1:「社会の崩壊 ~Collapse~」



「おはよぅ、祐一くん」


 甘くかぐわしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 目の前にいる銀髪の美女の匂い。

 ミラさんか……。


 恐ろしくきめの細かい白い肌を大きく露出させたワンピース姿の美人がベッドに、というか僕に乗っかっていた。


 なんか柔らかいものが当たって――


 何が柔らかいのかを確認しようと、そちらに視線をちらりと向けた。丸みを帯びた白と、その頂点にある薄いピンク色の何かが見えてしまった。慌てて視線を逸らした僕の目の前で綺麗な顔がにこにこと笑っていた。


「お、おはようございます」

「おはよ。酷くうなされていたわぁ。怖い夢でも見たのかしらぁ?」

「……ええ、まあ。はい」


 曖昧に頷く僕の顎をミラさんの細い指が撫でてくる。

 くすぐったい。

 ミラさんはくすくすと笑いながら、重力を感じさせない動きでふわりとベッドから降りた。部屋のドアのところで振り返り、一言。


「朝ごはんの用意、できてるからねぇ」

「ありがとうございます」


 御礼を言って、ベッドから身体を起こす。

 部屋を見回しても目に入るのは馴染みのない家具と壁紙。どこの誰とも知れない他人の家――玄関に表札はあったけど覚えていない――だから当たり前だ。


 僕が眠っていたのも他人のベッド。

 持ち主はもういない。

 死んでいるか、あるいはゾンビになってるか。






 事の起こりは十日ほど前。

 発生源不明のウィルスが発生し、世界各地で爆発的な速度をもって蔓延した。感染者の症状は見た目にすごくわかりやすいものだった。片っ端から、いわゆるゾンビになったのだ。


 最初にニュースを見た時、新作映画かなにかのCMだろうか、と僕は思った。それくらい、現実離れてた状況が画面に映っていたのだ。


 はじめは、テレビやSNSで流れる海外の動画を他人事のように――B級映画かゲームのプレイ動画でも見るように――眺めていたものだったのだけど、島国であるこの国にもどこからかともなくウィルスは入ってきた。それが一週間前だ。


 後手後手の対策しか打てない政府を世論がボコボコに叩いているのを尻目にゾンビウィルスはあっという間に列島全体を覆った。


 国内で感染拡大がはじまった初日から二日目あたりは全国各地でハチの巣をつついたような騒ぎになった。

 少しでも人口の少ない地域へ向かおうとする車の列はすぐに高速道路は渋滞になった。身動きが取れない所にゾンビが殺到。無残なことになった。

 市街地では暴行や略奪が横行した。殺人もだ。最も大きく報じられた事件では「容疑者は『ゾンビを動けなくしただけだ』と供述しており……」とニュースキャスターは言っていた。


 そう。まだニュースをやっていた。テレビが見れた。けど三日目あたりから「試験電波発射中」とか砂嵐ばかりになり、四日目には平常運転でアニメを流し続ける某局もついに映らなくなってしまった。


 それと前後して警察や消防にも連絡がつかなくなり、ライフラインはまだ維持されているけど、いつ止まるか分かったものじゃない。電気・ガス・水道も管理しているのは人間だ。その人たちがゾンビになったり逃げ出したりすれば(逃げるなとはとても言えない)、当然いつかは止まってしまう。


 社会基盤は急速に崩壊へと向かっていた。






 まだ水の出る洗面台で顔を洗ってから広いLDKに行くと、立派なダイニングテーブルに朝食が並んでいた。ご飯とわかめの味噌汁。それからタマネギとトマトのサラダ。


「ちゃんとしたご飯だ……」


 僕の呟きを聞いてミラさんがくすくすと笑った。


「そんなことないわよぉ。ありあわせだから~」

「いえ。僕が食べてる朝御飯に比べたら全然ですよ」


 シリアルとか食パン(トーストすらしていない)しか食べてなかったもんなあ、僕。


「ところで、このトマトどうしたんですか?」

「ベランダにプランターが置いてあったの。家庭菜園っていうの? 助かるわぁ」

「なるほど」


 新鮮な野菜が食べられるとは思わなかった。誰とも知れない家の人に感謝しつつ、僕は両手を合わせた。


「いただきます」

 

 僕が今こうして何事もなく朝食を摂っていられるのはたまたま。ただの偶然でしかない。


 二日前、コンビニに食糧調達に行きゾンビに囲まれて死にかけてところを通りがかったミラさんに助けられたのだ。以来、彼女と行動を共にしている。


「ミラさんは食べないんですか?」

「祐一くんが起きる前にいただいたわぁ~」


 ミラさんがにんまりと笑った。


「す、すみません。起きるのが遅くて」

「いいのよ。疲れてるんでしょ? 気にしないで。あ、おかわりもあるからね」

「ありがとうございます!」


 美人で優しいし料理も上手い。ミラさんに出逢えたのは不幸中の幸いだった。本当に。


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