第53話

 扉を開ける。薄暗い店内を見て現在に帰って来たのだと思った。


 ゆっくりとした足取りでカウンターへと向かい、その反対側の机の上に置かれたメモを手にする。詳細と金額が記されていた。浅利の字だ。一万五千二百円也とあった。


 あとで飯でも奢らなくてはと鍵を閉めて外へと出る。私の車の横には主を失ったかのように圭ちゃんの318がひっそりと佇んでいた。



 チャイムを押すとすぐに扉が開いた。あるいは過去へ戻ったことで何かが変わったのかと思ったものの、水月の笑みの無い表情は病院で見た時と何ら変わりはない。私の顔も同様だったはずだ。


「ご飯は?」

「いや・・・まだだけど──」


 腹は減っている。だが、喉を通るのかは疑問だ。水月も同じだったのか、言わずとも後に続くであろう台詞を察してくれた。


「でも何か食べておかないとね」私に言ったのか自分に言ったのか、私はジッと水月の顔を見た。


「簡単なので良いよ」一言だけ呟いて六畳間に腰を下ろした。腰がとにかく重かった。

「インスタント?それともカップ?」これも一緒に暮らし出した証なのだろう。私は面倒だからカップで良いと伝え、やがてそれが二つテーブルの上に置かれた。



「どうしてあんなことに?」


 麺を二口ほど食べた時、水月が声を出した。


「滑ったんだろうな・・・。慣れた仕事で油断でもしたんかな・・・・」


 たぶんそんな理由だろうと私は考えられる原因を聞かせる。水月は黙っていた。


「大丈夫よね?圭ちゃん」


 残ったスープを飲んでいる時、再び水月が尋ねてきた。もちろんと私は答えた。それ以外の言葉は思いつかなかった。


「明日・・・お店は?」

「そうだな。休みたいところなんだけど予定もあるからな。まさかまた浅利に留守番を頼むわけにもいかね~から、とりあえずは開けるけど・・・・」


「私も手伝いに行こうか?」

「手伝いに!?」


「ええ。接客くらいなら私にも出来るかなって!?」

「若い女性店員さんですか。トラックの運転手には受けが良さそうだな」


「もう、こんな時につまらない冗談言って!」


 ヒンヤリした気分が少しばかり二人の笑顔で温かくなった。私はカレンダーに目をやる。


 この距離だともうマル印は見えない。それでも日にちだけはハッキリと見える。


「明日だな」

「そうね」と水月も顔を向けた。


「まさか、前日にこんなことが起こるなんて思ってもみなかったよ」

「私だって・・・・・智ちゃん・・・大丈夫かしら?」


 私は腕を組んで首を振った。わからないというよりも大丈夫なはずはない表現だ。


「きっと・・・恵理香が力を貸してくれるわ」


「恵理香が・・・・」今は恵理香でも藁でも縋りたい。私も水月も出来ることはもう願うことしか残されてはいなかったのだろう。


 翌朝、店に着くと私を待っていたように浅利が駆け寄ってくる。


「その後どうですか?栗原さんの容体は?」

「いや・・・。特に連絡は・・・・・」


 浅利も私の表情も思わしいものではなかった。それで悪いんだけどと頼みごとを伝えた。


「いや、全然って言うか、今日は俺が行こうって思ってましたから」


 そうかと言って圭ちゃんの車に目を向けると浅利も同じように顔を向けた。


 一言残してから私は隣の会社に出向いた。そして所長に浅利に留守番させてしまったことや病院に様子を見に行ってもらうことなどについて丁寧に礼を言った。気遣いは無用と所長は手を振ってくれたが、出社している誰もが圭ちゃんを心配してくれているのが見てとれる。本当に有り難いとまた頭を下げた。



(圭ちゃん・・・皆待ってるからな!)


 仕事に入って作業でもしていると少なからず気が紛れて良かった。ただ、ピットに居ると無意識に視線が下を向いてしまう。圭ちゃんが倒れていた場所だ。それに御客に姿の見えない圭ちゃんのことを訊かれると気分はやはり塞いだ。それでも顔見知りの人にはそれとなく事情を話さなければならず、皆口々に労いの言葉を店に置いて行ってくれた。


 昨夜はあまり寝られなかった。ぼんやりしていると自然と瞼が重くなってくる。電話の音に目が覚める。すぐにボタンを押す。



「何!?意識が戻った!そうか!良かったっ!それで──。何!?え!?歩いて仕事に向かった!?」


 得てして夢とはこんなものだ。どうやら夢を見ていたのだと電話の着信音が教えてくれた。素早く電話を手にしてボタンを押す。


「もしもし・・・・。何!? ──」


 直後、頭の中が一瞬にして真っ白になった。



《圭ちゃんがっ・・・・。圭ちゃんがっ・・・・》


 ただならぬ声に携帯がするりと手から落ちた。カツンと音がしたのだろうが、まったく耳に入らなかった。短い言葉だけで全てを察した。有り得ないと首を大きく何度も振る。おかしなことに涙腺でも麻痺したのか呆然となった目からは涙も出なかった。


 とは言え、体内では嵐のように何かが吹き荒れているのを感じた。腹の底から何かが込み上げてくるようで私は思わず口を被った。慌ててトイレに駆け込むと便器に顔をうずめる。地の底から叫ぶバケモノのような声が出た。何か吐き出したのかそれすらわからなかった。


 やがて虚ろな視線で外へと向かう。死んだような目で辺りを見回す。白い車が二台止められている。一台はマークⅡだった。



(また・・・過去へ来たのか)


 現実逃避したい。車を見た途端そんな願いが叶ったのだと思った。ここならば恵理香も圭ちゃんも皆生きている。それに今となっては水月だって問題のうちではない。もう戻れなくても良いとも思った。


「島さん?どうしました?」


 背後から声が聞こえる。振り返ると圭ちゃんが心配そうに立っている。幽霊でも見ているのかと思った。圭ちゃんも同様なことを口にした。


「いや~離婚してボケちゃったんかな~」


 今にでも抱きつかんとする衝動を抑えて私は照れくさそうに笑って見せる。


「ボケたってよりも天にでも登ったような感じに見えましたよ」


 何気に出た一言でも今の私にはズシリとした重さがある。いろいろなことを交錯させる言葉に思えた。



「天にか・・・・」


 無理に笑いを繕うとしたが、喉がギュッと押し狭まれて笑うことすら出来なかった。

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