第3話

「リハビリしないんなら、ちょっと付き合ってもらっていいっすか?」

 太一にそう言われ、連れてこられたのは病院の裏庭だった。調理室の裏手を抜け、勝手口を出た先に空き地が広がっていた。せり出した病院の屋根がそこへ申し訳程度の影を作っている。

「ここ、全面禁煙なんすよ」

 太一はポケットからブルーラグーンと書かれた煙草を取り出しながら言った。

 初夏の日差しは凄まじく、影の中は照り返しの逆光に包まれていた。ジャグジャグというセミの大合唱を聞いている内、意識が遠退いて行きそうになった。

 加苅は蕩けそうな思考を手繰り寄せ、今朝起きた瞬間から今までを細かに辿ってみた。

 何も問題はない。朝食の味や、歯磨きの感触、なにもかも仔細に思い出すことが出来る。夢にありがちな朧げな所感や歪な齟齬もない。

 もしこれが夢であるとするならば、あまりに鮮明でクリアすぎる。

 しかし、だからといって昨夜意識が途切れた後に始まった飛行機内の体験が夢かと聞かれれば、答えに困る。それは単純に夢だと割り切ってしまうにはあまりにリアルで繊細だった。

 機内の空気やあの乗務員に掴まれた肩の感触、それらは朝食や歯磨きの味と同じく、確かに存在したものとして思い出せる。

 不意に脊髄を這うような恐怖が忍び寄り、耳元でささやく。

 

 ゾッとするその感触を加苅は車椅子のひじ掛けを強く握りしめて打ち消した。


 太一は無言で紫煙を吐き出し、よろよろと日差しの中へ出て行く。彼は空き地の真ん中でしゃがみ込むと、何かを拾い上げて戻ってきた。

 栄養ドリンクの空き瓶だった。彼はそこに煙草の吸殻をねじ込むと、二本目に火を点けた。

「あの……じ、自分の乗ってた飛行機………どうなったんですか?」

 尋ねる加苅は慎重だった。なぜかは分からないが、それを知ってしまうとこの世界が崩壊してしまうのではないかと危惧した。

 太一はむわあと煙を吐き出し、ポケットをいじってスマホを取り出した。

「………ほんとはダメなんすよ? まだ心の準備がって、」

 そう言いながらも彼はスマホを加苅に手渡した。開かれた画面には事故の詳細を記した記事が表示されていた。

「カーボ航空313便、墜落事故………」

 見たくないという気持ちもあったが、好奇心には勝てなかった。加苅の目は貪欲に文字を追った。

 15時11分、左エンジンより出火。

 15時16分、延焼により左エンジン爆発。

 15時17分、電気系統の不調により与圧機能が低下。

 15時22分、ホールディングパターンを維持することが不可能となり、降下開始。

 15時24分、左翼中破。

 15時25分、通信途絶。

 そして―


 



「15時34分………墜落」

 加苅は手を上げて、腕時計を見た。現在の時刻は15時14分。彼は視線を機内に戻すと、もう一度よく見まわしてみた。

 機内アナウンスは機体が緊急着陸の体制に入ったことを先ほどからしきりに繰り返している。

 本当に墜落するのだろうか。

 加苅は隣に座る中年男性や老夫婦、スマホを構えた女子大生を一人一人、じっくりと観察した。

 脳裡には記事で見た、乗員乗客138名死亡の文字が焼き付いていた。

 全員死ぬ。そのシンプルだが力強い現実が彼の胸を鋭く拍動させた。ジャケットの首元に異常な量の汗が吹き出し、背中を幾本かの線となって流れ落ちた。胸を圧迫されるような感覚に吐き気が押し寄せ、加苅はためらいなくその場でえずいた。

