さよならの明星
真花
さよならの明星
夕陽が真っ赤に世界を照らす、私はその下で赤い光と黒い影を順々に通りながら、時折立ち竦む。涙が止まらないよ。ハンカチはとっくにびしょびしょ、ティッシュも切れた、掌で拭う。鼻水だって出るし、嗚咽が途切れない、道行く人は誰もが一瞬私の顔を見るけど声を掛けては来ない。あの人たちが何を考えるのか想像するだけ無駄、すぐに私のことなんて忘れる。でも私にはこの涙は忘れられないものになる、きっとそうなる、忘れてなるものか。赤い空、立ち尽くす、流れる涙、私は捨てられた。
禁じられた恋だとは最初から分かっていた。分かっていても気持ちを止めなかった。君が私の手を取ったとき、冗談とか、遊びとか、そう言うことばかりを考える自分が嫌だった。でも君は真剣だった。私と同じだけ真剣だった。だからぶつかって弾けた。……なのに。
「私たちの五年間は何だったの?」
脇を歩いていた黒猫が身構える。でも続きを待つみたいにそこにいる。
「育んで来たんじゃなかったの?」
涙の勢いが増す、世界が赤いこととそこに黒い染みがあることしか見えない。でもそれくらいピントが合わない方が、心が見えるような気もする。
「いきなり」
君は私とをやめた。私が縋っても君がもう真剣じゃない。死んだ心は生き返らない。それが分かってしまったから、今私はこんな場所に一人で立っている。立っていられない。しゃがんで、胸のうろを抱き締めるように膝を抱える、この涙はいったい何を流しているのだろう。君への気持ちなら流れ切ることはないよ。でもきっと涙はいずれ終わる。だから違う何かを流しているんだ。それは体の一部を引き剥がした痛み。あるべきものがなくなった哀しみ。描いていた未来が失われた苦しみ。バカみたい。なくなったもののために言葉を探すなんて。昨日までの私が君のために紡いだ言葉と、今の私が君のせいで編む言葉は反対を向いている。君は言い訳をしなかった。その瞳に嘘はなかった。そのくせに泣いていた。
猫が小さく鳴く。私は目をぎゅっとして涙を押しやって、その声の主と目を合わせる。猫はもう一度鳴いた。
「泣いても何も変わらないのにね」
言ったら、涙が、す、と止まる。黒猫はくっきりと姿を現す。カバンの中にくるみパン、私はそれを出して千切って、猫の前に投げた。猫は前足で確かめた後に食べた。もう一切れ。食べる。さらに。食べる。がっつくから魅力的に見えて、私も千切って自分の口に入れた。いつもよりしょっぱくて、それが美味しい。猫と私で半々にくるみパンを食べ終える、猫が、短く鳴く。
「もうないよ。おしまい」
分かったのか、プイと向こうに行った。私もくるみパン以上のものを自分に、黒猫のように貪欲に入れないといけない、そうしないと生きて行けない、このままじゃ心が餓死ししてしまう。
顔を上げる。空は赤い。影がさっきよりも伸びて私はその中にいつの間にか収まっていた。どうやってこの影を出ればいい? 君が隣にいたなら絶対、私の手を引いてくれた。「ほら、行くよ」子供に言うみたいに。でもその手は二度と私の手を握らない。右手を空に差し出してみる。君の幻影すら現れない、しばらく待ってみて、手が出っ張った分、胸の空っぽを強調されて、引っ込める。その拍子に涙がまた出た。
君は来てくれない。
この影から抜け出せない。
君の名前をもう呼んではいけない気がする。愛を込めていた、その逆の呪詛になってしまう。私は君が苦しんで欲しいなんて思わない。私のぐずぐずと釣り合いを取れなんて言わない。強がりじゃないよ、知っているから、君が私以上にぼろぼろになっていること。だってそんな顔をしていた。君のことなら分かるから。宇宙中に私以上に君を理解している人はいない。だから「さよなら」の重さから逃れられない。だからここでうずくまっている。電車の走る音が微かに聞こえる。道行く人が奇妙な置き物を盗み見るように私を見ていく。黒猫は帰って来ない。私の涙は再び枯れた。
