七月の報せ

小谷灰土

七月の報せ

 どういうわけか、赤いTシャツとは相性が悪くて、人通りの多い交差点で肩がぶつかるのはたいてい赤いTシャツだし、この前も電車の中で「電車賃がないから、小銭おくれ」とせびってきたジジイも、赤地に黄色の英字でカリフォルニアと書かれたTシャツを着ていた。電車賃がないなら、どうやって乗ってきたのだ。当然断ると、舌打ちをして去った。


 決定打はバイト先の店に、赤いユニフォームの中学生サッカーチームの団体が来た時だった。店内がたちまちどす黒い赤に染まった。忌まわしい赤シャツ連中は店内を騒がしく引っ掻き回したあと、いざ食事を注文する段になると、なかなか決まらず、決まったら決まったで、シェイクだけとかナゲットだけとか単品しか頼まない。あげくに飲み物を渡せば「ベビタッピやって」とくる。は? と口を大きく開けて聞き返すと「ノリわっる」と言って仲間内ではやし立てた。あとで調べてみてようやくベビタッピの意味を知ったが、店にはタピオカ商品なんてもともとないから、余計侮辱してやがると思った。


 自分に合わないバイトをやることも、嫌いなものを寄せつける原因になっているのかもしれない。結局マックのバイトは三週間しか続かなかった。

 

 賭けに負けたので、俺は清美さんに一万円を払った。一ヶ月続いたら俺が一万円もらえるはずだった。札のありがたみを感じさせてやろうと一万円をわざと千円札にして渡したが、清美さんは意に介さず満足そうに受け取り、おまけに「期待通りのクズだったね」というお言葉までもらった。この一万円も、もともとは親の金だった。


 清美さんは、下宿先の大家の出戻り娘だった。アパートの一階が大家の住居になっていて、一日中家にいるのか、よく顔を合わせた。いつもお酒を飲んでいた。アパート自体が変な造りになっていて、下宿人が外を出る時、通路の脇から大家の居間の掃き出し窓が向かい合って見える。その窓が季節問わず開いていることが多くて、嫌でも大家の家族と顔を突き合わせることになった。


 清美さんとも最初は会釈だけして通り過ぎていたのが、だんだん話をするようになり、話をすればするほど、彼女の口はどんどん悪くなっていった。最初「きみ」だったのが、「おい」「てめえ」になり、最終的に「クズ」になった。飲んだくれにクズ呼ばわりされたくはないが、自分は自分で親の金でパチンコ行ったり、ソシャゲやったり、tinderにはまったりしているので、呼ばれても仕方ないところはあった。マックのバイトを始めたのも、クズには自分で自分の金も稼げないだろうと馬鹿にされたからだ。


「敗因があるんですよ。それさえなきゃいけてた」

「なに、敗因って」


「赤いTシャツです。もともと俺赤いTシャツと相性良くなくて」

「たしかに赤は私もないな。自分で着るのも勇気がいるし」


 もっと馬鹿にされるかと思っていたので、事前に用意していた赤シャツに関するエピソードも霧消して、俺は口をつぐんだ。清美さんは缶ビールを片手に、居間のテレビを見ている。


「子供にはピンクばっか着せてたけど」

「女の子ですか」

「男の子だよ」


 清美さんのお子さんは、旦那の親族が育てているらしい。


「清美さんは働かないんですか」

「生意気なこと聞くなよ、ガキのくせに。私はあんたと違ってもう十分働いたの」

「いつでも復帰できるんでしょ。なんでしないんすか」

「めんどくさいんだよ。行きたくないんだよ」

「まあ大変そうな仕事ですけどね、教師って」

「教師だからっていうより、女だからとか、バツイチだからとかのほうが面倒くさいよ。男にはわからんだろうけど」

「難しいですねえ」

「あんたは赤シャツとの相性が良くないとか呑気に言ってるけど、私なんて周り全員が赤シャツみたいなもんだからね」

「それはいやだな」

「でしょ?だからあんたはクズだって言ってんの」

「なるほど」


 そこまで言われたら俺だって負けてられないから、間髪入れずに次の仕事先を探した。間髪入れないと無精心が生じてしまうという恐れもあった。だが、自分が働きたいと思ったら、逆に作用するのが世の常というもので、受ける面接はことごとく弾かれるばかりだった。これでは一ヶ月どころか、スタートラインにさえ立てない。採用の連絡が一週間経っても来ないから部屋でふて寝していると、大家さんの住居のほうから清美さんの泣き叫ぶ声が聞こえて飛び上がった。両親とけんかしているのか、夜になると食器の割れる音や怒声が聞こえたりすることもたまにあった。


