ぼんやりとした記憶の狭間から、忘れていた不安がむくむくと溢れ出してくるようだった。だけど同時に、それはぴたりと膨張を止めた。

「――カンナは、連れ去られたんだ」

 だけど。……だけど。

『カンナちゃんは絶対大丈夫』

 あれは誰の声だろう。誰がそう言ったんだ。すぐ其処まで思い出しそうなのに、上手く記憶が繋がらない。だけどその能天気な声が――、きっと大丈夫なんだろう、と根拠の無い安堵を新太に与えていた。

 ナナがクゥン、と鳴いてその鼻先を新太に押し付ける。

「坊ちゃん、大丈夫ですか?」

「……うん、大丈夫だよ」

「どうしてそんなに落ち着いているんです? ふたり一緒に居ないと、駄目なのは」

 カンナじゃなくて坊ちゃんですよね? と、聡明な犬は言った。

 

 ◯


 大変な金曜日の余韻で週末は、ぼんやりと通り過ぎてしまった。ジジはあれからずっと塞ぎこんでいるようで、どうしたのかと聞いてもあまり答えてくれない。ジジの正体を隠していたことについて、都は珍しくはじめに叱られた。

「そういうことはちゃんと言え。俺の阿呆な独り言がばれるだろ」

 兄代わりの従兄は、そう言って笑った。


 月曜日。新太は普通に登校してきた。怪我も無いようだ。ただ頭を打ってこぶを作ったらしい。あの夜は随分と傷だらけだった拓巳も、今は頬に絆創膏を一枚貼っているだけだった。

 新太は拓巳からあの夜の、都やはじめの話を聞いたらしい。

「世話になったみたいでごめん」と、朝一番に言った。

 都は首を振る。お世話も何も結局都は何もしていない。何も力になれず、ただ心配していただけだ。そう告げると「心配かけてごめん!」と、新太は謝った。

「違うよ、違うっていうか、なんていうんだろう、その」

「いいから、謝らせとけって」

 横から口を挟んだのは拓巳だった。笑っている。

「ついでにお詫びに北海道名産の毛蟹もってこいよ、俺食べたことないんだ」

 新太は腕を組んで、毛蟹かぁ、と言った。

「今、旬じゃないからなぁ」

「けがにって何?」

 聞いたことが無い。北海道にはこっちにはない色んな美味しいものがあることは知っている。

「お前、毛蟹も知らねえの? これだよ」

 拓巳はモバイルに気持ちが悪い赤い生き物を表示した。毛が生えているように見える蟹だ。だから毛蟹か。都は思わず眉をひそめた。覗き込んだ双子も、妙な顔をしていた。

「こんなのいらないよ――それより新太君さ、アニマロイドに詳しい?」

「アニマロイド?」

 新太が驚いた表情を浮かべた。

「そ、それなりに知ってるけど、何で?」

「あのね――ジジの、ことなんだけど――」

 ガタン。突然の大きな音に全員が振り返った。茜が立っていた。驚いた表情。都も驚いた。いつも俯いてばかりで、しっかりと見たことは無かった茜の赤みがかった目が、鋭い光を持って確かに自分を射抜いた気がしたから。しかし次の瞬間には茜の目は違う場所を見ていた。少女は何かを言おうと口を開き、だけど何も言わずに手で唇を抑えた。茜は葵にスカートの裾を引っ張られ再び音を立てて着席した。

「茜、そんなにおなかが痛いならお手洗いに行きましょう」

 平坦な声で葵が行った。そしてそのまま双子は教室を出て行った。トイレは更衣室があるコンテナにしか無い。

「……何だ、あれ」

 拓巳が首を捻った。

「相変わらず変な奴らだな」

 都は、何とも言えずについ新太を見た。新太もどこか不思議な表情で、双子が出て行った扉を見ていた。

「あれー、双子ちゃんどうしたの?」

 入れ違いで蝶野が入ってきた。始業時間だ。腹痛だとよ――と拓巳が言うと「なるほど」と教師は言った。どこか、ぱっとしない顔だ。目の下の隈が凄い。

「さて、お、ふああ――よう、諸君」

「り――先生、寝不足?」

「そうなんだ、ごめんごめん」

 蝶野は再び大欠伸をした。

「昨日、ちょっとばかり探し物をしてたら遅くなっちゃって」

「探し物?」

 蝶野は「これだよ」と、小さな光るものを取り出した。それは鈍い金色に光っている小さな輪だった。

「指輪?」

「そう。指輪。指輪の話をする前に、新太君、もう身体は大丈夫かい?」

「はい。――本当にすみませんでした」

 新太が頭を下げると、蝶野は無事だったならいいよいいよ、と笑った。

「新太君のお父さん、かっこいいねぇ。吃驚しちゃった」

「え、先生、父さんに会ったの?」

「病院でね。さすが大佐は違うなぁ」

 新太は「はぁ」と中途半端に笑いながら何故か自分の頭を撫でていた。

「で、君たちはもちろん新太君に何があったかは知っているよね。新太君は下水道で流されて――このポイントで発見された」

 黒板がモニタに変わり地図が浮かび上がる。蝶野は新宿の西側に丸をした。

「新宿エリアの境界だね。新太君、どうやってここに辿り着いたか覚えてる?」

 新太は首を横に振った。

「全く――覚えてないんです」

「……新太君が発見された中村美奈子像の池は、地下用水路も兼ねているからね、下水道から繋がってる階段があるというのが、境界警備隊の見解だ」

 それから蝶野は、代々木エリアを中心に大きな丸を描いた。

「しかし、この周辺の下水道は、昔の名残で入り組んでいるんだ。ほぼ封鎖されているが水の動きの関係上、一部G区の内側を通る箇所がある。つまり何が言いたいかと言うと、新太君は下手をすればG区の中に入っていたということだ」

 蝶野は、黒板に東京G区、と書いた。

「言うまでも無くG区進入は、現在は禁止されている。侵せば犯罪だ」

「言われなくても知ってるよ」

「……俺は知らなかったけど」

「そうだろう?」

 だから僕は警備隊に怒られちゃった、と情けない顔で蝶野は笑った。

「ごめんなさい」

「そんなことはいいんだよ。本題はそこじゃないんだ。実は、ここ十二年間、本当にたくさんの人がG区に入ろうとして、失敗したり、怪我をしたり、場合によっては命を落としたりしてきた。迷い込み戻ってこなかったものたちもいた」

「知ってるよ」

 拓巳が言った。都も知っている。だけど、きっと新太は知らないのだろう。だから蝶野は、新太を見て頷いた。

「今日の故郷学では、少しだけ、その話をしようと思う」

 蝶野がモニタを叩くと、地図が広域に変わり大きな東京エリア23の地図になった。円形とまでは行かないが縦横ほぼ同じサイズでぐるりと回る。右下の半分が欠けているのは、海だ。

「これはご存知、僕たちの町、東京、エリア23だ。元々、東京23区と呼ばれていた区域。そして、この真ん中に入った大きく開いた傷跡みたいなものがG区だ」

 蝶野が端末を操作するとG区が赤くなった。

 たしかに、縦長に開いた傷口のような形をしている。

「G区は大昔より東京の中心地だった。最先端科学研究所から、主要企業の本社ビル、官公庁、政府機関、最高学府、それに主要な歓楽街に商業地区ぜーんぶ、この赤いエリア、もしくは境界線上にあった。当然、人口密度もすごいことになっていた」

 蝶野は、さっき見せた指輪を見せながら言った。

「これは僕の友人から借りたものだ。これは震災前の東京で流行っていた指輪だ。何だかわかるかい?」

 蝶野は都に指輪を渡した。ありふれたデザインの金の指輪だ。内側に小さく透明な石が入っている。都の指より、ずっと大きい。

「男性物の指輪ですか?」

「男性用。そうだね、その持ち主は男だ。この指輪には対になる指輪がもう一つある。ペアリングって言って、主に結婚する前の男女――まあ、恋人同士が贈りあう指輪だね。ただ、これはただのペアリングじゃない。新太君はわかるかい?」