……自分の足でここを発てるだろうか。上から下まで自分をスキャンするように確認する。空っぽか、ぐちゃぐちゃしかない。無理だ。一人ではずっとここにうずくまっていることになる。でもそれでもいいのかも知れない。君のいない世界で私は何を命に生きればいいの? 想像したくもない日々が待っている。それだったらここで人生を終えてもいいんじゃないか。ゆっくりと死んでゆく、君のことだけを想って。
「終わり」
呟いた音が耳に残る。オワリ。往来の人の動きが少しだけゆっくりになる。赤が黒に溶けようとしている。私も同じ、真っ黒になったら。ああ、でも、アケミにだけはさよならを伝えないと。電話を取り出して、手は震えてない、掛ける。呼び出し音を聞きながら、暗くなる街にもっとアノニマスになる人々を見守る。
「ヘロー」
「あ、アケミ。あのね、私、もう終わりだから、その連絡」
「終わりって、何?」
「終わりは終わりだよ。今日このまま私は死ぬのです」
「何があったの? 軽々に死ぬとか言わないでよ」
彼との恋は彼女に秘密だった。言えば叱責されるだけじゃなく、彼女まで離れてしまうんじゃないか、私の恋の苦しさはそこでも倍増していた。でももう終わったなら許してくれる、いや、私が終わるなら、彼女が私を見捨てるより前に終止符は打たれる。
「私、不倫してたの」
「多分そうだと思ってたよ。それで?」
バレてたのか。でも今更どっちでも構わない。
「フラれた。全てを賭けて愛してたのに、スッパリ捨てられた」
「それで、『終わり』って言ってるの?」
「そうだよ。私はここで街角で闇に消えるんだ」
「バカじゃないの」
「バカ?」
「だってそうじゃない。その恋がどんだけ重かろうと、大切だろうと、なくなったのはなくなったで、だから死ぬとかあり得ない」
「世界が終わるんだよ?」
「終わらないよ。終わったのは恋愛関係だけ。……親友として言わせて貰うけど、そんなくらいのことで死ぬんじゃ絶交だからね。今どこ? 続きは会って話そう」
私が自分の場所を伝えると、絶対に動くなと釘を刺され、彼女はまっすぐここに向かうと言って電話を切った。
「バカ?」
体育座りになって、街を覗く。恋愛関係だけが終わった、でもそれが私にとっては世界の全てだった。不倫は咎められなかった。死ぬことを止められた、彼女は私との関係性の全部を投じて止めようとした。自殺するつもりはないよ。このままここで朽ちる、上手く行けば化石になれる。そういう消極的な「終わる」だよ。でもそれもダメだって言われた。生きろって聞こえた。電車が走っている。もう車窓から漏れる光が見える。その中には幾つもの影、その影の分だけ失恋もあるのかも知れない。道行く人にもそれぞれに悲しい恋があるのかも知れない。だけど、私には勝らない。私だけが一人、奈落の淵を越えて底に落ちている。君が手を離したから落ちたんだよ。なのに恨めない。今だって大好きだ。大好きだから泣くんだ。空から赤の成分が全て消えた。駅前のロータリーの近くから男性の歌声が始まった。下手くそ。でも今の私にはちょうどいい。恋だって下手くそでいい。器用に帳尻を合わせる生き方は嫌いだ。歌の歌詞は聞き取れないけど、その声に乗っている訴えが伝わって来る。そこにも、「生きろ」って意味を感じる。下手くそなのに、アケミと同じことを言うから、涙がまた出て来た。音を追いながら頭を膝に
「キッコ、見付けた」
顔を上げれば、アケミが息を切らしている。彼女はスーツ姿なのに私の隣に、地面に座った。
「情けない顔して。でもそれでいいから」
