第二章


 第二章


 埃っぽい春の風を沈める冷たい雨が降る。雨雲が去ると一段と太陽の日差しが強さを増し、あっという間に初夏と呼ぶのに相応しい麗らかな日がやってくる。東京の五月は札幌に比べて緑の色が鮮やかだった。空き地や野原、雑木林はそこここにある。更地だった場所もあれば、児童公園の名残を残す場所もちろん空家だらけのゴーストタウンも、ぐんぐんと伸びる草に埋もれて、新緑のプールになる。

「手のひらの上で踊らされてるだけなんだなぁ」

 G区外の街跡……つまりは廃墟の中を、車で走っている最中に、感傷めいた口調で父がポツリと言った。

「何のこと?」

「高度文明だ、巨大都市だと何だかんだ言っても、全部いつかは土に還るんだよ。お前は昔の東京を知らないから、ゴーストタウンにしか見えないかもしれないけどな。巨大都市が原風景の父さんにとっては――それなりに衝撃だ」

「ふぅん」

 新太にとってはただの荒廃した町の跡にしか見えない。G区の景色は圧巻だが、このへんとなるとただの打ち捨てられた片田舎だ。

「人間は自然に適わないんだなぁってな。思うよ、これは」

「やっとわかったか」

 新太の膝で腹を上にして寝転がっている猫が得意げに言った。新太は笑ってしまった。

「父さんは昔のこと思い出すの?」

 茂ったゴーストタウンを抜け、車は広い野原の真ん中を走っている。航空機がはるか上で風を切っている。

「思い出すよ。此処に居たら、嫌でも思い出す。すぐに昔話のスイッチが入って困るね。父さんは涙もろいんだ」

 涙もろいのは知ってる。でもその割には、此処に来て昔の話を聞いたことが無い。そう言うと「特に知る必要は無いよ」と、父は言った。

「壊れてしまった物ばかりに目を向けて歩けないよりは、全部忘れてでも歩き出したほうが良い。特にお前のような未来のある若者はな。どうだ、学校は? 友だちできたか?」

「友だちねぇ」

 新太はオーガを撫でながら考えた。

「少しは出来たかな。まあ、五人しか居ないからね」

 五人という人数は徒党を組むには少なすぎる。毎日顔を突き合せるわけだし、特別にいがみ合う理由も無く、ひと月もすればそれなりには日常も回り始める。

 拓巳は最初やけに突っかかってきたが、公園で毎日顔を合わすようになったら、少し打ち解けたように思う。第一印象は感じ悪いけど話してみたらいい奴だった――というのは、転校生の経験上、よくあることである。つまりそれは、第一印象何てものは全く当てにならない、ただのこちらの思い込みだと言うことだけなんだけど。

 都は、うちに猫がいることを知ると、よく話しかけてくるようになった。都は最近猫を飼い始めたらしい。ちょいちょいと質問を受ける。オーガの写真を見せると喜んだ。代わりに見せてもらったのは上品そうな首に赤いリボンを付けた黒猫だった。話を聞いているだけで、都がその子のことがとても好きなのがわかる。そして猫好きに悪い人間はいない、というのが新太の持論だ。

 黒岩姉妹は浮いていた。とにかく寡黙なのだ。何を考えているのかよくわからない。葵はまだいい。言葉数が少ないとはいえ、会話も出来るし授業中に発言もする。妹の茜は大人しいを通り越して無言だ。新太が覚えている限り一度も発言をしたことがないのではないか。蝶野に当てられた質問さえ、未だに茜は姉の耳に耳打ちし、葵が代わって答えている。授業中は大概下を向いているか、教科書に顔を隠しているしそれ以外の時もいつも葵の後ろに隠れるようにして俯いている。

 常に凛と背筋を伸ばしている葵と比べて猫背気味の茜は小さく見えた。

 二人とも息を呑むような美少女であることは変わりが無いのだが。

 最近の新太と拓巳の専らの会話は二人の秘密を推理することにあった。茜は葵のクローン人間である説から、実はアンドロイド何じゃないかという説、山に捨てられて狼に育てられたから、人間の言葉が喋れないのかもしれない――と、大真面目で拓巳が言った時にはさすがに笑ってしまった。しかし、それなら入試を受けられるわけがない。(そう、一応はこの学校にも入試があるのである)

「でも茜のほうが運動神経は良いな。足早いし」

「この間の50m走? そうだったっけ?」

「お前見てなかったのかよ?」

 拓巳は呆れたように言った。そしてシャッターの音。いつもの公園で、いつもの定点観測である。夕暮れ前の空は曇っていた。

「じゃあ教えてやる。胸は茜のほうがでかい」

「お前ってやつは……」

 世界最大の廃墟を目の前にしても、それが日常となってしまえば会話だってどうしようもない。一昨日の体育を思い出してしまった。都は正直かなり大きいと思ったが、双子は華奢だからあまり胸が目立たなかったのではなかったか。

「走ると良くわかるだろ、こう」

 拓巳がカメラをわざわざ下ろしてまで妙な手真似をするので思わず吹き出してしまった。

「バレたら蝶野にブッ飛ばされるな、俺ら」

「馬鹿言え。あの変態が一番良く見てるぜ。特に千年崎」

「――確かに」

 詳しいことは知らないが、あの二人は旧知の仲らしい。そして、新太は気になっていたことを口にした。

「拓巳と千年崎さんも、元々知り合いなの?」

「知り合いっつーか――腐れ縁だな」

「中学が同じとか?」

「違うよ。俺は通信だし」

「じゃあどこの知り合い?」

 東京の人口は少ないが、居住区同士はかなり点在している。拓巳が住んでいる辺りと、都が住んでいるG区の向こう側はかなり距離がある。若者の交流コミュニティのようなものがあるのかと聞いたら、そんなもんあるわけねえだろ、と一蹴された。

「ま、俺ってよりあいつの事情だからな。あんまベラベラ喋るのも悪いだろ」

「事情って?」

「簡単に言うと、あいつは俺の母ちゃんの店の常連ってとこだ」

「ふーん。拓巳んち、何してるの?」

「単車の整備工場だ、俺も……」

 そこで拓巳は言葉を止めた。新太は拓巳の顔を見上げる。拓巳は口元に指を置いた。その時、新太の耳にも届いた。

 女の声。何を言ったかはわからない。だが叫んだように聞こえた。二人で声を潜めていると、もう一度。二人は顔を見合わせる。今度ははっきりとわかった。悲鳴だ。

「今のって、悲鳴? どこから?」

 拓巳は冊からG区を覗き込んだ。それから、公園側を見渡した。

「多分、下だな」

「下って、G区の中?」

「G区には入れねえって何度も言っただろ。公園の下だ。行くぞ」

「えっ、行くの!?」

「だって、このまま放っておけないだろ」

 そう言いながら拓巳は公園脇の階段に向かって走り出していた。新太は慌てて周りを見回したが、警備の兵士はどこにも見当たらない。

「通報した方が良くない?」

「この時間は交代があるから警備が手薄なんだよ。それにあんな腑抜けどもに頼ってられっかよ」

 拓巳が吐き捨てるように言った。新太は何度も振り返りながら、ついていく。下、つまりは地上へと続く階段からは饐えた匂いの温い風が吹き上がってくる。渋谷の地上は、廃墟の合間に怪しい店や闇市が点在しているエリアで治安が良くはない。新太は父から決して立ち入らないようにとキツく言われているのだ。

 しかし拓巳はそんなことはおかまい無しに、階段を駆け下りた。後を追いかける。ドブのような嫌な匂いが漂ってくる。ボロボロの階段を下ると渋谷の片隅に出た。壁沿いには、細い路地が続き酷く入り組んでいる。その反対は上に向かう坂道ばかり。本当に此処は底辺なのだ。

 ほとんど廃墟なのだろうか。人の気配はほとんどしない。ここはG区の外側の筈なのに、新太は迷いこんでは行けない場所に踏み入れたような気がして、背筋が少しゾッとした。

 その時、再び叫び声が聞こえた。

 同時に、男の声も聞こえた。複数いる。

「こっちだな」

 拓巳は手招きして、再び走り出した。

「お前って喧嘩強いか?」

「えっ、本気? 戦うの?」

「万が一の場合だ、弱いなら隠れてろ」

「……す、少しなら、できるけど」

 ただでさえ目をつけられやすい転校生である。昔から背も小さい方だ。そんな新太を心配した父は――そう、どこか最終的には力が全てだと思っている軍人の父は――身を守る為に、という名目の、護身術とやらを叩き込まれた。

 それが役に立ったことは、何度かある。にこにこしてて気に喰わない、を始めとする、よくわからない言い掛かりでと校舎裏に連れて行かれたことはあるが、膝に土をつけたのは全て相手である。

 だが言わばジャイアンを相手にするのと、得体の知れない東京のチンピラ……大人相手とは、次元が違うのではないか。

 拓巳は「でたとこ勝負だな」とよくわからないことを言った。路地の突き当たりに、小さな広場が現れた。壊れたパーキングメーターがある。

「何だアレ」

 広場の奥に、図体の大きな三人の男たちが、こちらに背を向けて立っていた。男たちの姿は異様だった。頭のてっぺんから足の先まで全て黒に覆われている。黒いぬっぺりとした素材の、ウェットスーツを着ているようだった。しかし、その体躯が屈強であることはわかった。

 三人は、少女を取り囲んでいた。

 よくみると少女は二人だった。一人は地面に倒れている。もう一人は、その子を守るように立ちふさがって男たちを睨みつけている。広げた両腕が、あまりにも細い。

 新太と、拓巳は目を見張った。見たことがある制服。知っている青いリボンの色。

「あれは、葵か?」

「え?」

「あいつら、こんなとこで何してるんだ?」

 拓巳が声を殺して言った。男たちと葵は睨みあって硬直状態にあるようだった。声が小さすぎて会話を上手く聞き取ることが出来ない。

 新太は胸ポケットからカンナを出し地面に下ろした。

「危ないから、此処で待っててね」

 文鳥はキョトンとしたまま不安そうに小さく頷いた。空き地には朽ちた瓦礫や、崩れかけたコンクリートが散乱している。燃えてボロボロになった廃車の下から、拓巳は錆びた鉄の棒を拾い上げた。

「突然行くのか?」

「それ以外に勝ち目はねえだろ。唯一の救いは大きな銃器は持ってなさそうなところだ」

 行くぞ――と、拓巳は小さく呟くと、そのまま足音を殺して車の裏から飛び出した。

 背後からの奇襲。拓巳の鉄材は、男の背骨に綺麗にヒットした。

 男の一人が、野太い声を上げた。

「何だオマエら」

「糞ガキが!」

 咄嗟に飛んでくる打撃を、拓巳は再び鉄材で受け止める。ぐるりとまわすと、そのまま男は手を取られて地面にどさりと落ちた。手馴れている。

「お前ら、逃げろ!」

 拓巳が葵に向かって叫んだ。驚きで硬直していた葵の顔に、はっと表情が戻る。

 少女は拓巳を見てそして新太を見た。一瞬、目が合う。

「そうはさせるか!」

 一人の男が、葵に襲いかかろうとした。新太は素早くその背中に体当たりをした。どすっと、肘に骨に当たる感触。次の瞬間、ラバー素材で、身体が跳ね返される。

「っ、ざけんなクソガキがぁああ!」

 男は悲鳴に近い声を上げた。痛かったらしい。殴りかかってきたところを懐をすり抜けて交わすと、男はそのまま転んだ。新太は葵に叫んだ。

「はやく逃げて!」

 拓巳は二人を相手に鉄材を回している。飛んできた拳を避けると「ちょこまかしやがるんじゃねえ」と怒号が飛んできた。図体はでかいが動きがのろい。

 これなら、ガキ大将のジャイアンたちと大した変わりはなさそうだった。

 葵は茜を背負うと、そのまま脇の路地へと消えた。

「よし」

 新太は拓巳を見た。拓巳も確認したようだった。

「ずらかるぞ」

 拓巳は鉄材を捨てて走った。新太も来た方向に向かって走る。自分の喧嘩が通用したことに、少しだけ気分が高揚していた。大の大人に対して喧嘩するなんて初めてなのに。

 その、ほんの少しの油断が良くなかったのかもしれない。

 突然右足が引っかかって、新太は前のめりに倒れた。

「えっ――ちょ、わっ!」

 あっという間に、身体が持ち上がり、世界がぐるりと逆さまになった。

「新太!」

 拓巳が振り向いて叫ぶ。

「放せ!」

「放すわけねえだろうが、クソガキが!」

 男はへっと吐き捨てるように笑った。

「オイタが過ぎましたじゃすまねえな、こりゃ」

「放せ!」

「大人のお仕事を邪魔した罪は重いぞ? 罰は覚悟しねぇとなぁ」

 関節がみしっと軋んだ。四肢が重力で千切れそうになる痛みに、思わず呻く。

「おい――、ふざけんな、そいつを放せ!」

 拓巳が叫ぶのが聞こえたが――遠い。これは声が遠いのが、聞こえにくくなっているのか。頭に血が上って、耳の奥が酷く痛む。

「やめろ! 放せ!」

 ただ左足が宙でバタバタと舞うだけで男の身体をかすりもしない。手で何かを掴もうとしても、どこにも届かない。叫んでも、もがいても、虚しいだけだった。

 男はギリギリの力加減で新太を掴んだまま、そのもがく様を見て楽しんでさえ居るようだった。息が苦しい。顔が熱い。気持ちに反して、頭の奥が少しずつ霞んでくる。思うように息が吸えない。身体の力が入らなくなってくる。