 都は新太に指輪を手渡した。新太はしばらく見てから「金メッキですね」と言った。

「材質を当てろと言ってるわけじゃないよ! まあ、合ってるんだけど」

「なんだ、安物かよ」鼻で笑った拓巳に、蝶野はふふっと笑った。

「学生同士で送りあうペアリングなんて安物だよ」

 その時、教室の扉が開いて双子が入ってきた。

「すみませんでした」

 葵が小さく頭を下げた。茜はいつものようにその背中で俯いている。そして二人はそのまま席に着いた。

「丁度良かった。じゃあ、葵ちゃん、これがなんだかわかるかい?」

「――位置確認リングですか?」

 葵があっさりと答えた。初めて聞く言葉だった。

「そう、正解。これは恋人の浮気防止のために作られたキープリングという物だ」

「浮気防止?」

 蝶野は苦笑いを浮かべながらその指輪を自分の指に嵌めた。

「ま、建前は恋人の安全を守るだの、何だの言っていたけどね。まあ見ててよ。この指輪の受信機を端末にセットすると、こうなるんだ」

 再び端末を叩く。地図上で二箇所、ピンク色に光った。一つは左に近い、真ん中より少し下。丁度この学校がある位置だ。もう一つはG区の境界中で光っていた。

「受信アプリケーションを導入した端末で確認すると、地図上に、嵌めている本人が居る場所があらわれる。ものすごいシンプルなテクノロジーだね」

「……つまり、恋人同士の行動範囲を監視する為ってことか?」

 拓巳が呟いた。ちょっと引いている。蝶野は苦笑いを浮かべた。

「まあ、そう言うことだね。今日は仕事のはずなのにどうしてアミューズメントパークにいるの? とか、風邪で寝ているって言ったのに銀座にいるのはなんで? とか、そんな感じでね。心配性の人たちが多かったみたいで、この指輪は大ヒットしたよ。これは金メッキの安物だけど、実物の結婚指輪に仕込む人たちだっていた。まあでもみんな監視したいというより、ふんわり、いつも繋がっていることを確かめたいっていう気持ちで付けている人がほとんどだったよ。結婚した後は、子どもに持たせたり、とかいう話もよく聞いた。こんなシンプルな装置だから、バッテリーは二百年有効、つまり一生ものなんだよ。……ただ、問題はここなんだ。これを見てごらん」

 蝶野は、左側の光を指差した。

「僕たちはここ。で、もう一つは――ここにあるよね」

 地図が赤く色づいているエリア。東京G区である。

「この情報によると、この指輪の片割れがG区の中にいることになるね。それが、どういうことかわかる?」

「……指輪がそこにある、ってこと?」

「そう。指輪はここにあるし、壊れてもいない。つまり、単純に考えると僕の友人の彼女がここで亡くなったことになる」

「違うんですか?」

「何とコレ安物の割にはちゃんと出来ててね。キープリングは、そもそも人の体温がないと動作しないんだ」

 都は思わず隣の席の新太と顔を見合わせた。その向こうでは拓巳が渋い顔をしている。

「生体反応ってこと。じゃないと、指輪を自宅に置いて浮気なんてことができてしまうだろ? 人が嵌めてないと反応しないんだ。つまりこれは、どういうことだと思う? 都ちゃん」

 指輪は人が嵌めていなければ反応しない。そして今地図上には二つの光がある。どちらも反応しているということはどちらも生きている。片方の光は――東京G区の中にある。

 それは、つまり。

「――G区の中で、かたわれが生きてるってこと?」

 そう。と、蝶野は、都の目を見て言った。

「そうなる。そして何と――震災から数年たっても、こんな感じで反応を示すものがいっぱいあったんだ。恋人や伴侶や家族がG区の中で生体反応を示しているという事例がね」

「でも、正しくないんだろ?」

 拓巳が首を捻って言った。

「G区内は磁場が狂っている箇所がたくさんあります。ありとあらゆる電波の類いは、正しく動作しません。……そう聞いています」

 葵の言葉に、蝶野は「その通りだ」と頷いた。

「これはどう考えても誤作動だ。震災直後ならまだしも、十二年も経っているんだ。指輪の相手があの中にいるなんて、どう考えても無茶だろう? 震災後にどこかで生き延びていたとしたって、食べ物はどうする? 水だって手に入らないだろう? ずっとあの中にいるのは不可能だ。今は、ほとんどの人がそう思う。だけど」

 だけど。――蝶野は、小さく溜息を吐いた。

「震災の直後は、誰もそう思わなかった。君たちにも考えて欲しいんだけど、もし自分の恋人、あるいは家族、子どもが、境界の中で生体反応を示す情報があって、それを唯一中に入れる軍に訴えても取り合ってもらえず、「おもちゃの誤作動だ」で、片付けられてしまったらどうする?」

 それは、考えるまでも無い気がした。

「新太君だったらどうする?」

「自分でG区の中に入って探します」

 そうだ。都だって、それがはじめであっても、蝶野であったとしても、禁止されていても境界の中に入るだろう。蝶野は、そうだね、と言った。

「それが自然な感情だ。だから、何人もの人たちがG区に入った。震災直後は、今のように厳重に仕切られてもいなかったし、壁も電流が流れる有刺鉄線も無かった。こっそり入っても、大して罪に問われたりはしなかった」

 そして、蝶野はモニタの地図を見上げた。

「……それにG区は、その多くの人にとって震災前までは慣れ親しんだ自分たちの町だった。職場があった。繁華街があった。住んでいた人だっていっぱいいた。大学があった。高校があった。美術館があって、博物館があって、遊び場所があった。大好きな古本屋街があった。みんながみんな、思い出を持っていた。故郷なんだ。震災前は誰もそんなこと思っちゃいなかったけどね」

「先生の故郷は、長野じゃないんですか?」

「長野も故郷だよ。でも、あの頃の生活の全てが詰まっていた、この町も、確かに僕の故郷なんだ。たくさんの人と同じで、失ってから、初めて気付いたんだけどね。本当はG区だなんて呼びたくない。特別管理区じゃない。神楽坂、青山、四谷、小石川、銀座、広尾、赤坂、溜池山王、六本木、麹町、四ツ谷、本郷、神保町、秋葉原――どれもこれも、無くなってしまう日がくるなんて想像したことがなかった。……例え燃えても、面影は残っている筈だ。みんな、そう思った。そして境界を冒した。だけど、入ってから気付いた。ここは完全に異界だと。別の世界になってしまったんだと」

 都は、あのたくさんの死骸のようなビルを思い浮かべた。

「中で、命を落とした人も居た。汚染区域に足を踏み入れ、ウィルス感染した人も居た。今も管理入院している人もいるし、病で亡くなった人もいる。先生の友人も――正しくはこの指輪の持ち主もね、残存ガスが起こした爆発で大火傷を負った。まだ懲りずに生きてるけどね。……まあ、そんな事例が多発して、軍は腹に据えかねたんだな」

「……だからって禁止はやり過ぎだろ」

 拓巳が言った。蝶野はしかし小さく首を振った。

「人手がたくさんいるならまた違ったんだろうけどね。当時は、まだ日本中がカツカツだった。東京が潰れたと言うことは、日本の脳幹と心臓が同時にやられたようなもんだ。……日本が死なないためには、東京を切り捨て、関東を切り捨て、他の地区を早急に立て直すしかなかった。そんな時に東京に残った悲しみや傷跡に付き合ってる暇なんて無かったんだよ。誰も」

「だから警備が強化されたの?」

「そう。今も噂はたくさんある。軍は実は、何かを隠蔽したかったのではないか、とか。そうでなければアレだけ厳重に警備するのはおかしい、とか。本当に立ち入りが危険な区域だけ守ればいいのに、あんな全部まるごと人を入れないようにするには、理由があるとかね。危険な兵器を実は隠していた、だの、国家機密の人造人間工場が地下にある、だの、死体で化け物を作ってる、とか言うのもあったな。都市伝説みたいになってる」

 まあ、どれも眉唾だけど、と蝶野は笑った。

「それでも中に生存者がいるという噂は、本当に根強いね」

 拓巳がぽつりと言った。

「都市伝説――東京ゴースト、か」

 名称は知っている。新太がふと顔を上げた。しかし、何も言わなかった。双子は沈黙していた。蝶野は、そう、と頷いた。

「東京ゴーストといつしか呼ばれるようになったその集団の噂は、今も耐えない。黒い人のような影がG区の中に走っているのを見た、とか。特別な望遠鏡を使って見ると夜中に廃墟の影のなかにちらつく光が見える、とか。台場の廃倉庫跡で見たことも無い格好をした集団が何かをしているのを見かけた、彼らはG区に繋がるセンタートンネル跡地の方向へと消えて行った、等ね。そして、この指輪の光を東京ゴーストの証だという人も居るよ」

 信じたい気持ちはわかるけどね――と、蝶野は言った。

 それからG区境界にある主要セクションについての説明があり、故郷学の授業は終わった。その次は数学の授業。それから十五分の休憩を挟んで、現国の時間になっても、都はまだ上の空で、ぼんやりと朝の蝶野の話について考え続けていた。

 蝶野の東京に対する想いを始めて聞いた。この町に、あんな感情を抱いていたとは思わなかった。

 東京のことを考えると、いつも不思議な気持ちになる。好きかと言われると、そうとは言えない。だけど、ここから逃げてどこかもっと良い所へ行きたいか、と聞かれると――それにも、うんとは言えない。気付いた時には全て失っていた都には、この町を愛着する理由はない。

 そして都は考える。G区の中に、見渡す限りの影のような街に、本当に誰かが住んでいるのなら。彼らは何を考えているんだろう。どうしてあんな寂しい場所に居続けるんだろう。

 故郷だから――?

 わからない。故郷ってなんだろう。都は三百年前に書かれた小説の文を追いながら、再び自問した。だけどその問は、何も持っていない自分の内面には全く響かず当然のように答えは返って来なかった。

 浮かんだのはただ一つ。

 もし彼らが本当にいるのなら――ジジは其処から来たのだろうか。

 もしそうならば、それはつまり、ジジには帰る場所があるということだ。

 そんなものは、どこにも無い、都とは違って。


 ◯


 放課後。新太はグラウンドの端のベンチに仰向けに寝転んでいた。夕方に差し掛かるにはまだ早く、新緑の合間から光が毀れて顔に当たる。目を閉じると瞼の裏でも光が揺れているのがわかる。

 ――光。

 目を覚ましてからずっと、新太は光のことばかり考えている。目の裏が焼きつくほど、強烈な、光の記憶。そう、夜を一つ経た後に、まず思い出したのはあの閃光だった。

『ごめんね』

 次に思い出したのは声だ。誰かの声。一言、謝るあの声。聞いたことがあるけれど、どこで聞いたのかわからなかった、少年の声。

 その次に浮かんだのは、横顔だ。そこで記憶は急に鮮明になる。赤い髪。大きくて光の強い瞳。形の良い眉。そして新太は、どうしてか確信を持って、思ったのだ。

 あれは――茜だ。

『記憶を消すことを殺すって言うんだ』

 そう、確かにそう言っていた。足音、地下トンネル、手元の灯り、ピアス、電子音。誰かとの会話。そして。――やっぱり、光か。あの白い光を浴びたせいで、新太は「殺され」たのだ。

 だけど、どうしてか、全て思い出している。つまり、これは未遂なのだ。

 何故だかはわからない。茜がわざと手を抜いたのか、それとも予め、ほんの少しだけ記憶を消そうとしただけなのか。後者かもしれない。新太が目覚めた後、おかしなことを口走らない為に。だが、それは一理ある気もするけれど、不可解であるようにも思う。

 新太の記憶を消してしまうことは、別に彼らに不利益は無い筈だ。

 だったら、そんなまどろこしいことはせずに、全部消してしまえば済む話ではないのか。

「……わかんねえ」

 新太はぽっかりと青い空に向けて呟いた。グラウンドの裏はもうずっと雑木林で、緑が多い。鳥の声が聞こえる。

「カンナ」

 新太は声に出して小鳥の名前を呼んだ。もちろん返事は無い。あの鳥がカンナだったらどんなにいいだろう。

 茜は、カンナは無事だと言った。絶対に、大丈夫だとも。

 だけど、どうしてそれを信じられるだろう。その根拠はどこにも無いのに。

 時間が経つにつれ、新太の奥へ押し込めた不安はむくむくと顔を擡げるようになっていた。果たして、ごはんを与えられているのだろうか。水は飲んでいるのだろうか。一体――どこにいるのか。思い浮かぶのは廃墟。G区の、煤けた骨組み。いつも拓巳と見ている公園からの風景とは違う。――新太はあの中に立っていたのだ。

 外から見るのと、内から見るのだと全然違う。あの、途方に暮れるしかできない異世界の景色の中で、小鳥が一匹、取り残されたとしたら――。

(早く)

 早く、迎えに行ってやらねばならないと、焦りと共に思う。

 その時、がさりと草を踏む音がした。咄嗟に顔を上げる。すぐ其処に赤いリボンを髪につけたおかっぱの少女が一人立っていた。

(……茜)

 切りそろえられた濃い茶のボブの髪が、夕方の風に揺れている。華奢な体躯、節目がちな瞳の縁に長い睫毛、白い首筋。新太は、記憶の中の少年と、その姿を比較する。確かに、似ていると思う。でも目の前にいるこの子は、どう見たって女だ。

 新太は静かに、息を飲んだ。真実を確かめたい。だけど「君は男ですか?」なんて、そんなことを聞くのはあまりにも無礼な気がした。もしかしたらあれこそが夢だったのかもしれない。馬鹿馬鹿しい、新太の夢想。夢とさっきの蝶野の話が混ざって、記憶がおかしくなっただけかもしれない。

 茜はそこに立ち、新太を見ていた。何を言うでも無く、言いたげなわけでもなく、しかし、立ち去るそぶりも見せなかった。表情は無く、何を思っているのかは、その大きな瞳を見ても、わからなかった。

「あの、葵はどうしたの?」

 最初に頭に浮かんだ当たり障りの無い質問を口にした。茜は小さく首を振った。

「いないの?」

 頷く。まどろっこしい。

「茜は――どうして、喋らないの?」

 茜はその手を唇に当てた。目が何故か潤んでいる。どきっとした。咄嗟に泣いてしまいそうだと思って、新太は慌てた。

「ご、ごめん、変なこと言って」

 茜は首を振って、両手で俯いた顔を覆った。本当に泣き出してしまったのかと思って、新太は立ち上がる。しかし次に聞こえたのは、くぐもる呼吸から零れた、おかしな吐息であった。

「――っぷ」

「……ん?」

「あははははは」

 少女は、突然身体を折り曲げると、しゃがみこんで大笑いした。うわっはっはっは、と青い空に、笑い声が響いて行く。新太は脱力した。聞き覚えがある、記憶の中と全く同じ、男の声だ。目の前には少女しかいないのに、もうウンザリするほどちゃんと男の声だった。

