東京ゴースト
十月
第一章
おひさまは おやすみ
おつきさま ララバイ
一月は わたしのドラえもん
ねんねん ころころ 夢の中
プロローグ
薄暗い境界線をさまよっていた。
小刻みに振動する世界。まどろんでいるけれど、目は覚めている。起きているけれど、夢の続きも見ている。ゆらゆら、ふらふらと、左右前後の光と闇。
とても、心地が良い。意識と無意識の狭間で、弛んだ平均台の上にいるみたいだ。あとほんの少し、どちらかに傾けば決まるのだろう。完全に目覚めてしまいたい気もするし、深い夢に沈んでいきたいとも思う。ぼんやりと、夢うつつの境目に、このまま留まっていられるように、ゆっくり、ゆっくり、片足でバランスを取っているような感覚。
ここは、温かい。幸福な気持ちに包まれている。とても安心していて、満ち足りている。優しくて懐かしい長い夢の影が、瞼の裏で揺れている。それをじんわりと慈しむ。重くたっぷりとした毛布のような疲労感。心地よい誰かの声が耳元で、優しく囁く。ただ静かに、ゆっくりと息をしてまどろめば良い。もうこの瞼を開く必要は無い。何も考えないで、怖がらないで、このまま再び眠ってしまえばいい、と。
だけど、どうしてだろう。いつの間にか、私の目ははっきりと開いていた。
「――?」
ここはどこだろう。いつから繋がっている記憶だろう。よくわからない。ここは暗い。真っ暗だ。
車の匂いだ。目が慣れるにつれ、うっすらと浮かび上がる車内。運転席には、父がいる。見覚えのある、広い肩。すぐそこにある。手を伸ばせば届く。目の前にあるのに、何だかとても遠く感じる。その先に見える、フロントガラスの向こうは、何も無い。ただの、空っぽの闇だ。星は見えない。街灯も無ければ、対向車のヘッドライトも無い。
車はまっすぐ進んでいる。どこを走っているのかまったくわからない。どこへ向かっているのかも知らない。あんなに暗くて父には前が見えているのだろうか。
「お父さん」
呼びかけた。だけど声は喉の奥で小さく掠れた音を出すだけで、父には届かない。
「お父さん?」
声が出ない。届かない。父は振り向かない。何度やっても、失敗に終わる。肺の中から空気が全て無くなってしまったわけでも、喉が震えないわけでもないのに。
「……おとう、さん」
世界を満たしていた安堵と幸福感が、突風に煽られたように消えてしまった。
こみ上げるのは、生々しい不安。運転席の男は、本当に父なのだろうか。
ふつり、と、鳥肌が沸いた。もう、声を出すことはできないと思った。身体が震える。両腕で身体を抱く。そんなことは、何の助けにもならないのに。冷たい汗が背中の中心を伝って落ちる。意識を内側へと集中した。別のことを考えようとする。だけど何も浮かばない。意識を外へ移す。今、どこにいるのか。これから、どこへ向かうのか。せめて、それだけでもわかれば良い。まるで鼓動のように、車は定期的に跳ねる。これは、何だろう。これは、道の継ぎ目だ。もう一回。そして、また。橋の上なのだろうか。それにしては長すぎる気がする。こんなに広い河はこの街には無い。まるで高速道路(ハイウェイ)のようだ。ううん、きっとそうだ。この車は今ハイウェイを走っているのだ。
――ハイウェイ?
何だろう。
何か大切なことを忘れている気がする。何か大事な、そして恐ろしいことを。
静かに、身体を起こした。サイドガラスから外を覗く。大きな満月。他の光は無い。
月の光の下、どこまでも続く町の影が浮かび上がった。ゆっくりと、瞬きをした。何度も、した。街の灯りは灯らない。夜空には月だけがとても大きく浮かび上がり、街は宵闇よりも濃い闇に沈んでいる。
これは。
(ちがう)
これは、どうして。
(……思い出しては)
いけない。
これは、夢なのだ。全部、夢なのだ。喉の奥で何かが詰まって涙の味を思い出した。手を顔にあてた。ひりひり痛む頬。張り付いた睫毛。嗚呼、泣いていたのだ。もうずっと、長い間、泣いていたのだ。どうして? 思い出したくない。目を閉じた。きつく、きつく。もう一度、眠りたい。微睡みたい。お願い。あちら側へ。もう一度、幸せな夢の世界へと、戻れるように。そして、そちらで目覚めるようにと。
身体が小さく震えていた。奥歯はカタカタと鳴った。安堵は、重く沈む恐怖に取って代わった。手を伸ばして、隣にある小さな温もりを握り締める。
突然、車が止まった。そこですべてが途絶えた。
第一章
千年崎都は夜に向かって走っていた。
春先とは言え四月の頭は肌寒く、朝の空気は刺すように冷たい。ヘルメット越しに感じる向かい風の強さに圧されないように上体を前傾にする。翻るスカートの中にも風は忍び込み太ももが凍えた。首にぎゅっと巻いたマフラーが風を受けて膨らんでいる。速度表示は時速九〇キロを超えようとしている。しかし都は更にスピードを上げた。背後に朝日を背負って西に走る。エンジン音が空っぽの世界を埋める。広くて高い空の上まで届きそうだ。時折対向車線に乗用車やトラックが通るが、せいぜい二、三台だ。ほとんど無人に近い。片側二車線の狭いハイウェイは最後の直線に入った。道の消失点はまだ夜の色を携えている。
周りの景色もただひたすらに静かだ。かつて街だった残骸は朝日を浴びて無機質に佇んでいる。広大な遺跡や文明跡は数多にあれど、これほど巨大な廃墟が残されている場所は、地球上探しても此処だけなのだと――どこかの国の学者が言ったそうだ。
その中を唯一縫うように走るハイウェイ沿いにも、空高く立ち上るビルディングの残骸が何棟もある。骨組みだけになったもの、傾いたもの、壁の一部を残すもの。遠目から見るとそれは風景に同化し、巨大な影の一部でしかない。
しかしその脇を通る時、それは巨大生物の死骸のようなものだと気付く。コンクリートは干からびた皮膚と肉、鉄骨は崩れた骨。そう思うと、ただの無機物が仄かに生々しく感じる。
朝と夜にこの廃墟の中を強い風が吹き抜ける。春は特に強く。
するとこの巨大なビルの死骸たちから、まるで泣いているような音が鳴る。
それは少し不気味で、どこか物悲しい。広大な廃墟から立ち上る泣き声。
そんな時に、都は思い出すのだ。この街がかつて、本当に生きていたことに。あのビルたちは、その内側にたくさんの命を大事に抱えこみ、頑丈で、立派に、まっすぐに空に向かって凛と立ち上がっていたことに。
都は小さく身震いする。日中見るにはあまりどうも思わないのだが、薄暗い中で見る廃墟は不気味だ。あまりにも広大で前後にも左右にも終わりが無いように見える。
本当は、横断する分にはそんなに長くは無いのだが。
そろそろだ。かなり小さくではあるが終点の掲示が見えてきた。
少しほっとする。あそこまで行けば少なくとも誰か居る。廃墟は外にも続いているが、人がいる集落もある。いくつか通り抜ければ目的地だ。都はもう一度時計を確認する。午前六時三十五分。大丈夫、これなら余裕で間に合う。
そう思った瞬間、突然、眼前を何か黒いものが横切った。
「ッ――わっ!?」
虚を突かれ、思わず大きくバランスを崩した。
全て自分のコントロール下にあった力が、手を離れ、暴走する――身体がぐらりと倒れて放り出される。咄嗟に数年前の事故が脳裏を過ぎる。
「ひっ……!」
死ぬことなんて怖くないと思っているのに、恐怖で叫びそうになった。
しかし都はギリギリの所で左足を着くことに成功した。軸にしてバランスを取り戻す。強いブレーキ音と、タイヤの摩擦音を立てながら――都は何とか両足を地面に着けた。ライダー用に改造してあるローファーの底が熱い。
「び、びっくりした……」
思わずヘルメットを取って、冷たい空気を吸った。
焦げたゴムの匂いが鼻を突く。埃っぽい春風が、都の長くて黒い髪をごうと靡かせる。額の汗を拭う。上がった息はすぐに収まったが、心臓はまだ鳴っていた。
今のは一体、なに?