「新太!」

 拓巳の声が聞こえる。だけどさっきより大分遠い。ギリギリの思考で考える。

 どうしたらいい――一体、どうしたら――。

「あらたああ!」

 誰かがすぐ近くで叫んだ。

 次の瞬間、身体が急に宙に浮き、そして衝突した。

 何とか受身を取ったがでこぼこのアスファルトは硬い。

「あらた! あらた! 大丈夫!?」

「っ――いてええ」

「何だァこいつ」

 男の――怯んだ声と、その合間に聞き覚えのある声。

「新太に何するんだばか! 新太! あらたぁあ!」

「――カンナ?」

 身体は地面の上にあった。落ちた背中が痛んだ。見上げると、小さな白い鳥が男の指に思い切り食いついている。小さくて、鋭いくちばし。

「こんの、クソがあああッ」

 激昂した男は小鳥を掴もうとした。すんでのところでカンナは飛び上がる。あの手に捕まれば一ひねりだ。背筋がゾッとした。

「新太、逃げて! はやく!」

「馬鹿、カンナ逃げろ!」

 地面から起き上がれないまま、新太は叫んだ。

 その時だった。男の一人が叫んだ。

「おい、そいつはアニマロイドじゃねえか!」

「ガキなんかいい、捕まえろ!」

「え、待って、待て!」

 拓巳とやり合ってた男たちが、一斉にカンナに目がけて走っていく。何が起きているのかわからない。新太は眩暈を堪えて起き上がり、男たちを追う。

「新太、新太!」

「おいカンナ、逃げろ!」

 出来る限りの声で叫んだ。その声を聞いて、カンナは小さな身体で懸命に空に向けて羽ばたいた。黒男が紐の着いた網を投げつける。それは一瞬で、白い小鳥を絡め取り錐揉みに落ちた。

「おい、やめろ!」

 叫んだ声は、絶叫に近かった。胃が握りつぶされるような恐怖。小さな鳥は男の手に落ち、何かを叫んでいるが、それは悲鳴にしか聞こえない。

「カンナ! おい、カンナを放せ!」

 男たちは新太を無視して走り出した。双子が消えた路地と同じ方向だ。カンナが叫んでる。鳴き声と泣き声が混じった音で。

「ま、待て! カンナ!」

「新太、待て、深追いすんな馬鹿!」

 拓巳に掴まれた肩を無理矢理、振りほどき、新太は男たちを追った。

「カンナ! 待て、カンナを返せ!」

 どんなに叫んでも、男たちは止まらない。いつの間にか雨が降り出し、顔にパラパラと冷たい粒がぶつかった。だけどそんなことは気にして居られない。新太は走った。

 どうしてカンナが捕われなきゃいけないんだ。どうして、どうしてあいつらなんかに、危険を冒して飛び出したんだ。新太は唇を噛み締める。そんなの、わかりきっている。――新太のせいだ。新太のピンチに、カンナは助けてくれたのだ。

「カンナ!」

 叫ぶと、辛うじて見える男たちの背中から鳥の声がした。新太の声はまだ届いている。男たちは止まる素振りを見せずに細い坂を下りながらいくども曲がった。見失わないようにするのに精いっぱいだ。

 細い路地を曲がると突然行き止まりに当たった。男たちの姿は忽然と消えている。取り囲む壁を見上げるが、とても登れる高さではない。下には古めかしいマンホールがあった。

 少しずれた蓋を足でどける。ぽっかりと地面に黒い穴が現れた。

「カンナ! カンナ!」

 新太は穴の奥に向かって叫んだ。遥か下のほうで水が流れる音がする。耳を澄ませると、合間に人の足音と微かに鳥の声を聞いた気がした。

「こっち……?」

 穴の奥からは悪臭がする。真っ暗だ。ただ、轟々とした音だけが響いてくる。

「……マジで?」

 新太は唇を噛んだ。背中に一筋、汗が垂れる。ぎゅっと一瞬息を止めて、新太は鉄梯子に、足を掛けた。靴底越しに、滑る嫌な感覚を覚える。はしごを握りしめる手のひらには、錆びてざらついた鉄の感触も加わる。匂いは予想したよりは、マシだった。これならば何とか耐えて呼吸が出来る。一歩、一歩と下りて行くと、想像していたより早く足が地面についた。

 ここはただの通路なのか、水は流れていないようだった。ただそう遠くはないどこかで水が流れる音がしている。天井は高くない。新太は屈まずに通れるが、両手を伸ばせばあっさり突いてしまいそうだ。さっきの男たちなら、屈まなければ進めないだろう。そうだ、男たちだ。

(……くそ)

 男たちの気配はもうどこにもなかった。カンナの声も聞こえない。光源が無い世界で、新太はモバイルを出そうとポケットに手を突っ込み、其処に何も無いことに気付いた。

(……ヤバい)

 さっき逆さまにされた時に落としたらしい。仕方が無いので腕時計(ヘルス・モニタ)を光らせる。薄明かりの中で見えたのはただの通路だった。前後に、どちらにも、ただぽっかりと空いた狭い穴が続いているだけだった。どちらも先が見えない。

 少しだけ迷ってから、新太は出来る限り大きな声を出した。

「カンナーーーー!!」

 それは暗闇に虚しく反響するだけで、どれだけ耳を澄ませても何も聞こえなかった。

 ――どこへ行った。

 新太は出来るだけ落ち着いて、静かに息をしようと堪えた。恐怖は感じなかった。感じている余裕が無かっただけかもしれない。とりあえず、水音がする方向に向かってみることにした。どうせ一本道だ。違ったら戻れば良い。何か、せめてヒントを持ち帰らないと、此処で行き詰まりになってしまう。

(……カンナ)

 文鳥のことを考えると、胃が竦んだ。ぎゅっと唇を噛み締める。気を抜いたら泣いてしまいそうで、新太は小さく首を振った。

 世間知らずの小さなカンナ。甘えん坊な文鳥が、今どんな想いでいるかと考えたら、こんなところで泣いている場合じゃない。しかも今諦めたら、きっともう二度と取り戻せない。嫌な予感ばかりが新太の胸中を埋め、焦りばかりが募る。

 歩いても歩いても、世界は真っ暗で、近づくと思った水の音は、中々正体を現さない。

 背中に冷や汗が垂れる。ジメジメと嫌な湿気が身体を包んでいる。

「カンナああああッ!」

 新太は闇の中叫んだ。それは悲鳴に近かった。

 自分の声が遠くで反響して、その闇の深さを知る。背筋が再びゾッとした。

 その時だった。遠くで、地鳴りのような音がした。

 ――地鳴り?

 新太は初めて、暗闇に恐怖を覚えた。


 ◯


「う、わっ」

 空を引き裂く音に声を上げたのはジジだった。都は課題の手を止めて振り向いた。

「もう雷の季節か」

 呟くと同時に雲に激しい稲光が走る。一秒おいて、再び雷鳴。まだ少し距離があるようだ。雨の音も小ぶりである。都は天井を見た。この古いアパートは酷い雨になると雨漏りがする。あの震災を生き延びた希有で頑丈な家だと言うのがはじめの言い分だったが、ただのぼろやであることは間違いない。

 ジジは窓枠に座って空を見ていた。背中が小さく震えている。都は猫に声をかけた。

「ジジ、大丈夫? 怖い?」

「ううん――ちがう」

 再び、空が光った。ジジが「あ」と小さく声を零した。

「ひかり」

「――うん?」

「みやこ――雷以外に強い光は何がある?」

「強い光?」

 まず思い浮かぶのは太陽、それにハイウェイの街灯。あとはスキャン用のフラッシュとフォトストロボぐらいだろうか。見たことは無いが手術灯も明るいと聞く。猫は再び空を見上げた。

「音はしなかったな」

「何の話?」

「あのね」

 ジジが何か言いかけたその時、都のモバイルの通知音が響いた。画面を見て驚く。藤井拓巳だ。一瞬躊躇ったが通話ボタンを押した。

「……繋がった」

 都が第一声を発する前に、拓巳は驚いた顔でそう言った。

「どうしたの? ……って、何かあった?」

 都は目を見張った。画面に映り込む拓巳の姿がボロボロだったからだ。唇の端が切れて出血し泥まみれで、雨に降られたのかずぶ濡れだ。拓巳は肩で息をしながら言った。

「お前の兄貴って境界警備だよな?」

「――そうだよ。軍人だよ。それが何?」

 軍人嫌いの拓巳には、昔行く度もなく嫌みを言われたことがある。だが、次に拓巳の口から出た言葉に都は酷く吃驚した。

「助けてくれ。どうしたらいいかわかんねぇ。境界付近で新太が消えた」

 境界付近で新太が消えた。都はその言葉の意味が良くわからなかった。名前で呼ぶほど二人が親しくなっていたことにも驚いたが――それにしても、消えたって――どこに?