「やっぱり――!」

「あはははは、何でお前、赤くなってんの」

「え、ちょ――待って、待て、どういう――」

「面白いやつだなぁ! なんだ俺そんなに可愛い? どきどきした? ねえどきどきした?」

「いっ、いい加減にしろ!」

 照れくさかったのと憤りとで勢いで、新太は思わず手を上げた。本気だったわけではないけれど相手が男だとわかった分、遠慮は無かった。しかし茜はまるで曲芸でもするように新太の拳をひらりと交わし、そのまま後ろにくるりと回った。細い足が宙を舞い短いスカートがふわりと揺れる。視線が行きそうになって、あわてて逸らした。

「見た?」

 音も立てずに着地した茜が、にこっと小首を傾げた。憎たらしい。

「阿呆か! 男のパンツなんか見たらダメージ食らうわ」

 男、という言葉に、茜は「おっ」と無邪気に笑った。

「やっぱ覚えてるかー。あちゃー」

「あちゃーじゃねえだろ! 声出した時点でわかるに決まってるじゃん」

 茜はごめんよぉ、と笑った。

「まあ怒らないでくれ。仕方ないんだよ、戻りたてって、色々質問されたりすんだろ。お前の父ちゃん軍人だから、お前が下手なことポロって言ったら不味いことになるわけ。だから、短期間に記憶すっ飛ばすやつを仕掛けさせてもらったんだ」

 やっぱり、新太の想像通りだった。新太は憮然と言った。

「言えよ、そういうことは!」

「言ったら効かないんだよ」

 茜はそう言うと、新太が寝転がってたベンチに、両脚を投げ出して座った。ミニスカートから伸びる脚は、男には見えないほど白い。こちらを見上げて、首を傾げる。

「でもお前、戻るの早いなぁ。一週間くらいは戻らない量浴びさせたんだけど、俺」

「知らないよ。……多分、もう、ほとんど効いてない。カンナを取り戻してくれるって言葉だって忘れてない」

「おう」

 茜は不敵な表情を浮かべた。感情が宿ると、途端にちゃんと男に見えるから不思議だ。いや、違う。男に見えるというよりも――人間に見えるのだ。少女の茜を演じている時は、中身が見えない分、まるで幽霊のように見えるのだ。

 幽霊――ゴースト。

「そのカンナちゃんの話を伝えに来たんだ。お前がまだ思い出してないなら、どう告げようかとも迷ったんだけど。朝の様子だと、思い出してきたみたいだったし」

「何かわかったの?」

 うん、と茜は頷き、そして驚愕することを言った。

「今日くらいに、戻ってくる気がする」

「え? どういうこと?」

 新太は思わず口が開いた。それから眉根をひそめる。そんなこと、どうしてわかるのだ。しかし茜は、絶対じゃないけどな、と明るい口調で言った。そして更に、驚く言葉を口にした。

「だからさ、今からお前んち言っていい?」

 茜は、新太を見上げると小さく首を傾げた。

「え、……何で?」

 何を言っているのか、何が何やら意味がわからない。茜は「行きたいから」と無邪気に言った。しかし新太の中には、疑念が浮かんだ。そしてそれは、あっという間に小さな粒から、大きな雲へと姿を変える。

「……なあ、もしこれで本当にお前の言うとおりカンナが今日帰ってきたら――俺はやっぱりお前らが怪しいと思う。自作自演じゃないのか?」

 そう思わないほうが不思議だ。あまりにも出来すぎている。茜は、しかし、腕を組んで、なるほどね、と言った。

「確かに、お前の言うことは一理あるな」

 新太は思わず拍子抜けした。

「確かにここで俺がお前と一緒にお前の家に行き、窓を開き、「カンナちゃーん」と呼んだら、小さな鳥が戻ってくる。……確かにシナリオが描かれていると思うのが普通だよな。うん」

「――だ、だろ?」

 新太は変な合いの手を入れた。しかし、茜は再び笑顔を作ると「でも大丈夫だよ」と言った。

「俺、嘘吐かないもん」

「お前、何言ってんの? 鏡持って来ようか?」

「違う! これはまた別の話!」

 茜は自分のスカートを触りながら、小さく唇を尖らせた。

「それに今日って言ったのは、予想であって、帰ってくるとは限らないし」

 なら、どうしてさっき、今日ぐらいに戻ってくると言ったのだ。そう言うと、茜は「勘だよ、勘」とあっけらかんと言った。

「あの中で生きていくにはな、五感だけじゃだめなの」

「――第六感? 霊感ってこと?」

「んなもの、この二十二世紀にあるもんか! どっちかっていうと野生の勘みたいなもの。目で見るもの、匂い、音、風や空気の感覚、気配を感じる力――それと味ね」

「味って? 何を食べる味?」

「口の中が乾いていたら、思ったよりも緊張している。喉の奥がぎゅうと痛んだら、別の五感を確かめたほうがいい。味は自分の内なる声だ。自分の身体が発する、一番わかりやすい信号」

「よくわかんない」

 それが勘と何の関係があるのだ。

「つまり、それらの五感を統合してピンと一つの答えを導き出す力、それが勘だ。脳みそを使わずに時間をかけずに、一瞬で出来るようになるのがミソ。ピンとこなかったら、それは勘として意味がないからな。アレが見えてコレが聞こえてこの匂いがするから、えっと、つまりこれはその裏に虎が潜んでいるのかな? なんてやってたら、死ぬぞお前」

「虎って何の話!?」

「虎。がおーの虎。たまに出るんだよ、これが」

「G区の中に虎がいるの?」

「いるよ。動物園もアニマルパークも研究所も放置されたままだったでしょ。虎もライオンも豹もアナコンダもいる。タランチュラも目撃されてる。俺、蜘蛛大嫌いだから本当に困るんだよね。あ、でも葵が象を見たって言ってたけど、それは流石に嘘だな。あいつ、俺のこと馬鹿だと思ってしょっちゅう騙そうとするんだよねー」

 そんなことはどうでもいい。そしてこの双子の関係が未だよくわからない。

「虎がいるのがわかるのは何となくわかったけど、カンナが戻ってくるのは? あいつの声が聞こえるの?」

「勘はそもそも根拠が無いところというか、頭で考えてもわからないところから根拠がくるから、何とも言えないんだけど。勘。何となく。でも今日とは断言しない。アー、でもそろそろじゃないかなー。カンナちゃん、飛べるし」

 新太は表情を曇らせた。飛べるといってもあんな小さな鳥が、そんなに長い距離を飛ぶことなんて出来るだろうか。新太の周りを飛んでいるか、あるいは胸ポケットで寝ているだけだったカンナが?

「そういうことだから帰ろ」

「はい?」

「だからおまえんち連れてって。アニマロイド見せて」

「阿呆か!」新太は茜の腕を振り払った。「ええー」と、茜はだだを捏ねるように両手を胸の前で握った。女の子のしぐさだ。

「いいじゃーん。アニマロイドみたいーみたいー、みーたーいー」

「アニマロイドって言うなよ! それに俺完全にお前らのこと信用したわけじゃないから」

 茜の表情が、一瞬しゅんとした。少し、罪悪感を覚えてしまう所に、そもそも自分のチョロさがある気がして新太は溜息を吐いた。

「ねぇ、どうしたら信用してくれるの?」

「お前らの目的を教えて」

「目的って?」

「G区の中に潜んでこそこそ何してるかってことだよ」

「――でも、それは言えないって言ったじゃん」

 茜は肩を竦めた。

「お前が俺たちの仲間になるなら別だけど。そしたらこっち側の生活には戻れなくなるよ」

「じゃあお前らは何でこっち側出てきてるんだ?」

 双子が内部の人間ならば――あの集団に属していて、大義があってあそこにいるというのならば、何故わざわざ危険を冒してまで外に出ている?

