どうせ生まれてきたのなら
間川 レイ
第1話
1.
「どうせ、生まれてきたんだったらさ」
そんなことをあの子が言い出したのは、あの子と私が高校の授業を終え、帰り道にあった時のこと。
「何か、この世に何か傷跡を残したいと思わない?」
私たちのいた証明、と言っていいかも。
そう続ける彼女に、私は「また何か読んだの?」と私はまぜっかえす。
彼女は時々、不思議なことを言い出す。そういう時は、大体何かを読んだ時だ。彼女は、時々、彼女の読んだ本の内容を解説してくれる時がある。頭の出来が違うのか、彼女の話す内容には理解できないところも所々あったけれど、それでも私は彼女と話すのは結構好きだった。他の人と違って、私をおかしな子と扱わなかったから。対等の人間として、扱ってくれたから。
それに、私の知らない世界のことについて、いろいろ教えてくれるのも好きだった。自然について。科学について。歴史について。社会について。その大量の知識は、いったいどこからやってくるのだろう?やっぱり、あの膨大な読書量からだろうか。いつだって彼女は教室の片隅で本を読んでいた。誰にも話しかけることなく。誰からも、話しかけられることなく。
彼女はそれでいいと思っているようだった。彼女は孤高だった。彼女は自分自身を磨き上げるかのように知識を読み集め、そして私だけに教えてくれていた。彼女は私の先生だった。私だけの先生だった。私はそんな彼女が結構、好きだった。いつか、私も、彼女みたいになれるのかな。そんなことを考えていると、彼女はゆっくりと首を振った。
「違うよ。」
と。
「私はずっと前から思っているよ。どうせ生まれてきたのなら、何かしら私の生きた証が欲しいって。」
そういう彼女の目は、いつものように落ち着いてはいたけれど。一方で鋭く輝いていて。ああ、彼女は本気で言ってるんだ。私は気づいた。普段のような、問題提起としての問いかけではない。彼女は本気で、そう言ってるんだ。心がゾクゾク震える心地がした。だから私も真面目に返す。
「だったらさ、何か物を書いてみるのはどうかな。小説でも、随筆でも何でもいい。私たちは100年も生きられるかは知らないけど、文章なら、100年、200年残るかもしれないよ」
「そうかもね」
彼女は穏やかに返す。でもね、彼女は首を振る。それだけじゃ足りないの。そう、囁くように言う彼女。
その瞳の奥には、強い光が宿っている。すべてを焼き尽くすような、それでいて、ほの暗い光が。
彼女は続ける。確かに文章なら、100年、200年残るかもしれない。でもそれはあくまで、読んだ人の心の中にだけ。それだけじゃ、全く足りない。そう、首を振る彼女。初めて見るようなそんな彼女の様子に、思わず私の喉がゴクリとなった。
「私はね。」
彼女は囁くような声で続ける。私は、『私』がいたという証明をしたい。『私』がいたという何かしらの証を残したい。人の心なんて、曖昧なものではなく。そういう彼女の目は、燃えていた。轟々と、チリチリと。すべてを飲み込むような、暗闇を伴って。
彼女は言う。私は、もっと鮮烈に。強烈に。この世の誰もが『私』という人間を忘れることができないぐらい、この世に『私』という人間を刻み込みたいの。そう言って笑った。
そういう彼女の目は、鋭く、鋭利で。その瞳の奥は、黒々と揺らめいていた。いつだって彼女からは黒々としたものを感じていたけれど、今日に限ってはその比ではないぐらい。彼女は間違いなく本気だった。本気で、自分自身を刻み込みたがっていた。暗い情念を伴って。それだけに不思議だった。
なぜ、彼女はそれほどまでに、自分が自分であることにこだわるのだろう。今までにそんな素振り、大して見せてこなかったのに。それに、どうせ人間は死んだら終わりなのに。私たちの人生になんて、意味があるわけないのに。そう思った。