「説明してる余裕ねえんだ」

「通報は?」

「してねえ。出来ねえだろ。だからお前にかけたんだ」

「どうして?」

「万が一G区に入ってたらやばいことになんだろ」

「で、でも何もできないよ――はじめちゃんって下っ端だもん。針嶋君のお父さんは?」

 新太の父も軍人の筈だ。それも確か偉い人だったはず。しかし拓巳は肩を落として言った。

「連絡先知らねえよ」

 それはそうだ。都だって知らない。

「簡単でいいから経緯を教えて」

 拓巳は肩で息をしたまま、簡単に、そして簡潔に新太が消えた経緯を話した。結果、都はさらに混乱した。

「言葉を――喋ったの? あの、小鳥が?」

「そうだ。『アニマロイド』とか言ってたけど――わかるか?」

 知らない。初めて聞く言葉だった。

「ふ、双子はどうしたの?」

「知らねえ。大丈夫とは思うが万が一あいつらの仲間に連れ去られてたら――くそ」

 拓巳は口元を拭って吐き捨てるように言った。血が滲んでいる。怪我をしているようだった。

「今はどこにいるの?」

「渋谷。桜丘町のあたり」

「わかった。はじめちゃんと蝶野先生に相談してまた連絡する。藤井は追ってっちゃ駄目だよ」

 呻きのような短い相槌の後通話は切れた。振り向くと黒猫はこちらをじっと見ている。

「何か大変なことがあったの?」

「そうみたい」

 都は蝶野の連絡先を呼び出したモバイルを一瞬見つめ、ボタンを押さずにポケットに押し込んだ。今は午後六時二五分。上野から渋谷まで突っ切って三五分――スピードを上げれば、三〇分を切れる。元首都高の夕方の一般通行時間は午後七時まで。何とか滑り込んでギリギリだ。ただ今日は戻っては来れないけれど。

 ――行くか。

 壁にかけたヘルメットを手に取り、リュックを開いた。

「ジジ、入って。行くよ」

「どこに?」

 黒猫は目を丸くした。

「はじめちゃんとこ。勤務中は連絡できないし、帰ってくるの待ってたら深夜になっちゃう。直接行こう。林ちゃんちも向こうだし。時間が無いから、早く」

 新太のことが心配だというのはもちろんある。だけど言葉を喋る小鳥というのも、とても気になった。ジジと関係があるかもしれないと、思ったのだ。再び雷鳴が響いた。ほぼ稲光と同時だ。ジジは不安そうに窓の外を見て呟いた。

「本当に行くの? この天気だよ?」

「大丈夫。雨の日の運転は慣れてるよ。この時期の東京は、雨が多いから」

 都はそう言って深く息を吸った。敢えて言ったのは自分を言い聞かせる為だ。いつの間にか強い雨が降り始め、雷は轟音を携えて何度も鋭く光った。


 都のバイクがウエストゲートに滑り込んだ時、渋谷はものすごい雨になっていた。スリップこそしなかったものの、レインブレイカ―を着ていたのに下着までぐずぐずに濡れた。しかも完全なる速度オーバーで出口に突っ込んだものだから、顔なじみの警備官には苦笑いと共にしっかりとしたお小言を頂戴した。

「ほんっとすみません」

 都は深々と頭を下げる。

「豪快なのは都ちゃんのいいとこだけど、流石に次はこれポイント付けるからね。雨の日は気を付けないと。ああ、はじめは今休憩中だから行けばすぐ会える筈だよ」

「ありがとうございます!」

 渋谷警備隊の勤務所は元首都高の出口からすぐのところにある。現場の隊員はほぼ顔なじみなので、快くはじめを呼び出してくれた。はじめは、驚いて走ってきた。

「都、お前どうしたんだ」

「あ、はじめちゃん、えっと、ごめん――違うの」

 深刻な顔を見て思わず謝った。前に此処を訪れたのは、腕を折った事故の時だ。何かがあったのかと思ったのだろう。

 小さな会議室に通される。テーブルにパイプ椅子が二個だけの、本当に小さな部屋だ。リュックから出たジジは、窓際にちょこんと座っている。渡されたタオルで頭を吹きながら、都ははじめに経緯を説明した。伝聞だし話自体はあまり長くない。ただ境界付近の下水道に消えたみたい――と告げると、はじめの表情はみるみると曇った。

「そいつはG区進入の罰則を知らないのか?」

「――知らないだろうね」

 G区に許可および正式な装備なくして侵入した者は、その身分立場関係なく検査入院二週間の後、禁固5年以下か罰金五百万円以上である。未成年あるいは子どもでも初犯でも情状酌量はない。

「何故そんなことも知らないんだ……常識だろ」

「最近引っ越して来た子だから、仕方が無いのかも」

「しかし、渋谷近辺(このへん)ならまだしも、もう少し奥に行けばレベル5のウィルス漏洩地区もあるんだぞ。万が一、感染でもしたら発症しなくても最悪一生管理入院だ。東京の陸軍第十二病院から、一生一歩も出れなくなる」

 通称、監獄病院と呼ばれている施設だ。

「まだG区に入ったって決まったわけじゃないよ。境界周辺にいるほうが可能性高いでしょ。どうしよう、はじめちゃん。下水道の探索ってできないの?」

「どうしようって言われてもなぁ――この豪雨で潜るのは危険だよ」

 はじめは再び溜息を吐いた。

「そのお友達は、どうしてそんな馬鹿なことをしたんだ」

「ペットの小鳥を奪われたんだって」

「ペットォ?」

「私も直接その場に居たわけじゃないからわからないんだけどね。クラスメイトから聞いたの」

「藤井整備工場のクソガキか?」

「まあ、そう」

 はじめは拓巳が嫌いなのだ。拓巳は酷く態度が悪いので警備兵に嫌われている。

「で、その迷い込んだアホガキの名前は?」

「新太くん。えっと、針嶋新太くん」

「は、針嶋ァ?」

 はじめが慌てたように顔を上げた。

「ど、どうしたの?」

「まさか、そいつの親父は軍人か」

「うん。そう言ってた」

「マジか……そうか……そういうことか」

 はじめは手を額に当て溜息のような小さな呻き声を上げた。

「針嶋君のお父さん知ってるの?」

「……知ってる。針嶋大佐は新任の第一境界警備隊の連隊長だ。つまり――」

「つまり、上官ってこと?」

「上官の上官の上官の上官の――とにかく上官だよ」

「それって、もしかして偉い人?」

「もしかしなくても、すっごく偉い人ってことだ。どうして寄りにもよって大佐のご子息が」

 境界侵入は自己責任とされているが、厳密に法に照らし合わせれば、未成年の侵入に関して非は警備側にあることになる。現実では穴を全て塞ぐことは不可能だし、だからこそ子どもたちにG区の恐ろしさがきつく言い渡され、罰則は厳しくすることで侵入を予防している。それでも警備兵がいるのは、侵入を試みるものが多くいるからだ。新太が追っていた者たちだってG区の内部へ入って行った可能性がある。新太がG区内で見つかれば、警備兵も、新太も、そしてその家族も、大変なことになる。ことを荒立てるのは誰にとっても得策ではない。

「大佐は今出張中でこちらに戻るのは週末だ」

「お母さんは? 心配しだす時間だよね?」

「いや、他に家族は確かいないはず――」

 都のモバイルが鳴った。蝶野だった。はじめがいるのでハンズフリーで通話を押す。

「林ちゃんどうしたの?」

「どうしたのもこうしたのも、ミヤちゃんこそずぶ濡れじゃない。どうしたの?」

 画面の向こうで蝶野はきょとんとした顔をしていた。まだ職員室にいるらしい。プレハブが風でギシギシと揺れているのがわかる。

「ちょっと雨に降られて――。それより丁度良かった。話があるの」

「ああ、僕もだ。そこにはじめちゃんいるだろ?」

「いるけど」

 はじめがカメラの中に入るなり蝶野は声を荒げた。

「ちょっとぉ、今さっき僕の可愛い教え子がそのへんで迷子になったらしいんだけど、どうして境界警備隊はいつもこう間抜けなの?」

「はぁ? っていうかそんなの全部そっくりこっちの台詞だ馬鹿野郎。大体お前、生徒にどんな指導してるんだ。G区進入の罰則すら教えてないだと?」

「そうやって学校教育に全て押し付けようとするから、こういう事がおこるんだ。大体僕は一人だよ? 警備隊は何人いると思ってるんだ。針嶋君は東京の恐ろしさを何も知らないペーぺーの都会っ子だぞ!?」

 そんなこと警備隊が知っているわけがない。――それよりも。

「ちょ、ちょっと待って。林ちゃん何で針嶋君が消えたの知ってるの?」

「黒岩さんから連絡もらった。葵ちゃんね」

「黒岩――葵から?」

「なんでも二人が暴漢に襲われて、助けに入った針嶋君が巻き込まれてしまったってね。二人は大丈夫みたいなんだけど、私たちのせいだって酷く気に病んでる」

「どうして針嶋君が行方不明になったことまで知ってるんだろう。藤井は二人とも消えてたって言ってたのに」

 蝶野は不思議そうな表情を浮かべて言った。

「……つまり、拓巳君もこの件関わってるの?」

「私は藤井から同じ話聞いたんだ。ただ、でも――」

「そもそも、何で新太君はそんな下水道に入っちゃったの? そんな子だったっけ?」

「林ちゃんなら見てるでしょ。針嶋君、胸ポケットに小鳥入れてるじゃない?」

「ああ、あのアニマロイドね」

 これには都が驚愕する番だった。

「林ちゃん、アニマロイドって知ってるの!?」

 しかし、はじめまでが「アニマロイドって懐かしいな、おい」と言った。

 都は、画面の中の蝶野とはじめの顔を見比べて言った。

「ふ、二人とも知ってるの? アニマロイドって何なの?」

「知ってるよぉ。むしろ君が知らないことに吃驚している。拓巳君も知らなかった?」

「し、知らないよ。どういうことなの」

 蝶野ははじめに「おまえが教えないからだよ」と言った。「そんなん学校で教えるもんだろうが」とはじめが悪態を吐く。そんなことは今更どっちでもいい。

「アニマロイドはね、簡単に言うと言葉を喋る動物だ」

 蝶野はさらりとそう言った。都は思わず、窓際にいる黒猫を見た。

 黒猫はただ静かに窓の外を見ていた。


 ◯


 何も見えなかった。世界は闇だった。上も下も左も右も、前も後ろもわからなかった。

 新太は寂しかった。そして苦しかった。胸の奥に開いてはならない穴がぽっかりと開き、そこに色んなものがどんどん吸い込まれてしまうような感覚に、どうにもならないのに踠いていた。一度手放したら、二度と取り戻せないような、ずっと握りしめていたい大切なが全て奪われて行くような、それをただ何も出来ずに止めることのできない、心許なさの中にいた。

 大切なものを吸い込んだ穴からは、温かい安堵とは逆にどす黒く冷たいものが、次から次へと溢れ出してくる。恐怖と、不安。圧倒的な、不安。そして、寂しさ。膨大な寂しさ。

 普段は気付きもしなかった自分に欠けている何かに、気付いてしまったみたいに。

 どうにもならなかった。なす術がなかった。あまりにも無力で、あまりにもちっぽけだった。

 どうして気づかなかったんだろう。自分が、どれだけ意味のない存在なのかを。

 そんな薄暗い感情が自分の中をひたひたと埋め出した時に、頭の中で声が聞こえた。

(嫌だ)

 それが、恐らく、最初に到来した思考だった。そんなのは嫌だ、と新太は再び思った。強く思った。失うのは御免だ。もう、まっぴら御免なんだ。

 はっきりとそう思った瞬間に、ふと、何かが耳に届いた。

 途切れ途切れの、音。ゆっくり、頼りない旋律。

(――歌?)

 誰かが歌っている。何かを、思い出すように、拙く、柔らかく。

 歌詞は聞き取れない。無いのかも知れない。ただの鼻歌みたいなメロディが、鳴っている。

 優しい、声だと思った。どこか懐かしくて、悲しい気持ちになるような。

 だけど微かに、安堵するような。

 その音を頼りに、新太の意識はこちら側に辿りついた。

 そして目を開いた。

 世界はやっぱり、闇だった。新太は真っ暗な場所に居た。どうしてこんな闇の中にいるのか、何も思い出せない。指先を動かすとその感覚はちゃんとあり、足の指に力を入れれば、まだそこにあることがわかった。痛む所はどこも無い。うん、身体は大丈夫。

 じゃあ後は、記憶だ。新太はゆっくりと、まだ動かない思考を巡り、手がかりを探す。ふと照らした光のように、真っ暗の中に浮かび上がる小さな白。名前を呼ぶ声の音。あれは。

「カンナ」

 声に出したら、喉の奥から何かが込上げた。

 思わず咳き込んだ瞬間に、誰かの手が優しく新太の背中を擦った。

「大丈夫?」

 女の声だった。新太は、混乱した。

 ここは暗い。とても暗い。だけど、真っ暗闇ではない。赤い灯りが揺れている。ぼんやりとした薄明かりの中で、隣に影がいた。

「えっ、誰?」

「静かに」

 影はそう言った。途切れ途切れに聞こえた歌と、同じ声だった。

 身体中が痛かった。服は身体に張り付いて気持ちが悪いし、酷い匂いがした。喉も痛い。瞼も重い。これは――泣いていたからだろうか。

 どうして泣いていたんだっけ?

