第52話
生憎私だけでは無かったようだ。そんな私の姿に真由美は何かを感じ取ったのか、私の方を見てから恵理香の後ろ姿に向かって顎をちょっと突きだした。そして小声でこう言った。
「あの人ね?」
何のことだと首を傾げる私に真由美はさらに続ける。
「侮らないでよ。通り過ぎた時の香りがあなたの身体から漂ってたのと全く一緒だもの」
と真由美は言ってから自分の鼻に人差し指をツンツンとあてる。
弁解の余地はないと思いつつも、真由美はそれ以上何も触れては来なかった。しかし、私はエスカレーターに乗るや、妙な汗が額に滲んでいることに気付いた。どうしてまたこんなところに・・・。それは恵理香の大胆極まりない行動に出た冷や汗でもあった。
手にした財布を最初に開いたのは子供服売り場だった。千明のもの、里美のものと大き目の袋がいっぱいになるほどレジへ運んだ。大人の服と遜色のない値段に驚きつつも、私は何でもないことのように金を支払った。時折、目をあちこちに向ける。
「また来るかしら?」
「あ‥いや。いろんな服があるんだなって──」そう言いながらも真由美と同じこと考えていた。
五階のゲームコーナーに足を運んだのはその後だった。街のゲームセンターとは違ってあくまで小さい子どもを対象としたエリアで、千明や里美にはうってつけと言って良い場所だ。クレーンゲームも百円で何回も出来る。景品よりもそんな時間を楽しむように両替した硬貨はどんどん機械に吸い込まれて行く。笑顔の観覧料だろうか。
数日もしたら飽きてしまうような景品を抱えて、六階のレストランに向かった。お昼を回ったばかりだったため店内は人で混みあっていた。それでも少し待つ程度で座ることが出来た。
「わたしはホットケーキ!」
ここのホットケーキは千明の大好物だ。食べる姿を何度も見たことがある。口の周りをベタベタにして食べていた。ただし、これで見納めである。真由美はお子様セットを頼み里美と一緒に食べていた。私は稲荷寿司が付いたタヌキうどん定食だ。
食べ終わって満たされたのか千明と里美は手を取りあってレストランを出た先のコーナーに向かった。小さい子供向けの玩具が置いてある。
「なかなかの名演ぶりよ」
子どもが居なくなり気まずい空気がテーブルの上を漂い始めたころ真由美が口を開いた。
「主演男優賞がもらえるかな?おまえの方だってノミネートものだぞ」
あえて名前は呼ばなかった。それが夫婦関係は終わったのだという表現でもあった。
「子供達・・・頼んだぞ」
「ええ。あなたこそお幸せに!・・・・さっきの人とね」
参ったという顔を見せたものの、幸せになれれば良かったという言葉は仕舞い込んだ。
「じゃ、おもちゃでも買ってやるか!」
私と真由美は席を立ち、子供らの方へと向かう。既に品定めも完了していたのか、二人とも欲しいおもちゃを手にしている。千明は着せ替えの出来る人形で里美は小さなウサギのぬいぐるみを持っていた。高いとか変だとかは言わずに私はただ笑いながら首を縦に動かすだけである。真由美は一切財布を手にしない。それがまた今日の決め事でもあった。
日用品や雑貨コーナーにも足を運んだ。あれこれ物色する真由美の姿を見ながら、実家での生活が頭に浮かんでいるのではないかと、手にする商品を一緒に見つめた。すると、私の手を真由美が握った。子供達も気付いて喜んだが、懐かしくも新鮮にも思える感触だった。
ギュッと真由美が力を入れる。無言であっても夫婦であったことを思い知らされる。これだけでも会話が成立するからである。私も返事をした。
そこから車に向かうまでの間、私は里美を抱きかかえて歩いた。片方には千明の手。重さや温もりを感じる最後の道のりだ。真由美の両手には大きな袋がそれぞれあって、やや重そうにしていたが、足取りは軽やかだ。千明の片方にも小さな袋があった。
