第55話

 驚きのあまり恵理香は後ずさった。強盗とでも思ったのだろうか。だが、私には死者が蘇ったとしか思えなかった。そのくらい醜い顔だったからだ。


「あ!・・・おとう・・・」


 恵理香の発する僅かな声でゾンビの正体が判明した。父親の岩男だったのだ。


「てめ~だなっ!俺を売ったのは?」


 曲がった口から出された声や三白眼からはゾンビにも負けないほど凄味があった。


「・・・売った!?」


「惚けんじゃねーーっ!!トラック乗りに俺のこと話しただろーがっ!」

「いや、俺は何も・・・」


 そう言った直後、顔面に蹴りをもらった。顔の中央部がジーンとなって意識が薄れた。


「何するのっ!お父さんっ!」


 恵理香が親父を押さえに掛かる。だが非力な腕力ではとても抵抗にもならなかった。一瞬にして恵理香も狭い床の上に倒れ込んだ。それを見てすぐさま起き上がろうとしたが、今度は顔面にパンチをもらい、顔を押さえたまま仰向けに倒れた。きな臭い匂いがして口の中は鉄でも舐めたかのようだ。


「見ろっ!この顔を!てめ~が話したお蔭でこの様だ!お礼に俺と同じ痛みをくれてやるから有り難いと思えっ!」


 言い終えるなり腕を引き上げる。それを恵理香が両腕で掴んだ。力ずくでそれを振りほどくと恵理香の頬を平手で叩く。ピシッとした音と共に恵理香が崩れる。


「やめろっ!」頭を上げた瞬間にまたしても靴の底で蹴られ後ろ向きに倒れ込む。ゴンという音が後頭部から聞こえた。


「おいっ!金はどうしたんだ?金は?」

「か‥ね!?」


「慰謝料だよ慰謝料っ!大儲けしようなんてのが、てめ~のせいで俺が慰謝料払わなきゃならなくなっちまったんだぞ」

「フッ‥。生憎だった‥な。俺はもう離婚してここにいる恵理香と結婚するんだから、あんたに払う金はないよ」


「離婚だ~!?ざけんなっ。結婚か・・・・。じゃ~結納金ってことでいいや。百万だ!」

「お父さん!何を言ってるの!」


「うるせ~っ!お前は黙ってろ!」


 怒鳴り声を上げた後、親父は私の上に馬乗りになって右左と拳を振り下ろした。一方的で抵抗も出来ない自分が情けなかった。恵理香がまた飛びかかる。親父がまた振り払う。その勢いでキッチンの流しに背中をぶつけた。呻り声が聞こえた。


 その隙を見て拳を振り上げてみたが、距離もあったのか顔までは届かなかった。


「おっ!まだ元気が残ってるようじゃね~か」


 ガツッ!ガツッ!と頭が揺れる。


 その時、背中を向けるように恵理香がゆっくり立ち上がった。そして振り向いた。


「あっ!?」思わず私は声を上げた。


 手にしていたのは果物包丁だ。親父はそれを睨みつけた。


「お~っ!それで俺でも刺そうってのか。親である俺を?」

「あなたなんか、父親でも何でもないっ!出てってっ!」


 悲痛の叫びも親父にはまったく響いてないのか、ゆっくりと腰を上げると恵理香に向かって歩を進める。両手で柄を掴む手は小刻みに揺れている。


「やめろ・・・恵理香」


 近寄った親父にナイフの先端は向いたままだったが、刺す気など初めから無かったのだろう。瞬時に手首をギュッと掴まれてしまった。それでも離さないと抵抗を試みたのが却って悪かったのか、強引に奪われる際にナイフが掠めたようだ。腕の辺りの白いシャツが見る見る真っ赤に染まって行く。ガクッと崩れ落ちたように腰を落とした恵理香は腕を押さえ苦悶の表情を浮かべた。これは悪い夢だ。


「恵理香っ!」


 起き上がろうとすると親父の蹴りを腹に受け、突っ伏すように崩れ咳き込んだ。


「島さん!?」恵理香の声が届く。思った以上にダメージが大きく意識が朦朧としている。床に血が垂れている。これは自分のか恵理香のか。そう思って恵理香の腕を見る。まるで染めたようにシャツが真っ赤だ。


「これじゃすっかり傷害罪だな」包丁をチラつかせながら親父はニヤッと笑った。


「女にゃ逃げられるし、違う女に手を出せば袋叩きにあうわで・・・ったくついてね~。この際だからムショでも入ってゆっくり暮らすのも悪くね~ってか。そうすりゃ金も払わなくて済むだろうし」


 投げやりにも取れる口調には、ただのハッタリではないことが伺えた。本当にやるかもしれないと私は身構えた。



──ピンポーン♪


 突然の音に三人は同時に固まった。そして黙ったまま扉の方を見つめた。待ちきれないといった調子で扉が開くと、聞き覚えのある声が同時に届く。


「もう~恵理香っ!島田さんたら私に──」

 途中まで言い掛けて水月も固まった。


「な‥なにっ!?だ・・・誰っ!?」


 包丁を手にした男を見て強盗だと咄嗟に思ったのだろう。口に手を当てたまま目を大きく見開いている。声も出ない様子だ。


「み・・・水月か」その顔を見て親父が呟く。

「え!?お‥お父・・・・さん!?」


「あ~、俺だ!」それでも変わり果てた顔に不安の色が滲んでいる。

「な・・・なにやってるの!?」


「警察‥だ。水月さん・・・警察を呼んでくれ!」


 事態が把握できない水月は固まったまま動くことが出来ないでいる。それを見た親父がゆっくりと近付いて行く。そして腕を強引に掴んで水月を引っ張り入れた。玄関の段差に躓いて水月はショルダーバッグと共に前向きになって私のすぐ隣に倒れた。


「こんなところで呼ばれたんじゃ、ゆっくり出来そうもね~からな。丁度いい!水月もこいつの死に様でも見物していけ」


「し・・・死に様って・・・・。え‥恵理香っ!?」真っ赤に染まったシャツに驚きの声を上げた水月は、事態を把握したとばかりにバッグから携帯を取り出そうと手を伸ばす。そして取り出した携帯を開いた時、その横っ面を親父が叩いた。携帯が遠くに飛んだ。


「余計なことすんじゃね~よ!」


 その一瞬の隙をみて私は親父に飛びかかった。腕はしっかりと掴んでいる。狭い玄関先の空間で激しい揉み合いになった。再び仰向けに倒され、握っていた手が離れると、



「ぶっ殺してやるっ」

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