デッドマンウォーキング

諸星モヨヨ

第1話

 みなみ 加苅かがりは飛行機が嫌いだった。

 絶えず体を包み込む浮遊感、血液を逆流させ、皮膚を圧迫する重力。ジッと座席に座っていても、脳と体が分離していくような感覚が全身を苛み、意識を混濁させる。その高さも駄目であった。窓の外から見える幽玄な雲海、眼下に広がる極小の街並みも彼には恐怖のファクターにしかならなかった。そしてなにより、が唾液腺から苦みを誘発した。

 座っていることすら、苦痛だったが、加苅は今その機内の通路に立っていた。

 波のように襲ってくる臓器がふわり上昇する感覚に吐き気がこみ上げ、彼は座席の背もたれに手をかけた。転倒しないようバランスを取っていると、果たして本当に、今自分がこの場所に存在しているのか、分からなくなってくる。

 出来る事なら、座席に座り、この地獄が過ぎ去っていくのを耐えていたい。しかし、今の彼にはそうせざるを得ない事情があった。


「ねぇ、パパ。ママの指輪持ってきてくれた?」

 傍の座席に座った娘― 愛菜花まなかが話しかけてくる。乗務員を探していた加苅の目は再び、娘の方に戻された。

 今年5歳になる愛娘は青白い父親の顔を見ても、意に介していない様で、彼女はただ無邪気に初めての飛行機に喜びの笑みを浮かべている。

 娘とは本来、隣同士の席になるはずだった。5歳の少女を一人、飛行機の座席に座らせるほど加苅も無神経ではない。それにただでさえ今は大事な時期なのだ。二人一緒でなければならない。無論、そうなるように予約もした。

しかし、それがどういうわけか、当日いざチケットを発行してみると、娘は機体前部、自分は後方の座席とバラバラに配置されてしまっていた。

 杜撰な航空会社の管理不足か、怠慢か。視界の隅で動く蛍光色の制服が妙に腹正しかった。


「パパ?」

「ん?」

「指輪、飛行機の中で渡してくれるってパパがいったんだよ?」

「あ、ああ。指輪。えっと、ここに……」

 娘に言われ、加苅はポケットを探った。

 指輪― それは妻との婚約指輪であった。

 今回の海外渡航に際して、愛菜花が持っていこうと言い出したのだ。

 最初、指輪という煌びやかなものに心を惹かれただけかと思った加苅はそれを拒否した。しかし、彼の思っている以上に5歳の少女が抱く世界は深く、そして純真であった。

「ママも一緒に連れて行ってあげるんだよ」という愛菜花の言葉に、加苅は考えを改めざるを得なかった。

 彼はしばしの間、ジャケットのポケットを探った。だが、肝心の指輪はどこにもなかった。身をよじって、反対側のポケットを調べてみたがそこにもない。

 だんだんと訝しげになってきた娘の目に苦笑いすると、鈍い汗が首筋を伝った。

「パパ?」

「いや、ここに入れたはずなんだけど……もしかしたら、バッグに入れたままなのかもしれ―」

「お客様ッ」

 強い力が加苅の身体を引き、話はそこで途切れた。力の先には体格のいい客室乗務員の男が立っていた。しわを寄せた眉間を挟む両目が、ギラリ輝き加苅を睨みつけている。

「自分の席へ戻ってください。ここに立たれると、ほかのお客様のご迷惑になります」


 言葉は堅牢だった。ちょっとやそっとでは崩れることのない意志の強さが、鉄骨として言葉の内部に仕組まれているような感じがあった。

「あ、ああ。すみません。それが、娘と隣同士を予約したはずなんですけど、別々になってしまったみたいで……あっちの方に空いている席があったので、よかったらそっちに二人で移動させてもらう事って―」

「できません」

 男のつっけんどな物言いに言葉が詰まり。加苅はやるせなくポケットの中、ごそごそと手首を動かした。

「早く自分の席へ戻ってください」

 生憎、反論する度胸も気力も持ち合わせがない。


「パパ……?」

 5歳の娘も2人の間に漂う妙な気配を感じ取っていた。彼女は不安げな表情のまま、加苅に向かって無意識のうちに手を伸ばしていた。

 彼はポケットに手を入れたまま、娘に笑みを浮かべると

「また後で、くるね」と言った。情けない笑顔で情けない声だった。

 自分の座席へ戻ろうとすると、深いため息が肩からドッと抜け出ていった。

 空席になった座席の前で立ち止まり、ふと窓ガラスに映った自分を見る。年の割に若いと言われる。目鼻立ちや背格好がそう思わせるのかもしれないが、加苅には誉め言葉とは思えなかった。

 貫禄がなく、舐められやすいだけ。娘のために戦うことも出来ない弱い男だ。

 そして、なによりも情けなのはそんな自分を受け入れてしまっていること。彼は窓ガラスに浮かぶ自分に笑みを返し、頭をぼりぼりとかきむしった。

 窓外に見えた白い巨大なエンジンが、



つづく

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