「勉強とか――色々」

 茜はぶつぶつと語尾を濁しながら言った。

「内部じゃ勉強できないの?」

「教えてくれる人はいるよ。ネットワークもジャックすれば幾らでも使えるさ。でも、中に子どもがいない」

「え、嘘。いたじゃん」

 祭りの時のことも、ちゃんと覚えている。

「あー、あの子たちは別。と言うかちょっと意味が違う。……つまり、運営側というか、元からのメンバーでの話で、その中だと俺と葵が最年少。次が睡蓮だ」

「え?」

 心臓が音を立てて鳴った。睡蓮。記憶が突然鮮明に蘇る。赤い灯篭の下で光る内掛けの金糸。だらりと垂れた濃い赤い帯が作るたゆんだ皺。白肌に垂れ目がちな目――赤みを帯びたぽってりとした唇も。寂しそうに笑う顔。吸い込まれそうな声。白粉の匂い。

「睡蓮、は、その」

 口を開いたものの、言葉が続かなかった。

「おや? おやおや?」

 茜が唇を尖らせて、こちらの顔を覗き込む。

「お兄さん、顔が赤いけどどうしたの? ねえ、どうしたの? 睡蓮がどうかした?」

「うるさい! 関係ないだろ、――違うんだ」

 何が違うんだ。何の話だ。全くわからない。わからないのだが、思い出したら――睡蓮のことで頭が埋まってしまった。頬に触れた、冷たい指先の感触が蘇る。

「わっ」

 思わず声を上げると――茜が目を真ん丸くした。そして、笑った。

「あはははは、じゃあこういうのはどう?」

「な、何がだよ」

 茜は、んふふ、と目を細めて笑った。

「おまえんちに連れてってくれたら、睡蓮のこと色々教えてあ・げ・る」

「ばばば、ばか言うなよ。そういうんじゃないって」

「ほら、静止画もあげるよ?」

 茜はひょいっとモバイルを取り出すと、「これとかどう?」と言って、その画面を此方へ見せた。金屏風の前で控えめに笑う睡蓮の姿があった。新太は思わず、モバイルを掴みそうになった。

「おっと。だめだめ。おまえんち行ったらね」

 茜がにやにやと笑っている。本当に嫌だ、こいつ、もう。新太は大きく大きく溜息を吐いた。

「交渉成立?」

「……OKだ馬鹿」

 やったー、と茜が無邪気に両手を上げるのを横目に、新太は頭を抱えた。

 

「うわあ、けっこうすげえな」

 リビングからの眺めに、茜は小さく歓声を上げた。

 ナナが先ほどから、こちらをちらちらと気にしている。女の子を連れて帰った……それだけで、ナナは豆鉄砲を喰らった鳩みたいな顔をしていたのに(犬だけど)、今度は、その声がどう聞いても男だから、一体これは何なのか、どういう状況なのか判断しかねているようだった。オーガは茜の見た目も声も関係なく、ただ他人が家に上がったということにすっかり怯えてしまって、ソファの下から出てこない。オーガは元々、えばりんぼうの癖に人見知りだ。

 アニマロイドが見たい! などと言っていた茜だが、ナナにもオーガにも無理に近寄る素振りも無く、マンション八階からの景色にはしゃいでいる。

「でも高い場所なんて、その、そっちの方にもたくさんあるんじゃないの?」

「たくさんあるよ。でも景色がこっちとあっちじゃ、全然違うんだ」

 ナナとオーガが聞いている手前、堂々とG区の話も出来ない。特にナナは父に通じている。殴られて出来たたんこぶは大分小さくなったが、再び殴られるのは御免である。茜も確信めいた言葉は吐かなかった。ただぽつりと「あっちがよく見える」と、言った。

 ナナは突然の客を前に大人しく従順な犬を演じて、部屋の片隅に置いてある犬用チェアの上で寛いでいる――フリをしていた。本当は茜のことが気になって仕方が無いようだ。オーガの姿は見えないが、まだソファの下にいるのだろう。どちらも父と新太以外の前で言葉を発することは無い。そして新太は本来どの家のペットも家族前以外では口を利かないものだと思っていた。言い換えれば、世界中の全ての犬と猫と文鳥が、家族の間では言葉を話すのだと思っていた。そうじゃないと知ったのは、小学校も高学年に入った頃だ。

 カップボードの上には、南動物工学研究所の前で撮られた父と母の写真が飾ってある。母は其処の研究員だったのだと父は言う。ただし、それ以上はあまり語ってはくれない。今まで何度聞いても「お前が大人になったらな」という、大人の常套文句ではぐらかされてきた。新太は直接の母の記憶が無い。震災時は三歳になる前だったから仕方が無いし、そういうものだと割り切るしかなかった。むしろその方が楽だ、とも思うようにしていた。だけどやっぱり時々、少しだけ寂しくはなる。

「あ、それお前の父ちゃんと母ちゃん?」

 茜はその写真を見て、ん? と小さく首を傾げた。

「何だよ」

「そっか。お前の母ちゃん、南動物工学研究所の職員だったって言ってたな」

「うん、そう。下っ端だったみたいだけど」

 茜はうんうん――と頷いて、それから新太に耳打ちした。

「そんで、あのワンコがアニマロイドなの?」

「そうだよ。あともう一匹、ソファの下に隠れてる」

 何故か新太も小声になる。茜はへえ、と言った。

「話しかけてもいい?」

「――うーん、どうかな」

 新太自身は、別にナナとオーガと会話をされても、困ることなど何も無いのだが――いかんせん、本人たちがどう思うかがわからない。しかし心配は杞憂だった。ナナは立ち上がるとその大きな身体で足音を立てずに此方に近付いてきて、茜の顔を見て「こんにちは」と言った。

「わっ! こんにちは!」

 茜は嬉しそうに返事した。ナナは、それから新太を見て「犬の聴力は人とは違いますよ、坊ちゃん」と、言って人の声で笑った。

 と、その時だった。こつん、こつん――と、何かを叩く音がした。

「ん?」

 どこからか、名前が呼ばれた気がした。新太は瞬きをして、ナナを見る。ナナは窓を見て、そして「あれは」と、呟いた。

「あらたー あらたー」

 声をしたほうを振り向いて、新太は目を見張った。リビングの窓ガラスを、小さな真っ白の文鳥が突付いているではないか。

「カンナ!」

「えっ、マジで?」

 急いでガラスをあけると、小さな文鳥はすごい勢いで入ってきた。そのまますっぽりと、差し出された新太の手のひらの中に納まる。そして小鳥は泣いているような声で、何度も新太の名前を呼んだ。

「あらたあ、あらたあーー」

「カンナ! お前、本当にカンナか?」

 そう言うと文鳥はちいちいと鳴いて、新太の手のひらをつんつんと嘴で突ついた。

「カンナに決まってるでしょ!」

「ごめんごめん! よかった。お前、どうやってここまで」

「逃げてきたんだよう。こわかったよ、新太ぁ」

「いやはや……やっぱりわかっちゃいたけど……俺の勘ってすげえな」

 茜が新太の手のひらを覗き込んで言うと、カンナがきゃあと叫んだ。

「あらた」

 救いを求めるように此方を見る。新太は「大丈夫だよ、こいつは」となだめるように言った。何が大丈夫なのかは、新太もよくわかっていないのだが。

「ごはんと水を用意しますね」

「あんだぁ? うるっせえなあ」

 後ろで声がした。振り向くとソファの下から這い出てきたオーガが目をぱちくりさせていた。どうやら、隠れているうちに居眠りしていたらしい。寝ぼけ眼で新太とカンナと――そして茜をぐるりと見回した。そして猫は、突然、言葉の通り猫撫で声で「ニャア」と言った。

 その白々しさに新太と茜は同時に吹き出した。

 小鳥は随分と長い距離を飛んできたらしい。ナナが持ってきた餌と水与えると、少し啄ばんだ後に、「寝るぅ」と、安心したように新太の胸ポケットの中に入っていった。ふしゅるる、と、小鳥にあるまじき寝息が聞こえる。新太は一気に全身の力が抜けて、そのまま床に座り込んだ。ごろりとカーペットの上に、大の字で転がった。