だから聞いた。死んだら終わりのこの無意味な人生、あなたはいったい何にこだわっているの?と。
「違うよ。」
彼女は力強く首を振った。
「違う、違う、違う。人生は無意味なんかじゃない」
彼女は重ねて否定する。それだけは認められないというように。何が違うのかと私は問うた。彼女は私の目をしっかりと見据えて言った。
「それに死んだら終わりなんかでもない。生まれて死んでなんて、猿にだってできる。死んだら終わり、人生に意味なんてありませんだなんて、あんまりにも惨めじゃない」
私は猿なんかじゃない。人間よ。それに私はいつだって思っているわ。人生に意味はある。いや、なければならないって。そう、微笑んで言う彼女は、なぜだか私にはとても眩しいものに見えて。
彼女は続ける。人間は他の動物と違って、語り継ぐことができる。記憶を残すことができる。私たちは、死んでも、誰かの中で生き続けることができる。それが人間たる所以だと。
「だからこそ、私は忘れられたくない」
彼女は言う。せっかく記憶できる人間に生まれたというのに。語り継ぐことのできる人間に生まれたというのに。私がかつて生きていたということを、ただ、誰からも忘れ去られて、ただの0と1の、かつて私という人間がいたという記録になるのはまっぴらごめんなのだと。
『私』は『私』だと記憶されたい。『私』という人間がいたことを、語り継がれたい。ただの記録としてではなく、生の記憶として。かつて『私』という人間がいたことを、刻み込んでやりたい。たとえ悪事であってでも。否、悪事であってこそ。そう、彼女はほの暗いものを漂わせながら、そう言い切った。
成程。私は頷く。分からない話ではなかった。確かに、人間は記憶することができる。語り継ぐことができる。歴史を編むことができる。
だからこそ、ただの何の味気もない「記録」に落ちぶれたくはないという彼女の思いは、恐怖は、わからなくもない。いや、正直、かなり理解できるし、少なからず感銘もうけた。
それだけに私は疑問だった。なぜ、彼女は悪事でこそ刻みたいというのか。彼女は優秀な人間だ。望めばより良い方法で、名誉をもってその名を残すことができるだろうに。これまでの付き合いから見ても分かる。彼女はきっと、それができる人材だ。それなのに何故、わざわざ悪逆によって名を刻もうとする。それだけが私にはわからなかった。だから私は問うた。一体なぜ、と。
彼女はしばし、考え込むように沈黙する。やがてポツリといった。微かにはにかむような、今にも泣きだすような、そんな不思議な表情を浮かべて。
「きっと、私は。この世界が嫌いだから」
その発言は、意外ではあったけれど。なぜだか、ああ、そうかと腑に落ちる部分もあった。だから彼女はあんなにも、孤高でいられたのか、と。
彼女は、少し遠くを見るような目をしていった。
「この世界はおかしいよ。」
誰も彼もが、日が沈めば再び日は登ると、今日寝ても『明日』は当然また来ると思っているこの世界。この世界はいかれてるよ。そう、吐き捨てるように言う彼女。
ぺろりと見せつけるように制服の上をめくる。見えた白いお腹は、無数の青あざでおおわれている。私は思わずひゅっと息を吸い込む。
そんな私にお構いなしに彼女は続ける。
「この世界は隣人が善人であることを当然の前提として回ってるんだ。」
本当はそうじゃないことなんて、ちょっと調べれば、考える頭を持っていればわかることなのに。そんな事実に気づこうともしない。だってそんな事実、気づきたくないから。知りたくもないから。
「伊藤計劃は『人間は見たいものしか見ないようにできている』と書いたけど、本当にそう」
そんな、奇妙に湿った声に、私は何も答えられない。
