終点
昭和6年の初夏である、仙石貢が訪ねてきた。
互いに
「大丈夫か? 身体を壊したそうじゃないか」
「今は何とか、な。歳も歳、満身創痍だよ」
「その歳では大変だったろう、満鉄総裁は」
「まったく、こんな年寄りを使いおって。浜口に頼まれたから仕方なくやったものの……」
それから口をつぐんで、うつむいてしまった。
浜口とは、前総理大臣の浜口
昭和3年、
国民党軍による犯行とされたが、支援してきた日本の関東軍に従わず、国民党にすり寄る態度を見せた張作霖が邪魔になったのが真相であった。
翌年、田中総理のあやふやな報告が天皇陛下の怒りを買って内閣は総辞職。
この後任として浜口内閣が誕生、仙石は南満州鉄道総裁に就任した。曲がったことが大嫌いなふたりに日本を、そして満鉄を立て直すことが期待された。
しかし浜口は、経済対策の失敗や海軍軍縮条約締結により、野党や海軍の反発を招いてしまう。
そして昭和5年、運行をはじめたばかりの特急燕に乗車するため東京駅のプラットホームを歩いていたところ、右翼活動家の
「浜口の容態は、どうなんだ?」
仙石は言葉を選んだまま押し黙ってしまった。どうやら、あまり良くないらしい。
今年のはじめに退院したが、要求に応じて春先に無理をして登壇したのが
だんまりしていた仙石は、口をもごもご身体をソワソワさせた末、悲哀な視線で私に
「利権屋の食い物になっている南満州鉄道を立て直して欲しい、そう
苦虫を噛み潰すような口調に、私は相槌さえも打てなかった。
「長い不況で経営危機だ、高給取りばかり800人整理した、朝から晩まで会議を開いて勉強した、文句は散々言われたが、俺は信念を持って鉄道をやったんだ」
実に仙石らしい仕事ぶりだ。この歳になっても勉強するとは、なかなか出来るものではない。
「しかし周りは外交をやれ、政治をやれ、日本の立場を考えろと言う。中国は満鉄に並行する鉄道を作ると言いおった。設立に携わったから知ってはいたが、満鉄は普通の鉄道ではない」
仙石の言うとおりだ。それが都市開発や炭鉱、製鉄所に農地、更に学校や研究所を擁し、それら鉄道付帯地の治安維持を関東庁と関東軍が担っていた。南満州鉄道は、鉄道を軸にした国家であると言ってもいい。
利権を足掛かりにして、満洲を日本のものにするための鉄道なのだ。
「俺が改軌させた満鉄で、張作霖が殺された。俺がこけら落としをやった東京駅で浜口が刺され、政敵だった原敬も10年前に殺された」
そうか、もう10年になるか。政経寄りの腹政権に不満を抱いていた
鉄道院総裁に仙石が就任した晴れ舞台の東京駅が、血塗られてから……。
「混迷の世の中だ、似たようなことは今後も繰り返されるだろう。ならば鉄道とは、何だ!? 利権屋が
荒げる声は、とめどなく溢れる胸の痛みを吐き出して、今にも溺れてしまいそうだ。命の灯火が燃え尽きそうなこの瞬間も、鉄道に生涯を捧げた男の乾いた涙だ。
「否! 鉄道は乗り物だ、それ以上でもそれ以下でもない! 大量の人や荷物を高速で目的地まで安全に運ぶ、ただそれだけのものじゃないか!」
そうだ。私たちはそのために地形を読み解き、議論を交わし、図面を引いて日本中に線路を張り巡らせた。
畳の目を睨み、噛んだ唇を震わせている仙石を
「お前の言うように、鉄道はただそれだけのものだ。だがな仙石。お前が成し遂げた仕事は、ただそれだけと言っていいような軽いものではない」
ハッと上げた顔は、求める希望の糸口を掴んだようだ。長い付き合いではあるが、こんな仙石を見るのははじめてだった。
体調は
「今は代議士や軍部の道具になっているが、お前が携わった鉄道はいずれ本来の形を取り戻すさ。未来永劫使われる線路を、技術革新が起きて置き換えられても語り継がれる鉄道を、お前は作ったんだ」
中央線、東北本線、信越本線、九州各線、豪華客車、南満州鉄道、京浜線……。そのどれもが、私などでは到底敵わない完成度を誇っている。
「鉄道官僚として色んなやつを見てきたが、お前ほど線路の重さを知り、鉄道に対して真摯に取り組んだやつを、私は知らないよ」
この言葉に、感謝と労いを目一杯込めた。この身体では、先は永くないかも知れない。伝えられるのは、きっとこれが最後になる。
「私は、仙石の仕事に付き合えて幸せだったよ」
この年の9月18日、南満州鉄道の線路が再び爆破された。中国軍の犯行と発表されたが、攻め込んできた関東軍に無抵抗であったという。世論は関東軍を称賛したが、張作霖を思い出しながら口に出せなかった者もいたのではないか。
これが満洲事変のはじまりとなり、大地は日本の手に落ちるのだが、仙石はそこまでは見届けられず10月30日にこの世を去った。
才のない無名の鉄道技師に出来る仕事は、ここまでだ。
あとは敷いた線路とともに、仙石貢という男が伝説となることを願うばかりである。
雷翁伝 山口 実徳 @minoriymgc
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