都は振り向いて黒い影を探す。すぐに中間分離帯の横に丸まった黒い物体があるのを見つけた。どきりとする。微動だにしない。小さな動物のようにも見える。
もしかして撥ねてしまったのだろうか? ぶつかっては居ないと思うけど、バランスを崩してからは夢中でよく覚えていない。もし撥ねてたら死んじゃったかもしれない。
急いで駆け寄り、小さな影を覗き込んだ。
それは真っ黒で丸く蹲ったような形の――猫だった。
綺麗な毛並みをしていた。赤い細リボンを首に巻いている。
「飼い猫――? が、どうしてこんなところに」
辺りを見回す。車どころかバイクすら一台も見えない。だが野良猫だとも考えにくい。こんな綺麗なリボン、この煤けた廃墟の中にいたらすぐに汚れてしまうだろう。小さな身体にそっと手を伸ばすと温かかった。おなかに手を当てると、ゆっくりと息している。
よかった。とりあえず生きてる。
都は安堵の溜息を吐いた。しかし猫は目を覚ます気配がない。恐る恐る外傷が無いことを確かめる。骨が折れたところも無さそうだ。ゆっくりと抱き上げる。小さな体は思ったより重い。鼻だけが時折ひくひく動く。頭を打ってしまったのだろうか。
「……どうしよう」
その時、耳をつんざくサイレン音が鳴り響き、都は顔を上げた。
街頭サイレンの音が空っぽの道路に響き渡る。
『退避命令、退避命令。元首都高速道路一号線一般車両通行可能時間はあと五分で終了します。通行中の皆さまは前後の出口までお急ぎください。午前七時より当道路は軍用となり、一般人の通行は罰則対象になります。繰り返します、退避命令、退避命令。元首都高速道路一号線一般車両通行可能時間は――』
ピピピと、腕に嵌めていた時計も電子アラーム音が鳴った。
時刻は六時五十五分を示している。
「やば!」
都は手元の猫を見て躊躇った。置いていくべきか――それとも。
あと一〇分もすれば此処は20tトラック、装甲車、時には戦車までもが通行する。
小さな猫を置いていくには危険すぎる。
「仕方ない」
都はリュックの中に猫を滑り込ませた。急いで背負い、ヘルメットを被る。
「スピードあげるからね」
都は愛車に勢いよく跨ると、思い切りキックした。アクセルを吹かす。
いつのまにか空はすっかり朝になっていた。
◯
針嶋新太は怒っていた。とてもとても、怒っていた。生まれてから最も怒っていた。たった十五年の月日ではあるが、これまで殆ど怒ったことがなく怒ることを早々に放棄する術を、物心つく前より身につけていた新太としては、今本当に怒っている、この感情を持て余してもいた。新太はとっても怒っているものの、怒りの表現の仕方がわからなかった。だから新太は声を荒げるわけでもなければ、ものに八つ当たりをするわけでもなく、ただひたすら無言で歯を磨いていた。しゃべりながら歯は磨けないから、無言になるのは当たり前なのだが、むしろ今は無言で居る為に歯を磨いているといっても良いかもしれなかった。父からの再三の声かけを、無視する為にも、この歯磨きは終わる予定がなかった。
「………くそ」
口いっぱいの歯磨き粉の奥で、新太は小さく呟いた。
思い出せば思い出すほど、やるせない気持ちになるのだった。
平穏平和がモットーの針嶋家の史上最長の父子喧嘩は、一月以上の平行線をたどった後、父の思惑通りに事態は治まりつつあった。治まらないのは、ただ新太の感情ばかりである。
この世には怒っても無駄な相手はいる。針嶋家の場合は父である。(例外はあるが)普段、特別に厳しい訳ではないし端から見たら仲の良い親子だろう。いや仲が良いのは間違いないのだが、それにしたって新太だってものを申したいことは山ほどある。何を言ってもただ扶養されるだけの身に勝ち目は無いことは始めからわかっていたものの、約束を反故にされたことに関して新太はまったくもってこれっぽっちも納得がいっていない。再三の、再三の抗議の声すら聞き入れてはくれなかった。納得できる説明がないままにである。
ふんふんふん。リビングから、ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。敵は機嫌よさげにトーストを齧っているのだろう。食欲の無い新太が半分残した分まで食べている。新太が塗らないジャムまでたっぷり塗っている。甘いもの好きなのに体型に出ていない所はすごいと思うがそんなこと、それこそどうでもいい。
「坊っちゃん、支度は済みましたか?」
ナナの声がした。新太は無言のまま頷いた。
「いつまで歯を磨いてるんです」
「……いふまでも」
「遅刻しますよ。もういい加減観念なさい」
窘めるナナの声はいつのもように優しく穏やかだが、どこかこの珍しい父子喧嘩を楽しんでいるように聞こえた。むっとした顔をすると、ナナは新太の手元に新しいタオルを置いてとことこと行ってしまった。薄茶の尻尾を、これまた機嫌よくふさふさと振りながら。
新太は歯ブラシを咥えたまま肩を落とす。どちらにも味方せず、中立の立場を取っていたナナにさえ、ああ言われてしまったらもうやるせない。
大体、引っ越してしまった時点で、もう勝ち目が無いことだって分かっている。ただ約束を反故にされた事に関してこのまま「はいそうですか」と、受け入れては、長年の新太の努力が報われない。新太が怒り続けているのは現状を撤回して欲しいからじゃない。これは純粋なる抗議活動なのだ。求めているのは誠意ある謝罪である。
そんなもの今更、何も意味がないってことは、重々わかっているのだが。
大きな窓から差し込む光は温かい。出発の時に吹雪いていた札幌に比べ、東京は一足も二足も先に春が訪れている。四月である。新しい出会いと、別れの季節である。
針嶋家は典型的な転勤族だ。果たして軍人の家庭というものがそうであるのか、父が特殊なのかはわからない。小学生の頃から数えてみても、新太が同じ学校に通ったのは長くて二年、短くて一ヶ月。ひたすら出会いと別れ、転校に次ぐ、転校の日々だった。
新しい環境に飛び込んで行くのは、子どもなりにそれなりのストレスを覚えるものだ。日本中あっちこっちと飛び回ったから言葉や、習慣、風習もそれなりに違う。超が付くほどの都会から、中堅の地方都市、田舎の町や過疎地域まで。ルールも常識もタブーも違う場所に、徒手空拳で飛び込んで行くのは、子どもでも簡単ではない。兄姉弟妹がいればまた違うのだろうが、新太は一人だ。小学校低学年から孤軍奮闘の日々であった。仲の良い友だちが出来てもその後くる別れが辛くなるだけであることも学んだ。小学校高学年になる頃には真剣に友だちを作ろうとは思わなくなっていた。
何とかやって来れたのは、家が賑やかだったからだ。
それでも、こんな生活、もういやだ、と、文句を言ったことはある。初めて親友と呼べる友人ができた住んだ福岡を離れる時には、鼻水垂らして懇願した。親友の両親は地元の名士と呼ばれる人たちで、良ければせめて小学校卒業まででも新太を預かると言ってくれた。父と離れるのは辛いけれど、まともに友達も作れない生活は嫌だと、新太は駄々を捏ねた。
「お願いだから、ここに住まわせて」
普段はすこぶる甘い父である。新太の成績が優良であることも関係しているのだろうが、声を荒げて怒られたり、何かをしたいという時に反対されるということも少ない。だが、この時の答えは無下もなくノーであり、新太は首根っこ掴まれて次の父の配属先、青森に引っ張って行かれた。そして、父はこんな約束をした。
『日本の上位十に入る学校、つまり特Aランクの高校に入学したら転校はナシにしよう』
寮なり下宿なり、一人暮らしを許す。それ以上、転勤には付いてこなくていいよ、と。
過保護な父から提示されたその条件は、とても魅力的に思えた。
中学に上がってからはそれが父の戦術だと勘付いてはいたものの、かなり真剣に勉強した。本当に勉強した。中学での転勤は通算五回にも及んだ。それこそ友達とか、どうでも良かった。ただいじめられないようにと注意しながら、日々をくぐり抜ける努力をしていた。そして青春を全て費やした努力が実り、とうとう先月。本当の青春への自由の切符、札幌第一高校――つまりは、特Aランク校の合格通知を手に入れたわけである。
しかし、合格発表の日、父の帰りを待ちわびていた新太に、帰宅した父が告げた言葉はあまりにも無情だった。
「おーい、転勤が決まったぞ。お次は東京!」
「は? 行かないよ!?」
「何で? だってまだ入学してないだろ」
「は?」
「え?」
そんな、キョトンとした顔されましても。
何故このタイミングなのか。何故よりにもよって東京なのか。
何故こちらの聞く耳を持とうとしないのか。
「大丈夫。今回のは長くなるから、高校は三年間同じ所に通えるよ。間違いなく」
「そういう問題じゃない!」
新太は、怒った。本当に、怒った。日本の首都である札幌の高校と、東京の高校では何もかも意味が違う。それに、それでは『特A』に入学した努力が形無しではないか。
「受験勉強は身に成っているんだから、問題ないだろ」
「そういうことじゃないだろ!?」
そしてここから『高校に入学したら』の定義を巡って、仲良し父子が史上最長の父子喧嘩に突入したのである。考えれば考えるほど虚しい。ちゃらんぽらんな強情が一番手に負えない。そんなまともに父に抗えたことなど一度も無い。
「あらた~」
上から声がした。歯ブラシを咥えたまま顔を上げる。一番上のタオル棚から白い文鳥が顔を出している。
「がっこー、俺も一緒に行っていい?」
カンナは首を傾げた。新太はコップを手にとって口を濯ぐと、ナナが置いたタオルで口元を拭い「いいよ」と応えた。
「どうせ駄目って言ってもくるだろ」
「ウン!」
のんきな小鳥は下りてくると、そのまま新太のシャツの胸ポケットにぽすりと収まった。真っ白でまん丸だから、父は大福ちゃんと呼んでいる。しかし片方の胸だけまるっと膨らんで見えるのはやはり少し、不自然だ。
「これじゃあまるで乳があるみたいだな」
「ちち?」
「乳ってのはお母さんがミルクを――って文鳥は哺乳類じゃないからわかんないかな」
「おいおい、朝から何の話をしてるんだお前ら。大福ちゃん、乳ってのは男の夢だよ。おっぱいだ、おっぱい」
新太は憮然とした顔で振り向く。父がにやにやした顔で立っていた。
「カンナに変なこと吹き込むなよクソ親父」
「おっぱいってなーに?」
「何でもないよ、カンナ」
「お前はおっぱいに無関心なのか? それでも父さんの息子か」
「そんな話じゃないだろ」
父は朗らかな顔で、蜂蜜色の猫を抱いて立っている。どうやら敵は新太が歯磨きを終える瞬間を待っていたらしい。毒気の無いにこにこ顔をされると、怒っているこちらが悪い気になってくるから、更に腹が立つ。
「学校には慣れたか?」
「一週間で慣れるわけ無いだろ」
「友だち百人できそう?」
「五人しかいないのに出来るわけないだろ!」
「制服、似合ってるぞ。父さんは断然ブレザー派だな」
父はことごとく新太の言葉を無視して笑った。新太はその顔を睨みつけた。
「俺まだ怒ってるんですけど」
「あっははは、いいぞ、気が済むまで怒っていればいい」
あははじゃない。あははじゃないのだが。新太はむくれたまま「今日なんかあるの?」と聞いた。父が礼服を着ていることに気付いたからだ。
「ちょっとね」
「ちょっと?」
「特別な日だからな。今日から世田谷駐屯地第一境界警備連隊長及び対第三種特別部隊連隊長」
「はい?」
ちょっとって、何がちょっとだ。
「連隊長? しかも二つ?」
「連隊長だ。今日から針嶋大佐って呼んでくれ。わはははは」
父はまるで新しいあだ名を発表するような軽い口調で言った。
「去年中佐になったばかりじゃん!?」
「大佐だよ。うふふ、うふふふふ。同期で一番だ。ふははははは」
新太は唖然とした。こんなふぬけたおっさんが大佐とはこの国の国防はどうなっているのだろう。軍人の息子なのに軍事や外交にはまったく疎い新太でも、そう思わざるを得ない。猫が眠そうな目を開けて、半分寝たままの声で言った。
「おい新太おまえこの馬鹿野郎、たいさってのは偉いのか?」
「大佐っていうのは、多分、けっこう偉いね」
「猫様よりもか?」
「何を言うんだ、猫様が一番偉い。よっ、大統領!」
父が首元をくすぐると蜂蜜色の猫はにゃうにゃうと甘えた声で鳴いている。
「――その昇進は、東京にくることと引き換えなの?」
猫とじゃれている父は普通の口調で「そうだよ」と言った。
「でも東京勤務は父さんの長年の希望でもあったからな。一石二鳥、渡りに船。みんな幸せ。めでたし、めでたしだ」
「俺ぜんっぜん幸せじゃないんですけど!」
「まあまあ。お前も母さんと近いほうがいいだろ」
「……それは、父さんだろ」
「もちろん。それに、東京は父さんの故郷だからね。やっぱり、ふるさとは良いものだよ」
「ふるさとって……」
洗面台の横には、大きな窓がある。そこから、東京が広く見渡せる。
八階から西を仰ぐ空は、淡い青。春の色をしている。太陽の光が温かい。
遥か地上には、只管、平らに世田谷駐屯所が広がっている。
再び、航空機が風を切るマッハ音が聞こえた。
「どこにあるんだよ」
基地の向こうには、雑木林。その向こう側には草原。タンポポが群れている所だけが黄色く映える。長閑だ。そして平和だ。そして何にも無い。
東京は、その名を残しているだけだ。実際にはここには、何も無い。
「昔はあったんだよ」
父は少し切ない声で、言った。
◯
いつもの樹の下にバイクを止める。リュックを覗くと、黒猫は入れた時と同じように丸まっていた。時計は七時十三分。坂を上れば、学校はすぐだ。
『東京第一高等学校』と、簡素で真新しい看板の脇を通り抜ける。門構えも何も無いただの空き地である。雑木林に囲まれた空き地の中に間に合わせで整備された小さめの運動グラウンドと、脇にプレハブのようなコンテナ・ハウスが三棟。一番右のコンテナの隣に自転車が止まってる。そこが職員室だ。躊躇い無く扉を開いた。
「おはようございます」
コンテナの中はもちろん玄関も廊下もなく、いきなり部屋である。長方形の部屋の壁二面に渡って本棚だ。部屋の真ん中に大きな机が一つ。シャツの上に白衣を羽織った男が林檎を齧りながら本を読んでいた。長い脚を行儀悪く机の上に乗っけているが、これでもこの男、蝶野林太郎はこの高校の教師であり教頭であり校長だ。つまり、たった一人の教師である。
「おはよう。そしていらっしゃい」
蝶野はにこやかに言った。そして都の腕の中にいる猫に気付き「その猫、どうしたの」と聞いた。
「ここにくる途中で拾ったの。ひとまずここに置いていい?」
危うく事故りかけたにことは言わずにおこう。蝶野は楽しそうに、へぇと笑った。
「バイクで捨て猫拾うなんて、古き良き不良の鏡みたいなことするね」
「古き良き不良って何?」
「まあそれはおいといて、これがいいかな」
蝶野は机の下から空き箱を取り出し、中にペーパータオルを敷いた。机の上に放置してあったシャーレの埃をふっと吹き払い、コップの水を適当に注ぐ。
「はい、とりあえずここに入れよう。林檎は食べるかな」
「どうかな。ビスケットのほうがいいかも」
リュックのポケットからビスケットを差し出すと、蝶野は「じゃあこれは君の」と、机の横の籠から新しい林檎をくれた。
「ありがとう。朝ごはん食べそびれたから嬉しい」
「林檎食べたら、猫は準備室においといで」
「此処は駄目なの?」
都は床に置いた箱の中に猫を寝かせて、ゆっくりと腹を撫でた。まだ目を覚まさないが、さっきよりもしっかりと呼吸をしている。
「面倒なことに、今日は視察なんだ。職員室に猫がいたらお偉いさんに怒られちゃうかも」
「また? 初日にも来たじゃない」
「まあね。仕方が無いよ。君たちは希望の星だから」
蝶野は優しく言った。都はお愛想でも笑えないどころか口角が下がってしまう。とって付けたような修辞は、虚しいだけだ。どんな建前を語ろうと綺麗な言葉を並べようと、東京の子どもの存在など『お偉いさん』には、どうでもいいのだろうし、むしろ疎ましいだけだろうし、本音を言うなら忘れていたいに決まってる。この高校が出来たのだって、東京の子ども達に高等教育を施すためではない。去年の夏に世田谷駐屯地が拡大して、そこで働く軍人さん、特に偉い人の子どもが通う学校が、どこにも無いのは困るからではなかったか。
都は林檎を一口齧ってから溜息を吐いた。
「私はその希望の星には入ってないよ」
「そんなことないよ。君こそが僕の希望だ。それにはじめの希望でもあるよ」
「でも、そんなこと言うの世界で二人だけだよ」
「いいじゃない。男前二人だよ」
「自分で言う?」
「あっはっは、まあ他に言ってくれる人、いないからね」
蝶野は、都と一緒に住む従兄、はじめの親友だ。林ちゃんと呼ぶのは、林太郎の林ではなく「林檎のお兄ちゃん」と呼んでいた名残である。蝶野の実家は長野の林檎農家である。定期的に林檎が大箱で届く。食料供給が不安定な頃は林太郎の林檎で命を繋いだと、はじめはよく言っている。冗談半分とは言え、それなら蝶野は都にとっても命の恩人だし、この林檎で都は育ったようなものだ。蝶野は両親の居ない都のことを気にかけて、小さい頃からはじめと一緒に色々と面倒を見てくれた。まだ小学校も整っていなかった時代に、都に読み書きや算数の基礎を教えてくれたのも蝶野だ。
それから年月を重ね、今は東京唯一の高校教師である。学校設立にどんな意図があったとしても、それは喜ぶべきことなのだ。都だって、昔は高校に行けるなんて思っていなかったのだから。
猫の腹を撫でながら、蝶野が言った。
「みんなとは仲良くできそう?」
「どうだろ。わかんない」
「微妙に気になってるんだよね」
「何が?」
「見事にバラバラなタイプが集まったなと思って。東京のことを何も知らない都会っ子、生粋の東京育ちの苦労人、ミステリアスで物静かなお嬢様の双子、そして人見知りで大人しそうに見えて本当は心優しくバイクをぶっとばすミヤちゃんだろ」
「ぶっ飛ばしては……なくはないけど。心は優しくないよ」
「優しくなかったら猫を拾うかい? まぁ普通の学校だったらみんな接点ないタイプかもしれないけど、ここじゃそうも言ってられないからね。なんせ五人しかいないんだ。これから三年間、仲良くなって欲しいなあと思うよ」
「うーん」
そりゃ都だって別に仲悪くしたいわけではない。だけど、同年代の友人が居ない都には、友だちが何なのかも良くわからない。東京にはそもそも子どもがあまりいないのだ。
蝶野は首を傾げた。
「拓巳君は友だちじゃないの?」
「藤井は昔から知ってるだけ。最近は全然話さないし」
「女の子同士のほうが友だちになりやすいんじゃない。双子はどう?」
「あの二人は、二人でずっと一緒だから。一度も話したことないもん」
「ふーん、じゃあ新太君は? かなり素直でいい子だと思うけど」
「え、針嶋君は何かもう、住む世界が違いすぎるよ」
何言ってるの、と蝶野は言った。だけど都会から来たエリート軍人の息子と、この辺境から一度も出たことがない震災孤児の都と――共通点なんて一つも無い。
「大丈夫、同じ日本人だよ」
都は首を振る。日本人と言っても、東京とその外じゃ全く世界が違う。
「まあ、焦らなくていいよ。まだ一週間だし」
そして蝶野は、思い出したようにふと笑った。
「僕も最初はじめちゃんのこと嫌なやつだってずっと思ってたんだよねぇ」
それは一体何年前の話だろう。都はそんなことを考えながら、林檎を齧った。
◯
東京第一高等学校は四月より新しく開校した高校で、全国高等学校基準レベルは一応Aランクに入る。新太が入学予定だった特Aには及ばないが、大学進学の条件はほぼ同じ。一部の海外一流大学に進学を希望する場合のみ、特Aの持つ優先項目が無いだけだ。
海外の大学に行く予定もないんだし特AもAも変わらないよね? と言うのが父の言葉だったが、そもそも「特Aに入学」という条件を出したのは自分だと言うことを、けろっと忘れているのではないかと思う。
それに学校選びって、別に必須学力レベルが高ければ良いと言うわけじゃない。そもそもありとあらゆる意味で札幌とここじゃ違いすぎるのだ。札幌第一高校は、百五十年の歴史を誇る名門校。教師陣も一流が揃っているし、カリキュラムだって豊富。必修科目の他の選択授業は、各名門大学の講師が教えにくるバリエーションに富んだものだ。それだけじゃなくて、高校にいながら本人の希望があれば隣接する大学の授業も自由に受講ができる。荘厳な校舎に、美味しい学食、最先端のテクノロジーを駆使した教育が売りである。生徒も、日本全国のトップレベルの生徒が揃う。
一方で東京第一高等学校は、……正直、比べ物にもならない。
今まで最果てのような過疎地を経験したことがある新太から見ても、あまりにも簡素だった。校舎はコンテナ。グラウンドは野原に毛が生えたようなもの。辺りは空き地と雑木林。もちろん体育館や学食なんてものもない。職員は一人、生徒はたったの五名だ。
一体、何を持ってAランクに指定されたのかわからない。むしろ、新太の進学先を、父があの手この手で無理矢理作らせた……と言うのが正しいのではないか。この高校さえ無ければ、新太は札幌第一が運営する学生寮に入れた筈なのだ。
唯一の職員にして校長でありながら、もちろん担任でもある蝶野はとても若く見える。大学生と言われたら信じてしまいそうだ。一体、何を考えているんだろう。こんな東京で、こんな辺鄙な場所で、教師をやるって言うのだからよほど変人じゃないと勤まらないだろうに、蝶野は常に機嫌が良さそうに、にこにこしている。
そして新太は知っている。こういう人物の方が、喰えないのである。(その最たる人は父である)だから新太も、どんなににこにこ優しい男にも、易々と心を許すつもりは無い。
とはいえ、反発するのは何の利も無いことを、長い転校生活、身にしみてわかっているので、新太はただ、ただ、大人しく教室の隅っこに座っているしか無いのだった。
まあ、五人しかいないから、どこも隅っこでありながら中心みたいなもんだったが。
窓の外で小鳥が鳴いた。蝶野が古めかしい黒板に「故郷学」と書いた。
「今日の一限目はこれについて説明するよ。故郷学、聞いたことがある人?」
何気なく手を挙げたら、新太だけだった。
「新太くん」
全員の視線がこちらへ集中する。
「自分の故郷、と言うか、今住んでいる町について勉強する授業です」
中学まではふるさと演習と呼ばれている。最近できたものだと、父は言っていた。
「正解。全国では自治体ごとにカリキュラムが組まれてて、かなり自由度の高い。新しいプログラムではあるけれど、とても大切な科目だと教育庁も力を入れている」
「聞いたことねえけど、つまらなさそう」
新太の後ろに座っている藤井拓巳が言葉通り、つまらなそうな口調で呟いた。学校から始まって一週間。こいつの口から文句か反発しか聞いたことが無い。
蝶野は、そうだねぇ、と間の抜けた声で言った。
「通信学習には無かったと思うよ。いや、でも教科の紹介くらいはあるのかな? フィールドワーク系の社会科だよ」
「何をするんですか?」
千年崎都が聞いた。
「町の歴史を調べたり、名産品を食べたり、名所に行ったりしてる、らしい。高校のカリキュラムに組み込まれたのはここ五年くらいだから、みんな自由にやってるようだよ」
「名産品もクソもねえだろ」と、拓巳が、半笑いで言った。
「フィールドワーク? 廃墟と基地しかない東京で?」
「まあ、そう言う気持ちはわかる。僕は実際に上からカリキュラム計画表が送られてきた時に、これは少し酷なことかもしれない、とも思った」
酷、という言葉に、教室は一瞬沈黙した。
都が静かに言った。
「……酷とは別に思わないけど東京についてなんて。今更知らないことも無ければ、知りたいこともありません」
「君たちならきっとそう言うだろうって、思った。だけど僕の知ってる東京と、君たちの知っている東京はあまりにも違う。君たちは今の東京については知っていても、東京がどういう町だったのか、どういう意味を持っていた場所なのかを知らないだろ?」
ばん、と拓巳が机を叩いた。
「んなこと、どうでもいいだろ。もう何もねーんだから」
新太は、何も言えない。ふと視線を横にずらすと、一度も口を利かない少女が、ただまっすぐに蝶野を見ている。眉毛で切りそろえられた前髪に、肩に付かないストレートボブ、長い睫毛。まるで人形のような見た目の黒岩茜の声を、新太は一度も聞いたことが無い。
その向こう側で、すっと細い腕が上がるのを見た。
茜と同じ顔をした、黒岩葵が、澄んだ声で言った。
「私たちも東京のことは特に知りたいとは思いません。廃墟でのフィールドワークは危険を伴うので反対です」
「もちろんだよ。そんなことはするつもりは無い。特にG区には入っちゃダメだよ」
「入るわけねえだろ」
「ジークって何?」
拓巳と新太の声は重なった。
「えっ?」
「は?」
教室中の視線が、一気に自分に集まった。都も、拓巳も、葵も、茜も。全員、驚いた表情を浮かべている。
「G区、知らないの?」
都が、不思議な顔をして言った。切れ長の目が、少し丸くなってる。謝る必要は無いのに、新太はつい「ごめん」と呟いた。
「……いいの、外の人だもんね」
外の人という言葉に、悪意が無いのはわかるのに、ちくりと嫌な疎外感を覚えた。そんなの、もう慣れっこではあるのだけど。
「G区って言うのは、アルファベットのGに区域の区で、東京特別管理区のことだよ」
「なるほど……」
蝶野の説明に、新太は頷いた。そう言ってもらえれば、わかる。東京特別管理区は、小学生の教科書にも載っている言葉だ。
「私、すっかりその正式名称を忘れてた」
「俺も、そんな呼び方したこと、とんとねーな」
「まあでも『G区』が俗称だからね。東京の外では通じないかもしれないね」
「はじめて聞きました。どうして、G区って言うんですか?」
「グラウンドゼロだ」
拓巳が言った。
「つまり、震源地が全部そこに集約しているからだ」
「それも一説だね」
「ゴーストでもあるよね」と、都が言った。
「それもよく聞くね」
「ゴースト? おばけのゴースト?」
都は、そう、と頷いた。
「つまり、たくさんの人が中で死んだから――幽霊が出るって言われているの」
「お前それまだ信じてるのか?」
拓巳が鼻で笑った。
「そりゃガキどもが潜り込まないように大人が言う戯言だろ」
「そんなのはわかってるよ。でもG区の語源の一つではあるでしょ。どっちが先かは知らない」
「まあ、二人とも正しいよ。まあ日常生活で使うには、東京都区別管理区は長いからね。実際は軍が使い始めたTokyo GatewayのGが由来だ」
そして蝶野は、生徒全員の顔を見ながら言った。
「わかってると思うけど、G区は立ち入り禁止だ。境界近くで育った拓巳くんは、その恐ろしさをお母様からとーんと叩き込まれているだろう。いくつか教えてくれるかい?」
「どうでもいいけど、その拓巳くんってのやめてくれ」
「じゃあ拓巳」
「藤井でいいだろ」
「わかった、じゃあ先生の質問に答えたら考えるよ」
「……別に、大した話じゃねえよ。G区は単純に危険なんだよ。あの震災と火災のあと残った廃墟だ。一般人は完全に立ち入り禁止。境界警備は軍のやつら管轄だから、入ろうと思って入れるもんでもなし」
「G区はどこで区切られているんですか?」
「お、いい質問だね。じゃあこれは、茜ちゃん」
新太は隣を見た。突然指された茜は口元に手を当てて俯いていた。視線はひたすら下で、こちらを向こうともしない。葵が小さな声で「茜」と呼びかけた。すると茜は葵の耳元に手を当てて、小さく何かを言ったようだった。
「昔の電車の――山手線の線路沿いです」
葵が静かな声で答えた。山手線。新太もその名前は知っている。東京のかつての中心地をぐるりと包んだ環状線である。そうだね、と蝶野は頷いた。
「山手線で囲まれた区域がG区だ。ただし、その間を突っ切る元首都高1号線だけは一般人が通行できる。あとは地下鉄も一本だけG区の下を通っているけど、これは完全に軍用だ。震災前は二つとも普通に使われていたんだけどね」
そして蝶野は、ごめんね、と言った。
「やっぱり茜ちゃんはまだ恥ずかしいのかな」
茜は下を向いたまま小さく首を振った。耳元が微かに赤くなっている。
新太はまだ茜の声を聞いたことが無い。葵が静かな声で言った。
「気にしないでください。すみません、妹は病的なほど内気なんです」
「大丈夫だよ。じゃあ葵ちゃん。どうして境界警備が警察部隊じゃなくて軍の管轄になっているか、もし知ってたら答えてくれるかい」
「震災時対応の名残だと聞いています」
「そうだね。震災時は……みんな社会の授業で知っているように、この国は近代国家になってからはじめての無政府状態に陥った。その時、統率機能を一番迅速に――そして唯一取り戻したのが日本軍だ。その頃の暫定措置がずっと続いている。東京は現在かつての都でも府でも県でもない。東京自体が軍直轄の特別管理区なんだ」
新太の父が就任したのも境界警備だ。だけど詳しいことは何も知らない。聞いても教えてくれない。軍事機密だと言われたらそれまでだが、その言葉だけで振り回されて来たのが新太の生活である。
蝶野は「大分話がそれちゃったけど」と言いながら、黒板に書かれた「故郷学」の字を見た。
「今年の故郷学について。君たちには、まず東京をちゃんと見て欲しい。過去の学びも大切だけど、それよりもまず今の東京を、君たちの目線で見て欲しい」
「G区以外で?」
「そう。……G区と、あと、治安上の問題があるから大崎地区より南は行かないように」
「ダメな場所多くね?」
「東京は広いから、他にも行く場所はたくさんある。……東側に行きたくて、元首都高を抜けたい場合は、軍の許可がいるから別途相談してくれ」
「東京を見ることに、意味はあるんですか?」
「大体、見たくなくても毎日見てる」
都と拓巳の言葉に、蝶野は「気持ちはわかる」と言った。
「でも、それでも見て欲しい。何でも良いんだ。案外気付くことがあるかもしれないし、新しいことを知るかもしれない。あるいは、やっぱり何も無いって思うかも知れない。それなら、それでいい。ただ、これだけは言いたい。東京がどうやって復興して行くかは君たちに掛かっていると言っても良い」
は? と拓巳がおかしな声を出した。
「復興? お前、そんなこと本気で言ってんの?」
「先生に向かって、お前は流石にダメだよ、拓巳くん」
蝶野は優しい声で言った。
「それに僕は本気で言っているよ。少しずつでも、この場所をどうにかしようと考えて来ている人が集まってきている。……それは、良い意味でもそうだし、だけど、そうじゃない意味でもそうだ。でも此処は、死んだかつての町じゃない。大きな傷の中で生きている人や、生活している人たちはいて、その代表でもある若者たち、つまりは君たちが、東京についての想いをはっきりとさせることは、とても大切なことだと僕は思うんだ」
蝶野の言葉に、拓巳はそれ以上何も言わなかった。新太は、何も言えない。むしろ、集まって来た人側だ。都は、静かな声で言った。
「……復興はおいといて、東京を見て、どうしたらいいの?」
「故郷学のレジュメに決まったものは無いからね。各校好きにやっているし、うちも自由にやろうと思う。まず君たちは禁止区域以外で、東京の行ったことのない場所に行き、何でもいいから、今まで自分が知らなかったことを発見をして欲しい」
「発見?」
「それは東京に関係することでもいいし、自分の中に生じた新しい発見でもいい。今のことでも、昔のことでもいい。ただし今の東京にいて感じた、発見ね」
「発見して、どうするんですか?」
「うん。レポートを提出してもらいます。第一回は五月末」
めんどくせえ、と後ろで拓巳が吐き捨てるように言った。
都はそれ以上何も言わず、蝶野を見ていた。双子もまた何も言わずに、前を見ていた。
新太は、片肘突いたまま聞いていたが、これは楽勝だ、と思った。
なんせ新太には、東京について知っていることなんてほとんど何も無いのだから。
◯
都は幾度となく指先でペンを回した。落ち着いているつもりだったけど、三回目、落とした時に、やっぱりちょっとソワソワしているのだな、と自分でも気付いた。
まだ学期の初めで、授業はそこまで長くない。いつもは、もう終わっちゃったと思うのに、今日は随分長く感じて、放課後が待ち遠しかった。授業に集中していてもふとした瞬間に、あの子のことを――あの、黒猫のことを思い出して、心配になったり、気になったりして、気持ちがふわふわしてしまうのだ。
数学の教科書を蝶野がパタンと閉じて、やっと終わる――と、思ったら、今度は関東教育連盟のお偉いさんがやってきたので、都は大きく溜息を吐いた。そう言えば視察があるって言ってたけれども。お偉いさんは都たちに仰々しくて偉そうな中身の無い言葉を延々と演説した。頭にはもちろん、何にも入って来ない。そして、うずうずとするその時間を何とか凌いで、終業と同時に都は教室を飛び出した。
「あれ?」
隣の準備室の扉を開けて驚いた。箱は空っぽだ。此処を出るまでは確かに丸くなっていたのに、あの黒い姿が見当たらない。部屋の中を見渡したが、物が多すぎて隠れているのかどうかもわからない。都が置いておいたビスケットが消えている。水も毀れている。猫が寝ていたところにそっと触れると、まだ少し温かかった。
目覚めてからそんなに時間は立っていないのかもしれない。
「猫~。どこ行ったの?」
都は小さく呼びながら部屋の中を探した。本棚の脇。積まれた資料の段ボール。ガラスケースの裏にも見当たらない。
「っていうか、モノが多すぎる」
何でもかんでも届いたものを全て蝶野が適当に突っ込んだとしか思えない。
都は無造作に積まれていた箱を適当に開いて小さく驚いた。
箱の中には髑髏が鎮座していた。精密な模型だ。こんなものまで、蝶野は授業で使うつもりなのだろうか。よく見ると髑髏だけではない、全身がそろった骨見本の模型だ。
「へぇ」
本では見るけれど、実物を見るのは初めてだ。折角なので箱から出して立ててみた。スタンドはボタン一つで自動に立ち上がる。骨は都よりも頭半分くらい大きい。一七〇センチくらいだろうか。
「ふーん、なかなか立派ね」
「うわ、それ――本物?」
「え?」
突然背後で声がして都は振り向いた。しかし、部屋の中には誰もいない。扉も閉まったままだ。
「……誰?」
ゆっくりと部屋を見回す。人が隠れているような気配はないし、隠れるような場所もない。空耳――だろうか。都は怪訝な顔で骨を見上げる。
すると再び背中のほうから声がした。
「焼け死んじゃった人?」
「はい?」
都は本当に驚いて部屋を見回した。
「誰か、いるの?」
呼びかけてみたが、返事は無い。注意深く目を凝らす。
(あれ――?)
