第56話(完)

 その形相から本能でやられると身構えた時、突然親父が後ろにのけ反った。すぐ近くに居た水月が顔面にグーを見舞ったのだ。グーというよりも右ストレートだ。予想もしていなかった上に、腰の入ったパンチに親父はペタリと座り込んで顔を押さえている。それを見て瞬時に立ち上がった私は親父の顔面を靴の底で蹴り込んだ。親父はその姿勢のまま壁に頭を打ち付けた。よほど効いたとみえ呻り声をあげている。


 私は今だとばかりに水月と恵理香を抱えるようにトイレに駆け込んだ。途中で親父に一瞬目を向ける。鼻の辺りから血が流れていた。恐らく水月のパンチだろう。素早く扉と鍵を閉めると、起きあがった親父が喚きながら激しくドアを蹴りあげる。何度ももの凄い音がした。このままではドアが壊されるのではないかとも思った。



「もしもしっ!警察ですか!」


 恰も電話でもしているように扉に向かって大声を張り上げた。それが耳に届いたのか。ピタリと音が途絶えてからガチャッという扉らしき音が聞こえた。私は壁に顔を押し付けるようにして外部の音に集中した。そのすぐあとだった。


「岩崎~~っ!」という叫び声と共に数人の足音がドタドタと響いた。

「待てコラ~っ!」最後に耳に入ったのはこの言葉だった。



「大丈夫かっ?」


 一区切りついた間を感じ取った私はすぐさま便座に腰かけた恵理香に声を掛ける。水月は恵理香の肩を抱くように寄り沿っている。ドアノブを強く握りしめていた手を離し、恵理香の真っ赤になった手を握った。顔が青白くなっている。

不安に駆られる水月の手も反対の手で握った。一瞬、驚いたように反応したが、水月は私の手を強く握り返した。


「そうだ。救…救急車」


 そう呟いた時だった。私の視界が突然ぼやけ始めた。真っ赤な血液が朱色にと色彩も薄れ出し床が傾き始めた。思わず声を上げた。



「ダメだ・・・ダメだ・・・」


 恵理香も水月も周囲の景色もゆっくりと消えて行く。




 目を開けると便器の前でうずくまっていた。掌を見た。血の跡も消えている。何か柔らかいものを握っていた感覚だけが薄っすらと残っていた。


 とぼとぼと歩く私の足がピタッと止まる。ピットを見たまま動けなくなっていた。

私の姿に気付いたようにディッキーズのつなぎが現れる。



「どうですか島さん。腹の具合は?」


「け・・・圭・・・」


「なんだか悪そうですね。顔が青白いですよ」


 腹なのか、先程の出来事なのか、圭ちゃんの姿なのか、私は呆然となったままだ。


「あ、本当に青白い顔してますね島田さん」

「な!だからシジミちゃんに言っただろ?島さんは調子悪いからって」


「あの調子じゃ作業は厳しそうですね」

「ま~こんなの俺一人でチャチャッとやっちゃうから!」


 圭ちゃんはそう言って軽々とキャビンの上に登って行く。その様子を浅利は呆れたように見ている。


 記憶の中の一コマでも見ているのか、私は立ったまま眺めているだけだ。口も開かなかった。


 それから少しして、ドカッと音がして私はようやく人間に戻ったようにピットに駆けこんだ。



「痛てぇ~っ!」浅利と圭ちゃんが同じ声を出していた。


「大丈夫か!?」二人は私を見るなり突然笑い始めた。


「いや~もう栗原さんが落ちて来るもんだからビックリしましたよ」気付いた浅利が咄嗟に受け止めたらしく、二人で床に寝転んでいた。


「シジミちゃん!ナイスフォロー!」

「ナイスじゃないですよ栗原さん!?」


 そのやり取りに私にも徐々に笑いが舞い戻ってきたようだ。ぎこちない笑いがいつしか本物に変わって行く。声の音量もあがった。笑い過ぎたのか目の周りは濡れていた。それから二人に同時に抱きついた。



