第6話

 豪雨の夜から一転して、文覚の暮らす庵に爽やかな朝が訪れていた。嬉々とした鳥の囀りが聞こえている。この伊豆も含めた関東は、華やかな京の都に比べれば素朴で牧歌的な世界であり、都周辺に棲む権力者たちが繰り広げる陰謀や抗争とは一見すると無縁な印象を受ける。ところが水面下の実態はもっと複雑怪奇であった。辺りの自然の風景がいかに美しくとも、そこにはどこか不穏な空気が漂う。そしてそれは巨大な権威や権力を有しておらずとも、暴力で決着をつけることに躊躇しない人々が跋扈しているからだ。


「この心に武器はもう無い。つまり手から武器を捨て、心からも武器を捨てた」

 

 文覚は昨夜の黒天狗の言葉を思い出した。この伊豆はおろか、この国のどこにも黒天狗のような人間は存在しないであろう。文覚とて出家して僧になったとはいえ、手から武器を捨てていたとしても、心からも武器を捨てたと仏に誓って嘘偽りなく言い切れるであろうか。

 

 この日、文覚の庵には客人が一人訪れていた。佐殿と呼ばれる流人の源頼朝である。涼しい顔をして毎度はっきりしない話をする若者だが、別れ際に文覚は黒天狗の問いかけをふと思い出し、瞬き一つせず暫し緑の林を凝視した。源頼朝の華奢な後ろ姿がゆっくりと小さくなっていき、その林の中へ吸い込まれつつある。


「一つ聞いてもいいかな。あんたが雷に打たれて死にたくなった理由だ。本当に罪悪感だけなのか?」

 

 心を落ち着けて答えを探している文覚は、まだ濃い緑色の林を視界の中心に据えていた。すると急に源頼朝がこちらを振り返った。その瞬間、文覚は磁力に引っ張られるようにして天を仰ぎ、林の残像が空で赤く燃え上がる炎のような色に染まったのを見た。

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黒天狗 大葉奈 京庫 @ohhana

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