第5話
「いいですか?こうやって、手を握っておくんでゆっくり立ち上がってみてください。ゆっくり、ゆっくりでいいですからね」
がっしりと自分の手を掴んでくる太一の手は見かけによらず、熱く柔らかかった。決して太く、大柄な手ではない。大きさだけで言うならむしろ、加苅の方が少しばかり大きい。しかし、車椅子から支えあげられてみると、これほど安心感のあるものはなかった。
細く白いその指や掌へ、重心の全体を預けてもよいのだと信頼できる。
慎重に腰を上げると、重力の負荷が腹から滑り落ち、足へと伸びていくのが分かった。足には立っているという感覚はなかった。だが代わりに重さが忌々しい痛みとなって、膝に現出する。痛みにはまるで起点がなかった。骨の隙間の神経や筋肉が内側から引き攣って、肉体から飛び出していこうとしているような感じであった。
それが全身を鋭く射貫く痛みの矢に変わる前に、加苅は車椅子へ腰を落とした。それでも、情けない呻き声は我慢することが出来なかった。脇の下にはびっしゃり汗をかいていた。
「いきなりじゃなくて、いいすから。少しずつで」
太一はそう話しかけ、背中をさすってくれた。
痛みは極に達しなかったものの、しぶとい疼痛となって中々膝を離れては行かなかった。
加苅はそれを抑えつけようと震えながら呼吸を繰り返し、太一を見据えた。
「あ……あの……」
太一は眉を動かし、頷く。
「僕が乗ってた飛行機の座席表ってわかりますか?」
18C、そう書かれた座席に辿り着くや加苅は構わず、酸素マスクに貪り着いた。隣の客は驚いて、狼狽した表情で加苅を見ていたがもうそんなことはどうでもよかった。
太一に調べてもらった313便の空席は自分の予想よりも多くあった。酷いところなど、両隣誰一人座っていない。航空会社の采配には怒りがこみ上げてくるが、今更それを言ってもしょうがない。
点在する孤島で補給を繰り返しながら、加苅は着実に娘のもとへ近づいて行った。
空気は既に意識しても肺へ流れ込まないほど、薄くなっており、異様な寒さが通路の足元へ滞留し始めていた。
18Cの席で酸素を吸いながら、加苅は膝をさすった。連日のリハビリのため、足全体に根元から湧いてくるような熱が籠っているような気がする。冷たくなってきた手には、まだ太一に握られた感触が残っていた。
腕時計のタイマーは残り時間を残酷に刻んでいた。しかし、時間は切迫しているが不可能なほどではなかった。娘の座っていた座席を思い出し、数を数えてみた。その結果はいくらか加苅の心に余裕をもたらした。いつの間にか、自分は娘のもとにずいぶん近くなっていた。
次だ。もう息継ぎはいらない。ひとっ走りすれば娘のところまで辿り着く。あとは来た道を引き戻せばそれだけでいい。
深呼吸して全身に、最後の燃料を蓄えた。肺が痛くなるまで空気を吸い込んだ加苅は、歯を食いしばって立ち上がった。
最初、リハビリの時と同じように足の感覚がなくなってしまったのだと加苅は思った。理解と感触は追従するようにやってきて、自分の方が後方へ、何か強い力で引っ張られているのだと気が付いた。
気づいた時には背中が床を打っていた。
目の前にあの客室乗務員の男が仁王立ちしていた。男は空席の酸素マスクを吸いながら、凄まじい形相で加苅を睨んでいる。
驚く暇もなく、彼は加苅の両肩を掴んで無理矢理引き起こすと、何のためらいもなく顔面を殴打した。
よろめいて、座席に手をつく加苅に男は無言の圧を加えてくる。芋虫のような太く気味の悪い指が、座席を指差し、大人しくこの場に留まれと命令している。
喉を生唾で満たし、加苅は固く拳を握りしめた。自分の爪が掌にあった太一の残した感触を消し去ってしまう。
加苅は口を結び、体をおもむろに前へ移動させた。彼は自分が席へ戻ろうとしているように見えることを祈った。喉の動脈がどくどくとその振動が分かるぐらいに動いている。
一瞬だった。
左足で地面を踏みしめると、男の顔めがけ拳を思いきり振り上げた。
相手の反応や着弾の有無を確認するより先に、拳へ走る激痛に加苅は悶絶した。自分の手が木っ端みじんに吹き飛んでいるのではないかというような衝撃はすなわち、思惑通り命中したことを意味していた。
男の目が白く虚ろになり、後方へよろめく。立っていたいという微かな意思が彼の手を動かした。虚空を掴もうとした彼の手は天井から垂れ下がった酸素マスクのチューブを掴んでいた。
それで何とか体を支えようとしたのかもしれなかったが、脆いゴム製のチューブがガタイのいい男の体重を支え切れるはずもなく、男はチューブを引き千切りながら床へ倒れ伏した。
思わず、笑みが漏れた。床に伸びている男を見ていると名状しがたい自身が沸いてきた。
あとは娘のところまで行くだけ。きっと上手くいく。
未だに痛みの残る拳をさすり、加苅は振り帰ろうとした。その時、意思に反して両足が絡まり合い、彼は再び床に倒れた。
なぜ、倒れてしまったのか自分でも分からなかった。
立ち上がろうとして、腕の、足の動かし方をまるで忘れてしまっていることに気が付いた。四肢が思うように動かない。次第に視界が拡大と縮小を繰り返し、グルグルと回転し始めた。
そして、気づいた。
酸欠。いつの間にか、あるはずのない酸素を貪ろうと口が動いていた。しかし、酸素を求めれば求めるほど、肺は重く、気分は悪くなる。
やがて空間がぼんやりとしてあらゆる刺激が波になった。波間にあの裏庭が見え、セミ声が聞こえて、やがて消えた。
そうして、意識は次第に暗い闇の中へ沈降して行った。
つづく
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