第2話
「あとは………こちらの方でお預かりしているジャケットとズボン、その他の遺留品のお返しは後日、病室の方まで届けますので―」
医者の言葉は極めて事務的で、質感を伴っていない。まるでどこかに台本でもあるかのような口ぶりであった。先ほどまで受けていたはずの説明も、束の間泡沫のごとく頭から発泡していく。
「ま、待ってください……さっきの話がまだよく……」
医者は整えようとしていたカルテの類をもう一度、机の上に戻し、加苅の方を向き直った。
「……いいですか、南さん。動揺する気持ちは分かります。ですが、今はとにかく―」
「飛行機は、僕が乗っていた飛行機は墜落したんですか!?」
医者は溜息を吐き、もったいぶって頷いた。
「生存者は、愛菜花は!? 娘は!?」
「……南さん、よく聞いてください。先ほども申しましたように、生存者は南 加苅さん、あなた一人です」
何かを言おうとしたが、言葉を絞り出すことが出来なかった。締まった喉は大きく喘鳴にあえぎ、加苅は大きく頭をもたげ項垂れた。
「南さん………」
加苅は項垂れたまま、じっと自分の両足を見つめた。これは悪い冗談だ。飛行機の墜落事故にあう確率がどれだけのものか知っているのか。そう、これは悪い冗談。
飛行機が墜落したのも、自分だけが生き残ったのも、そして自分の両足が包帯の中梱包され、車椅子に乗せられているのも。
すべては悪意のあるジョークだ。
「南さん、あなたは1ヶ月近く昏睡状態だったんです。頭が混乱し、様々な思いが錯綜するのは仕方のないことです。ですが、今は考えるよりも行動を起こしてください」
顔を上げると、医者が自分を見据えていた。
「南さん、あなたには今日からリハビリを受けてもらいます。歩くため、再び歩くためのリハビリです」
診察室を出た後、加苅は髪を明るく染めた看護師の男にリハビリ室へと連れていかれた。
「骨が癒着するんすよ」
見たところ30にも満たない若く、看護学校を卒業したてといった風貌の男であった。
「事故の衝撃で骨が変な形に歪んじゃってるんすよ。まあ、それ自体はさして問題はないんですけど、そのまま治癒したら足が曲がったまま接合しちゃうでしょ? だから、ちょっとでも、悪い骨を本来の形に戻そうって訳っす。大体わかりました?」
リハビリ室は奇妙な温かさに満たされていた。大きなハルニレの木が強い夏の日差しを和らげ、室内へ導いている。恐怖や不安を意図尾的に配したことが伺える壁紙や、丸みを帯びたデザインの机と椅子。そんな空間は、むしろ悲痛な思いを燻ってくるようで加苅には居心地が悪かった。
「歩けるようになったら、何か変わるんですか?」
リハビリを始めようとする太一に加苅はたまらず尋ねた。言葉には相手を挑発し、申し訳なさを含んだ同情を誘う意図もなかったではない。だが、太一はケロッとして
「さあ」
と答えただけだった。
やり場のない怒りと焦燥感が、再び歩けるようになることの無意味さを問いかけてくる気がした。
何の意味がある。このリハビリに。そして、これから生きていくことに。もう自分には何もない。娘は死に、たった一人この世に取り残されてしまった。
去来する様々な感情を加苅は拒絶しなかった。いや、出来なかった。雑多な感情を払いのけるほどの強い意志や信念は今の加苅に残っていなかった。
「今日はやめとくっすか?」
呆然と床を見つめる加苅に太一が言った。
「え?」
「だってやりたくないんでしょ? 大体、こーゆーの、無理強いが一番ダメっすからね。本人の気持ちが大事っすから。ただ、時間が来るまではここにいてくださいよ? じゃないと、自分が怒られますか―」
「お客様ッ」
肩を叩く強い力でハッとした。肩には鈍痛が走り、その感触が曖昧だった意識の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
覚醒した耳朶に裂くような悲鳴が流れ込み、空気が乱雑に流動しているのを肌が覚知した。
鼻は湿った埃っぽい匂いを捉え、目は遠くまで、まっすぐ続く飛行機の通路を捉えていた。
飛行機にいる。実直な感性がわざわざそんな考えを脳の中に明文化した。馬鹿々々しかったが、そうしなければ、自分の存在を見失ってしまうところであった。
そうだ、自分は今飛行機の中にいる。墜落するかもしれない飛行機の中に―
彼は間違いなく、飛行機の機内にいた。
「お客様ッ!」
驚いて振り返ると、あの乗務員の男が物凄い形相でこちらを睨みつけていた。
「座席へお戻りください! 」
その威圧的な表情と言葉が状況を飲み込み咀嚼して見せようという気を削ぎ、加苅は辺りを見回しながら、座席へと戻って行った。
頭の中には、リハビリ室の雰囲気や車椅子の感触、太一の言葉も鮮明に覚えていた。
あれは、一体なんだ。
機内アナウンスでは機長が緊急着陸を行うと説明し、大丈夫だという事を繰り返している。
飛行機が墜落、生き残ったのは自分だけ― 恐怖と緊張がそんな馬鹿げた幻想を見せたのだろうか。
瞬きを繰り返し、何度も世界をリセットした。それでもやはり、飛行機はそこにある。両手で顔を覆い摩ってみたが、辺りで不安げな顔を浮かべる老夫婦や、顔をこわばらせ動画を撮影している女子大生が消えてしまうことはなかった。
この空間に何一つ違和感と呼べるものはない。論理的に一定の法則をもって構築された世界が間違いなくそこにあった。
窓から外を覗くと、煙は火となりエンジンをそっくり飲み込もうとしていた。
それを見ながら、加苅は何度も床を踏みしめた。足は自然と動く。そこに包帯に包まれた違和感も、芯の方から響いてくる鈍痛もない。
あれは、夢だったのだ。
だとすれば―
つづく
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