 影がそっと何かを差し出した。

「これをどうぞ」

 新太は差し出されたものを受け取った。器には液体が入っている。新太が不安げに見ていると、影はゆっくりと頷いた。

「ただの水です」

 朦朧としたまま、促されるままに水を飲んだ。それは冷たくて美味かった。一口飲んだら止まらずに一気に飲み干す。つい「ぷはぁ」と息をついた。

「良い子ね」

 影はそう言って小さく笑った。

 目が少しずつ慣れてきて、闇の中に薄らと姿が浮かび上がる。

(……誰?)

 知らない女だった。不思議な格好をしている。何かで見たことがあるような、江戸の時代劇みたいな髪型に、重そうな豪華な着物。しゃらりと、髪飾りが音を立てたような気がした。まだ夢を見ているのかな、と新太は思った。それとも、幽霊か、物の怪の類いか。そんな突拍子もないことも考える。あまりにも、現実感が無い。やはり夢か。

「これは――夢?」

 新太が聞いても、影は答えなかった。「もう少し眠ってなさい」と、優しい声で言った。

 夢なのに、また眠るのだろうか。どうやったらいいのだろうか。今目を閉じたら、またあの真っ黒な世界に戻るのだろうか。ぽっかりと、自分が自分に開いた穴に、吸い込まれて消えてしまうような恐怖を思い出し、新太は小さく震えた。

 だけどその時、再びあの音が聞こえた。

 ふん、ふん、ふん……一音ずつ確かめるように零れる音は、少しずつ滑らかな旋律を結ぶ。

 懐かしいメロディ。新太は思った。この歌、知っている。だけど何だろう。思い出せない。

 女が敵でないことはわかった。言葉を少し交しただけだし、格好だって明らかにおかしいのに、この歌を知っていると言うことは、そう――。

 眠るつもりはなかったのに、いつのまにか新太の瞼は閉じていた。

 安心してはいけないと、わかっているのに、深い安堵に身体が深く沈んでいく。

 新しく何かを考える前に、意識は柔らかい闇の中に落ちた。

 夢は見なかった。眠ったり、目覚めたりを繰り返した。

 そして腹がぐう、と鳴って新太は目を開いた。世界はまだ薄暗く静かで、心地よかった。

 目を擦る。温かくて、落ち着く。赤い光が揺れているのが心地よく、その様子をぼんやりと見ていた。ごろりと寝返りを打つ。腹が再びぐう、と鳴った。突然、新太は我に返った。

 ――どういうこと?

 起き上がる。寝かされていた場所は小さく狭い寝台だった。回りには誰もいない。

「え?」

 辺りを見回して、新太は戸惑った。狭い四角い部屋。床は畳で天井は低い。そして、部屋の片面は木の格子で覆われていた。赤い灯篭は格子の向こう側にあり、それが唯一の光源だ。

「えっ、えっ……?」

 これは一体どういうことだ。新太は寝台から下りて、木の格子を軽く叩いた。思っていたよりも重い音がした。恐らく鉄筋が通っているのだ。つまりは木の格子に見せかけた、鉄格子だ。

「牢屋じゃん」

 驚きのあまりそれ以上の言葉を失った。がたがたと格子を掴んで揺らしてみたが、びくともしない。新太は呆然とした。

 はっと気付いて胸元を叩く。そこは空っぽで、自分の胸にそのまま振動が響いた。居ない。カンナはやっぱり居ない。

 ――夢じゃなかったんだ。全部。

 再び鳩尾の奥が、掴まれたように痛む。今自分が置かれている状況より、カンナが居ないことのほうがずっと不安で怖かった。いつだってここにあった小さな命の不在。手を伸ばせばすぐに取り戻せそうなのに、どこにいるのか、無事なのかすらわからない。

「――ダメだ」

 こんなところで泣きそうになっている場合じゃない。此処が何処だかもわからず、これからどうしたらいいのかもわからないのだ。閉じ込められている以上、トラブルに巻き込まれている可能性のほうが大きいのだ。どうしてこんなことになったのだろう。

 ――新太、逃げて、逃げて。

 カンナの声が、頭から離れない。唇を噛んで堪える。だけど目頭は、どうしようもなく熱くなる。息を吸って、止める。零れないように耐えたまま、吐く。そんなことを繰り返して、どうにかこの衝動を逃がそうとする。

「悲しいの?」

「えっ? わっ!」

 部屋の片隅から声がした。新太は思わず間抜けに叫んでしまった。

 其処には――あの、女が座っていた。

「い、いつから?」

「ずっと。ここはわたしの部屋」

「部屋? 部屋っていうかこれ――牢屋でしょ?」

 思わず言ってしまった。女は気を悪くした様子もなく「ええ」と静かな声で言った。

「お腹が空いていましたら、そちらのおにぎりをどうぞ」

 女は着物で重そうな腕を上げ、格子の脇の小机を差した。其処には赤い漆塗りの盆におにぎりが三つ乗っていた。食べ物を見た途端に、再び腹がぐぅうぅう、と鳴った。

「い、いいの? これ、お姉さんのでしょ?」

「どうぞ」

 女は優しい笑いを含んだ声で言った。おそるおそる手を伸ばす。一口食べると、冷たい米の甘い味が口の中に広った。美味しい。そのままガツガツと一気に全部平らげてしまった。ただの塩むすびなのに今までで食べたおにぎりの中で一番美味いと思った。茶を一口飲むと女は「足りた?」と聞いた。新太はようやく礼を言った。

「あ、ありがとうございます」

「ふふ」

 不思議な人だった。薄闇の中でも、とても綺麗な人なのだと気付いた。高そうな着物を着ている。時代錯誤な日本髪には、櫛や揺れる簪がたくさんついている。昔の映画の中から、そのまま出てきたようだ。大きくて垂れ目の目が、誰かに似ている気がしたけれど思い出せない。新太の知り合いに日常的に着物を着る人は居ない。物珍しさも合って気がついたらじろじろと見ていた。目が合って慌てて反らすと女は小さく笑った。

「どうして俺を助けてくれたの?」

 女は少し考えるように上を見た後「私は、睡蓮」と名乗った。

「すいれん? 花の睡蓮?」

「そう。その睡蓮。あなたは?」

「えっ、あ、新太です。俺は、針嶋新太」

 睡蓮は、いい名前ね、と穏やかに呟いた。

「睡蓮さん、ここはどこですか? 俺はどうしてここにいるの?」

「私は頼まれただけ。お答えできる立場にはありません。もう少ししたら、来るんじゃないかしら」

「誰が?」

「お迎えが」

 睡蓮はどこか不思議なイントネーションで「それまでゆっくりしていきなさい」と言った。


 そのまま寝台に乗っているのも悪かったので、新太は睡蓮が座っているのと対角線側に腰を下ろし、壁に背を当て格子に肘を付き、思考に耽った。

 最初はカンナのことを考えた。だけど、それはただ焦りや恐怖――あの小さな鳥を失うという恐怖を増大させて、辛い気持ちになるばかりだったので、別のことを考えることにした。

 そして新太は、自分が足を踏み入れた下水道のことを考えた。記憶が途絶えたのは、爆音のような水音が迫ってくる所までだ。多分、間違いなく、新太が歩いていたあの場所に水が押し寄せて、流されたのだろう。

 それから新太は、渋谷について考えた。渋谷はその名前に「谷」と付く、窪んだ土地である。先日の故郷学の授業では、蝶野から東京の地形について、教わった。渋谷は古くから武蔵野台地と呼ばれる地形の境目にあたるのだ。そして、渋谷駅とG区境界は、谷の一番下、つまり擂り鉢の底にあたる。今は境界公園が境界を覆うような形で作られているが、その下、実際の地上はかなり荒れていた。一方で、道玄坂と呼ばれる外側の坂の上には、大きなお屋敷が連なる高級住宅地がある。東京のどの地区とも同様に空家は多いが、人が居住している屋敷のほうが多いという稀有なエリアである。東京に住むお偉いさんや、軍関係者、主に将校なども住んでいるから、警備が厳しい地区でもある。新太が通った下水道はそこに続いていたのかもしれないと思った。となれば睡蓮は、そのお偉いさんの奥さんか、それにしては相当若く見えるから、あるいは愛人だったりするのだろうか。金持ちの考えることは良くわからないが、古風な趣味の人はいそうだ。何故自分がここにいるのかは知らないが、きっとその「迎えに」くる人が知っているのだろう。

 それから新太はあの黒い男たちのことを考えた。どうして、あいつらは下水道に逃げ込んだのだろうか。同じ方向に向かっていたなら、あの男たちもこのへんにアジトがあるのかもしれない。前に拓巳も悪巧みに集うのに、空き家は幾らでもある――と、言っていた。ならばこの辺の空家をしらみつぶしに探して行けば、見つかるかもしれない。そこで初めて新太は、父のことを思い出した。父にとってだってカンナは大事な家族だ。誘拐されたと知ったら、全力で探してくれるだろう。

 何もしないで、ただ考えていただけだったが、それでも少し光明が見えて来た気がした。新太は少しだけ安堵した。

「睡蓮――さん」

 部屋の片隅で、目を閉じている睡蓮に話しかけると、女は薄く目を開けた。そして小さく笑って「さんはいりません」と、言った。

「じゃあ睡蓮。此処は松濤なの?」

 睡蓮は、はいともいいえとも言わず、小さく首を傾げただけだった。そして新太が不安がっていると思ったのか、優しい声で言った。

「大丈夫、迎えがくれば、ここから出られます」

「迎えって誰? 俺を知ってるやつ?」

「来ればわかります」

「睡蓮は?」

「わたしはここから出られません」

「どうして?」

 睡蓮は何も言わなかった。それは穏やかな笑顔だったけど哀しそうにも見えた。艶やかなのに少女のようでもある。着飾っているのに、追いついていない。化粧が似合わないわけではないのに、それは彼女の本来の良さを消しているようにも見える。とても綺麗な人なのに。

「新太さんは、此処に来てからずっと泣きそうな顔をしてる」

「――わかるの?」

「ええ。わたしは女郎。殿方の表情を読むのは仕事のうち」

「じょ、女郎?」

「花魁」

「おいらん?」

「あい」

 言葉は知っている。ただ江戸時代の人――職業? ということしかわからない。京の舞妓さんとは違うのだろうか。そう聞くと睡蓮は「少しばかり」と答えた。

「花魁って、何をするの?」

 睡蓮は少し驚いた表情を浮かべて、それから微笑んだ。

「春を売ります」

 それは流石に、意味はわかった。だけど、何と言ったらよいのかわからなくて、新太は言葉に詰まる。そうですか、と言うのもおかしいし、なんで? と聞くのはきっともっとダメだろう。だからと言って、ただ相槌を打てばいいというものでもないと思うのだが。新太が困惑していると、睡蓮は、ごめんなさい、と笑った。

 どうやら冗談だったらしい。まるで子ども扱いだ。子どもなのだけど。

「大丈夫、本当は売ったりしません。もともとはそういう存在であったというだけのこと」

「――どういうこと?」

「私たちは……わっちらは昔話の亡霊でありんす」

「ありんす?」

「昔の花魁の話し言葉です」

 新太は混乱した。よく分からない。よく分からないが、とりあえず、この館の主人はそれなりに悪趣味であることは、理解した。

「昔話の亡霊って、幽霊のこと?」

「似ているけど、少し違うけど、それも似たり寄ったりの、ゴースト」

「ゴースト?」

 最近どこかでその言葉を聞いた気がする。だけどどこで聞いたのか思い出せなかった。

「睡蓮は何か――その、悪いことをしたの?」

 睡蓮はその大きな目を細めて新太を見た。そして小さく頷いた。

「で、でもさ。今時こんな座敷牢に人を閉じ込めるってありえないと思うよ。中世じゃあるまいし。ここから出たくないの?」

「――出たい。でも、出たくない」

「どうして?」

「ふふ。聞いてばかり」

 睡蓮は優しい声でそう言った。

「何をしたの?」

「――人を殺しました」

「えっ!?」

 新太は困惑した。睡蓮はすっとその白い右手を差し出して新太の頬に触れた。冷たい指。中指に嵌めている指輪が、更に冷たくてひやりとする。身体を引こうとしても、うまく動けない。睡蓮の大きくて垂れ目がちな瞳が真っ直ぐに新太を見ている。その形の良い唇が、ゆっくりと動いた。