本棚の上で、何かが光っている。ドキッとした。二つの目だ。こちらを見つめている。
目が合うと――その目の主も気付いたのか影から姿を現した。それは、赤いリボンを首に巻いた黒猫だった。
「それは人の骨?」
黒猫は幼い子どものような声ではっきりとそう言った。
「えっ、あっ、え――え?」
都は、固まったまま動けない。誰か他に居るのかと、もう一度部屋を見回す。
「誰もいないよ」と、再び同じ声で言われて、思わず「ひゃっ」と声が出た。都は再び黒猫を見つめた。猫が喋った? 今、この黒猫が――日本語を喋ったんだろうか。
(まさか)
夢を見ているのか、幻視なのか、はたまた幻聴か。都は思わず自分の頬に両手を当てた。きちんとした感触がある。ベタに抓ってみるまでもなく、夢では、無い?
しかし夢じゃなかったら何なのか。怪訝な顔をしたまま固まっていると、黒猫は素早い動作で床まで下りてきた。咄嗟に後ずさる。
「そんなに警戒しないでほしいな」
黒猫は落ち着いた声で言った。そして都を見上げて「ここどこ? 君は?」と聞いた。
「えっ、えっと」
さっきから、えっ、とか、あっとか、そんな声しか出ない。だって都は猫と会話したことなんか無い。猫は、首を傾げている。
「君、日本語出来るんでしょう?」
「で、出来るよ!」
つい大声になってしまった。そして、大きな声を出したら少しだけ落ち着いた。
「その、少し、そのビックリしただけ」
「どうして?」
猫は目を丸くした。
「どうしてって、そりゃ……」
猫が喋ることにビックリしない人間なんて、一体この世のどこに居るのか。そう言うと猫は更に目をまん丸くしてじっと都の顔を見つめた。もしかしたら気分を害したのだろうか。しかし猫は、そっか、と呟くとそれからくつくつと音を出した。多分、おそらく――笑ったのだと、思う。笑う猫とは妙なものだ。でもその様子は何だか愛らしかったので、都の緊張は解れた。しゃがんで猫の顔を覗き込む。
「私は都だよ。で、ここは学校ってとこ。あなたこそ誰? どこから来たの?」
猫は小さく口を開くと「みやこ」と声に出して、ニャアと小さく鳴いた。
了承した――とでも言う意味だろうか。
「君は僕の飼い主?」
「……違うよ?」
「僕の名前は?」
「覚えて、ないの?」
黒猫はシュンと下を向いた。
「わからない。どうしてここに居るんだろう」
落ち込んだ様子の猫を見ながら何度も瞬きをした。猫が喋る――それだけでも一大事なのに、それに加えて記憶喪失だ。小説の中でも聞いたことが無い。
「覚えていることは何かないの? 何で君が、元首都高にいたのかとか」
「もとしゅとこう?」
「そう。あの、高速道路だよ。G区の真ん中を通ってるの。貴方はG区の猫?」
「じーく?」
「そう、G区……えっと、なんだっけ。東京特別管理区」
猫は、悲しそうに首を振った。
「何のことだか、全然わからないや」
「そうなの。じゃあさ、何で君が日本語を話せるの?」
黒猫は首を傾げて、小さくニャアと鳴いた。
「日本語くらい普通話せるだろう」
「は、話せないよ!」
「そうなの?」
猫は吃驚したように、緑の目を再びまん丸にした。人間と会話する猫なんて聞いたことが無いし、多分それは一般的ではない。言葉を選んでそう告げると猫は「そうなの」と、言った。猫の表情なんて、よくわからないのに、何だか悪いことをした気分になってしまった。小さな頭を撫でると黒猫は顔を上げた。緑色の瞳と視線が合う。
「とりあえず、私と一緒にくる?」
都は静かに聞いてみた。猫は一瞬きょとんとした。それからニャア――と鳴いた。猫を飼ったこと無い都にも、それが喜びのニャアであることがわかった。
「いいの?」
「いいよ、此処に居ても仕方が無いし、林檎しかないし。帰りに君を拾ったところでいったん止まるからそこで何か思い出せるかもしれない。わからなかったら、今日はうちまでくればいいよ。狭くて汚いけど」
猫は「ありがとう」と言って、すらりと立ち上がった。しなやかな体躯。あどけない声をしているが、もしかしたら大人なのかもしれない、と思った。猫の年齢はよくわからない。
美しい毛並みは、大事に飼われていたことの証明でもあるだろう。きっと今頃、この子を探している人がいる。少しだけ羨ましい――と、思った。
名前が無いのは不便だったので、ジジと呼ぶことにした。小さい時に見た昔の映画に出てきた黒猫の名前だ。猫は、ニャオと小さく鳴いただけだったが、それは肯定のあいづちのつもりらしかった。都は自分が珍しくどきどきとしていることに気付いた。
◯
同じ放課後。新太はレンガ作りの通路を歩いていた。渋谷境界公園はいくつかある境界ポイントの中でも整備されている箇所の一つで、学校からは自転車で十五分程度で着く。丁度太陽が西の空に沈みはじめる頃で、東側はオレンジから淡い紫、地平に近付くに連れて藍に近い色合いに染まっている。広がる廃墟はオレンジ色に染まりながら、奥に行くにつれ黒い影を落とす。これは宵闇と影とそして煤のせいだ。
渋谷から撮った廃墟は、世界的にも有名な風景だ。
『何も無いただの情景としての東京廃墟』
新太の世代はそれが一番しっくりくる。かつてここに生きた町があったことを、地続きの現実としての実感はできない。でもそれは新太がはじめて此処に立つからなのかもしれない。
「すごいね」
思わず呟くと、カンナが胸ポケットから顔を出し「すごいね~」と、同じ台詞を言った。
「何してるんだ、お前」
振り向くと、拓巳が立っていた。手には旧式カメラを持っている。
「居ちゃ悪いのか?」
そのまま皮肉が戻ってくるかと思ったが、返ってきた返事は思ったより穏やかだった。
「悪くねえよ。聞いてみただけだ」
そして拓巳は新太から離れて立つと、無言のまま廃墟にレンズを向けた。ファインダーを覗き込む横顔は学校では決して見せない真剣な表情をしていた。小気味良いシャッター音が響く。平日夕方の展望公園に、他の人の姿は無い。時折見回りの警備兵が物々しい姿で通り過ぎる。廃墟は少しずつ、闇に沈み始める。元首都高一号線のライトだけが夜空にかかる天の川のように、一筋、緩やかに蛇行しながら地平線へと消えていく。
「面白いか」
確かめるようにシャッターを押しながら、拓巳が言った。
「何が?」
「此処にくるの、初めてなんだろ」
「何でそう思うの?」
「見かけるの初めてだから」
そして拓巳は、俺は毎日来てる、と言った。そして再びシャッター音が鳴った。
「写真を撮りに?」
「ああ。定点観測だ」
拓巳がレンズを取り替える動作は素早く手馴れていた。新太は旧式カメラを触った事が無い。
「定点観測?」
「同じところから同じものを毎日毎日撮るんだよ。そうしたら徐々に変化していく様子がわかるだろ。一年、二年、五年、十年。毎日見てたらあまり変わらないように見えるがな、時間を凝縮させて見たら、色々変わってるんだよ」
「仕事でやってるのか?」
「まさか。趣味だ。――正しくは爺さんの趣味だったんだが、俺が引き継いだ」
拓巳は再びシャッターを切る。短い髪が風を受けて揺れている。定点という割には自由気ままにカメラを向けているように見えた。
「藤井んちどこ?」
「大崎の集落」
「ふーん?」
自分で聞いておきながら、地名を聞いてもピンと来ない。すると拓巳は「境界沿いを南だ」と短く言った。
「チャリで三十分くらいか。境界沿いをぶっとばせばもう少し近い。一応、東京エリアの線引きになってる。その先は……ほら、蝶野も言ってただろ。無法地帯だ」
「無法地帯……」
それが何なのか全く理解が出来ない。聞こうと思ったら、逆に質問を受けた。
「初めてみるG区はどうだ」
藤井は、カメラを下ろして言った。
「写真で見るのと大違いだろ」
「いや、そんなに違わない。――って言いたいんだが、大違いだな」
「怖いんだろ」
「いや、怖くはないけど」
