第4話
「それ、胡蝶の夢みたいっすね」
裏庭には今日も強い日差しが落ちていた。日射は強烈だったが、空気は乾き、どこか澄んでいた。いつも通り、太一に日陰まで連れて来られた加苅の額にも、汗は一滴も浮かんでいなかった。
「こちょう?」
「この病院と飛行機の中を行ったり来たり。どちらもリアルで明瞭。あっちはこっちの予定通りだし、こっちもこっちで現実感がある。ベタな方法を試してみても結局どちらが現実で、どちらが夢かさっぱり、ってことですよね、その話。まんま胡蝶の夢じゃないすか」
太一は根元まで短くなった煙草を空き瓶に突っ込み、続けて言った。
「知らないすか? 中国の説話っすよ。昔、荘子って人が夢を見るんですよ。荘子は夢の中で蝶になって優雅に飛び回るんですけど、目覚めた時ふとこんなことを思うんです。自分は蝶になっていた夢を見ていたのか、それとも蝶の見ている夢が自分なのかって」
「ど、どっちが現実だったんです………」
「そこっすよ。荘子がこの話で言いたかったのは。どっちが夢でどっちが現実かなど、さして問題じゃない。荘子はそう言ってます。つまり、蝶であれば蝶として、荘子であれば荘子として、満足に生きればいいってことっすね。どちらか一方が真ではなく、どちらも肯定して受け入れる、っていった方がかっこいいすか?」
太一はそういうと、二本目の煙草に火を点ける。四方から流れるセミの声を聴き、ゆったりと紫煙を吐き出すと彼は横目で加苅を見た。
「…………わかりました。娘を助けに行きます」
「は?」
「今度、飛行機へ戻ったら、娘を自分の席まで連れて戻ってきます」
セミの鳴き声がすんと止み、煙草の濃密な香りが加苅の鼻をかすめた。
「別に忠告するわけじゃないすけど………南さんがたった一人生還できたのは、たまたま座席の位置が落下の衝撃をほとんど受けなかったからで。もし、その座席を離れ、戻ってこれなかったら―」
「だからです。娘を連れて、座席まで戻ってくれば自分も、そして娘も助かる」
太一は煙草を掴んだ指を動かすことなく、長い間吸っていた。
「妻を、亡くしてるんです。病気で」
娘の愛菜花を連れ、飛行機に乗っていたのもそのためだった。妻が心臓の病気で死んで1年。元々海外勤務だった加苅は娘を自分の実家に預けていた。しかし、結局加苅は娘を引き取り、一緒に海外で生活させることにした。
理由は様々あったが、決定的だったのは愛菜花を預けていた自分の両親との電話だった。
「あの子、毎晩泣いてるのよ」と母は言った。
「寂しい、寂しいって」
その時自分の中に湧き上がった情動を加苅は今でもはっきりと覚えている。得も言われぬ庇護欲で身悶えそうになった。
娘が生まれてから、彼女とは年に会えて3回。育児の疲弊や子供に対する愛情の本質など何も知らない。その庇護欲が一方的で自己満足的な愛だとは分かっていながらも、加苅は行動を起こさずにはいられなかった。
今もそうだ。親子の愛とは本来歪なものである。時に憎み、いがみ合いながらでも切り捨てることのできない感情が親子の愛だ。それに比べて、今自分が抱いている感情は恐ろしく軽薄で利己的かもしれない。だが―
「だから………もう、娘まで失うことは……」
言葉に詰まり、何度も息を吸った。
「どっちが夢で、どっちが現実か。そんなことはどうでもいいって言いましたよね。もし、飛行機で娘を助けることが出来たら………」
娘が戻ってくる気がする― そこまでは言葉に出来なかった。あまりに荒唐無稽で現実味がないと、自分でもわかっていた。しかし、少しでもその幻想に心を委ねてみると、酷く安らぎを覚えた。
「リハビリも、今日から始めます」
そう言い切ったのも、娘に会った時、歩けないと困るという言い訳を依子にすれば無意味と思わず済んだからだ。
太一は加苅の言葉を無言のまま聞き、煙草を吸っていた。
「……………ま、別にいいですけど。なら絶対、墜落する前に座席へ戻ってきてくださいよ」
「ああ。戻って来るさ」
加苅は飛行機の座席に座ったまま、通路の方へ顔を出した。前後を確認してみても、人が立っている様子はない。緊張で胸が高鳴り、呼吸はあえぐように口を突いて出た。
シートベルトを外し、滑るように座席の下へとしゃがみ込む。乱れた呼吸を整えている時、その異変に気が付いた。いくら酸素を貪ってみても、とても満足に吸えた感じがしない。どころか、肺には酸素の代わりに、鈍重な気持ちの悪い液体が溜まっていくような感覚があった。
違和感に呼応するように天井から勢いよく、酸素マスクがだらりと垂れ落ちてきた。
15時16分、与圧低下。記事の文字が頭をよぎった。与圧の低下、つまり機内の酸素量が低下するという事だ。
加苅は酸素マスクから、十分な空気を肺に送り込み、乱れた呼吸と思考を整えた。
墜落までの時間はあと10分。後部側にいる自分の席から、娘の席まではそれなりの距離がある。加えて、酸素量が低下した中。少しの迷いやイレギュラーな事態が起こればすべて命取りとなる。出来る事ならば慎重に作戦を練り、練習を重ねたうえで臨みたい。しかし、無論そんな時間はないに等しい。
あと10分。行って帰ってくる。今はそれだけに集中しよう。
腕時計のタイマーを15時20分― 飛行機墜落時刻に設定すると、加苅は立ち上がった。
冷たい酸素を名一杯肺へ吸い込むと、加苅は酸素マスクを振り払い、通路へ飛び出した。
後尾から見る機内の廊下はまっすぐ、果てなく続いているように見える。加えて、足取りは不安定だった。重心を移動させながら走ろうと思っても、機体は縦横微細且つ不規則に揺れ、あの独特な浮遊感が両足を絡めとる。加苅は立ち上がった姿勢を保つだけでも一苦労だった。
焦りと緊張で口は乾き、肺は新鮮な酸素を欲していた。つい反射的に口が動き、空気を吸い込んだ。だが、口内に広がったのは黴臭い匂いとくぐもった僅かばかりの酸素だけで、不快な余韻しか残さなかった。空気は先ほどよりも格段に淀んでいる。最早、酸素マスクなしでは意識失うほど酸素量は減っているのだ。
焦りは生まれたものの、恐怖は起こらなかった。こうなることぐらいは想定内だった。
走りながら彼は座席を流し見、目的の場所を探した。
果たしてそれはすぐに見つかった。空席になったその座席へ転がり込むと、加苅は必死に酸素マスクを手繰った。
冷たい酸素が肺へ流れ込み、蘇生して行くのがありありと感じられる。加苅は初めて酸素に味があるのを知った。
つづく
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