「もう全部終わりでいい」
「全部終わりでいい、って思うくらいに、辛いってことでしょ」
「ここで化石になるの」
「化石になりたいくらい、しんどい、ってことでしょ」
「だって、いきなり彼が、終わりにしようって言うんだよ? 五年も付き合って来て、訳が分からない」
「でもキッコはそれを受け入れたんでしょ?」
「彼は真っ直ぐだから。この恋はもうダメなんだって、思わされた」
「本当に受け入れたの?」
「受け入れた。そうする以外になかった。なかったんだけど……」
鼻水をずびぃと啜る。彼女が私の背中をさする。掌の感触が柔らかくて温かい。さすられるのがポンプになったみたいに涙がどんどん出る。
「本当は受け入れたくないんだよね?」
私は頷く。頷いてみて、私が泣いている理由がやっと分かった。
「別れたくなかった」
「でももう別れた」
「あの彼が覆ることはないよ」
「理不尽だね、気持ちのすれ違いは」
「だから、受け入れるしかない。……そしたら、私は死ねばいい」
背中をさする勢いのまま後頭部を叩かれる、首がカクンと前に折れる。
「死んだら絶交だから」
「死んでるのに?」
「そうよ。だから絶対に死んじゃダメだから。私が嫌だから」
「アケミも理不尽だ」
「何だっていいよ。まだ私たち未来がたんまりあるんだよ。最高を更新する男が現れる可能性は十分にある」
「ないよ。彼以上はいない」
「それはまだ分からない。可能性は常にあるの。十八歳のときのキッコは大恋愛をしていた、そうでしょ?」
「そうだけど」
「でも別れた。で、今の彼に出会っている。ほら、最高は更新されてるでしょ」
それはそうだけど。私は言い返せなくて、唇をすぼめる。アケミが私の顔を覗き込んで、ニカっと笑う。
「私の理不尽も受け入れられそうだね」
「でも悲しいのは悲しいんだよ」
「そうだろうね。そればっかりは時間に任せるしかないよ」
「それまで死ななければいい、ってことだよね?」
彼女がパチクリする。
「急に物分かりがよくなった」
「でもそうでしょ?」
「生きることは可能性だよ。いいことがある保証も悪いことがある理由もない。でも、死んじゃったら何も起きない」
私は大きく息を吐く。吐いた息が街を踊って、その色を塗り替えるみたいに。
「アケミを失いたくない。それが理由でもいいのかな」
「もちろん、いいよ。生きな」
私たちは黙って、黒の中に光の窓が並ぶ街並みを眺めた。誰が誰だか分からない往来、まだ歌い続ける声、涙はいつの間にか止まっていて、空に明星を見付けた。私は初めて彼女の方を向く。
「何かバカみたい」
「バカみたいなことに命懸けてるんだよ。いいじゃない、それで」
私はくっと笑いが顔から飛び出そうとするのを堪える。
「そうだね。命懸けだから、泣くし、笑う」
彼女は大きく微笑む。私の肩を抱く。
「おかえり。キッコ」
「ただいま。アケミ」
私たちはもう少し笑い合ってから、久しぶりに立ち上がって、ご飯食べに行こうか、そうする、街の明かりに向かって歩き出した。途中で歌を歌っている彼の前を通ったとき、私は百円玉をその前にある缶に放りながら、生きる力を貰ったよ、ありがとう、と伝えた。彼は何かを言おうとしたけれど、会釈して、その場を離れた。駅舎では人工の光が私たちの姿を映し出すから、少ししかめっ面をして通り過ぎる。私は何だがお腹が空いて、アケミにそう言うと、生きようとするサインだね、と笑った。確かに、私も一緒に笑う。私たちは夜の街に消える、涙と気持ちといきさつを吐き出して、食事とアケミを入れたら、帰って来る。
(了)
さよならの明星 真花 @kawapsyc
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