「もう~!おめ~らは危ね~んだよ!」何事も無かったかのように笑い合う。そう何事も無かったのだ。


 この上ない安心に気が抜けてしまったようで、仕事もどこか上の空だった。それを圭ちゃんは体調がすぐれないと思ったのだろう。いろいろと気遣ってくれた。


 閉店ちょっと前くらいだったろうか。


「そう言えば島さん・・・・。岩崎‥岩男さんって」

「フッ‥。圭ちゃんは気が付いてたか。そう、水月の父親だ」


「やっぱり・・・・。それでニュースでちょっと見たんですけど──」と圭ちゃんが重そうに口を開いた。


「ニュースで!?」


「ええ。あの・・・水月さんのお父さん。亡くなったとか」


 曖昧に返事をしながらそれとなく続きを訊いた。


「なんでも酔っ払って川に落ちたみたいで、下流の方で発見されたらしいですよ」

「川に!?」


「ええ。特に外傷もないらしいってことで警察は事故か自殺のせんで調べてるって話ですけどね」


「自殺!?」


「ちょっと小耳にはさんだんですが、けっこう闇金に借金があったみたいで・・・・」


 そのくらいで自殺するような男でもないという言葉は飲みこみ、


「そうか・・・・・」とだけ声に出した。


 これが親父のなれの果てかと思いながら、私はひそかに事件の可能性も否定できないと思った。いずれにしろどうでもいいことに違いなく、南国リゾートまではたどり着けなかったようだなと心の中で呟いた。夢が咲くことは無かったのだ。



──「じゃ、島さんお先っ!」


 何度となく聞いた台詞を残し、圭ちゃんは愛車318のホーンを鳴らして帰って行く。私は右手をあげてその一部始終をじっと眺めていた。当たり前のように見て来た光景がこれほど幸せに思えるのだから不思議なものだ。そう、いつか圭ちゃんにこの夢物語でも話してやろうと遠ざかるテールランプを見ながら思った。


 カウンター席に座った私はタバコに火を灯す。蓋を閉じるとパチンという金属音が店内に響いた。恵理香からもらったライターをしばし眺めた。



「恵理香・・・・お前か。こんな奇跡を見せてくれたのは」


 独り言のように呟いてから吸い込んだ煙をホッと吐き出す。輪を描いた乳白色の煙がゆっくりと漂っていきやがて形を崩しながら消えて行った。昔はよくこんなものを子供に見せたっけと苦笑を浮かべた。


 不意にカレンダーに目を移した時、私はある衝動に駆られてセカンドバッグを手にする。そして、内側のファスナーを開け折りたたまれた紙を取り出した。それは水月から手渡された恵理香の書置きである。


 私を刺したという内容が記されていたと、あの時の刑事は確か言っていた。正直辛すぎて見られず、一年経ったらとずっと仕舞い込んだままにしていた。ようやくそれを開けるときが来たと、息を止めるようにしてそっと紙を広げた。


 恵理香のやさしい筆跡があった。


「フッ・・」


 読んだ途端、思わず口から笑いが出た。繰り返して何度か読んだ後、それを折りたたんだ。白い便箋にはこう記されてあった。



[早く帰ってきてね!今夜はアサリのおみそ汁よ♥]



 まるで肩透かしを食らったようだ。今の私のこの上ない幸せの牙城ですら崩しかねないと思っていただけに、これには笑いながら首を振ることしか出来なかった。それから思い立ったようにシャツを捲り上げると、おかしなものでミミズのような痕はどこにも無かった。


 202号室の前に立ったのは二十分後だった。



──ピンポーン♪


 聞き慣れた音が消えかける前にカチャッという鍵の音がする。これだけで水月の今の様子をうかがい知ることが出来る。良かった水月も変わりはない。


 ゆっくり開く扉の向こうから声が届く。



「おかえりなさい」耳を優しく包み込むかの声だ。



 この日を境に過去へ戻るという不思議な現象は一切起こらなくなった。そしてカレンダーに薄っすらと残っていたマルも私が吐き出した煙のように跡形も無く消えていた。


 途中から引き継ぐようにドアを引くと、幸せそうな笑顔が私の目に映った。ずっと蕾だった花が突然咲いていたのを見たように、私は視線の先を移動させる。

そして、ただいまと言って笑い返した。
















 水月と恵理香に──。


                                     完

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交差点に咲く夢 ちびゴリ @tibigori

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