「この世界はね、皆が皆同じであることを前提に動いている。そこから外れた人間は、押しつぶされるしか道はないの。」
私は黙っている。
だって私にも、思い当たる節はあったから。思い当たる節しか、なかったから。黙り込んだ私にはお構いなしに彼女は続ける。
「私にはそれが気に食わない。」
そう、吐き捨てるように言う彼女。彼女の瞳の奥の炎は、すでに暗く静かに、それでも轟々と燃えていた。
彼女は言う。誰もが同じ価値観を共有しているという誤解に基づいた社会。それはとても歪。それは時に、多大な苦痛を大衆に与える。この世界の多くの人間がその歪さに悲鳴を上げているのに、誰もその歪さを直視しようとしない。だってその歪さは、歪でないことになっているから。それを歪だと認めてしまえば、自らもその歪さに押しつぶされることになるから。
「この世界は終わってるんだよ」
彼女は泣きはらした目で私に言った。そうだね。私は内心頷く。
「私はね、こんな歪な世界、ぶち壊してやりたい。みんなが当たり前だと信じているものを、それは当たり前なんかじゃないと証明してやりたい」
「借りものみたいな言葉だけどさ。」
そう言って懐を撫でる彼女。そこは文庫本のような形に膨らんでいる。
「でも、この気持ちだけは本物だよ」
そう言って、キッと私を見つめる彼女。そこにはこの世に対する圧倒的な憎悪と、それでも、私は、私だけはこの思いを理解してくれるはずだという縋るような光。
気づけば私は、彼女を抱きしめていた。あなたは独りぼっちなんかじゃないという思いを込めて、何度も何度も優しくその背中を撫でる。おずおずと私の背中に手が回されるのが堪らなく愛おしい。
だってそれは、あまりにも私が思っていたことだったから。この世界は当たり前に縛られすぎている。誰もが常識という名の枷に雁字搦めにされている。
そして、その「当たり前」の枠から外れた人間に、居場所なんてないのだ。だって、私がそうだったから。私はみんなの考える当たり前から、半歩逸脱した。それだけで私はすべての居場所を失った。彼女だってそう。私も彼女も、押しつぶされた側の人間だ。
世界には私たちのように、押しつぶされた人間は大勢いる。その誰もが口々に悲鳴を上げている。なのに誰も、それをおかしいという人間はいない。だってその構図こそが、「当たり前」なのだから。そこをおかしいと認めれば、自らも押しつぶされる側になるから。押しつぶされる側が、どれほど恐ろしいものか、わかっているから。
「当たり前」とは常に変動するものだ。いつ何時、自分がその「当たり前」の枠から逸脱するかわかったものじゃないのに。そしてそのことを理解しながら、誰もがその「当たり前」の枠を受け入れている。今だけは、その枠から逸脱しないように。
この世界はとても窮屈だ。誰もが悲鳴を上げている。この世界は限界を迎えようとしている。その証拠に、多くの若者が、子供たちが自ら命を絶っている。なのに誰もその現実を認めようとしていない。リセットスイッチのついてない、いかれたゲーム。それがこの世界の正体。
わたしはもう、うんざりだった。皆が当たり前だと思っているこの世界、ぶち壊してしまえれば、どれほど愉快だろうか。
でも、そのための方法がない。私は無力だった。私は泣いた。こんなにもこの世界が憎いのに、為すすべがないなんて。悔しくて悔しくて、私は泣いた。
そんな時、私に抱きしめられたままの彼女が、私の耳元でそっと囁いた。
「もし、この状況をひっくり返せる方法があるとしたら。」
そう、いたずらっ子のように目を細めて微笑んで。彼女は言った。
「どうする?」
と。
「やるよ。」
私は一も二もなく頷いた。迷う余地なんて、どこにもなかった。
「よかった。」
そう言って安心したように微笑む彼女のまつげは涙でつややかに濡れていて。ふと、綺麗だな、と思った。
2.
