第12話 湖は魚に隠せ。
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湖は魚に隠せ。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)
ビドロと一緒にクロライナに帰還した飛雁姫は、兵士たちと合流して、その足で湖岸へ向かった。
儀式としては、牛を生贄に捧げることになったという。牛の飼い主であるビドロにとっては商売道具を失うことになるので大損害だろうが、人間が生贄になるよりは良いだろう。とにかく、減っていた湖の水が元に戻ってくれれば良い。
ところが、いざ儀式の場として人々が集まっている所に行ってみると、牛は連れて行ったものの、水が戻る気配は無い模様だ。人々も騒ぎ始めて不穏な雰囲気になりかけている。
飛雁姫は父王の居る壇に近づいた。儀式の効果が未だ出ずに、王の表情は渋かった。娘の帰還にもさほど喜色を浮かべなかった。
「父上、これは、儀式は失敗ということになりますよね」
王は返事をしなかった。娘からの問いとはいえ、失敗を認めてしまうのは諸々の不都合がある。
「この件、わたくしに任せていただけますでしょうか。考えがあるのです。わたくしが湖に入ります」
「待て。そなたが生贄になるにしても、占いをして天に是非を問うてから」
「違います、父上。わたくしは生贄になるために湖に入るのではありません。湖の主と会って交渉するためですから、占いは必要ありません」
王がまだ何か言って制止したが、飛雁姫は聞きもせず走って湖へ向かった。逆方向へ走って行くビドロとすれ違ったが、姫には姫のやるべきことがあるので気にせずに真っ直ぐ湖へ向かった。
集まっている人々は湖の本来の岸に沿って並んで立っている。姫はそこを突き抜けて湖底だった地を走った。遠浅なのでかなり長い距離を走って、ようやく現在の水際に到達する。ここまで来ると、岸に残っている人々とはかなりの距離が開いていて、今の薄暮の時間帯だと人相が判別できないほどだ。
飛雁姫は靴を脱いで裸足になり、湖水に爪先を軽くつけてみた。冷たさに少し身を震わせたが、気を取り直して着ている服を脱ぎ始める。下着も全て取り去って全裸になったが、髪に挿している二本の雁の羽根はそのままだ。ちらりと岸の方を振り返る。岸辺に並んでいる人々の姿は薄暗さと距離の遠さで誰が誰だか分からない。ということは、岸辺の人々からは、全裸の飛雁姫の姿もぼんやりとしか視認できないはずだ。少しだけ安心した姫は、もう一度表情を引き締めて、湖に向かって左の片膝を地について頭を垂れた。
「湖の主よ、今から会いに行きます。我が声に応えてください」
最初から期待などしていなかったが、返事など無い。
立ち上がった姫は、そのまま歩を進めて再び水に足を浸した。やはり冷たい。震えながら姫は両腕で自らの肩を抱いた。
「湖の主よ」
やはり呼びかけに応えは無い。落胆すると同時に、よくよく考えてみれば当たり前だ。湖の中に入らずに湖岸で呼びかけただけで声が届くのならば、湖の主の存在を知っていた誰かが飛雁姫以前にとっくに意思疎通を試みているはずだ。
意を決して、飛雁姫は湖の更に深みへと歩んだ。膝が水に浸かり、下腹部も水の中に隠れ、乳房も水の冷たさに震え、顎が浸り、口と鼻も水面下に消え、姫の全身が水中に潜った。最初は息を止めていたけれど、すぐに苦しくなって、薄暮だった目の前が真っ暗になって、姫は意識を失った。
どれくらいの時間、まどろんでいたのだろうか。
(死を望んではおらず怖れているが、死を厭わぬ者よ。飛雁姫よ)
己を呼ぶ声が聞こえ、ゆっくりと瞼を開けた。ここが日の光もほとんど届かない薄暗い水の中だということは分かる。しかし、湖底で水草がたゆたい、鮒と思われる小魚が泳いでいるのが見える以外には、自分に呼びかけるような存在は見当たらない。どう対応して良いのか分からず、助けを求めるように姫は右顧左眄する。
(我は、飛雁姫の心に直接語りかけているのだ。姿は見えぬ。いや、見えているが、それが我だとは分からないだろう)
「見えている、とは?」
思わず姫は問い返した。ここは水中だが、普通に声を発することができたし、息を吸い込んでも苦しくない。
(我は、そなたらの言葉に沿って言えば、湖の主である。そなたらの理解の容易なように姿を説明すれば、巨大な鯉のような見た目なのだ)
姫は周囲を見渡して鯉がどこにいるか探した。だが、目の届く範囲には居ないようだ。それなのに見えているとは、どういうことなのか。
(我は、そなたら矮小な人間よりも遥かに遥かに大きい存在なのだ。この湖は、我の左目なのだ。湖の水は、目の表面に浮かんでいる涙の膜のようなものだ。そなたら人間は、目の中に入り込んだ塵芥よりも更に小さい微少なものでしかない)
「ということは、もしかして、この湖底が、湖の主の眼球ということになるのでしょうか」
(その通りだ。なかなか聡明なようだな)
「孔雀湖の中に湖の主が居るのではなく、孔雀湖自体が湖の主の左目だった、ということですか」
姫はあまりの壮大な話に呆れて、大きくため息をついた。水の中であるにもかかわらず、地上と同様の呼吸ができるというのが、特殊な状況を物語る。
「だとすると、湖の水位が低下してきつつあるというのは、どういうことなのでしょうか。涙、なんですよね。全然塩辛くない水ですけど」