「怖い?」

「こ、怖くは無いけど――その、え? な、なんで?」

「わかりません」

 花魁は瞳を伏せた。長い睫毛が赤い光を受けて深い影を落とす。

 新太は静かに息を飲んだ。あまりに細い首筋、手首。どう見ても、人を殺すような人には見えなかった。

「ほ、本当に殺したの?」

 声を潜めて聞いた。睡蓮は目を伏せたまま、小さく首を振った。

「……殺したことになっている。そして、閉じ込められました」

「つまり――無実の罪ってこと?」

 睡蓮はゆっくりと首を振った。新太には、その意味がわからなかった。

「どういうこと? 殺してないなら――そ、そういいなよ? ここから出たほうがいいよ」

「そうはいきません」

「どうして? どうしたら出れるの?」

 睡蓮は新太の顔を見た。そして目を細めた。何か、懐かしいものを思い出すように。

「三月の子守唄」

「――え?」

「そう。三月の子守唄を思い出すまで、此処から出られない。いや、出ない」

「三月の――こもりうた?」

「ええ」

 気付くともう手は離れていた。新太は触れられた箇所を思わず触る。頬が熱かった。

「それは、さっきから、歌っている歌のこと?」

「さぁ」

 睡蓮は曖昧な顔で微笑んだ。そして小さく首を振った。

「わからない。思い出せそうで、何も繋がらない」

「そういうことって、あるよね。知ってる筈なのに、出て来ないっていうか」

「私は……昔のことは、すべて忘れてしまいました」

「……すべてって……全て?」

 ええ、と、睡蓮は消えそうな声で呟いた。


 ◯


 新太の捜索は、境界警備の有志が行ってくれることになった。境界周辺の地下・地下街に張り巡らされた人体捜索サーモ探知機も稼働すれば、そう時間は掛からずに見つけられるだろうという技師の言葉を聞いて、都は俄に安堵した。とりあえず今は、ただ待つしかできない。

「で、何なんだよアニマロイドって」

 紅茶を受け取った瞬間に拓巳が急くように言った。蝶野は「まあ、落ち着いて」と、どこかのんびりした様子で言った。

「アニマロイドは震災前に流行っていた最先端のペットだ。言語辞書と人口声帯が組み込まれててね、人間の言葉が喋れるんだ。会話できればしつけも楽だし、寂しい一人暮らしの人は話相手になるし、子どもがいる家庭なら簡単な子守も頼める。ちょっとしたブームになったんだよね。製造本社は震災で潰れちゃったし、今は多分もうほとんど残っていないんじゃないかな。僕も新太君の小鳥を見て、懐かしいなぁと思ったよ」

 そう言って、蝶野ははちみつ入りの紅茶をゆっくりと飲んだ。

 下北沢には渋谷で働く人と世田谷基地内で働く一般人の居住するアパート群が連なっていて、蝶野の部屋はその端っこにある。かつて古い劇場だった建物の一部で、一人暮らしにしては相当広い部屋だ。その壁の半分は、学校の倉庫になってる資料室みたいに、紙の本がずらっと並んだ本棚がある。紙の新書は贅沢品だから、此処にあるのは古書ばかりだ。

 震災前には、これの数倍の本を持っていたのだと、前に言っていた。此処にあるのは、震災後に実家から運び入れた分が半分と、それから集めた分が半分らしい。

 窓の外には、雨音が聞こえる。幾分か弱まったようだ。都は途中で藤井を拾って此処まで来た。都の足下では、ジジがミルクを貰って飲んでいる。

「アニマロイドは、何でもう残って無いの?」

「震災以降は造られていないからね。アニマロイドは寿命が通常のペットより短いんだ。結構お値段もはるし、流行ったと言っても東京の一部のお金持ちの間だけの話だし。最先端テクノロジーによる新世代ペット誕生、って売り込みだった。広告はよく見たな」

「造る、なのか?」

 拓巳はソファにどっかりと座っているわりに、少し居心地が悪そうだ。

「造る、だね。生産工場で、子猫が生まれてから三日以内に人工声帯と辞書チップを埋め込むんだよ。そこから専門のトレーナーによって半年訓練される。適合できない子は死んでしまうこともあると聞いたことがある」

「……何だか残酷な気がする」

 正直に言うと、蝶野はそうなんだよね、と林檎を剥きながら頷いた。

「動物愛護的観点からも随分と批判が上がっていた。神の領域に踏み込む冒涜行為として外国からも抗議が来ていた。僕も最初に聞いた時はあまりいい気はしなかったな。ペットと会話したいなんて人間のエゴでしかないと思ったからね。ペット側がどう思うか考えたことないのかな、って……思っちゃって」

「神の領域――それってつまり六賢者だよな?」

 拓巳が言った。蝶野はそうそう、と頷いた。

「六賢者って響きも懐かしいなァ」

「六賢者って何?」

 始めて聞く言葉だった。蝶野は剥いた林檎をお皿に並べて、どうぞ、と言った。

「震災前、東京は世界で一番の科学技術都市だった、ことは知ってるよね」

「うん」

「その中心に居たのが六賢者だ。正確には六つの大きな最先端プロジェクトが走っていて、その中心に居た六人の天才科学者が、六賢者と呼ばれていた。もちろん公式な名称ではなくてメディアが好んで使った俗称だけどね。で、その六つのプロジェクトがまたけっこう際どいやつでね、クローン人間、記憶コントロール、ヒューマロイド、アニマロイド、遺伝子操作生殖、そして高度人工知能だった」

 すべて初耳だった。そして都の想像の域を超えた世界の話だった。蝶野は続けた。

「どれも『神の領域』に触れることであったし『人間の境界』を超えようとする研究。宗教が文化のベースに無い日本だからできることだって、外国からの風当たりは厳しかったよ。震災は――六賢者が神の怒りに触れたからだ――なんて、論調の記事すらあったほどだ。主に大国の保守派からね。ま、影で資金支援してたのもそいつららしいけど、まあこれは噂だけどね」

「むかつく話だな」

 拓巳が林檎を齧りつつ、呟いた。都もその論調は少しだけ知っている。天罰だ、と信じている人が、今も少なからずこの世界のどこかに存在していることは、直接ではないけれど少しずつ東京の人たちを傷つけている。しかし、その一人であるはずの蝶野は林檎を食べながらのん気に、懐かしいなぁ、と言った。

「アニマロイドはその中でも一番新しいプロジェクトだった。南博士っていう六賢者の中では飛び抜けて若い研究者が中心となっていたんだ。謎が多い人でね、とにかく人が嫌いで人前には徹底的に顔を出さなかった。名前と年齢以外、全部謎。他の博士は大体顔見たことあるけど、南博士だけは一切メディア露出しなかった。だけどプロジェクトは一番勢いがあって、アニマロイドは一気に商業的成功を収めたんだ。稼ぎ頭だったんじゃないかな」

「今はその、六賢者のプロジェクトとかどうなってるの?」

 蝶野は静かに首を横に振った。

「二人ともご存じのとおり当時の主要機関は全てG区内にあった。六賢者もプロジェクト関係者も全滅したと聞いている。あ、一人くらいは助かったのかな。でも、どちらにしても科学庁が壊滅したでしょ。バックアップのスポンサー企業も大打撃。プロジェクトは全て頓挫。東京が壊滅した以上、どうにも出来ないものばかりだった」

 だよな、と拓巳が頷いた。

「で、どうして、そのもういないはずのアニマロイドをあいつは持ってるんだろう」

「針嶋君ね。彼は少し不思議だなぁ。あと文鳥のアニマロイドは珍しいんだよね」

「何が一般的だったの?」

「売り出されていたアニマロイドは全て猫だったよ。僕の友人の一人が飼っててね、よく大学の研究室にも連れてきてた。僕は実物を見るまではあまり賛成ではなかったんだけど、実際にお話してみると、すごい可愛くて、いい子だったなぁ。言葉は拙いけど三歳児くらいの知能はあったよ」

 蝶野は懐かしそうに目を細めた。その時、テーブルの下から声がした。

「三歳児だって?」

 三人は顔を合わせた。声の主の姿を探して、視線が泳ぐ。

「失礼しちゃうな」

「ジ――ジジ!?」

 足元に蹲っていたジジが、ひらりと起き上がってコーヒーテーブルの上に立った。

「だけど今の話は中々興味深かった。おかげで少し思い出した。ありがとう」

 蝶野と、拓巳はぽかんと黒猫を見ている。都は――その二人以上に驚いていた。あれほど慎重だったジジが、都以外の人の前で言葉を発するなんて、一体どうしたのか。

「これは――驚いたな」

 蝶野は飴色の瞳を丸くして黒猫を覗き込んで言った。

「すげえ。本物だ」

 拓巳がそう零すと、ジジはニャア――と、鳴いた。 

「思い出したって、何を思い出したの?」

「六賢者、アニマロイド、全部聞き覚えのある話だ」

 ジジはコーヒーテーブルの上に優雅に座った。

「君は、……もしかしたら、南博士の猫なの?」

 蝶野が優しい声で聞いた。黒猫は首を傾げる。

「そうだとも言えるしそうじゃないとも言える」

「南博士を……知っているの?」

「知っている。僕は小さい頃、博士に育ててもらった。あの頃はまだ「震災」前だった。僕はとても高いところにいて毎日広い空と、あの塔を見ていた」

「南博士の下で育った――ということは、君はおそらく商業的に作られたアニマロイドではないね。次バージョンの――プロトタイプか」

 少し言葉を選ぶように蝶野が言った。プロトタイプ――と、猫は口の中で繰り返した。

「南博士はどうしてるの?」

「――死んだ、んだろ?」

 拓巳が無神経に言うので都は思わず肘で小突いた。ジジは小さく「そうか」と言っただけだった。

「ジジは――その後、どこにいたの? その、震災の後」

 黒猫は下を向いた。それから首を振った。

「わからない」

「そこは思い出せないの?」

「昔のことから、少しずつ靄が晴れていくような感じなんだ。今は、南博士の名前がとても懐かしくて――どうしてだか考えたら、思い出して――そう」

「他には、何か思い出せることはない? 仲間はいたのかどうかとか、どんな生活をしていたかとか、楽しいことでも、怖いことでも、なんでも」

「仲間はひとりいた。生活はまだ子どもだったから――あまり覚えていない。じゃれあっていただけな気がする。楽しいことも、怖いことも――あ」

「どうしたの?」

「悪いことをしたら空に閉じ込められる」

「空? 天空ってこと?」

「ううん。空気の――空気の箱」

 猫は虚空見つめて、しっぽをくるりと振った。

「一番怖いのは子守唄だ」

 そしてひらりとコーヒーテーブルを降りると、ソファの下にもぐりこんでしまった。

「ジジ?」

「都。夕方に言おうとしたことを思い出した。光だ。強い光」

「強い――光?」

「強い、白い光。僕が最後に見たのは、強い光。一体、何がある?」

 都は蝶野と拓巳と顔を見合わせた。

「雷?」と拓巳が聞くと「違う」と猫は短く答えた。

「やっぱり僕はまだ何か大切なことを忘れている。誰かの面影。そして自分の本当の名前。本当はとても大切なこと――」

 ジジは小さな声で言った。

「とても不安なんだ」

「――そうだよね」

「ごめん、都。少しだけ、寝る」

 都が困ったように蝶野を見ると、蝶野はソファの下に向かって優しい声で話しかけた。

「ジジちゃん、怖いことを思い出させてごめんね。安心しておやすみ」

 ジジは小さくニャアと鳴いた。窓枠はまだがたがたと揺れていたが雨は収まったようだった。

 すうすうと小さな寝息が聞こえてくると、蝶野が囁くような声で言った。

「驚いた」

「ああ――驚いた」

 拓巳もまた頷いた。都はただ俯く。

「ミヤちゃんは知ってたの?」

「ジジが言葉を話すことは、――うん。知ってた。でも今の話ははじめてきいた」

「お前、こいつずっと飼ってるのか?」

「――この間拾ったの」

 そして都は、簡単にジジを拾った経緯を話した。学校の側じゃなくて、元首都高の、G区の、ど真ん中で拾ったこと。他の車も何も見えない所から、突然現れたこと。

「どうして――それ、黙ってたの」

 蝶野が驚いた顔で言った。

「ごめん。だって――ごめん」

「じゃあこいつはG区の中から出てきた猫、ってことか?」

 拓巳はソファの下を覗き込もうとした。

「わからない」

「でもその可能性は高いと思う。もし本当にジジに元の飼い主がいたとして……このレベルのアニマロイドを飼っているなら、間違いなく軍関係者か、金も権力もあるお偉いさんのどちらかだ。それなら既に調査の手は伸びているはずだ。あの時間、元首都高を通る車数は少ない上に、完全に管理されている。ものの一日二日でミヤちゃんまでたどり着くはずだよ」