それから三日後。私たちは学校指定のスクールバックにたくさんの荷物を詰め込んで、渋谷に来ていた。
荷物の正体はパイプ型爆弾。かつてこの国の世論が二分されたとき、過激派が抗争のために使ったような代物だ。一本で何十人もを一度に死傷させることのできるような代物。それを数十本単位で私たちは作り上げてこの場に持ち込んでいた。
作っているとき、彼女が皮肉気に微笑んで言っていたことをよく覚えている。
「これは歪みの象徴なの」
この世界は誰もが善人であることを期待していて、また善人であるように様々な規制を施している。
なのに、少しネットや本で調べれば、消火のかなり難しい火炎瓶や、もっと破壊力のある爆弾まで作り出すことができる。それこそ、そこら辺のホームセンターで簡単に手に入れることのできるような材料で。そんな不安定な状況の上にこの世界は成り立っているのに、誰もそんな現実を見ようともしない。
「だから私たちは教えてあげるの。」
この盤石に見えるこの世界、本当はそんなものじゃないんだよって。そう笑って言った彼女。私はぎゅっとそれを握り締める。ひんやり、すべすべとした、その凶器を。
私たちは、この大量のパイプ型爆弾を渋谷のど真ん中で破裂させるつもりだ。それに合わせて各種SNSに私たちの犯行声明が流れるようにしてある。
どうして私たちがこんなことをしたのか。どれほどこの世界が苦しくて欺瞞に満ちたものであるか、十分に説明したつもりだ。ついでに今回使ったパイプ型爆弾の作り方も載せてある。
私たちはひょっとしたら、狂っているのかもしれないな。そんなことをぼんやりと考える。きっと多くの人が死ぬだろう。それよりもっと多くの人々が、傷つき悲しむことになる。だけど狂っていようが、これが私たちにとっての現実だ。私たちにとって、この世界はあまりにも息苦しすぎるから。だから私たちはすべての罪を背負ってでも、この爆弾を爆発させる。
きっと私たちは恨まれる。世紀の狂人として、歴史に名前を残すことになる。無敵の人と、言われるかもしれない。きっと私たちの思いは、正しく受け取ってもらえないだろう。だがそれでもよかった。
声を挙げなければ、私たちがどう思っているかなんて誰にも分らないのだから。
この行動は、世界に対する私たちからの一つの解なのだ。私たちはこの世界にこんなにも苦しんでいます、という。そしてメッセージでもある。どうか、この世界を見つめなおしてみてください、という。
それにきっと、これは後に続く人たちの道しるべにもなる。世界が苦しいのなら、こうやって声を挙げればいいんだよ。と。苦しんでいる人は私だけじゃないのだと。そうした人たちが続いてくれれば、この世界もきっと、変わらざるを得ないから。その時にはきっと添付した資料が役に立ってくれるだろう。
だからもう、私たちに思い残すことなんてない。私たちは満足だった。私たちの生きた証は、思いは、間違いなく残る。誰もが私たちを語り継ぐ、覚えておいていてくれる。私たちは記録なんかじゃない。生きた人間なんだと、証明できる。
そう、私たちに思い残すことなんてない。だから、彼女の目元を伝う涙を拭ってあげる。彼女が私の目元を拭い返してくれる。
私たちは手を繋ぐ。暖かい、命の温もり。そう言えば、誰かと手を繋ぐのは初めてかもしれない。
「人の手って暖かいんだね。知らなかった。」
彼女は言った。そうだね。私は頷く。手を握ってくれる人なんて、誰もいなかったから。頭を撫でてくれる人だって。それでもいい。この汗でぬるぬると濡れる、この掌の感覚こそが、私たちの絆の証なのだから。
だから。私たちは大きく息を吐いて、吸う。最後にギュッと彼女の手のひらを握る。温かい鼓動を感じる。
そして私たちは、雑踏のど真ん中で顔を見合わせる。泣いているような、笑っているような奇妙な顔で。
やがて私たちは、ゆっくりとそのスイッチを押しこんだ。
どうせ生まれてきたのなら 間川 レイ @tsuyomasu0418
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