(我の涙が減って、人間はそこまで大騒ぎするのか。だが、仕方ないことだ。我の涙は涸れたのだ。ウクライナの民の航海から、もう随分と時間が経った)
「涙が涸れた? ……ウクライナの民の航海?」
飛雁姫は全裸の身の筋肉が悉く強張るのを自ら感じた。今、自分は孔雀湖の真実に近づきつつあるのだ。
(そうか。もう今の人間には伝わっておらず忘れられているのだな。元々、ウクライナという肥沃な黒土の地があり、その南東に巨大な湖があったのだ。その湖は我の躰よりも少し大きいくらいの大きさだ。つまり、我の左目だけが湖となっている現在よりも、遥かに巨大な湖があったのだ)
孔雀湖自体、ちっぽけな人間である飛雁姫から見れば砂漠の中の広大な恵の水だ。だがそれは巨大な鯉の片目の大きさでしかない。飛雁姫の想像力がどこまで膨らむかの限界との競争だった。
(ウクライナの民は、何が理由だったか我は忘れてしまったが、ウクライナに住み続けることができなくなり、新天地を目指して船に乗って湖に乗り出した。しかし、如何せん巨大な湖だ。進めども進めども新天地には到達できぬ。切羽詰まった時、船に乗っていた一人が、自ら生贄になることを申し出た。飛雁姫くらいの若い女だった)
本当に自ら志願したのだろうか。飛雁姫はその話の信憑性については疑問視した。周囲からの同調圧力で、自ら進み出なければならない状況だったのではないか。
(我はその女の自己犠牲精神を尊いと思って涙した。女の犠牲を受けて、我は女の願いを叶えた。元々湖の深くに住んでいた我は、水面に浮上して、自らの体が大地となった。そなたらの付けた名前で言えば白龍堆砂漠だ。三角鱗岩と人間が称しているのは、我の鱗の一枚一枚なのだ。そして先刻話した通り、我の左目が孔雀湖だ)
巨大な鯉が、白龍堆砂漠そのものだったとは。ビドロに聞いた話では、約束の地ウクライナから船でクロライナに辿り着いたという伝説はあったはずだが、真実とは似た線をなぞってはいたものの、完全に正しいことは既に忘れ去られていたのだ。今のクロライナ民では、誰も真実を知るまい。飛雁姫はじっと湖底を見つめた。巨大な鯉である湖の主と、これで目線を合わせていることになるのだろうか。
「つまり、孔雀湖の水位をなんとかしたかったら、湖の主であるあなたが涙を流せばいい、というわけですね」
(そういうことになるかな。時間が経てば自己犠牲精神に対する感動も薄れてしまうから、湖の水位は永遠ではない。だが、せいぜい数年や数十年くらいの短い期間ならば、少しの代償であっても心に響きさえすれば良い)
「代償。わたくしは、何を湖の主であるあなたに捧げれば良いのでしょうか」
姫は、あくまでも生贄ではなく交渉のために湖に入った。実際に湖の主に邂逅し、話し合いの場を持った。それでも水位を取り戻すためには何かの代償を支払わなければならないという流れになった。
「どの道、わたくしは民のために死んで身を捧げなければならない、ということですか」
(せっかく覚悟を決めているところを申し訳ないが、命というのは却下である。なぜならば、人間にとっては人間の命というのは最も重いものであることは承知しているが、我から見れば所詮は塵芥にも等しい些少な物でしかない。それに、人間の命というものは、人間にとって最も軽視できる代物でしかない。特に、自ら死を決めた者にとっては命を捨てるのはその瞬間だけのことだから、安い覚悟でできてしまうのだ)
「な、ならば、わたくしにどうせよというのでしょうか」
問いかける姫の声が水の中で年輪状に広がる。
(そういうことなら、姫の寿命にしようか。我にっては大した価値の無い物ではあるけれど、本人にとっては大事なもののはず。姫の寿命を20年分、受け取った)
「寿命20年分とは、どういう意味ですか」
(姫が本来生きることができたはずの年数よりも、20年早く死ぬ定めとなった、ということだ)
「そ、そんな。それって、もうそんなに長く生きられないということじゃないですか」
(だからこそ代償として意味があるのだ。いずれにせよ、そなたの自己犠牲精神は、しかと見せてもらった。数年から数十年くらいは孔雀湖の水位は安泰となるから安心するが良い。おそらく、そなたが死ぬまでは水位が減る心配は無いだろう)
「そ、そうですか」
全裸のまま、飛雁姫は脱力して、水草のように揺らいだ。クロライナの街を守るべき姫としての役割は、これで果たせたらしい。だが、永遠が約束されたわけではないので達成感がほとんど無い。その上、自らは寿命を20年分奪われてしまい短命が約束されてしまったのだ。このような意気消沈するような結末を見るくらいなら、生贄として潔く若い身で散った方が気持ちの面ではかえって楽だったかもしれない。
(話は終わりだ。飛雁姫よ、もうここに長居は無用なのでさっさと陸に戻るがいい。そなたにとっては、残された短い人生こそが、砂を吸い込んで歯で噛むような苦難の道程となるであろう。さらばだ)
元々薄暗かった孔雀湖の底だが、湖の主に終わりを告げられたところで、飛雁姫の目の前は再び真っ暗になった。眠るように意識を失い、時間の流れも認識できなくなった。
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