「俺もそう思う」

「一方、ジジがG区の中でずっと生き延びていた猫なら……」

「――そんなことって、あるかな」

「……まだなんとも言えないな」

 ジジはどう見ても野良猫ではない。毛並みも、そして赤いリボンの首輪も。

 都は膝の上でこぶしを握った。このまま、話が進んでしまうことが恐ろしくて仕方が無い。だけど、蝶野はジジを手放せ、とか、届け出ろ、とは言わなかった。

 ただ、他の誰にも言わないように――と、言った。

「ミヤちゃんがジジを好きなのはわかる。今の会話だって、ジジはミヤちゃんが僕らを信頼していると知ったから入ってきたんだろう。ただ、ジジがどこから来たのかわからない以上、気をつけないと駄目だよ」

「ジジに? ジジが何かするって言うの?」

「違うよ。ただ、ジジを取り戻そうとする誰かがいるかもしれないだろ。現に――新太君のアニマロイドは狙われた」

「――そう、だよな」

 拓巳が、大きく溜息を吐いた。

「あいつらはG区の奴らなのかな」

「……そんな筈は無い、と信じたいけどね」

「新太君、見つかったかな……」

「下水道の探索は少し水が引くまでは無理だ。あとはサーモ探知機に期待しよう」

「うん――」

「大丈夫だよ。今ははじめちゃんたちを信じて待つしかない」

 拓巳が呻くような溜息を吐いた。責任を感じているらしい。都も肩を落とした。

「G区の中には魔物がいる。しかも手付かずで。弄っちゃいけないんだ」

 蝶野がぽつりと言った。今はその意味を聞く元気は無かった。


 ◯


 どれくらいの時間が経過したんだろう。大して経ってない気もするし、とても長い時間待った気もする。悪戯に揺れる赤い灯篭の光は時の流れを教えてくれない。新太は気づけば目で花魁の陰影を追っている自分に気付いて、何度も目を閉じた。しかし、他の事を考えようとしても、意識がどうしてもそちらに向いてしまう。畳の上で膝を抱える。

 目を閉じているのに、睡蓮の睫毛が落とす陰が、瞼の後ろでちらちらと見える。睡蓮はただ目を閉じて静かに座っているだけなのに、その息遣いも意識してしまう。

 睡蓮は時折、小さく鼻歌を歌った。それは目を覚ます前に聞いていたあのメロディだった。

 時折、小さく確かめるように、歌詞が混じった。

「おひさまは、おやすみ、おつきさま……」

 新太はその音を懐かしい気持ちで聞いた。どこか胸の奥が掴まれるような、切なさがあった。

「懐かしい歌だね」

「知ってます?」

「たぶん。……聞いたこと、ある気がする」

 おひさまは、おやすみ、おつきさま……。

「……ララバイ、じゃない?」

「ララバイ」

 睡蓮は口の中で何度か小さく確かめてから「それだわ」と言った。

「これが、その、三月の子守唄なの?」

「わかりません。……そうかもしれないし、違うかもしれない。子守唄、という言葉で、有名な歌を思い出しているだけかもしれない、です」

 睡蓮はそう呟き、僅かに微笑んだ。

「……みんな子どもの頃に、聞くものなのかもしれませんね」

 その時だった。遠くで足音がした。バタバタと誰かが階段を下りてくる。近づいてくるその音に、新太は息を潜めて立ち上がった。睡蓮が短く「隠れて」と言った。

「どこに?」

「あちらの隅に、しゃがんでいれば気付かれません」

 睡蓮が座っていた位置だ。新太は隅に蹲った。睡蓮は格子のすぐ前に立った。打ち掛けの金糸が赤い光を浴びて怪しげに光る。

「ねえ、睡蓮!」

 扉が開く音と同時に男の声がした。睡蓮は「ああ」と言った。声には安堵が滲んでいた。

 ――誰だろう。男だ。知らない声だった。

「あいつ、ここに居るってマジ?」

「ええ。お待ちしていました。どなたから?」

「冬が。大丈夫かな、鈴蘭にはばれてない?」

「恐らくは、まだ」

 重い音を立てて格子扉が開き、睡蓮の陰から黒子のような男が現れた。新太は慌てて後ずさった。とは言え逃げ場などない。心臓が鳴った。黒い格好をした男。目以外が全て覆われている。新太は歯を強く噛み締めた。しくじった。やっぱりここはあいつらのアジトだったのだ。

「よっ!」

 黒の男が随分と気が抜ける感じで言った。油断させようとしてもその手には乗らない。

 こいつはカンナの居場所を知っているはずだ。

「カンナはどこだ?」

 新太は目の前に立っている黒尽くめの男を睨んだ。男はとても軽い口調で言った。

「知らないよう」

「嘘を吐くな! お前らが誘拐したんじゃないか!」

「してないって。あんなのと一緒にすんなって気持ち悪い」

「あんなの?」

 黒ずくめの男は新太の問いには答えず、睡蓮に向かって「何か教えた?」と聞いた。睡蓮は無言で首を横に振った。

「そっか。しかし、あんなぬめぬめの真っ黒海坊主みたいなやつらと、俺みたいなクールな隠密スタイルを一緒にしてもらっては困る」

「隠密スタイル?」

 睡蓮が小さく吹きだしたのを、新太は聞き逃さなかった。しかし確かに言われてみれば目の前の男は、あの男たちとは少し違う。薄いラバーみたいな素材ではなく、真っ黒でも綿か麻のような素材の服を着ている。

「向こうは現代の旧式ウェットファイバー。俺たちのは東京時代の最先端ドライスーツ」

「東京時代?」

「そう。震災で正直科学レベルはかなり衰退したからな。仕方ないことだけど。ちなみにそこにいる睡蓮の着物だって、当時の素材だからふわっと軽くて走れるんだぞ」

「ふ、ふぅん?」

 睡蓮は柔らかく笑っていた。

「私は走りません」

 新太は他に言葉が浮かばない。あの男達と違うというのはわかった。だけどこいつがなんであいつらを知っているのかはわからない。少なくとも何か関係があるということだった。自称隠密は唯一覗いている二つの目で真っ直ぐに新太を見据えていた。

「ま、いっか。帰るぞ」

「帰るって……、どこに?」

「家に帰りたくないのか?」

 男はこれまた軽い調子で言った。あまりに軽すぎて調子が狂う。

「か、帰りたいけど……でもカンナが」

 カンナの居場所も無事もわからないままだ。結局新太は下水に流され閉じ込められて、睡蓮と出会って、そして帰るだけになってしまう。

「そのことについては、道すがら話し合おう」

「あいつらの居場所がわかるのか?」

 男はフルフルと軽く首を横に振った。

「でも全く何も手がかりがないわけじゃない。とにかく早く出よう。時間がないもん」

「私もそう思います」

 それまで黙っていた睡蓮が静かに言った。

「そのままだと目立つし、正直臭いから、俺と同じ、この、これ着て。今着てるのはこっちに入れて背負う。制服無いと困るでしょ。おけ? じゃあ3分でよろしくねー」

 そして黒い男は新太の返事を待たずにこちらに背を向けた。きょとんとしていると、睡蓮と目があった。優しい目。まるで「大丈夫だよ」とでも言うような。そして花魁もこちらに背を向けた。何が何だかわからないけれど勢いに飲まれて、言われるままに着替えた。着替えながら思った。本当にこれじゃあ忍者である。なんとなく此処に鏡が無くて良かった。自分の姿を見たら、きっとツッコミが追いつかない。

 男は振り向くと満足そうに言った。

「うん、良く似合ってるな。良かった、これならばれない」

「誰に?」

「みんなにさ」

「……みんな?」

「じゃあ、睡蓮行くね。ありがとね」

「あい。……お気をつけて」

 木格子の扉から抜ける時に、睡蓮はゆっくり手を振って言った。

「睡蓮は? 駄目なの?」

 男は「ダメだよ」と言って、再び施錠した。

「俺だって好きで閉じ込めたりしないよ。でも、ばれたら困ることになるのは睡蓮だ」

「そう。――気にしないで」

 睡蓮は穏やかな声でそう言った。寂しげに聞こえたのは新太にだけなのだろうか。

「三月の――」と、言おうとすると、睡蓮が細い指を唇の前にかざした。これは秘密だと、そう言うことだろうか。

「ほら、もたもたすんな、行くぞ。ついてこい」

「うん」

 同じような部屋が二つ続いていた。睡蓮が閉じ込められていたのは奥の房で、他の牢は空っぽだ。新太は男の背を追って廊下先の扉をくぐる。じめじめとしたコンクリートの階段に出た。

 振り向くと、睡蓮の姿は見えなかった。ただ、ぽつり、ぽつりと闇の中から、柔らかい旋律の欠片だけが零れていた。それは懐かしい記憶のように、新太の後ろ髪を引いた。

 薄暗い階段を上がりながら「俺は赤だ」と男が言った。

「お前はとりあえず俺の相棒の『青』の振りをしろ。誰とも目を合わせるな。そんで絶対に声を出すな。あと何も見るな。ただ俺の背中に付いてこい」

 注文が色々と多いが、とりあえず新太は「わかった」と返事をした。

「この先、人がいる場所に出る。気を付けろよ。つかまったら終わりだ」

「えっ、俺が?」

「お前も俺も。折檻は嫌だろ」

 俺は絶対に嫌だ! 赤はそう言って扉を開いた。

 明るく綺麗な場所に出た。磨かれた板張りの床、細い廊下。両脇に障子張りの部屋が続いている。天井にははめ込み型の電灯が点いていて明るい。映像の中でしか見るような、昔の日本家屋風の廊下。障子の向こう側には、人の気配があった。

 廊下は長く続いている。これを見るだけでも、かなり大きな屋敷だ。

(ふぅん)

 松濤エリアは境界公園に行く時にいつも通るが、ここまで大きな日本家屋があるのは知らなかった。赤は無言で足音を立てずに廊下を進んだ。新太も黙って後を追う。何度か同じような隠密の格好をした人間とすれ違った。内心、身構えたが誰も二人に注意を払わなかった。