 15時34分まであと20分。本当にあと20分でこの機体は―




 しかし、時間は感覚に過ぎなかった。機内での数分はやがて病室での4日となった。

 あらゆる仮説を立て、あらゆる可能性を考慮してみた。例えば、現実の自分は病室にいて墜落時の記憶を回想しているのではないかとも考えた。しかし、追体験しているという夢の中で自由な意識があり、自由に動くことが出来る。記憶という映像ではなく、それは現在進行形の体験としてそこに存在しているのだ。

 考察すればするほど、事態は複雑にそして混迷してくる。考えあぐねた結果、加苅は思った。

 

 飛行機の悲鳴も、そしてベッドの手触りや消毒の臭いも。どちらも信ずるに値する質感を持ち合わせている。

 加苅は病室のベッドに仰臥し、軽く寝返りを打って天井を見つめた。

 どちらも存在している、そう自分で結論付けたものの、それは解決でも真実でもなかった。

 所詮自分の知覚で検討できるのはそれが限界だったというだけだ。

 今見ている世界は脳の電気信号が見せた都合の良い解釈にしかすぎないのならば、その世界で世界そのものを疑うことは出来ないのかもしれない。脳は体の核であり、知覚の神殿だ。自分自身の存在を自ら疑うことなど、土台無理な話なのだ。

 だからもっと原意的な方法。神殿の存在しない時代の方法で脳の壁を越えなければならない、と加苅は思った。

 彼はベッドの上で身を起こし、ゆっくりと深呼吸した。枕元に置いてあった文庫本を手に取り、硬く握りしめる。力を籠めると、背表紙は長方形の固い一塊になる。タイミングを伺っているうち、戸惑いそうになった。

 今の彼にはそんな暇を凌駕する素早さと鈍感さが必要であった。

 先のことは考えず、彼はすぐさま手を振り上げ、真っすぐ包帯に包まれた膝を打ち据えた。

 痛みは矢となって彼の身体を貫き、全身の筋肉を緊張させた。激痛が食いしばった歯に走り、脳天を突き抜ける。

 しばしの間、引き攣った筋肉が硬直し全身が収縮したように縮こまった。

 やがてほどけた筋肉から、解放されるように顔を上げると―




 機内灯が点滅しているのが見えた。シートベルトを意匠したマークが不安を煽るように赤く明滅している。

 痛みという直感的な感覚が意識を覚醒させたのだと、加苅は思った。世界を構築するよりも早く、神経内を伝う電気信号がニューロンを駆け巡って、偽りの世界をシャットダウンしてしまった。後に残るのは抗いがたい現実だけ。

 そして、残った現実は墜落中の飛行機だった。

 加苅はその時初めて、自分が抱いていた淡い期待に気が付いた。娘を失った寂寞感よりも死に対する恐怖の方が直感的で彼の心を怯えさせる。心のどこかでは病院に自分が一人いることを望んでいたのだ。

 逃げることのできない現実に来てしまったという恐怖が、思わず口をついて出そうになった。汗は首周りだけでなく、胸元にもあふれ出した。


 病室で寝ている自分は夢。どれだけ鮮明でリアルだったとしても、あれは夢なのだ。

 しかし、彼の一部は必死にそれを否定しようとした。

 病院で話した弘川 太一という男。足を包む包帯の違和感は単純な妄想で片付けられるのか。

 そしてなにより、あれが夢だとするならば墜落もまた幻想か。

 彼の頭には太一に見せてもらった墜落事故の記事が鮮明に蘇ってきた。記事はその時刻までも克明に事態を記述している。あれも妄想なのだろうか。

 加苅は思い出したように、窓の外へ身を乗り出した。前部分だけを覆っていただけだったはずの炎は既にエンジンをすっかり咥え込み、黒々と燃え上がる業火の中で咀嚼していた。

 赤黒い炎の中に、一瞬の閃光が走った。

 炎の中、走る光はフッと大きくなり、やがてエンジンは轟音を上げて爆発した。

 15時16分、エンジン爆発。あの記事の通りであった。



 つづく

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