第15話 潜入
ノート屋で童貞廃品回収の予約をとりつけた僕は「ホテル 勉強部屋」へと足早に向かった。
先刻、ノート屋のおっさんは「本来急には無理なんだけどね。どうしてもと言うなら、この後すぐ、本当にすぐだったら女の子空いてるよ」と風俗店の黒服のようなことを言いつつ、何とか急遽のアポを巫女の子に取りつけてくれていた。
池袋はすっかり夜だった。北口の繁華街では
「巫女に『やっぱり童貞を返してください』と頼んで、すんなりと返してもらえるとは思えないのだが」
息を切らして何とか駆け足で後ろに付く永野氏が思い当たった懸念はもっともだった。それはそうだろうけど、と僕は言う。
「自分の童貞を取り戻したいのなら、何はともあれ巫女の子に会わないとどうしようもないよ」ノート屋のおっさんやヤリチン先輩はいわばこの童貞騒動の黒幕だが、童貞をアレコレしているのは巫女の子その人なのである。「それに、巫女の子はイケメン先輩がヤリチン先輩であることを知らない。またいつものようにヤリチン先輩が騙してるんだろうね。そこを突いて、目を覚まさせてあげればあるいは、と思って」
「しかしなあ、相手は悪名高いあのヤリチン先輩だぜ? 俺らが説得して正気に戻せるくらいでは、あれだけ多くの女の子を夢中にさせてとっかえひっかえできないんじゃないか」
「勝算はないよ、正直。でももうできることもないからね。断られたら次の手はそのときにまた考えようよ」
そうだな、と彼は納得した。というより、駄目で元々だと諦めて、とりあえず目の前のことだけ考えると決めたようだった。そうして現状を頭の中で整理していたのだろう、浮かびあがった当然の疑問を僕にぶつけてきた。
「ところで、今回は童貞廃品回収の儀式を受けない訳だよな。巫女に会うための方便なんだし。ということはノート屋を騙したってことだよな。うーん、それってまずくないか?」
そうなのだ。この作戦は僕の捨て身によって実現している。
永野氏はそこから思索をさらに進めたらしく、何かに思い当たったように虚空へと視線を泳がせていた。「ん、君は新百合ヶ丘先輩としちゃってるからそもそも非童貞だ……あの嫌に童貞に鋭いおっさんを騙しおおせてしまうとは……」としゃべるでもなく思考が口から漏れ出ているのが聞こえた。
その話はもう……。
僕は二の句を継がせぬよう慌てて遮った。
「まずいだろうね。ノート屋は最悪出禁、もう使えないかもね」
僕の発言で思考の世界から戻ってきた永野氏は目を見開く。
「我々堕学生にとってノート屋は生命線、そこを断たれれば死活問題だぞ、君! 僕たちはベッドで目覚めたらすでに講義が始まっているどころか終わっているという堕落病だ。ノートを借りる学科の友人もいない。ということは――留年だぞ! 他人の童貞のために留年していい訳があるか!」
「いいんだよ。今さらキャンセルもできないさ。それに、そろそろ堕落しきった生活から抜け出さないとなと考えていたところなんだ。退路を断って、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、さ」
「君……本当に、すまない……」
「もし、僕が留年したら……『彼は最後まで泰然自若と朝寝昼寝を決め込んでいた』と後世に伝えてくれよ、親友」
永野氏はググゥと呻いた。でも僕は後ろを振り返らなかった。むさくるしい男の涙など別に見たくなかっただけだ。
「ホテル 勉強部屋」は聞きしにまさるオンボロさであった。外観をざっと見回すと、今時監視カメラも設置されていないようで安心する。
あまり時間もないので観察もそこそこに足早に自動ドアをくぐり、エントランスにある小窓に向かって「ノート屋からきたんですが」と伝えると「でしたら奥のエレベーターで4階にどうぞ」とスムーズに返ってきた。
ちょっとスムーズすぎるので「ところでお聞きしたいんですが、ここの支払いとかってどうなるのでしょうか?」と追加で話しかける。
「400号室のお客様はお代はいただいておりません」
「あ、お代はいいんですか。ノート屋さんと提携してるとかなんですか?」
「まあ、そんなところですね」
「……そういえば、400号室って珍しいですよね。普通401からじゃないですか」
受付のおばさんと聞く必要もないやり取りを続けつつ背中の後ろに回した手で永野氏にハンドサインを送る。
(今だ、行け)
それを合図に、自動ドアを入ってすぐの壁際にしゃがみ込んでこちらを伺っていた永野氏が床の汚れも気にせずに
予想どおり、外だけでなくホテル内にも監視カメラは設置されていない。
「特別な、スイートルームみたいなものですかね」
「いや、そんないい部屋ではございません」
僕と受付のおばさんが投げ合う会話のキャッチボールの下を不恰好な人型ロボット掃除機が匍匐前進で進んでいく。掃除どころか廊下の汚れが増すんじゃなかろうか。
体を壁際に密着させているので、おばさんからは小窓から覗き込みでもしなければ視認できないだろう。
ウレタン素材の床を這う専門の芋虫がエレベーター前まで移動完了したことを横目で確認し、「お忙しいのにすみませんでした」と話を切りあげた。
駆け足でエレベーター前まで進み急いで【↑】のボタンを押すとすぐに扉が開いた。永野氏が文字どおりカゴに転がり込み、それを追いかけて乗り込んで4階のボタンを押す。
「うまくいったな!」
エレベーターが閉まったのを確認して永野氏は立ち上がり、僕の肩をつかんで言った。いけないことをしているという高揚感に興奮しているようだった。
「とりあえず服のホコリを払うといい……」
永野氏は自分の服を確認し顔を赤らめホコリを払った。
4階に着いた僕たちは、薄暗い廊下の最奥に薄ぼんやりと明滅する【400】に向かって進んでいく。
ドアノブを握るとその冷たさにドキリとする。背中に汗が流れるのを感じながら400号室に入室する。男2人でラブホの部屋に入る経験はこれっきりにしたいと切に願いつつ――
童貞論 宮崎 翔吾 @kojiharunyan
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