【短編】今日の下校。――紫陽花の裏路地。

イノナかノかワズ

梅雨の下校。

 ふぅ。ようやく終わったか。

 俺は机に突っ伏すようにして身体を伸ばすと、鞄を手に取った。そして教室を出る前に軽く振り返り、後ろを見る。誰もいないことを確認すると、俺は安心して教室を出た。

 昇降口まで下りて靴を履き替えり、正門を通り抜ける。

 まだ雨足が強いから、今日も自転車は学校に置きっぱなしになるか。一週間くらい家に持ち帰れてないからな。いい加減母親が怒り出しそうだ。

 そんなことを考えながら、俺は肩幅程度の大きさの傘を広げ、同級生や先輩たちがたむろする校門へ足を進める。


 ああ、やっぱりこの感触はいいな。

 雨粒が傘に当たって弾ける音が心地いい。雨音をBGMにして足を進める。

 ……よし、今日は歩きで帰るか。バス停を通り過ぎながらそう思う。まぁ、歩きだと三十分くらいかかるんだけどな……

 駅近くの交差点に差し掛かったところで信号待ちをする。

 向かい側の歩道で小学生たちが楽しそうに笑い合いながら歩いている姿が見えた。そうか、今は小学生も下校時か。

 雨が続く日なのにそんなに元気にはしゃぐとは、やっぱり小学生は元気だなと、思いながら丁度信号が青になったので、横断歩道を渡り始める。

 ……あ、水たまりを踏んだ。ローファーの中に水が入ってしまった。俺はじめじめした感覚を嫌だなと思いながら、横断歩道を渡り終える。そしてまた少しだけ歩いた後、踏切が見えた。

 って、あ。遮断機が下り始めた。カンカンと頭に響く踏切警報音に若干辟易しながら、ここの踏切は一度下りると十分近く開かないため、走る。急ぐ。

 当然傘を持っているから、俺の走りは遅い。肩に掛けている学校指定の肩掛けカバンがグラングランと揺れて、さらに俺の走りは遅くなる。

 パチャンと水たまりを踏み、ローファーの中に水が入り、靴下が濡れる。ぐちょっという気色悪い感触に「いっ!」と思いっきり顔を顰める。

 そして、遮断機が完全に下りてしまったため、もっと顔を顰めた。

 ちっ! 回り道もねぇし、十分も待たなきゃいけねぇのか。スマホは今朝充電し忘れたため、すでに電池がない。それに昨晩、積んであったラノベをすべて読み切ってしまったため、今日はラノベを持ってきてなかったのだ。

 帰ったら、本屋に行こ。また、新人発掘でもしようっと。


 はぁ。

 俺は、急に走り出したためバクバクと鼓動を響かせる心臓に右手を抑えながら、左手に持つ傘から伝わる雨粒の振動に心をゆだねた。たぶん、こうすれば落ち着く。荒れた呼吸も心も。

 ……ふぅ。多少は落ち着いたか。

 さて、どうしようか。十分間も踏切の前で待たなきゃいけないんだよな。傘の内側だけに響く雫の合唱はとても素晴らしいが、それでも濡れた靴に冷たいズボンの裾。走ったせいで、傘を持つ左手には雨水がかかったし、少しだけ汗もかいている。

 不愉快極まりない。梅雨特有の肌に張り付く湿っぽさが、それをさらに加速させる。


「はぁ。めんどくせぇ」


 いまだ鳴り響く踏切警報音に嫌気がさす。一向に電車が来る気配はないのに、下りたままの遮断機にムカつく。効率が悪いだのなんだのと心の中で悪態を吐くが、結局現状は変わらない。むしろ悪態を吐いたせいで思考が悪い方向へと進んでしまい、より一層悪くなった。

 

「はぁ」


 何度目かのため息を吐く。ただ、下を向くのは飽きたため、上を向いてみた。上を向いて歩けば涙も零れないとか、よく親父が歌っていたのを思い出したのだ。

 確かに上を向けば涙は零れないが、傘に垂れる雨水が零れた。俺の額に一粒の雫が垂れて眉の間に入り、鼻筋を通る。俺は雫が入らなように目を瞑り、そしてそれを振り払うように顔を振った。

 少しよろめき、首が少し痛くなるくらいには振ったけど、顔を流れた雫の跡は決して拭えず、俺は閉じていた瞼を開けた。


「うん?」


 俺の視界の端に紫陽花が見えた。綺麗な紫色の紫陽花が見えた。青みが強いから、たぶん赤系の紫陽花で酸性の土壌なのだろう。そんなことを小学校の教師が自慢げに話していたはずだ。自慢することしか能がなかったくそ教師だったが、雑談話は面白かった。

 そんなことはいいや。それよりここに紫陽花なんて咲いてたか? いや、いつもこの道を通るときは自転車で走り去るからな。それに、梅雨になってから歩きでここを通ることはなかったからな。今日はたまたま、気分がよくて歩きで帰っているが。