 弾かれるならもういいやと諦めかけていた時に、同じクズ仲間の幸島から死体運びのバイトをやらないかという誘いがあった。何とも物騒な仕事だと思ったが、聞いてみるとなかなか割りが良さそうなので、ためしに行ってみることにした。養護施設の安置所や病院などから死体を運ぶのが主な業務なのだが、始めは葬儀屋の事務所で待機し、連絡が来たら現場に向かうということで、連絡が来ない日もあるのだそうだ。それでも待機時間の時給は発生し、運送業務があると一体につき五千円上乗せされる仕組みになっていた。幸島自身まだ働き始めて三ヶ月程らしいが、ベテランのパートナーが退職したため、俺に連絡をくれた。運転免許のない俺は、幸島の隣に座ってるだけでいいから楽だった。


「マックから死体運搬人って、おまえも幅広いな」


 寝台車を運転しながら、幸島はくっくっと笑った。寝台車といっても銀色のバンで、見た目には普通の乗用車と変わりがなかった。


「陰と陽、両方の世界を股にかけてるみたいだよ」

「でもどっちも同じじゃね?結局は」

「なんで」

「どっちにしろ人間の所業に変わりはないからな」

「まあそうか」


 初仕事は病院の運送だった。遺族が死体と顔合わせをし、厳粛な空気のなか、ストレッチャーにそれを載せる。遺体の独特な硬さは、昔父がオーストラリアの土産で買ってきたコアラのぬいぐるみを思い出させた。実際の硬さというより、ぬいぐるみなのに硬いというその意外性に、共通するものを感じた。重さは言うまでもなく、コアラより遥かに重い。遺体は着衣が簡易な浴衣を着ていることが多いそうだが、ごくまれに生前に故人が愛用していた衣服を着せることもあるらしい。それにしても、ここに至って赤シャツである可能性はおそらくゼロに等しいだろうから、相性の問題に悩まされる心配はなさそうだった。


 初仕事を終え、俺は真っ先に清美さんのところへ行き、報告をした。清美さんは相も変わらず再放送の水戸黄門を見ながら、ビールを飲んでいた。


「今回は清美さんに勝てますよぜったい」

「クズがクズの仕事してたら世話はないよね」

「いやいや、誰かがやらないといけない仕事ですから。立派な仕事ですよ」

「ふん。まあいいけど」

「一ヶ月続いたら、一万円ですからね。忘れないでくださいよ」


 部屋に戻る足どりは、意気揚々としたものだった。働いているという実感がみるみる沸いてきて、何でもできそうな気がしてきた。万年床の布団を数年ぶりにたたんだり、埃まみれの掃除機を動かしてみる、なんてこともはじめてしまう始末だった。


 こんな有頂天な時こそ、かえって用心する必要があると気がつく頃には、幸福のターンはすでに終わっている。幸福な状態はいくらでも疑う心はあるのに、不幸になるとその不幸を疑うことすらしないのも、また真だろう。


 その日もいつものように事務所に待機して、連絡を待っていた。ここ二三日連絡が来ないから、枕飾りの備品の清掃を一時間ばかり手伝わされたあと、郊外の総合病院から連絡が入った。青梅街道を東に向けて走り、荻窪駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしていると、清美さんが目の前を横切って行った。清美さんはノースリーブの赤いワンピースを着ていた。本人はこちらに全く気がついていない。でも俺のほうでなぜか気まずくなって、目を逸らせてしまった。清美さんの晴れやかな素顔とは対照的に、俺は憎々しい嫌な気持ちを抱いた。


 病院では、病死した四歳児が遺族に囲まれて目を閉じていた。遺族は悲しみを乗り越えた先の、言い方は悪いが、すっきりとした表情で、淡々とこちらの作業に応じていた。父親らしき男性が毛布をとると、俺は心臓が止まるかと思った。その四歳児の男の子はピンク色のパジャマを身につけていた。


「かわいい色ですね」


 俺は思わず口を開いた。


「今はもう普通みたいですね。私なんか男の子がピンクなんてって思っちゃいますけど」


 今は普通という男性の言葉で、自分は安心した。単なる偶然にしても、意地の悪い偶然だと思った。



 数週間後、自分の部屋に戻ろうとするところを、清美さんに呼び止められた。


「最近無視するのなんでよ」

「べつに無視してないっすよ。なんか忙しくなってきて」


 清美さんはじっとこちらを見て、それから言った。


「実はこの前気になってて何も言わなかったんだけどさ、バイト先の葬儀屋って運送許可とってんの」

「いや、知らないす」

「車は普通の白ナンバーでしょ? なら違法だよ。気をつけなよ」


 居間のテレビでは、園児が送迎バスにひとり取り残され、熱中症で死亡したニュースがやっていた。


「実は私も、そろそろ仕事始めようかなと思ってるんだ」

「え、そうなんすか。おめでとうございます」

「今度一緒にご飯食べに行こうよ。おごったげる。でさ、お互い赤い服着るってのはどう?」

「なんでそんなことしなきゃいけないんですか」


 と言いながら、自分の顔がほころぶのがわかった。


「毒をもって毒を制す。乗り越えるためのおまじないだよ」



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