「ああ――ああー良かったあ」

「ね、ね、新太、新太、俺すごくない?」

「すごいけど……何で、わかったの?」

 やっぱり怪しい気がする。でも茜は自分の頭に付いたリボンを弄りながら「だからぁ〜、勘だっての〜」と言った。そして茜は「撫でていい?」と聞いた。てっきりナナかオーガのことだと思って、適当に相槌を打った。すると茜は突然新太の胸ポケットに手を突っ込んだ。

「うわっ!?」

「お、ふかふか、あたたかいな」

 茜は新太の胸ポケットの中の小鳥を撫でると、ひょいっと手を引っ込めた。

「おい、人の胸ポケットに突然手つっこむなよ」

「あはは、吃驚した? 新太ってウブだよね」

「何の話だ? おい、何の話だ?」

 何故か、オーガが身を乗り出している。いつの間に警戒を解いたのか知らないが、茜が目の前にいるというのに、新太の腹の上に丸くなっている。茜はにこにこしながら言った。

「こんにちは、君のお名前は?」

「オーガスタ」

「へぇ、かっこいい名前だね! 女の子なんだ」

「ふーん、わかるの?」

「だって女の名前じゃん」

 それは知らなかった。新太は乱暴者のメス猫を見ると、名前を褒められた猫は照れたように顔をくしゃくしゃにしていた。思わず吹き出しそうになった。

 その時。開きっぱなしにしていた窓から、とても大きなビル鳴りが聞こえた。春先から少し治まっていた気がするけれど、大きくて、長い。不安を掻き立てる、悲鳴のような高い音。

「新太――まただ」

 ご機嫌だったオーガが、表情を変えて新太の身体にしがみつく様に爪を立てた。

「いた、いたいいたい、オーガ落ち着いて、あれはビル――」

「んなわけあるか、このおたんこなす!」

 おたんこなすという言葉を何故猫が知っているのかと思った瞬間――再び聞こえた。

 不自然なほど、抑揚が付いた音。風と混ざり合う悲鳴。段々と大きくなり、それから萎んで行く。この音はビル鳴り、ではない。まるで、咆哮のようだ。

 茜が立ち上がってベランダに出た。片手を耳に当て確かめる。もう一度鳴る。目を開いて、あ、と言った。新太にもはっきりとわかった。これはビル鳴りじゃない。

「……獣の、咆哮みたい」

「そう、聞こえるね」

 茜は低い声で言った。猫はまるで自分を見失ったかのように、あるいは子どものように、泣きそうな声で新太にすがり付いていた。

「新太、こわいよう、こわいよう――新太――助けて――やだ、やだ……」

「オーガ……」

「これは……」

 ナナが険しい顔をして、窓の外を睨んでいる。喉を小さく唸らせ、牙が見えている。敵意、あるいは、警戒心を最大にして、夕暮れが始まりつつある空を睨みつけている。

 犬は再び「これは」と小さく呟いた。そしてそれきり、黙ってしまった。

「ナナ、……これが何だか、わかるの?」

 しかし聡明な犬は答えなかった。ただ一つも聞き逃すまいと、じっと耳を傾けている。

 咆哮はずっと続いた。泣いているようでもあり、怒っているようでもあった。苦しんでいるようでもあり――時折、何故か、笑っているようにも、聞こえた。アレが何なのかはわからない。ただ、とても禍々しい何かということだけしか。

 音が止んでもしばらくの間、茜と新太はベランダからG区を見ていた。ただのビル鳴りに戻った風の音を聞きながら、紫がかった東の空を見つめていた。笑う三日月が浮いている。肌寒い風が吹いて、ナナが「そろそろ、中にお入りなさい」と、柔らかい声で言った。

「新太。……俺、帰るわ」

「うん。大丈夫?」

 茜が帰るのは、あの咆哮が来る方角だ。

「もちろん、俺は大丈夫。……でも」

 茜はオーガと、ナナを見た。そして新太を見て、低い声で言った。

「当たって欲しくない方の勘まで当たっちまった」

「どういうこと?」

「魔物がお目覚めだ。今は、ここまで」

 茜はすっと指を唇の前に添えた。可憐な少女の顔に、少年の表情が宿っていた。


 ◯


「……付いてきてもらったのに、無駄足になっちゃってごめんね」

 都はジジに謝った。猫は優しくにゃあ、と鳴いた。

「みやことドライブ、大好きだから全然平気だよ」

「本当は、新太くんに会わせたかったんだけどね」

「ふうん」

 帰り道。ゆっくりと、G区を迂回して走っていた。元首都高には乗らなかった。行きは仕方なく通ったけれど、やっぱり何となくG区の中を通るのが怖くて。何となくジジがそっちに引っ張られてしまう気がして。はじめや蝶野に告げたら叱られることはわかっていたけれど、G区を迂回して帰ることにした。

「海が見たくなったの」

 正直に告げるのが心苦しくて、そう言ったら、ジジは思いの外目を輝かせた。

「すてきだね。僕、海って見たことないよ」

「そうなんだ。東京湾だし、街道からだとちょっとしか見えないけど、いいかな?」

「もちろん」

 天気はよく、日はまだまだ高い。治安があまり良くないエリアを通る必要があるが、それはほんの一瞬だ。都はいつものリュックを前側にかけて、上からジジがちょこんと顔を出していた。景色を楽しめる速度で、ふたりはのんびりと境界の外周を走った。

 あの夜からジジは黙り込んでしまう時間が増えていた。何を考えているのかはわからない。だけどその表情は厳しく、猫はただ都のアパートの部屋の窓から、傾いたスカイツリーを睨み続けていた。それはまるで、幼い頃の記憶を懸命に想起しているようで、胸が痛かった。

 五月の空は長閑に高く、広大な青にはうろこ雲が浮かんでいる。柔らかい風は微かに潮の香がした。まだ海には遠いが、少しずつ近付いていた。

「ジジ、風、大丈夫? 辛くない?」

「大丈夫だよ、とっても気持ちがいいね、みやこ」

 猫は嬉しそうな声で言った。ジジは温かく、その温度に都は安堵していた。

 新太は授業後声を掛けそびれているうちに、いなくなってしまった。しまった、と思うと同時に、これでいいのだ、とも思った。一度や二度ではなく、都はずっと逡巡している。ジジの為に真実に近付きたいと思うと同時に、できるだけその真実から一番遠い所へ逃げたいと思う自分がいる。

 ジジはジジだ。それでいいじゃないかと、思う。今の環境に不満が無いのであれば、わざわざ記憶を思い出すことが必要だろうか? 忘れたくて忘れた可能性だってある。記憶なんて無くても、新しく積み重ねていけばいい。そんなことを思うのは、都の我儘だろうか。

 辛いことを思い出してまで、本当の自分を取り戻す必要はあるのだろうか。

 そう、聞きたかったけれど、聞けなかった。都は夢を思い出す。声を失い、腕と脚を失い、目を失う。世界をただ聞いているしか出来ないときに求めたのは――自分の名前だ。自分がそこにいることを確かめる術として、名前を呼んでもらいたかった。

 自分の名前を忘れたとしたら、都は都でなくなるのだろうか。

「みやこ」

 胸元から小さな声がした。都はバイクを止めた。ドライブは丁度境界の南端――大崎を抜けた所だった。境界通りには誰も居ない。前にも、後ろにも、人も車も無い。雑草が生い茂る土手が右側に。左側には仰々しい有刺鉄線の壁が立ち上り、その向こう側には真っ黒な廃墟がある。風が通り抜けた。さっきよりもずっと肌寒かった。

「どうしたの?」

「言わないといけないことがある」

 小さな猫は、ニャア、と鳴いた。。太陽は西に傾き始めて影が随分と長く伸びる。猫はするりと都の胸元から抜け出るとバイクの前輪の上に立った。身体の色と影の色が一緒だ。真っ黒な猫は、此方を向いた。

「ジジ?」

 ジジは小さく首を振った。

「――思い出したの」

 突然の言葉に、都は言葉を無くした。思い出した。それは、じゃあ。

「記憶が――戻ったの?」

 こんな突然に何の脈略もなく? 何の前触れもなく? 都に心の準備をさせるまでもなく?

