第54話

「そういや、智美とも話したんですが、今度島さんの彼女も誘って四人で一緒に『ペンペン草』で食事するなんてどうでしょうかね?」


 話を制するかに掌をあげてから私は圭ちゃんに背中を向けた。間抜け面を見られたくなかったからだ。顔面に力を入れ何か流れるのを食い止める。



「し・・・島さん」


 それでも涙は抑えられなかった。肩も身体も小刻みに揺れて口を押さえる。死んだと知らされても泣かなかったのに今はもう自分を止められなかった。


「悪り~っ・・・・ちょっと子供のこと想い出しちゃって・・・・」


 咄嗟にそんな言い訳を口にしたものの、圭ちゃんもその一言に何かを察してくれたようで、近付くこともせずにただ黙っていた。



「い‥行こう。・・・・四人でな。必ずだぞ・・・約束だぞ」

「ええ。絶対ですよ」


「ああ‥絶対だ。その時は俺が全部の勘定持つからなっ・・・・」


 この過去という時間軸にはこの上ない幸せがある。それでも現在を知る私としては不幸との裏合わせだ。その後、仕事が終わるまでの間は圭ちゃんも私も申し合わせたようにその話題に触れることは無かった。いつもと同様に圭ちゃんは帰って行く。お疲れと言って見送った。



 閉店後を狙ったのか携帯に着信が入った。


「そろそろ、掛かって来る頃じゃないかって思ってたところだよ」

《そう?虫の知らせでもあったのかしら。お時間の方は大丈夫?》


「ああ。もう店は閉めたからね。あとはもう帰るだけさ」


 店内もピットの灯りも落としていて灯っているのはカウンター周辺だけだ。


《帰るだけ!?そう。それで今夜はどちらにお帰りになるの?》

「フッ‥。いろいろ帰るところがあるからな」


 重みのあるライターを弄びながら答えた。

《良い御身分で羨ましいわね。そうそう肝心なこと忘れてたわ。例の件どうなりました?》


「例の件?ハンコのこと?」

《ええ。ちょっと気になってたものですから》


 ここで一つ吐息をついてから声を出した。


「押したよ。もう荷物も運びだして家はもぬけの殻だ」

《成立したってことね。それでスッキリしたって心境?》


「ああ。スッキリだ。ついでに水月さんとでもやって、もっとスッキリしたいところかな──」



 直後、プーッという音が耳に届いた。灯っている液晶画面をしばし眺めてから携帯を折りたたんでテーブルの上にポンと投げる。こんなことで現在から少しでも逃げたかったのだろうが、言い過ぎたかもしれない。だが、どうでもいいとも思った。


 鍵を閉め車に向かい出した途端、止めてある車を見て少し遅くなると恵理香に連絡を入れる。それから整備工場でサニーを引き取るが、手持無沙汰な感じがしたのか、私は『ナポリ』の扉を開けた。


 私の顔をチラッとだけ見るとマスターは手元に目を落とす。一瞬の顔色で判断しているのだろう。いらっしゃいという言葉は無かった。それがまたこの店の良いところでもある。


 カウンター席の一番奥に腰を降ろし、

「グァテマラ」と一言。


 さすがにこれにはマスターも驚いたように顔を上げた。


「珍しいね~島さん。ストレートなんて!?」

「たまには気取っても良いかなって」私は表情を崩した。


「ってことは何かあったって──。顔にも描いてあったな」


 図星だという目を見せてから息を一つ吐き出す。


「離婚しましたよ。それでスッキリと言うか・・・」


 デニムのエプロンに黒い丸眼鏡。ほとんど白に近い髭を口の周りに生やしたマスターは私を一瞥してから、また豆の入った缶から豆を機械の中に掬い上げる。チャラチャラと豆の乾いた音がする。それからやや騒音ともいえる音が店内を被う。挽いた豆の良い香りがした。


「俺ももう十年か~」お湯を注ぎながらマスターは呟き、

「結婚する時は離婚なんて考えもしなかったけど、人生いろいろだからな~」

と洒落たカップとソーサーを私の前に置いた。


「これは俺の奢り。島さんの第二の人生の門出に」


 カップの中の濃褐色からゆらゆらとした湯気が立ち上っている。それをゆっくりと啜ると口中にコクのある酸味と芳しい香りが広がった。


「フッ‥。さすがにコーヒーって感じがしますね」

「中米を代表するような生産国だからね。特にこの辺りは上質な豆を栽培してるエリアも多くてさ」とマスターも小さいカップでコーヒーを啜る。自分用にも淹れたようだ。


「いつか女房でも連れてこんなところに旅でも出来たらって考えたこともあったけど、今じゃコーヒーの香りに思いを馳せるのが関の山で」


 そう言ってカップに鼻を近づけると感慨深そうに首を振る。メガネの半分ほどが白く曇った。


「マスター・・・」


 弱々しい呼び掛けにマスターは目を薄っすらと開いた。


「死んだ人が生き返る。なんてことはあると思いますか?」


「死んだ人!?」と呟いてからマスターは口の端を上げ、

「あるさ!島さんの好きなやつさ。ゾンビってのがあるだろ~」


「ゾンビ・・・」


「でもな~。好きな人がゾンビで生き返ってもちょっと複雑だよな~」


 マスターは自分の言ったことに笑い転げた。



 愛車サニーのハンドルを握りながら、恵理香や圭ちゃんがゾンビとして私の目の前に現れたらどうだろうと考えてしまった。それでも付き合えるのか、愛せるのか、もちろん答えは堂々巡りだ。滑稽だと笑い飛ばしてみるものの、おかしなものでまた同じことを考えている。


 コーポの駐車場に着いたあともしばらく車から降りられなかった。



 ゾンビか・・・・。


 まさに映画の世界だ。と言っても私が経験したことも同じ類じゃないのか。だとすれば有り得ない話でもない。いやと私は首を振り車のドアを開ける。


 不可解な体験をし過ぎて頭の中が混乱している。もはや今日が何日なのかもわからない。


 はっきりわかっているのは恵理香と圭ちゃんの命日が同じだということくらいだ。


 有り得ないと首を振る。足取りは重い。そのつま先を見つめるかのように足を一歩一歩進める。靴がアスファルトやコーポのコンクリートと擦れる音が耳に聞こえるくらいで、他の誰かが見たら私こそゾンビに見えるのではないだろうか。


 歩いても歩いても辿り着かない。今日に限って恵理香の部屋が途方も無く遠く感じた。


 ようやく扉の前に立ちチャイムを押す。



──ピンポーン♪


 耳に馴染んだ音が届く。声がしたのかしなかったのか鍵の開く音がして扉がグイと押し出される。恵理香の顔があった。幸せそうな表情だ。


 中へ入ろうと扉をさらに開け足を踏み出そうとした時だ。


 閉めようとした扉が反対に大きく開いたかと思うと、私の身体は車にでも撥ねられたように前へすっ飛んだ。靴を履いたまま玄関先の床に叩きつけられた私は、何が起きたのかもわからずに呆然としている。


 痛みの伴った身体を捻るようにして背後に視線を送る。



「!?」


 目の前に立っていたのはゾンビだった。

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