店外へ出ると駐車場はほぼ埋め尽くされていて、どの辺りに車を止めていたのかもわからないほどになっていた。それらしい方角に向かって歩を進める。家族で歩く姿は誰の目にも幸せに満ちた光景に映るであろう。車を見送るまではこんな名演をもう少し続けなければならない。
トランクに荷物を詰め込む間、私は里美をチャイルドシートに載せてベルトを締めた。
「お父さんも早く来てね!」「きてねっ!」二人の子供の声が響く。
「ああ」と私も返す。行くとは言わないし言えなかった。
「鍵はポストだな?」
「元旦那さんは御察しが良いのね」と真由美が口の端を上げる。
「くれぐれも気を付けてな」これが恐らく最後の労いの言葉になるだろうと思った。
車がゆっくりと走り始める。後ろの窓越しに千明が手を振る。私も振った。前回のようなオーバーアクションはせずに、さりげない別れを選んだ。
車が小さくなり振っていた手を下げて振り返ると、見覚えのある服が目に映った。
恵理香がこちらを見て笑っている。私は首を振りながら近付いて行った。
「まさか、来るとは思わなかったよ」
「最後だって思ったら急にどんな感じかなって。いいお父さんしてましたよ」見直したというふうに口をふいと上げて見せた。
「しっかりバレてたけどな──」
「え!?」
「近くを通っただろ?匂いでわかったってさ」
信じられないという表情を浮かべ顔を数回横に振った。私ですらまさかと思ったのだから無理もない。
「鼻が良いのね・・・・」
「鼻が利くんだよ。それにしても冷や汗が出たぞ」言葉と一緒に苦笑いが出た。
「それでもう帰るんか?」
「そうね。でもせっかく来たんだからもうちょっと見ようかなって。島さんは?」
「一緒にって言いたいところだけど、さすがにまずいだろうから、一旦俺は家に帰るよ。家の中がどうなってるのか気になるからな」
あまり近寄らずに話していたのは、周りの目を互いに気にしていたからだろう。私は軽く会釈して車に乗り込むと誰も居ない我が家に向かって走り出した。
家族と過ごした思い出の詰まった建物が見えなくなり、話す相手もいない空間に一人きりになると、急に圭ちゃんの姿が目に浮かんだ。一時でも頭の片隅に置けた映像も今は大半を占めている。電話をしたところで話せるのは以前の圭ちゃんでしかないのだが。
そんなことを考えていると知らぬ間に我が家が視界に入った。これからはどう近所と付き合ったらいいだろうか。苦笑にも似た笑いを浮かべながらポストを開けてみる。キーホルダーから外された鍵が寂しそうに箱の隅に置かれていた。家へはそのカギを使って入った。
何か団らんという空気がどこかの隙間から抜け出てしまったように、家の中は寒々しくそれでいて広々としていた。玄関には男物の靴だけ、つまりは私のものだけが取り残されたように佇んでいた。
キッチンへと向かう。荷物になるからか新天地では不要なのか、ほぼ手つかずといった状態でありとあらゆるものが残されていた。まるですぐにでもここで暮らせと言わんばかりだ。
戸棚も開けてみる。インスタントラーメンなどもそのままだった。小腹が空いたと片手鍋に水を入れてコンロに火を点ける。それからリビングへと進む。TVもソファーもある。特に新たに買い求めるものも無さそうだと、隣の和室に目を向ける。洋服ダンスの置かれた跡が残っている。こんなにも広かったのかと足を踏み入れグルグルと眺めた。生活の匂いがすっかり消え失せていた。
ぐつぐつという音に呼ばれてラーメンの袋を開けた。そしてタバコに火を点ける。キッチンで吸うなと怒る人はもう居ない。灰を流しに落としながら箸で麺をほぐす。気楽なもんだ。
出来上がったラーメンは鍋から直接食べた。この調子なら丼も要らなくなるし、家そのものもいずれは丼と一緒になるだろうと思った。
一人で寝るには広すぎると、『リベルテ』にでもと歩き出した時、私の目が家のトイレの扉に向いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます