第2話 植民地主義から見る新世界より
「新世界より」とは,千年後の日本を舞台としたSF小説およびアニメである.原作は貴志祐介であり,サイエンス・ファンタジーに分類される.貴志祐介は「悪の教典」など,サイコホラー小説家としても有名である.アニメ版は2013年に放送された. 2011年3月11日に東日本大震災があり,ちょうど「魔法少女まどかマギカ」が放送されていた.時期的に東日本大震災が発生した後に制作が行われている.
「新世界より」では,千年前の世界で超能力を定量化した学者により,人口の1%以下程度の比率で人類は超能力(呪力)を獲得した.超能力を使える人間はわずかであるが,一部の超能力者が無差別殺人に利用し,世界が超能力者対一般人間という構図になり世界大戦へと発展した.世界は超能力者が勝利し,以降の世界において超能力者が「人間」へと置き換わった.
千年後の日本では封建的な王朝制度が続いたが,「非人間」によって王朝が滅ぼされた.この教訓をもとに,人間は自らの遺伝子を操作し,人間が人間を超能力で攻撃すれば死に至らしめる苦痛を与える「愧死機構」を備えさせた.一方で,愧死機構は超能力者側の諸問題,例えば悪鬼(愧死機構が働かず,目に見える人間を殺すと快楽の得られる病気)や業魔(呪力が常に漏れて周囲に著しい遺伝子改変や地形操作などの問題を起こす病気)が発生すると人間側で対処できず,野放しになる問題も孕んだ.この問題を解決するため,業魔を自死させるために不浄猫(呪力を暴走した人間を殺すために飼われている猫)を使役したり,近隣のバケネズミに殺処分を依頼したり,外的な環境によって悪鬼や業魔の発生をコントロールしていた.
「新世界より」の舞台となる神栖66町は,人口三千人程度の小規模な人間のコロニーを形成している.日本の人口約5%を担う集落である.既に日本では貨幣制度が崩壊し,互助による助け合いで社会が維持されている.また,霞ヶ浦から流れる利根川の水資源を活用し,水路と呪力を利用した船による移動が中心となっている.法執行機関として教育委員会と倫理委員会が存在し,教育委員会では第二次性徴期の子供の教育を行いつつ,悪鬼の発生を未然に防ぐ役割があり,倫理委員会ではあらゆる方針を定める内閣に等しい権限が与えられている.事実上のペレストロイカ体制であり,ソヴィエト連邦は疑心暗鬼による粛清に次ぐ粛清によって内部崩壊を起こした.人間は進化する過程においてボノボ型の社会(適度な身体接触によりストレス緩和を図る社会集団)を形成することで,理性的な判断を獲得した.これによりペレストロイカ体制であっても崩壊は免れた.
物語は早希が12歳から26歳までの成長の中で起こる変革を描いている.12歳のときに人類が現在の人間へと置き換わった過程とバケネズミの交流を描き,14歳のときに仲間との別れを描き,26歳で人間の社会体制の変革が描かれる.呪力を持った人間は科学をほぼ必要としなくなった.科学はその仕組さえわからなければ魔法と呼ばれるように,呪力も魔法そのものであった.呪力によってあらゆる魔法が使えるのであれば科学はもはや不要に等しい.それを暗示するかのように,ドヴォルザークの「家路」が随所で流されている.「家路」は子供たちの帰宅を促す仕組みであり,著者の小学校時代でも流れていた.神栖66町は「家路」をアナログレコードで放送している.その際の電力は利根川水流を利用した水力発電に頼っている.人間は大規模な工事を呪力だけで行えるため,樹木の抜根や舗装,加工,建築など,すべて人間の手だけでできる.呪力で誰でも想像した通りにモノを加工できる.そのような便利な社会を描いているが,実際の運用は悪鬼と業魔の発生を極力防ぐために神経すり減らしている.早希が体験した変革も,悪鬼と業魔の二つの存在が大きい.
物語の最も見どころは終盤である.いわゆる「新世界より」はSFであるが,「ひぐらしのなく頃に」のように設定を推理してその先の展開を予想するようなミステリ的な展開となっている.12歳のときに助けたスクォーラは,シオヤアブ・コロニーの総統となり,ボクトウガ・コロニーを媒介としてオオスズメバチ・コロニーと戦争し,勝利する.しかし,その戦争は人間を抹殺するために仕掛ける口実を正当化するための戦争でもあった.スクォーラは14歳のときに生き別れになった守と真理亜の子供を育てることで,バケネズミの先鋒として神栖66町を破壊した.子供をバケネズミとして育てることで,愧死機構を人間に対して発動させないようにしたが,逆に早希の機転により奇狼丸を子供に殺させることで,愧死機構を発動させて絶命させる.シオヤアブ・コロニーは様々な奇襲作戦で神栖66町に壊滅的な被害を与えたが,守と真理亜の子供が絶命したことでシオヤアブ・コロニーの敗戦は確定となる.後に人民裁判にかけられ,スクォーラは自らを「文明と知性を持つ人間」であると宣言するが,人間はその弁明を一笑に付して呪力により無限の苦痛が判決される.物語の最後で早希はスクォーラを開放するが,もっと早くわかりあえたらと後悔する.早希は覚と一緒に不浄猫(あくまで悪鬼や業魔になりそうな子供を間引くための処刑装置)を飼育する農場を経営するところで終わる.