 黒猫は小さく首を振った。

「突然にじゃないの。前から、少しずつ。ぽろぽろと。まだよくわからないこともいっぱいある。でも、わかったこともある。だけど、ずっとそれを言えなかった。だから、ごめんね」

「どうして謝るの?」

 口にしてから、何故か泣きそうな声になっていることに気付いた。馬鹿馬鹿しい。情けない。取り乱してどうするの。だけど、あまりにも日の影が濃くて。猫の表情が読めなくて。このまま、この子が消えてしまうような気がして――どうしようもない寂しさと不安で胸が痛かった。

「思い出さないほうがみやこは嬉しいのでしょう?」

 心の中をそのまんま言い当てられて都は言葉を無くした。

「私は――ジジが、好きだよ」

 そうだ。好きだ。好きだから――一緒にいて欲しいから。その気持ちばかりを考えるあまりに、自分の名前がわからないことがどれほど不安で恐ろしいか――など、真面目に考えようともしなかったのではないか。だから、きっとあんな夢を見たのだ。神様とやらがいるのであれば、都に冷や水を浴びせ掛けるために。あまりにも自分のことしか考えていない、馬鹿な女に知らしめるために。

「――ごめんね」

 都は俯いて――呟いた。猫は驚いたようだった。

「どうしてみやこが謝るの?」

「私は自分のことしか考えてなかった。ジジがずっとそばにいてくれたらいいなって思ったから、だからジジが記憶を取り戻さなければいいって――思ってた。ごめん」

 見透かされていたのだ。涙が込上げて来た。泣いてどうするの、馬鹿馬鹿しい、浅ましい。

「違う、違うよ。みやこ、泣かないで」

 猫はひらりと都のハンドルの上に乗ると、都の顔を覗き込んで首を振った。美しい緑色の瞳が不安そうに揺れている。都は急に恥ずかしくなって「ごめん」と鼻を押さえながら言った。

「自分のことしか考えていなかったのは僕だよ」

 ジジは小さな声でまるで懺悔をするように言った。

「みやこに甘えて僕はふにゃふにゃになった」

「ふにゃふにゃ?」

「そう。……心地よくて、気楽で、楽しい毎日がずっと続けばいいって、そう思った。だから、思い出したくなかったし、思い出さないようにしていた」

「……そんなの、ずっと続くよ。思い出したって、ジジはここにいて良いんだよ」

「……駄目なんだ」

「どういう、こと?」

 突然の別離を告げられたみたいで、都の心は散り散りになりそうだった。嫌だ、何を言っているの、そんなこと言わないで。そんな身勝手な言葉が出そうになる唇を、懸命に噛み締めた。

 ジジは、首を振った。

「本当は、こんなことじゃ、駄目なんだ。――僕は、でも――肝心なことが思い出せなくて」

「どういうこと? 何を言っているの?」

「守らなければいけないものがあったのに、思い出せない。何かを探していたことはわかるのに、それが何なのか、わからない。大変なことが起こっているのに……それが何だかわからないんだ。こうしている間にも、取り返しのつかないことが起きているのは、わかっているのに」

「ジジ、でもそれは、本当に?」

 猫は、深くゆっくりと頷いた。

「……だから僕は都の腕の中で、温かい眠りに包まれている場合じゃない。ビスケットとミルクを喜んでいる場合じゃない。もっと大変な、恐ろしいことが起きている」

 猫の声は不安と、恐らくは苛立ちで震えていた。

 そしてジジは、小さく息を吸って――決意したように言った。

「先生とたくみが言っていた通りだ。僕と一緒にいたら、みやこを危険に晒すと思う」

 黒猫は静かな声で言った。危険に晒す。言葉の意味を反芻する。だけど都は首を振る。

「そんなよくわからない不安だけで、ジジを放り出すなんて出来ないよ」

 こんな言葉は卑怯だとわかっていた。ジジの温度を欲しているのは自分だ。

 だけど腕を伸ばす。黒猫は、困ったように俯いて、だけど、そのまま大人しく都に抱かれた。

 こんなに小さいのに――そんなに抱え込んで。思わず、自分が無力なことを忘れて、図々しい言葉が口をつく。

「大丈夫だよ。危険なんかない。……ジジのことは私が守ってあげる」

「みやこ――ありがとう。でも――」

 その時だった。突然、空気がピリピリと震えだすのがわかった。風が方向を変える。都は思わず、空を見上げた。

 ジジが小さく鳴いた。その声はまるで恐怖の悲鳴を飲み込んだように聞こえた。

 その次の瞬間だった。

「っ!? あっ!?」

 思わず口から漏れた声は、激しい音に飲み込まれた。地面が震え、地震かと思って都はジジを抱いたまま地面にへたり込んだ。ビル鳴りのようでいて、全く違う悲鳴のような声が、G区の内側から響いてくる。黒い影が崩れる音。堪え難い音量に、再び世界が震えた。

 まるで咆哮のような音。これが獣の声なら――それがどんな獣なのか、想像したくない。

 どれだけそうしていただろう。ようやく顔を上げた時に、空の色が紫がかっていた。

「――やっと、止んだ?」

 都は、地面にへたり込んだまま呟いた。すっかり腰が抜けてしまった。起き上がると、膝がガクガクする。腕の中では、まだジジが震えていた。猫はニャアと小さく震える声で鳴いた。こんなに怯えている姿を見るのは、初めてだった。

 でも、今の声は怯えて当然だ。都だって恐ろしくて仕方がない。G区の中には、一体、何がいるのか。もし境界線を越えて、あれがこちら側に出てきたら……東京はどうなってしまうんだろう。アレが何だかわからないのに、想像しただけで恐ろしい。

 今のは境界警備隊にも聞こえている筈だ。一体、どうするんだろう――と都は憂慮した。境界警備兵は外側を守るのが仕事だ。内側におかしなものがいたら、調査に入るのは別の部隊だと聞く。だが、どう考えても尋常じゃないあの声に――あの化け物に、もしはじめが対峙することになったら。

(……怖い)

 ――それは、駄目だ。絶対に駄目だ。腹の底に冷たい恐怖が染み渡る。その時だった。腕の中で、ジジが小さく「――目覚めたんだ」と呟いた。絶望が滲む声だった。

「何が、目覚めたの? 今の、化け物のこと?」

「もう――終わりだ。子守唄がないと」

「子守唄? ジジ、子守唄は怖いものだって……」

 都は震えるジジの背中を摩りながら、優しく聞いた。猫は小さく丸まったまま首を振った。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 ジジは、まるで子どもに戻ってしまったみたいに、小さく丸まってミャアミャアと鳴いていた。都はその体温を確かめながら、首筋や背中を掻き、撫でる。何が目覚めたのだろう。それはさっきジジが言っていた「探していたもの」や「大変なこと」と繋がっているのだろうか。

『G区の中には魔物がいる』――そう言った蝶野の言葉を思い出し、都は唇を噛んだ。しばらくすると、黒猫は顔を上げた。そして小さく「ごめん」と再び呟いた。

「どうしてあやまるの、ジジ。もう、大丈夫?」

「大丈夫。落ち着いた。そして、思い出した。僕の――本当の名前」

「え?」

 今、思い出したと言うのか。それとも、ずっと前から知っていたのか。そんなことは聞きたくないのに、言わないでなんて言えない。ジジは躊躇うように都の顔を見上げた。そして、はっきりとした発音で、言った。

