第18話

 鼠木戸をくぐったその先は、まるで世界が違っていた。廊下を進むたび色々とすれ違うのだが、その匂いと色と音はどれも志乃が初めて感じるものばかりだ。

 廊下を走る大道具方が両手で抱える馬の頭は、これまで何人もの大部屋役者たちが頭を突っ込んできたのか、近づく前から顔中にしわがよるほどに汗臭い。今すれ違った男が右手に持っていた伊達だてひように結われたかつらは、水浴びをしたばかりのからすぬれ色。左手の振袖はそう鹿がの絞りのうすやなぎ。廊下の隅に座り、首をひねりながらべんがらべんと慣らしていたはやかたしやせんは、まだ志乃の耳奥で鳴り響いている。志乃の鼻も目も耳も皆総出で立ち働いて、体はかっかと燃えていた。

 小屋の中身に戸惑っている間に、足はもう三階のだんばしを登り切っていた。左右に暖簾のれんを下げた部屋が並び、真ん中には幅広の廊下が一本ずいいと延びている。廊下の板の上には、華やかな着物を身につけた者たちが大勢だ。ぴたと動きを止めて、こちらに視線をしている。その中から一人、志乃たちの前に出てきた男の着物はひときわ色目があでやかで、帯にあしらわれている蟹は、はて、どこかで見たことのある紅唐色。

「おいおい、また来ちまったのかい」

 男はため息を吐きながら、「しかも芝居の稽古中によお」その長い指で鬢を搔く。

「女は芝居小屋に入っちゃならねえ。何度言ったらわかってくれんだよ」

 なあ、おとみ。男にそう呼びかけられて、

「それが小屋のことわりだからってんだろ」

 乗り込み女はふんと鼻息を荒くする。

「あんたは芝居のきたりだの、小屋の理だのをすぐに己の盾につかうけれどね。あたしにとっては、そんなの知ったこっちゃあないんだよ」

 お富とよばれた女のこんな言い草に男はゆっくりと足を進める。差し向かう二人の背中と腹には同じ紅唐色の蟹がっている。

「知ったこっちゃないって、お前は俺っちの、大芝居の役者の女房だろうが。ちいとはそれに相応ふさわしい立ち居振る舞いをしてもらわねえとさ」

 言いながら、己の帯をきゅっとしごく立ち様には、華がある。華は華でも大輪で、

「そんでもって、お前の旦那、はつ寿じゆろうは名題なんだぜ」

 志乃は一人得心した。

 名題ってのは、一等位が上の役者でしてね、給金だって千両を取るお人だっていらっしゃる。そこにいるだけで、ぱあっと目を引くもんでさあ、とはこのことか。名題ともなれば、贔屓ひいきへのお付き合いも立派な仕事。

「贔屓に芝居茶屋に呼ばれて、奥方の手を握りしめることなんてざらにあらぁ」

「その手を尻に回す必要がどこにあるってんだい」

「おいおい、その話はみつまめ尽くしで手を打ったろ」

「打ってやったのさ。なのに、二ト月もしねえうちに別の女の手を、泥が爪の間に入り込むまで揉み込んでやがる!」

「だから、泥の女はお前の勘違いだと、今朝方もそう言ったじゃねえか」

めるんじゃないよ!」

 お富はそう言い捨てて、後ろで縮こまっていた志乃の肩に勢いよく手を回した。そのままぐいと背中を押され、志乃は寿太郎と呼ばれた男の前に引き立てられる。

「お前の密通女をこうして連れてきてやったんだ。素直に白状しやがれ!」

 お富の夫と顔を合わせるが、もちろん志乃に見覚えはない。こんな顔なら、一度会ったらぶたに焼き付いているはずだ。目やら鼻やら顔の品々は形が良いから、眉が下がるだけでその困惑振りがよく分かる。

「おい、お富。誰だい、このお人は」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おんなの女房 蝉谷めぐ実/小説 野性時代 @yasei-jidai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