 そんなことを考えながら、俺は遮断機が上がるまでの暇つぶしのためその紫陽花に近寄る。ポケットに入っているスマホを右手で触るが、電池がないことを思い出し、肩掛けカバンを握りしめる。写真は、明日とるか。明日も歩くか。

 ここにある紫陽花が綺麗だから、写真には収めたいと思い、紫陽花の前に立った。


「あれ、裏路地じゃん。へぇー、こんなところにあったのか。ってか、ここって私有地か?」


 そこには裏路地があった。


 人一人がぎりぎりその通れる裏路地は、紫陽花裏道と言っていいほどに赤や青、赤紫に青紫といった紫陽花が左右に添えられていた。

 今まで本当に気が付かなかったが、よくよく見るとその道の両端に立派なミカンの木が生えて、裏路地を覆い隠していた。今回はたまたま、不自然にミカンの木の隙間を縫うように紫陽花が咲いていたから気が付いたのだろう。

 ……にしても、やっぱりここって私有地っぽいんだよな。

 上品な石畳の地面に、手入れされているのが丸わかりの左右の紫陽花。俺の肩幅程度の傘がぎりぎり通れるくらいの狭さ。私有地って感じが半端ないんだが……看板がないから私有地ではないのだろう。

 たいてい私有地の道は、「ここから私有地。関係者以外立ち入り禁止」って書いてある少し錆び付いた看板が置いてあるし。うん。問題はないはずだ。

 自己弁護を重ねながら、俺は紫陽花裏道に足を踏み入れた。ぶっちゃけ、こんな裏道を知って引き返すなんてありえない。どうせ踏み切りが上がるまで時間がかかる。 裏路地は裏路地らしく、曲がり角が多くて、見える限りではどこまで続いているかわからないが、迷うことはないだろう。一本道って感じだし。

 それにここは学校付近だし、近くに線路もあるから万が一迷ったらそれを頼りにすればいい。

 ガバガバな論理を胸に、俺は二歩、三歩と足元にも生えている紫陽花を踏まないように注意しながら歩みを進める。


「お、カタツムリか。でんでんむしよ~」


 カタツムリを見つけ、少しだけ陽気な気分になる。

 思い出した歌を口ずさみ、少しだけ子供のような気分になる。


 パラン、パッパッ、パラン。

 甘雨のように雨が降り注いで雨粒が緑鮮やかな紫陽花の葉を打つ。小気味よい音が響く。


 パラ、しと。パラ、しと。

 紫陽花の葉や花に落ちた雨粒が跳ねて、それから雨だれのように地面に落ちる。


 コツ、パッ、チャ、コツコツ、パチャ。

 それに合わせて俺の靴が小さな水たまりを何度も何度も踏む。靴の中に入る水は気持ち悪いが、鳴り響く音はとても楽しい。


 パパパパッ、しとザーしとザーしとザー。

 傘が紫陽花に触れる。溜まっていた雫が弾け、緩急をつけながら地面を打つ。急の時だけ土砂降りに地面を叩いた。


「あたまだせ~」


 コツンクテン、コツンクテン、パチャパチャパチャ。

 軽やか足音、ふっふっふ~。

 クルクルクルリン、パパパラパッパッ。

 傘がクルクル雨粒を弾き飛ばす。飛んだ雫は紫陽花打つ。

 

 心の中でへたくそな歌を歌う。小さいころ好きだった見習い魔女の小説のように、擬音で歌を歌う。

 そうして何度も何度も曲がり角を曲がり、紫陽花に包まれながら道を進めた。踏切のことも帰宅途中だったのも本屋に行こうと思っていたことも忘れて、子供のように傘をもてあそびながら足を進める。

 咲き乱れる味さに目を奪われて、蛾のように先へ先へと進んでいく。夢中になっていた。

 スマホの電池がなくて写真が撮れないのが口惜しいが、一回目だ。そんな無粋な寄り道はなしに、めいっぱいの景色を楽しもう!


 俺は足を進めた。進め続けた。

 そして、曲がり角を曲がった瞬間。


「……すげぇ」


 思わず声が出てしまった。

 そこには、色とりどりの紫陽花の絨毯が広がっていた。紫陽花畑だ。こんな場所があったのかと思うほどに、一面紫陽花が咲き乱れていて、凛と咲き誇っていた。

 あまりの景色に心奪われる。

 雨が主役なのではない。雨を風靡とするように麗しく咲いている。天気すらも自分の美しさを飾る装飾品だと。

 綺麗だった。美しかった。

 そして、その美麗な世界に天使の梯子が下りた。

 いつの間にか雨は止んでいた。いまだ曇天は晴れていないが、けれど小さな光の筋が差し込んでいる。

 一面に広がる紫陽花たちが着飾った雨粒のドレスとネックレスはその光の筋に反射して曇天を笑った。


「……本当にきれいだ」


 雨上がりの紫陽花はとても綺麗だった。




 

 ……で、ここどこだろ?






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