「――九月。これが僕の本当の名前だ」

「九月?」

 不思議な名前だね――と、茶化す気にはなれなかった。

「僕を呼んでいるんだ。あの、魔物が」

 ジジは小さく震えている。都は首を振った。どうしたらいいのかわからない。だけど、絶対に、絶対にそんなの、駄目だ。

「駄目だよ、ジジ――」

 思わず、そのまま呼んでしまった。だってジジだ。都にとってこの子はジジなのだ。

「みやこ。僕はとても恐ろしい。思い出したいし、思い出したくない。だけど、やっぱり、このまま此処に居たら――危険だよ。みやこを――」

「駄目だよ!」

 都は更に強い声で言った。それは半ば懇願でもあった。

「ジジは、あの声が恐ろしいものだと思うんでしょう? 危険なものだと思うんでしょう? なら尚更、全部思い出して、はっきりわかるまでは近付いちゃ駄目だよ。呼ばれているなら、尚更だよ。悪いものなんでしょう? 罠とか、そういうのかも知れないじゃない」

 もはや自分が何を言っているのかわからない。どんな大義名分をつけても、本音はただ引き止めたいだけなのだ。不安なのは都だ。また一人になるのが怖いのだ。

 たったひとりの友だちを――失ってしまうのが怖いのだ。ジジははっと顔を上げた。

「みやこ――何か来る」

「え?」

「バイク乗って! 逃げる!」

 都ははっと顔を上げた。耳に届いたのはエンジン音。チカ、と微かに光ったように見えたヘッドライトは、あっという間に大きくなる。正面から黒い塊が、大量の煙を巻き上げて迫ってくるのが見えた。一瞬唖然としたが、それがマシンに乗った人影だと気付いた瞬間に、都は反射的に車体をぐるりとUターンさせ発進した。同時に、そちらからも同様に真っ黒なバイクがやってくるのが見えた。……挟まれている。

 爆音がすぐ背後に迫る。スピードを上げると、目の前の集団はあっという間に近付いてくる。このままだとあと三十秒も掛からずに、正面衝突するのは目に見えてる。右手はフェンスと有刺鉄線、左手は急な土手。正面にバイクの集団、後ろからはも同じ集団。絶体絶命と、頭ではわかるのに、ビックリするほど心は落ち着いていた。五月蝿いなぁ――都は、そう思った自分に驚いた。今自分は、自分とジジは、それどころじゃないのだ。

 エンジン音が、空の上で衝突する。遠いから影に見えるのだと思ったが、違った。体躯からすると男が、全身に滑るような真っ黒な衣装を着ていた。気味が悪い。

 背筋に嫌なものが走る。

「ジジ――つかまってて」

 スピードを上げる。エンジン音が唸る。風が耳を切る。メーターが最大に触れる。

 少しでも気を抜けば転倒する。そうすれば、都もジジも命は無い。

 勝負はたった一瞬。息を大きく吸って。男は、都のスピードに怯んだのか、行く手を阻むように止まった。もう五秒もない。ぶつかる。その瞬間だった。

「えいっ!」

 激しい摩擦音を立てハンドルを切り、都は土手を降りた。斜め前、ぎりぎりコンクリートの階段を捉える。振動で全身が激しく揺れる。一瞬でも気を抜いたら、ひっくり返る。腕が持たない。声もでない。息すら出来ない。

「――ッ!」

 ギギギギギ――と、タイヤが激しい摩擦音を上げ、土ぼこりを立てて、着地した。

「――生きてる」

 ジジが腕の中でひっくり返ってる。ふにゃあと、声を上げた。

「ごめんごめん! 行くよ!」

 土手の下に人影はない。助けを求めても、誰もいない。この辺りはもうずっと廃港から続く、空倉庫街。そして廃工場。潮風に吹かれて、朽ちていくかつての東京の玄関。

 同時に男も女も子どもも、身を守れない者は絶対に足を踏み入れるなと言われている地区。

「全速力で行くよ」

 ガス保つかな――と一瞬脳裏を過ぎった杞憂は背後に聞こえたエンジン音で吹っ飛んだ。都は振り向く間も無く、そのままアクセルを全開にする。砂埃が目に入る。整備された元首都高や、渋谷周辺の軍用道路とは違う。ガタガタに荒れたアスファルトがひたすら続く。がらんどうのビル跡、半壊したまま、放置された住宅地の残骸。その間を、全力で走り抜ける。

 もう少し進めば旧第一京浜。道はまだマシになるはずだ。都はエンジンを吹かした。

「都――」

「ジジ、動かないで!」

「危ない!」

 猫が叫ぶのと同時に左側にどすん、と衝撃を受けた。

「わっ!」

「姉ちゃん、中々良いスピードだがそんなマシンで俺たちと張ろうってのが間違いだ」

「やめて!」

 スピードを上げる。男は付いてくる。すぐ後ろに、別のエンジン音が迫る。

「猫を寄越せ」

「は?」

「いいから、その猫を寄越せば、お前は逃してやる」

 男が叫んだ。都は咄嗟に叫んだ。

「絶対に嫌!」

 だけどこれ以上加速が出来ない。恐怖で手元がぶれる。

「いや!」

 都が叫ぶのと同時に、ジジが懐を飛び出した。

「ジジ!?」

「ぎゃああっ」

 男の悲鳴と同時に、隣のバイクが転倒した。猫は再び都の背中に飛び移った。

「きゃっ」

 バランスを崩しかけたが、持ちこたえた。

「この野郎、ふざけやがって」

 今度は右側からドスンと、大きく当たられた。エンジンの排熱が熱い。身体中が心臓になったみたいに脈打っているのに、背中につめたい汗がだらだらと垂れる。

 再びジジの身体が離れた。哮り立つ声が響いた。まるで全身が震えるような轟音。都は思わず小さく悲鳴を上げた。これは――ジジだ。ジジの声だ。

「ジジ!?」

「怖がらせてごめん」

 再び背中に体重を感じた。猫は耳元で小さく言った。

「スピードを上げて!」

「もう上がらないよ!」

「まずい……」

 まずいのは都にだってわかる。更に太いエンジン音が、幾層にも後ろから迫る。このままだと間違いなく追いつかれる。人がいる集落はまだ遠い。

「みやこ、逃げて。僕が行く」

 それは最も聞きたくない言葉だった。

「駄目だよ! 絶対に駄目!」

「大丈夫、みやこ、戻ってくるから」

「嘘、ジジは絶対に戻らない!」

「走り抜けろ――みやこ。大丈夫、みやこは絶対に大丈夫」

 その言葉を最後に、猫の体温は離れた。そして、戻らなかった。

「ジジ!」

 後ろで、激しい転倒音と衝突音がした。

 煙と爆風が――追い風になって襲う。その振動の恐怖で、都の背筋に汗が幾筋も伝った。

 立ち止まって振り返ることも出来たはずなのに、都はそのまま走り続けた。いつの間にか目の前がぼやけて、上手く走れない。左側から西日が差して、ようやく自分の進路が北に変わった事に気付いた。風と自分のエンジン音以外、もう何も聞こえなかった。涙が流れていた。どうしても止まらなかった。このまま走り続けて、一体どこへ向かえばいいのかわからなかった。どうしようもなく心細くて、不安で、そして悔しかった。

 都は――見捨てたのだ。あの子を見捨てたのだ。

 絶対に守るって言ったばかりだったのに、守られて。

 そうして、どれくらい走っただろう。道の先に小型のトラックが止まっているのが見えた。

 空っぽの荷台の後ろに、よく知っている顔が座ってる。都は止まると同時に、地面に崩れ落ちて大声を上げて泣いた。トラックには『藤井整備工場』と消えかけた文字で書いてある。

「ま、まあ何があったかわかんねえけど、爆走お疲れ様。とりあえず乗れ」

 仕事着のつなぎを着た拓巳が、都の肩を叩いて言った。


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