「もう少しだ」

 廊下を曲がると、赤が小さく言った。その時だった。

「お待ち」

 後ろからピシャリと声がした。女だ。赤が素早く振り向く。新太は、そのまま赤の後ろに隠れるようにして俯いた。

 其処には髪の毛を大きく結い上げた、和装の女が立っていた。睡蓮と同じような派手な着物を着ている。だらりと前に垂らした帯は濃い紫だ。

「あっれー、浜木綿どうしたの?」

 赤は何でもないような軽い口調で言った。

「お前らやっと見つけたよ。何処へ行くんだい? 鈴蘭姐さんが探しているよ」

 女は口調もどこか芝居めいていた。

「あー。そう、その件ね、知ってる知ってる」

 赤はうんうんと大げさに頷く。

「でもその前に、冬のお使い頼まれててさ」

「そんなのお前一人で事足りるだろ。青をちょっとお貸し」

 浜木綿と呼ばれた女が、こちらを見た。新太は慌てて顔を背けた。目元が切れ上がった、理知的な美人だった。睡蓮と違って、化粧も衣装も板に付いている。いくらか年上なのだろうと、思った。赤は大げさに両手を広げて、ダメダメ〜〜と言った。

「二人必要なの! 急いでるから行くね。鈴蘭にはすぐ行くからって言っといて」

 あいも変わらず融通の利かないな子だね、と女は言った。

「鈴蘭姐さんはおまえが睡蓮のところに通っているの良く思って無いんだから」

「通ってるって言ったって、そんな変ことしてないよぉ」

「女は嫉妬深いんだよ。特に、鈴蘭姐さんにかけては――おっと。これ以上、わっちの口からはとてもとても」

 浜木綿は絢爛な扇子で口元を隠す。

「鈴蘭が俺に嫉妬するわけないじゃん」

「おばか。男としてじゃなくて、子どもとしてだよ」

「ああ、そっちのそっち?」

 赤は心底どうでもいいという声で言った。

「もう行っていい?」

「今日の青は随分と静かじゃない」

「何でもないよ! 急いでるからまたね!」

 赤は、突然新太の手を握るとそのまま走り出した。

「あぶねえ。浜木綿はともかく鈴蘭ってのにばれたら本当に終わりだからな。逃げるぞ」

「――う、うん」

 何が何だか、新太にはわからない。勝手に忍び込んでいたのは申し訳ないと思うが、鈴蘭が屋敷の主ならば、助けてくれたお礼を言いこそすれ逃げるというのは筋違いではないだろうか。

 それとも――薄々は感じていたことではあるが、此処はまさか。

「マフィアなの?」

「そんなわけないだろ馬鹿!」

 赤は笑った。そして小さな扉を開けた。出るとそこは外だった。新太が想像している風景ではなかった。

「え? え?」

 どう見ても廃墟だった。G区の外にも廃墟はたくさんあるが、こんな綺麗な家の外が廃墟街とは想像していなかったので、新太は若干面食らった。しかも、更に驚くことに、その廃墟の合間に、人が犇めき合っていた。にぎやかで明るい雑踏。赤い紙の灯籠が、頭上に連なるように繋がれ、美味しそうな食べ物に匂いがどこからとも無く漂ってくる。子どもたちの笑い声、お囃子の音。

 フェイスカバーの下で新太は目を丸くした。

 祭りだ。それも、廃墟の中での、御祭り。廃墟祭り? 何だそれは。

「いいか、はぐれるなよ」

 赤は知っていたのだろう。動じることもなく、新太の腕を掴んで、言った。

(へぇ)

 東京に、こんなに賑やかな祭りがあることは初めて知った。どこにも知らせなど出ていなかったし、学校でもこの話題は聞いたことが無い。縁日が出て、子どもたちが金魚が犇めく水槽に齧りついている。焦げるソースの良い匂いが鼻をくすぐった。睡蓮のおにぎりを貰ったのに、腹が再び鳴った。

 不思議な祭りだった。

黒く楠んだ町並みに、灯る赤い灯籠の色。

 見渡す限り、みんな和装だ。いまどき、祭りと言えども和服を着るのは珍しい。まるで江戸時代か、ドラマで見る昭和時代のお祭りに紛れ込んだ気分になった。

 新太の隣をはしゃぎながら走りぬけた子のうち片方が躓き、前を行く赤とぶつかった。そのままころんと転がった六歳くらいの女の子を、赤は慣れた手で抱き起こした。

「大丈夫か? 人ごみでは、気をつけろよ」

「ありがとー、赤様。赤様も楽しんでる?」

 顔が隠れているのに、声でわかるものなのか。赤と子どもとは旧知のようだった。新太はできるだけ音を出さないように、認識されないように勤めた。赤は二人の手に何かを握らせて、子どもたちははじけるような笑顔で再び祭りに駆け抜けていった。

「知り合いなの?」

 子どもたちが消えてから小さく聞くと、赤は「おう」と同じく小さく言った。そして指を唇に当てて「もう少し待て」と言った。

 進むに連れて祭りの熱気は上がっていき、ものめずらしさに好奇心がむくむくと湧き上がる。転勤族の特権として、日本各地の祭りに参加したことはあるが、ここまで徹底したオールド・スタイルは初めてだった。闇の中に灯篭の光がきらめき、小さな金魚蜂が並び、金魚が光をきらきらと反射させている。路地の端、坂の上から下まで竹が配置されて、そこでは流しそうめんをしていた。囃子の音はスピーカーではなく、坂の上から流れてくる。シャン、シャン、と、女性がはいているぽっくりのような下駄についた鈴が鳴り、新太は不思議な気持ちになった。

夜の闇は濃く少し細い路地を覗き込むと深淵がぽっかりと口を開けている。はるか頭上には切り取られたように夜の空が見える。月がぽっかりと覗いている。どうやら此処は地下街で、天井が吹きぬけているのだ。祭りの人の合間に、時折赤と同じような黒装束を何人か見かけた。まるで映画のセットの中に役者と裏方が同時に歩いているような、不思議な光景だった。

「こっちだよ」

 赤は新太の腕を掴むと一際細くて狭い路地に入った。祭りの喧騒が遠のく。ドブのにおいがした。下水道が近いのか。湿り気のある冷たい空気が満ちている。路地の付き当たり鉄製の大きな扉があった。赤が扉の横に手を翳すと、重い音がして鍵が開いた。

 扉を開くと、強い風が吹き抜けた。雨の匂い。目の前には古びたコンクリートの階段が、上に続いている。赤は、その真っ暗な階段を上っていく。新太は無言でその背中を追った。

 階段を上りきると、そこは外だった。

 雨は止んでいた。

 いつの間にか雲もすっかり晴れて、頭上には大きな月が出ていた。

 そして新太は、目の前に広がる世界の意味がわからなくて足を止めた。

「ま、待って」

 新太は今出てきた場所を見た。どういうことなのかわからなかった。

 二人が出てきたのは廃ビルの地下だった。今にも崩れそうに傾き、上半分は骨組みしか残っていない。今まで聞いたことが無い程近くで、大きな音で――ビルが鳴いている。たった今新太たちが出てきた場所から。

 風が吹いた。湿気を孕んだ風。

 新太は息を呑んだ。周りは何処を見ても黒ずんだ廃墟が広がっていた。空洞のビルに、崩れかけた塔。落ちた線路、全てが。あの展望公園から見ていた景色と同じ。

 その中に、真っ黒な少年が立っている。

 赤が振り向いた。しかし、何も言わない。

「――ここ、どこ?」

 新太は改めて聞いた。間の抜けた質問だってわかっていたけれど、聞かずにはいられなかった。赤は、静かな声で言った。

「たぶん、お前の想像通りの場所」

「……G区?」

 赤は目元を細めて、ただ何も言わずに頷いた。

「いまの、なに?」

 新太は、今出てきた方向を指差して、言った。地下牢、板張りの廊下に屋敷、障子、暗闇の中に赤い灯篭が点る町並み。祭り。大人に、子どもたち。黒装束――花魁。

 赤は、立てた指を口元に当てて「秘密だよ」と言った。

「あれは東京の亡霊」

「どういうこと……?」

 亡霊にしてはあまりにリアルだった。死人にはとても見えなかった。

「俺、霊とかそういうの信じないんだけど」

 赤は指を唇に当てて、小さな声で言った。

「それでいいよ。でもあそこは、亡霊の街なんだ」

 新太は静かに息を飲んだ。今見たものが何だったのか、どうしてこんな場所にいるのか、考えて理解して咀嚼を試みたが、それでもどうしてもわからなかった。

 再び強い風が吹いた。ビルが泣いた。

「俺はどうして……ここに?」

 ようやく絞り出せたのは、そんな質問だった。赤は「そうだなぁ」と腕を組んだ。

「まあ簡単に言うと、お前は下水道を流されこちら側に迷い込み気を失っているところを、俺の黒子仲間に発見された。……正直、色々と問題になる。でも亡霊にするのは申し訳ないから、親切な俺様がこっそり娑婆に帰してあげようとしているところ。……おわかり?」

 新太は小さく頷いた。しかし目の前の男を見て、やはりわからないことがあった。

「……でも、何の目的があって俺にそんな親切にするの?」

 こいつに何の利点があるのかがわからない。赤は新太の目を見つめたまま、しばらく沈黙した。そして静かな声で「目的なんかないよ」と言った。

「じゃあなんで」

「……まだ、わからない?」

 新太は眉根を顰めた。どう考えても、わかるわけがない。

「わからない」

「まったくもう」

 赤はそう言って大げさに溜息を吐いた。そして、己のフェイスカバーを掴むと、やれやれといった口調で言った。

「自分からばらしたって言ったら青に叱られるから、そこは秘密にしとけよ」

 そして赤がフードとマスクを取った。黒い布の下から現れたのは、短く赤い髪。そして赤みが掛かった強い瞳、長い睫毛。大きな目。それだけじゃない。どこか見たことがある顔。

 ごう、と湿った風が吹いた。

 赤はゆっくりと笑みを浮かべて言った。

「こんにちは、針嶋くん」

「――は!?」

 新太は目を疑った。目の前にいつ男の顔を、新太は知っていた。

 違和感がありすぎる。知っているその顔は、本来女であるべきだからだ。

「あ、あお、あか、あか、あお――!?」

「だから赤だっての。つまりアタシが病的に内気な黒岩茜でーす」

 双子の片割れ、茜は見せたことがない悪戯っぽい表情で笑った。どう聞いても声は男である。

「えっ、だって」

 新太は思わず茜の胸元を見る。茜は新太の手首を掴んで、突然自分の胸に宛がった。

「う、わっ!?」

 思わず声が出る。ただし一瞬期待――否、覚悟したような感触は何も無かった。自分とまったく同じだ。茜はげらげらと腹を抱えて笑った。

「何もねえよ。声聞いてわかんないのかよ」

「だって、じゃあ葵は――」

「おい、お前あれが男に見えんのか?」

 突然、茜は真顔に戻って新太を睨んだ。そんなことを言われても、新太から見たらどこをどう見ても二人とも女だったのだ。

「お前――胸大目に詰めてた?」

「うん。葵に怒られたけどそのほうが楽しいし。お前らボーイズも巨乳のほうがいいだろ?」

 誰がボーイズだ。そして一体何のサービスだ。拓巳が聞いたら激怒しそうだ。

「じゃあ、一卵性の双子でもないってことなのか」

 そっくりだと思っていたのは、目の錯覚だったということか。否、似てはいるのだ。ただ、全く同じではないだけで。

「双子ではあるけどな」と、茜はにやにや笑った。

「俺の演技、完璧だったっしょ。小さい頃はもうほんっとにそっくりだったんだけどなぁ。やっぱり声変わりしてからはなぁ。喋れないってお前、けっこうきついぜ」

「知らないよ。どういうことだよ。何してんだよ」

 新太は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「一応言っておくが、好きでやってるわけじゃないぞ」

