第13話 湖の恵みを失えば、クロライナは滅ぶしかない。

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湖の恵みを失えば、クロライナは滅ぶしかない。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)



エピローグ



 カラブランが牛の角に刺し殺された直後、ビドロは湖の異変に気付いた。何かが変わった。ほんの僅かではあるが、水が活力を取り戻したような感じを受ける。もしかしたらこれから水位が元に戻っていくのではないか、という期待を抱くことができた。


 ビドロのその感覚は錯覚ではなかったことが後日証明された。牛を連れてビドロがクロライナの街に戻った時には、湖水が少し上昇しているということが全住民が承知して、心が浮き立っていた。


 人伝に聞いたところによると、飛雁姫が湖に入ったことによって、この効果がもたらされたらしい。結局飛雁姫が生贄になってしまったのか。と、一瞬落胆したビドロだったが、勘違いはすぐに訂正された。湖に入水した飛雁姫は、数日後に王の屋敷の自室で目覚めて、国王や屋敷の護衛兵たちを驚かせた。


 それから、月が満ちて欠けてまた同じくらいの月齢くらいになった頃、孔雀湖の水は本来の水位に戻った。住民たちは欣喜雀躍し、飛雁姫の功績を褒め讃えた。


 湖水の復活という大きな出来事があったため、ビドロが生贄の牛を連れて帰っても誰にも文句の一つも言われなかった。ビドロとしては、飛雁姫が生贄として殺されるのを無事に阻止することができて常々負い目だった十年前の借りを返せたし、湖の水位も元に戻って、自分の牛が犠牲になることもなかった。クロライナの街から窃盗行為を繰り返していたカラブランを倒すこともできた。ビドロの功績が誰かに称賛されるようなことは無かったため達成感こそ乏しいが、それでもそれなりの自己満足は得ることができていた。


 湖の水が復活して湖岸が元の位置に戻ったことにより、水を運ぶビドロの仕事は楽になった。その分、水運びの仕事で貰える報酬も少なくなるのだが、空いた時間を別の仕事で埋めれば良いので、特に困ることは無かった。湖の水位が戻ったのは飛雁姫の功績らしいということは程なく噂で聞いた。曰く「飛雁姫が湖底の岩の扉の前で舞を披露すると、扉が開いてそこから水が出てきて元の水位になった」とか、曰く「姫には天の意志が降臨憑依して、奇跡の力を発揮して、本来は雲から降る雨を湖の底から湧くようにした」だのといった、あれやこれやの荒唐無稽な事態解決の顛末を耳にした。ビドロに判断できるのは、姫が真実を語っておらず何か理由があって黙しているのだろうということだけだった。


 その後。


 悠久の時が流れた。


 飛雁姫が愛し守ろうとしたクロライナ王国がどうなったかを、知る者はいない。ただ、クロライナという名前だけは残った。


 長い年月が流れ、白龍堆砂漠はタクラマカン砂漠と呼ばれるようになった。クロライナ王国がかつてあった故地、つまり豊富な水の恵みをもたらしてくれる湖の西岸付近に、都市国家が築かれ、東西交易路の中継地点として栄えた。中国の正史である『史記』や『漢書』には「楼蘭」という名で記されている。クロライナ、を音訳したものである。


 その都市国家楼蘭も、やがて衰退して滅び、流砂の彼方に消えた。


 そこから更に長い長い時が過ぎた。


 西暦1980年に、楼蘭近郊の鉄板河遺跡にて一体の女性のミイラが発掘された。死亡時の年齢は40歳から45歳くらい。目が深く凛と高い鼻で、髪の色は金色がかった黄褐色だった。フェルトの帽子をかぶっており、そこには雁の羽根が二本挿されていた。独木舟の棺に収容されてこの地に埋葬されてから3800年ぶりに地上に姿を現したこのミイラは「楼蘭の美女」と呼ばれるようになった。


 飛雁姫が守ろうとした孔雀湖は、後にロプ・ノールという名前で知られるようになった。元は淡水湖だったものの、乾燥により次第に塩分が蓄積して鹹湖となり、更に時と共に乾燥化が進捗して、やがて湖そのものが消滅した。湖の水を司っていた主である巨大な鯉が、人間の営みに絶望し目を閉じてしまったのかもしれない。


 湖が消えて無くなっても、この地でひたむきに生きた人々の歴史は無くならない。「楼蘭の美女」のミイラは、3800年前の遠い過去にもこの地で確かに生きた人々がいたという事実を、悠久の時を渡ってきた無言の歴史の証人として雄弁に物語っている。クロライナ王国の牛飼いの老人ならば「流砂の上の足跡は風に吹き消されてしまうけれども、歴史という足跡は風が吹いても消してはならないものだ」と言うかもしれない。


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クロライナの飛雁 kanegon @1234aiueo

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