「たまに――誰が連れてくるのかしらねえけど、観光半分の奴らがここから中見て、おおとかわおとかこわ~い言って写真撮ってるとさ、腹が立つんだわ。そんな義理ねえんだろうけど。無関係の人間からしたらそんなもんなのかーって」
拓巳は少し突き放したように言った。無関係の人間。外の人。今まで色んな転校先で、そんなことを言われてきた。どこ出身とも言えずに、転々として、帰属する場所が無くて。だから新太は、言った。
「無関係じゃないよ。俺、東京出身だし」
「どうせ震災後には逃げたクチだろ?」
「まぁ、そうだけどさ。出身ってことじゃ同じだろ」
「出て行くだけ恵まれてた人間と、残ってこの死んだ場所で死んだように生きてた俺らとじゃ、やっぱり違うだろ」
「違わないよ。いや、色々違うことはあるんだろうけど、それでも此処から見て何も思わないなんて出来ないよ――」
春先も、日が沈めば風はまだ少し冷える。新太はこぶしを握った。こんな所でこんな話、するつもりは無かったのに。
「だって、俺の母さんはこの中にいるんだし」
新太は宵闇が迫る東の空を指差して言った。この煤けた廃墟の何処かに、新太の母は居る。
――居た。でももう居ない。遺体は、髪の毛一本、爪一つ、残さずに燃えてしまったから。新太は胸元を引っ張って、細いチェーンを出した。指輪が一つぶら下がっている。
「これしか形見見つからなかったんだってさ。――ようやく、来れた」
廃墟はもう完全に闇に落ちていた。公園内は薄暗くあまり遠くない拓巳の顔すらもう良く見えない。
「そうか」
拓巳は短く言っただけだった。其処には同情も憐憫も無かったし、敵意も反発も無かった。
「だけどお前は何も知らないだろ」
拓巳は静かな声で言った。
「そして俺も多分何も知らねえんだ」
東の空に、赤い月が出ている。
影の町。世界最大のゴーストタウンが、目の前で闇に飲まれて行く。
「……そうなの?」
「ああ、そうだよ」
拓巳は諦めと、気楽さが混じった、深い息を吐いた。
「俺達は何も知らされてない。東京の大人は、あの頃のことを何も語らない。傷は塞がらないまま、途方に暮れちまうような大きさで横たわったままで、みんな口を噤んじまうんだ」
だから俺は何も知らない――と、拓巳は繰り返した。
「本当は何があったかも。G区に潜むものについても」
「……そっか」
新太が小さく頷くと、拓巳はそれ以上何も言わずに、ただ無言でシャッターを切り続けた。
どこか遠くで、ビルが鳴いているのが聞こえる。
◯
十二年前の十二月二十四日、町は三度鳴ったと言う。マグニチュード9.3、8.7、最後に8.9。三回の地震は、全て東京都市部――当時の区分けで言えば東京23区内の活断層を震源としていた。それがほんの四時間の間に立て続けに起こった。
『想定外』――学者たちの多くは後に、口を揃えてそう言った。この国が、幾度と無くその『想定外』の天災により壊滅的な被害を被ってきたことを、誰も忘れていたわけでは無かった筈なのに。またしても想定外の連動巨大地震は日本の首都を容赦なく破壊した。耐震にかけては世界一であった日本建築も三度のインパクトには耐えられなかった。一つ崩れると密集地帯でドミノが起きた。最初の地震で持ちこたえたビルが損傷を確認する前に訪れた2度、3度目の地震で崩れた。高速道路は落ち、高架線路とモノレールが落ち、地下鉄は一部がひしゃげ、潰れた。人口過密地区ではパニックが起こった。交通は麻痺し行き場所をなくした人が町に溢れかえった。
本当の地獄はそこからだった。そしてはるか江戸時代より何度もこの町を襲っていた最悪の災禍が始まる。乾燥した十二月の空気。夕方から夜にかけて多くの飲食店が火を使っていた。至る所で多発した火災は上空で繋がり――恐ろしい火災旋風の竜巻となった。町はあっという間に炎に包まれた。逃げる場所も、逃げ道も無い。人々はパニックの中、ぶつかり合い押し合い圧し合い、そして成すすべもなく燃えた。政府の中枢も官公庁の命令系統も全て一番被害の激しかった町の中心にあった。日本は一気に無政府状態に陥り、救助活動と名の付くものが機能し始めるのにも時間が掛かった。唯一、能動的に動けたのが本部機能を北海道に移転していた日本陸軍のみだった。
多くが死んだ。火が完全に治まるまでに七日掛かったという。延焼面積五百平方キロメートル。実に当時の東京の中心の85%が燃えた。東京の東部と西部の住宅地が広く焼け野が原と化した一方で、超高層ビルが乱立していた中心部は、建物が中途半端に、いつ崩れ落ちるかわからない危険な状態で残っていた。何層も張り巡らされていた巨大地下街は、一部が崩れ、一部が落ち、一部は燃え、一部が沈んだ。たくさんの人が閉じ込められ、瓦礫に埋まり、そしてそのまま朽ちたと言われている。その正しい数は、今も把握されていない。
臨時政府が機能を始めるまでに一月。そして半年後、日本の首都遷都が正式に決定した。
それは事実上、東京の復興を諦めたのと同義だった。山手線の線路を境界としてその内側は完全に封鎖された。中途半端に残った町の残骸も、ボロボロになった地下道も、壊れた研究所から漏出した汚染区域も、数多の生存が絶望視された行方不明者も、閉じ込めて。
ありとあらゆる企業は東京での活動継続を断念し、生き残った者たちのほとんどは失業した。どんなに残りたくても稼ぎ口が無ければ生きていくことはできない。元々、古くは出稼ぎ者が集まって出来た町である。皆、はるか昔の故郷を伝って、日本各地に散った。行く宛の無い人間は、多くが当時の第二次経済圏であった関西か、土地が広くある北海道へと移住した。
現在の日本の首都は札幌にある。官公庁と政治の中心地だ。学問の最高峰も此処にある。東京の惨劇を繰り返さぬように経済の中心地は分けられて、近畿地方に置かれている。
震災から十二年。日本という国は辛うじて復興したと言える。
しかし関東地方は完全に忘れ去られた僻地と化した。
それでも東京に残った人たちが少なからず居た。他に行く当てが無かった人間。先祖代々東京に住み、動くのを拒否した人間。そして災禍で身寄りを無くした孤児たちのうち、行政が取りこぼした子どもたち。
都はその一人だ。大崎の孤児を集めたケアハウスで育った。院長の女性は優しい人だったが何の援助も無い中で彼女も孤児たちと同様に無力だった。見捨てられ行政の目もメディアの目も何も届かなかった子どもたちに待っていたのは餓えと病気の地獄だった。
食べるものが無い。継続的な支援は受けられず、断続的に救援物資が届くくらいで、それも年を追うごとに少なくなっていく。寄付は一度で気が済むかもしれないが、生活とは生きていく限り続けていかなければいけない。仕方ないから草でも木の根でも食べる。薬が無いから抵抗力の無い子どもたちは簡単な感染症であっけなく死んでしまう。荒れた町では人攫いが横行し、神隠しなどという言葉では説明付かない人数の子どもたちが消えていった。都をはじめ幼子は恐怖に怯えて生きていた。
はじめと再会するまでの二年半、断片的であってもその記憶は惨憺たるものだ。あの状況で都が生き残ったのは運が良かっただけだ。はじめに見つけてもらったこともその一部だ。震災時、はじめは大学生だった。そして都と同様に、全ての身よりを無くしていた。都を発見した当時は宇都宮駐屯地に勤務する兵士で、たまたま移動中に通った孤児院のプレイグラウンドの端に都を見つけたのだ。後から知ったことだけど、当時5歳になっていた都は火災で死んだはじめの妹の幼い頃にそっくりだった。
その時のことは、おぼろげだけど覚えている。はじめて見る兵隊さんが、突然都を抱きしめて大泣きした。はじめがあんなに泣いた姿は、あれから一度も見ていない。息をするのも苦しいほどに抱きしめられて、意味がわからなかった都は純粋に恐怖した。声が出なかったほどだ。だけど、はじめから林檎を与えられて、その甘さに驚いて、この世にはこんなに美味しい食べ物があるのだと、感動して。それから数日後に、都ははじめに引き取られた。都は天涯孤独になったはじめの唯一生き残った血縁だった。そしてそれは都にとっても同じだ。