「じゃあ、どうして」

「まあ、……だから色々あるんだって、こっちにもこっちの事情が……おっと」

 茜がふと後ろを振り返り、ライトを当てた。新太も振り返る。ビルとビルの合間の物陰に、何かが動いている。暗くてよくわからない。

 しばらく、そちらを厳しい顔で睨んでいた茜が、ふっと息を吐いた。

「野犬だな、小型犬だ。襲ってはこない」

「野犬? G区に野犬?」

「犬だけじゃなくて、いろんな獣がいるぞ。このへんは危険だから、さっさと行くぞ」

「ちょっと待てよ、まだ聞きたいことが」

 茜は新太の肩を叩いて、言った。

「いいから。歩きながら話そうぜ」

 廃ビルの合間を縫うように狭い道を幾つか通り、大通りらしき場所にでた。月が明るく、見通しが良い。かつて、乗り捨てられた車らしき残骸が、沿道にいくつか残っている。見上げれば、道の両脇にギシギシと詰まって建っているビルの残骸が、迫ってくるようだった。新太は静かに息を飲んだ。

「……これって倒れてこないの?」

 G区の内側は、どこがどうやって崩れるかわからないから危険だと、そんな話ではなかったか。茜は「ここは大丈夫」と言った。

「この辺は軍が通るから、それなりに邪魔な瓦礫や危ない建造物は撤去されている。いきなり崩れてくることもないし、それなりに安全」

 大きな看板が落ちている。青山通りと書いてあった。そうして昔の大通りを歩いた後、茜は再びビルの脇の階段を降りて、それから二人は地下道を歩いた。下水道ではなく、地下鉄の線路跡のようだった。茜が持っている大型のライトのおかげで視界は良い。嫌な匂いも下水道に比べたら少ない。

「どこに向かってるの?」

「新宿だ。今頃渋谷は警備隊がうじゃうじゃしてるだろうしな」

「なるほど」

 それからしばらくは無言で歩いた。すると茜は「聞きたいことあるなら聞いていいよ」、と言った。しかし、何から聞いたら良いのかわからない。そう言うと、何から話したらいいかわからない、と笑った。

「まあ、全部答えられるわけじゃないからな。俺は下っ端だしな、葵と違って」

「どういうこと?」

「あいつは偉いの。それだけのことだよ」

「でも兄妹なんだろ?」

「姉弟な。まあ色々と出来が違いすぎるんだよ」

「――何で俺を助けてくれるの? クラスメイトだから?」

 茜はその大きな目で瞬きをした。

 そして変な顔をして「考えたらわかんだろ」と言った。

「お前、大分にぶちんだなぁ。お前が下水道の中でくたばっちまったら、俺らの夢見がめちゃくちゃ悪いだろ。葵が俺にこっそりお前を探し出して助けろって言ったんだよ。まあ見つけたのは俺じゃない、別の黒子だけど」

「――そうか。ありがとう」

 素直に礼を言うと、茜は大きく溜息を吐いた。

「ただ……お前には何も見せるな何も言うな、とも言われてるんだよな。……だからお前、間違っても学校で会った時に葵に言うなよ。知らん顔だぞ」

「う、うん」

「本当は、俺たちの内部にあんな深く入ってそのまま外に出るなんてありえないんだ」

「――本当はどうなるの?」

 茜は指をにゅっと二本だした。

「選択肢は二つだ。そのまま俺たちの仲間になってあそこで一生暮らすか、殺されるか」

「殺される!?」

 茜は、大声出すなよ! とこれまた大きな声で言った。

「昨日のあいつらだって、そのへんに潜んでるかもしれないんだぞ」

「だって、殺されるって――!」

 だが茜は、違うってば、と言った。

「命を取るわけじゃない。記憶だ、記憶」

 そう言って、こめかみをトントンと叩いた。

「記憶?」

「そう。記憶を吸い取ることを、俺たちは「殺す」って言ってるの」

「な、なぁんだ」

 紛らわしい言い回しはしないでほしい。しかし記憶を吸い取るのも、物騒な話である。

「ま、だから、俺たちの存在は秘密裏に守られるわけよ」

 新太は足を止めた。

「でも、そんなことをまで話していいの? この後、結局俺も『殺される』のか?」

 茜は振り向いてライトを新太の顔にあてた。まぶしい。

「何すんだよ」

「殺すつもりはないよ。今回のことは葵と俺ともう一人しか知らねえし、公にすると俺らも面倒に巻き込まれるからな。お前が黙ってればいい。それだけ」

「もう一人って睡蓮、さん?」

「あ、そっか。じゃあ四人だ。睡蓮も知ってるけど、彼女はお前が誰かとか何かとかそういうのは知らないよ。ただ匿ってもらっただけ。あそこなら誰も来ないからな」

「彼女はどうしてあそこに閉じ込められてるの」

 人を殺したと、言っていたけれど、その殺すは、記憶を奪うの意味だろうか。

 そうであれば、一体誰の記憶を奪ったと言うのだろう。

「色々あるんだよ。とか言いながら俺もよくわかんねえんだけどな。嫉妬深い人とか色々ね」

 そう言えば誰かがそんなことを言っていた。あの紫の帯の女の人だ。

「あの、お前たちの、その、集団では、女の人はみんなあんな感じなの?」

「あんな感じって?」

「……こう、着物で着飾って、不思議な言葉で話す、みたいな」

「ああ、いいや花魁は三人だけだよ。あいつらは位が高いんだ。親分のコレだし」

 茜が小指を立てて言った。

「えっ――三人とも?」

「まあそうだな。妾。愛人。恋人。彼女。あのスケベじじいは早く死ねばいいと俺は常々思っているね。親父だけど」

「おやじ?」

「そう。俺と葵は、あの集団の頭の子どもだ。そんで葵は後継ぎ。俺はそのボディーガード。だから葵のほうがずっと偉いの。わかる?」

「わ――」

 わかる気もするし、意味がわからない気もする。親分だの、愛人だの、まるで物語の中の話みたいだ。茜が再び歩き出したので、慌ててその後を追った。

「お前ら何の集団なの? 何でG区の中に居るの?」

「お前のことを殺せない以上、それは言えない。俺の口からは」

「じゃあ質問を変える。カンナを奪った連中は?」

「あれは――」

 茜は短くそう言って、それから考え込むように黙った。

「あいつらのこと知ってるの――か?」

 それならばカンナが何処に居るのか知る手がかりになるだろうか。茜は短く、いや――と言った。しかし、それから再び「そうだな」と言った。

「カンナちゃんは絶対に無事だ。無事だと思う」

「ど、どうしてわかるんだ?」

「えっと、勘」

「はぁ?」

 思わず顔を顰めてしまった。しかし茜は大丈夫だってー、とひと際能天気に言った。

「お前の小鳥は絶対に取り戻してやる。もしかしたら、自力で帰ってくるかもしれないけどな。戻ってこなかったら、俺と葵で絶対に取り返しに行く」

「それはすごい――嬉しいけど、何でそこまでしてくれるの?」

 新太が驚いて聞くと、茜は再び奇妙なものを見るような顔付きで新太を見た。

「あのなぁ。お前が全然わかって無いみたいだから言うけどな、俺たちはお前に感謝してんの。そんで恩義も感じている以上に、責任も感じてるの」

「何で?」

「だーかーらー」

 茜は呆れたように笑った。

「最初に俺たちを助けてくれたのはお前と藤井だろ。俺なんて、葵のボディーガードなのにうっかり奇襲くらって真っ先にダウンしちゃったからさぁ。葵に怒られたの何のって。葵も俺も、一人でならあんな奴ら、余裕で逃げられるけど、相手を背負ってってのは……俺はできるけど葵には無理だからな。本当に、ピンチだったんだよ」

 茜はわざと、再びライトを新太の顔に当てた。

「美人双子を救ってくれてありがとな!」

「お、お前――、そんな美人とか自分で言うなよ」

 どんな顔をしたらいいかわからなかった。そんなつもり、全然なかったけど、言われてみればなるほどとも思い、どうにも照れくさい気持ちになってつい笑うと、茜も笑った。

「でさー、俺もお前に聞きたいことある。あの小鳥はアニマロイドなんだろ?」

 新太はあの男達が叫んだ言葉を思い出した。しかし、よくわからなかった。

「知らない」

「知らないってお前――言葉喋ってただろ? 俺だって半分朦朧としてたけど――ちゃんと聞いたぜ。お前の名前呼んでただろ」

「それはつまり、言葉を喋る小鳥をアニマロイドって言うってこと?」

「小鳥というか動物のことを――。うん、お前本当に知らないんだな」

「聞いたことがないよ。何でお前は知ってるんだ?」

「震災前は有名だったはずだよ。でも今はほとんど居ない。たしかあいつらの寿命一〇年やそこらだろ。震災から一二年経つし、新しい個体はいないからな。うちのとこにも数匹居たけど、去年と一昨年でほとんど死んじゃった。お前の小鳥は長生きだな」

 茜の言葉に、新太は驚いた。一気に血の気が引いていく。

「そんなことはないよ。小鳥だって三〇年は生きるぜ? 犬や猫ならもっと生きる子だって」

「何だ、おまえんち猫と犬もいるのか?」

「うん」

 大きな犬と、怠け者の猫が。

「アニマロイド?」

「――うん」

 心臓がドクドクと早い速度で鳴っている。寿命が一〇年。であれば、もう既に全員寿命をとっくに超えている。ナナが、オーガが――そしてカンナが、そう遠くない将来、死んでしまうと、想像するだけで足元が抜けていくようだ。

「ど、どうすればいいんだ」

「落ち着け。何か変だと思ってたけど、多分、お前のアニマロイドはちょっと違うっぽいな。どうやって入手した?」

「物心付く前からうちに居たからわからない。多分、父さんが連れてきた」

「お前の親父は何者だ」

「軍の、今は、そこそこ偉い人」

「ははぁ。じゃあ軍が絡んでるな。アニマロイドは六賢者だ。じゃあお前の父ちゃんは南博士と繋がっている可能性もあるな」

「……南博士?」

 名前は知ってる。確か、そう。

「母さんが働いてた所が、南動物工学研究所だ。そこの所長さんだろ」

「そっちか! なるほど。じゃあお前の母ちゃん経由だな。軍も絡んでるのは間違いなさそうだけど。うーん。じゃあやっぱり――弥生が」

「弥生?」

 茜は親指の爪を噛みながら首を振った。

「――いや、これは本当にこちらの話だ。お前の母ちゃんに話聞いてみたいな」

「それは無理だよ。……震災で死んだ」

「そっか。……それはごめん」

 茜は途端に神妙な顔になった。

「南動物工学研究所跡は此処からそんなに遠くないからいつか連れてってやるよ。今日は無理だけど、とりあえず全部終わったら。こっそり」

「全部って?」

「色々あるけど、まあまずは――そうだな。カンナちゃんが戻ってきてからだな」

 任せとけ、と茜は何もない胸をどんどんと叩いた。

 その時、地下道に微かな電子音が響いた。

「お、ちょっとごめん」

 茜が左耳のピアスを捻った。

「どしたの?」

 通話だろうか。相手の音声はこちらに聞こえない。

 茜は新太に背を向けて、話し込んでいる。小声だが、まる聞こえだ。

「え、マジで? 嫌だよ、それ。うん――うん、まあ持ってるけど。でも、まあ。うん。はい。はぁい――」

 一分もしないで会話は途切れた。

「どうした?」

「どうもしない。いや、どうもしなくないけど、大丈夫。こっちの話」

 そして「もう出口すぐそこだ」と、言った。

「そっか、よかった」

「でさ、新太、ちょっとこっち見てもらっていい?」

「どっち?」

 茜が手元のライトをトントンと叩いた。見るといっても、どこを見たらいいのかわからない。

「ここ?」

「そうそう――そのまま、ちょっと待って――ウン」

「うわっ!?」

 次の瞬間、世界が真っ白になった。光が強すぎて、目の奥が焼けるかと思うほど。

 突然、頭の奥が溶けるように意識がぐらりと揺らいだ。

 膝の力が、抜ける。――倒れる。

「ほんっとごめんね」

 再び、茜が小さく呟いたのが聞こえた。気がした。

 地面にぶつかる前に、新太の意識は途切れていた。

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