「新世界より」のテーマはポストコロニアル(ポスト植民地主義,略してポスコロ)である.大航海時代,イギリスやフランス,オランダなどは大規模な植民地政策を掲げて各地を侵略していた.現代になって様々な人種が入り乱れるようになったが,植民地政策によって奴隷売買や侵略さえされなければ,元にいた地域に土着していたはずである.ポストコロニアルでは,植民地政策の反省と批判により立ち上がった思想の一つである.既に母国ではなく入植先に定着しているのであれば,定着先での生活が優先である.かつて黒人が山ほど奴隷としてアメリカに流入していたが,アメリカでの黒人の地位は高くなく,同じ人間として扱われていなかった.これは敗戦国であるドイツもユダヤ人に対して同じことをしている.人間でないなら差別は当たり前,という考え方に対して,ポストコロニアルは「人間は人種に関わらず平等である」という思想である.「新世界より」では,人間によってバケネズミが管理されていた.バケネズミは高度な知性を持ち,コンクリートや鉄砲,それに対する竹束などを発明し,遺伝子改良によるバケネズミ自体を攻撃兵器として利用するなど,明らかに異常なほど文明を発達させている.これは,国立国会図書館を名乗る自走式の情報端末であるミノシロモドキを獲得したことで,その本来持ち合わせた知性を活かしてより武装を強化したに過ぎない.しかし,ミノシロモドキを活用して文明を発展させ,シオヤアブ・コロニーは真社会性生物であるはずなのに民主主義を導入している.そして物語の最後で,バケネズミの正体は呪力を持たない人類が生き残りを賭けてハダカデバネズミに人類のDNAを刻み込んだことが明かされる.つまるところ,バケネズミも実は人間だったのである.
ポストコロニアルで扱うのはまさしく肌の黒い動物の正体が,実は人間だった,という気づきである.同じ人間であるのに,バケネズミは常に人間に滅ぼされる恐怖感を持っていた.スクォーラも奇狼丸も,表面的には服従しているように見せかけているが,実際には人間との関わりは極力持ちたくないと面従腹背の態度を示している.しかし,人間に逆らえばコロニー単位で虐殺される.人間は核爆弾一つに等しいだけの打撃力があり,そこに存在するはずの人的資源を根こそぎ奪うだけの権限が与えられていた.これは,アメリカに逆らえば直ちに核爆弾をまた落とされると怖がっているようなものである.実際にはそんなことはないが,アメリカの憲兵隊が日本各地に駐在していたら「逆らえば町ごと抹殺されるに違いない」と日本人は思い込むだろう.憲兵隊はいわば動く大使館だ.バケネズミも同じような恐怖を常に味わい続けたのである.それが物語終盤の人間対シオヤアブ・コロニーの戦争に繋がるのである.
そして「新世界より」が示す裏側のテーマは恐怖である.様々な生物が呪力による急激な進化を遂げたが,当然ながら弱肉強食は存在する.捕食されないため,あるいは捕食するために効率よく動物たちは進化する.例えば,物語序盤で登場するカヤノスヅクリは,托卵と同時に卵を捕食する爬虫類状の生物であるが,自分の卵を守るために自分の糞便で偽の卵を作り,卵が危険に晒されると内部に仕込まれた毒や刃が爆散して周囲に危害を及ぼす.また,風船犬も威嚇のために膨らむが,それ以上刺激すると爆散して周囲に手裏剣状の骨を撒き散らす.さながら,クラスター爆弾や手榴弾のような仕組みを取り入れた生物が跋扈しているのが「新世界より」の大きな特徴である.根源的に恐怖に支配されるような世界であれば,このような極端な進化もあり得なくはない.自分が助からないのであれば,相手も助からないと思え,と進化をしている生物は現実世界でもいくつも確認されている.カエンタケは触れれば皮膚炎を起こし,3グラムも食べれば致死する.微量でも造血機能障害や多臓器不全を起こす禍々しい形をしたキノコである.ヤドクガエルも警告色を備えつつバトラコトキシンという神経毒を分泌することで,舐めただけで即死させるほどの気合が入っている.ヒトもある意味で恐怖を克服するために進化した生物である.脳を大きくして知性を備え,指先が器用になっただけであるが,その効果は絶大であり,無防備であれば猫より弱いとも言われるが,少なくとも知性と道具を組み合わせることで生態系の頂点に立った.呪力もその一つである.人間による迫害を克服するために徹底的に旧人類を抹殺した.
人間の攻撃性はすなわち恐怖である.独ソ不可侵条約をソ連側が破ったのも,大粛清も,すべては恐怖が為したことである.人間をいかに賢く,便利な社会にしようとも,恐怖があればシオヤアブ・コロニーのように誤解によって攻撃する.恐怖は主観的なものであるため,その恐怖が内在化している限り,人間は無尽蔵に攻撃性を撒き散らす.これは先の大戦からも明らかである.恐怖を克服できるかと言えば,ボノボ型の社会集団を形成するしかない.しかし,それでも業魔や悪鬼を大人たちが恐れたように,目に見えない形で恐怖を克服するための知性を人間は持っている.弱肉強食の社会の中で恐怖を感じなくなったら,それは社会の形が他者を攻撃することで安定を得ているに過ぎないという教訓が得られる.
物語評論集 ごるごし @nanashi4129
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