都は多くを望んでは居ない。切望していたものは手に入ったし、それ以上はどんなに望んでも決して戻らないことを知っている。ただ雨風を凌げる家があり、僅かでも腹を満たす温かい食べ物があり、信頼できる手がそばにあるのであれば、それだけで十分だ。
東京はただでさえ亡霊のような町だ。其処で生きているのもまた皆亡霊だ。亡霊が何を望むというのだろう。広大な廃墟の側で生きていると人はそうなるのだと、どこぞのお偉い学者が言っているのを聞いたことがある。廃墟鬱(ゴーストタウンディプレッション)という病もあるらしい。
都は東京を出たいとも、ここから逃げたいと思ったことも無い。一方、東京に愛着も無ければ、此処をどうにかしたいと思う情熱も無い。故郷だと、考えたことも無い。
東京は死んだ町。都はただ、まだ死んでいないだけだ。だから毎日毎日高い所から低い所へ水が流れるように生活を重ねる以外、何も求めない。明るい未来は必要無い。明日すらどうなるのかわからないのに。そんなものは夢想するだけ無駄なのだ。かつてそれがぎゅっとつまった場所は、たった一週間で全てが燃えてしまった。たくさんの夢とか希望とか、そんな儚いものと一緒に。
猫を拾って半月が経った。
はじめとはすれ違いが多い生活の中で、常に話し相手がいるのは新しい経験だ。
「ジジ、どこ?」
都が呼びかけると、カーテンの裏から黒猫がひょっこりと顔を出した。
「おかえり、みやこ」
「ただいま、遅くなってごめんね。鳥ササミ買ってきたよ」
「嬉しい、ありがとう。お疲れさま」
ジジはそう言って都の足元に体を摺り寄せた。滑らかな温もりに撫でられ、ほのかな幸福感がこみ上げる。
「すぐに準備するからね」
「僕も何かお手伝いする?」
「大丈夫。いつもみたいに、ニュースを読んで」
「わかった」
都が制服から着替えて、夕食の準備をする間、黒猫は配信ニュースの中から、自分が気になったものを、気ままに読み上げる。ジジは漢字も読めるし、英単語も中学生レベルのものであれば読み上げることができた。都がササミを蒸して、ご飯を炊いて、味噌汁を作っている間に、ジジは札幌で開催された世界猫会議のニュースと、北関東で止まっている再開発計画がまだもめているというニュース、弘前の桜が咲き始めたニュースなどを、小さな男の子のような声でゆっくりと読み上げた。
「桜、東京でも見たよね」
「そうだね。ジジを拾った時、ちょうど散り始めくらいの時期だったね」
「雪みたいで綺麗だったよ」
「ジジ、雪も見たことあるの?」
東京ではあまり雪は降らない。大昔は年一度くらい降ることもあったらしいが、都が物心がついてから、積もるような雪が降ったことはなかった。黒猫は、目を丸くして、黙った。考え込む時に良く見る顔だった。そして猫は「たぶん」と小さな声で言った。
「……ごめん」
「何でみやこが謝るの?」
「いや、記憶が戻らないのに……聞いちゃうの、申し訳ないかなって思って」
黒猫は棚の上から床にすとんと下りて、再び都の足にすりすりと体をこすりつけた。
「みやこ、謝らないで。僕は、大丈夫だよ」
「でも、つらい気持ちにさせたら……」
「つらくないよ。みやこがいるから。みやこに見つけてもらえて、良かった」
ジジはそう言って、愛らしい声で小さく甘えるように鳴いた。都は猫を抱き上げ、小さく抱きしめる。そして、都こそがそう思っているということを、どう言ったらこの子に正しく伝えられるかを考えるのだった。
ジジが人の言葉を発して会話をする相手は都だけだった。はじめや蝶野の前では、普通の猫のフリをしている。ジジはそのことについて何も言わなかったけれど、これは秘密なのだと、都は理解した。ジジは都にだけ正体を現した。少しだけ、いや、とても嬉しかった。
都には、これまで友だちと呼べる友だちは、一人もいなかった。孤児院で一緒だった子どもたちは一抜けた都をよく思っておらず、もう誰とも連絡が取れない。
中学は通信制で受けていたので、誰かと知り合う機会も無かった。
この集落には年の近い子はいない。そもそも子どもがほとんどいない。震災後にはほとんどの家族が関東外へと出てしまった。残っているのは、移動する気力も場所も無い年寄りや独り者、そして、はじめのように軍で働く関係者だけだ。
はじめは優しいけれど、変則的な勤務形態で、家にいないことが多い。
都はいつも一人だった。それが当たり前のこと過ぎて、寂しいと思ったことは無かった。
だけど、だから。今は学校から帰ってくるのが楽しみで仕方が無い。いつだって、早く帰りたい。ジジに会いたい。
「今日は何か発見した?」
夕食を食べながら、聞いた。思い出した? と聞くのは、プレッシャーを与える気がしたので、言葉を変えることにしている。思い出してほしくないという気持ちも少しだけあった。この美しい黒猫が、都の元を去ってしまう気がしたからだ。
「今日はずっと、震災前のことを考えていた」
「震災前?」
「あの塔を見たら、思い出したんだ」
塔というのは、このアパートの窓から見える巨大な電波塔だ。かつては日本一の高さを誇ったらしいその塔は、不気味に傾いたまま、そこに残されている。あまりに大きすぎて、この部屋からは天辺までは見えない。
「震災の時は、生まれてたの?」
「生まれていた。まだ子どもだったと思う」
震災は十二年前だ。もしその時ジジが生きていたのであれば、今は大人ということになる。人間の年に換算したら、都の年齢を超える。現代の猫の寿命は三、四〇歳だというから、十二年前に子どもだったのであればおじいさんと言う程ではないと思うけど。
「ジジはどこで、生まれたの?」
黒猫は肩を落として――わからない、と小さな声で言った。大人びて見えたと思ったら、まるで子どものように震える。都は慌てて黒猫を抱き上げる。猫は甘えるように都の腕の中で身体の力を抜いた。温かいその小さな身体を優しく抱きしめる。
「僕はあの塔を見たことがある。青く光っていて、とても綺麗だった」
「今は光らないよ、全然。目印にはなるけど大きすぎて少し怖いな」
「僕は高いところにいた。とても高いところ。そこから、町を見ていた。空が青くて、そして寒かったな。ねえ、都。それはあの煤けた町の中なのかな」
煤けた町。閉鎖区域――東京G区の中。高い建物であればきっとそうだ。
「ジジを拾った場所の近くかな」
あの日の夕方にあそこで止まった時は結局何もわからなかった。あの周辺には高い建物が点在している。G区内は高い建物だらけだから、ジジの記憶にあるそこが実際はどれなのかはわからない。
「都は震災の前の記憶はある?」
「無いよ。まだ小さすぎたから」
震災以前の姿の東京のことは、詳しく知らない。
ただ巨大科学都市東京がどのような場所であったのか。この町に残った大人は口にしない。まるでタブーのように何も言わない。聞いたら彼らの傷を開くのかもしれない、とも思う。だから、今自分が住んでいるこの死に損ないの町と、かつての世界的な都市としての東京が、地続きであるという実感はない。
「私たちが何も知らないのは――大人のせいなのかな」
都はぽつりと呟いた。知りたいと思う反面、知ってはいけない、とも思う。
ジジは違う。繋がった一つの歴史として、この町に生きる少年少女が知らない何かを、この黒猫は知っている。
それは少しだけ、都を不安にさせる。
「デザートはいちごだよ。その後、また宿題手伝ってね」
ジジは猫のように小さく鳴き、それから優しく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます