第6話
病室で目覚めた時、加苅は自分の中からリハビリに向かう意思が無くなっていることに気が付いた。未来について考えること、歩けるようになることは再び、無味乾燥な寂寞の中に戻ってしまっていた。
加苅はベッド脇に置かれた紙袋から、一着の衣服を取り出した。丁寧に畳まれたそれは数日前、警察から返却された事故の遺留品だった。遺留品と言っても、残っていたのは事故の当日着ていたジャケット一枚だけで、紙袋から取り出した衣服がそれであった。
結婚したての頃、妻に買ってもらったジャケットは既に相当年季の入った物だったが、墜落時の衝撃はそれ以上に深い傷跡を節々に残していた。生地は擦れて破れ、所々に穴も開いている。袖口や裾は焦げ付き、右手の部分には誰かの血痕がべったりとこびり付いてあった。
無言で見つめるうち、加苅はボロボロになったそのジャケットが変え難い運命を突き付けてくるような錯覚に陥った。
やはり、あれは所詮夢。運命は決定づけられた一つの結果に向かって収束する。現実は変えられない。それは単純な諦めでもあり、深い絶望でもあった。
「戻ってきたやつ、っすか?」
太一が病室のドアを開けて立っていた。時計に目をやると既にリハビリの時間になっている。
「…………リハビリは、もうしないことにしました」
短く、無感情にそう言うと加苅はジャケットを畳んだ。太一はため息をつき、うなじをかいた。
「………それあいいっすけど、リハビリ室には来てもらわないとダメっすよ。そうじゃないと、俺タバコも吸いに行けないし」
「失敗したんです。娘を連れて帰るのを………もう時間もない、体力だって………」
言いながら、加苅はあの時と同じだと直感した。心を言葉に出来ない虚無感と猛烈な無力感が刺激する。拳に残ったあの殴打の感触は今やすっかり消え去っていた。
「………行ってみないと分からないんじゃないすか?」
そういう太一を一瞥し、加苅は微笑した。嘲りにも似た冷ややかな笑みであった。
「妻が死んだとき、自分はその場に立ち会えなかったんです」
危篤の知らせを受けた時、加苅は赴任先の外国にいた。もともと心臓の病で入院していたとは言え、予想外の事態に当時は激しく狼狽した。
ともかくも、緊急で帰国をするため空港へと急いだ彼を待っていたのは全便欠航の文字であった。
「台風が来てたんです………」
結局、飛行機は翌朝になって飛んだ。飛行機に乗っている間、始終彼は願った。なんとか、せめて自分が辿り着くまでは持っていてほしい。しかし、羽田に到着したと同時に加苅は妻が亡くなっという知らせを受けた。
「………何をやってもダメな時があるんですよ。運命にはあらがえない。全ては何もかも終わったんです。娘も、妻も、もう戻っては来ない」
「でも、飛行機には乗ったんすよね」
加苅はジャケットの裾を強く握りしめ、歯を食いしばった。胸の中にあの願うような気持で飛行機の着陸を待ち続けた数時間の思いが去来した。
「俺はよくわかんないすけど………同じ結果でも、やれるだけやった方が……なんかいいじゃないすか。後腐れないっていうか………」
返答の言葉は出なかった。ジャケットを握る彼の手が怒りで震えていた。しかし、その怒りが何に対する怒りなのか、加苅には分からなかった。
彼はジャケットを引っ掴み、乱暴に紙袋へ突っ込むことで意思表示をしようとした。しかし、2人の注意は持ち上がったジャケットの裾から転げ落ちた小さい塊に注がれることとなった。
指輪だった。妻の遺品の指輪。焦げ付いて、軽く変形していたが、それは確かに失くしたとばかり思いこんでいた妻の指輪であった。
慌ててジャケットを弄ると、どうやらポケット内に空いた穴から、裾の中へ滑り落ちていたらしかった。
ママも一緒に連れて行ってあげるんだよ―途端にそう言っていた娘のことが頭を過った。
失くしたのではなかった―束の間、喜びが心をかすめたが、やがてそれは得も言われぬ感情にかき消されてしまった。
指輪を握りしめると、手には煤がこびりついた。
「…………………辛いな………」
「………歩けるようになるコツは、歩いてた時の感覚を思い出すことっすよ。意識して、一歩ずつ歩けば、その内歩けるようになりますよ」
太一はそう言うと折りたたみの車椅子を広げ、座席のほこりを払って笑った。
太一の手を掴み、腰を上げると痛みが少しずつ体を下降して行った。いつもならば逃がす痛みを加苅はそのまま膝へと流し込んでやった。
それは飛行機の中で立ち上がる為の片道切符でもあった。
次の瞬間、加苅は機内で目覚めていた。心臓は激しく動悸し、口には妙な苦みがある。回転していた視界がほんの少しだけ、ねじれた映像となって僅かに静止していた。
肺につっかえる苦しさを飲み下すと、加苅はひじ掛けを掴んで立ち上がった。足元には浮遊感が漂っていたが、居心地の悪さは感じなかった。むしろ、体が軽くなったように心地がいい。
右足、左足と、吐き気と気怠さをこらえ、踏みしめるように前へと進んだ。娘のところへ辿り着こうとは考えなかった。
彼はただ前へ進む、歩くというその作業だけに集中した。どの筋肉が動き、どの神経が反応しているのか、敏感に察知し記憶し続けようと努めた。
加苅はリハビリ室でその感覚を辿った。いつもならば何の意識もしていない行動。しかしそこに数多無意識の微調整、采配が潜んでいることは恐るべきことでもあった。
夢ではない。加苅は改めてそう感じた。立ち上がった時の太ももの感覚。脛に伸し掛かる重力と張った筋肉。それは紛れもなく現実の感触だった。しかし、最早それも加苅にとっては取る足らない思考の雑音にしか過ぎなかった。今は前へ向かって歩く。その単純な行動に全神経、全体力を集中するだけ、それだけでいいのだ。
一歩足を踏み出し、体を前へ進める度、歯を喰いしばりたくなるような痛みが膝と脳天を突き刺す。それは次の一歩を阻む大きな障壁となった。しかし、加苅はそれでも前へ進み続けた。
歩みは蝸牛の速度だった。
「いいっすね。そうです、一歩ずつ、一歩ずつ………」
太一はその間ずっと手を握ってくれていた。硬く握りしめた彼の手に預けていた重心を、加苅は少しずつ自分の中へ浸透させていった。
やがて、太一の支えはいらなくなった。気が付くと加苅は彼の手を放していた。
加苅は歩いていた。よろめきも、ふらつきも律し、彼は確かに歩いていた。
一歩、一歩と先へ進む。また、一歩、また一歩と―
歩みはやがて、走りに変わった。酸素のことも不安もなかった。加苅は飛行機の廊下を走りながら、上着のポケットに手を入れ、指輪を探した。
病室で見つけたように、それは確かに裾の中へ落ち込んでいた。
娘の席まで辿り着くと、そのすぐそばにしゃがみ込んだ。彼女は強張った顔のまま窓の外を見つめていたが、突然現れた加苅を見ると驚きと不安の入り混じった顔でパッと笑い。途端に泣き始めた。それまで保っていた何かが、崩壊したかのような慟哭だった。
加苅は娘に指輪を差し出す。彼女はそれを受け取り、涙を必死に押しとどめようと喘いだ。
加苅は彼女の右手を強く握ると、額に当てグッと目をつぶった。
腕時計のアラームは15時34分を正確に知らせてくれた。
おわり
デッドマンウォーキング 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます