鈍色のプレリュード
望月あん
鈍色のプレリュード
ひと目見たときから、大嫌いなガキだった。
***
船を降りてからもずっと船酔いは続いていた。サカキは車のなかを汚さないためにタクシーへ乗り込もうとしたが、首根っこを掴まれて高級車の後部座席へ放り込まれてしまう。続いて隣へ乗り込んできた男に本当に危険だから別にしてくれと頼むが、からからと笑われて車はそのまま振動もなく滑り出した。
はじめて国を出た。そしてもう二度と国へ戻ることはない。流れていく街の景色をぼんやりと眺めながらサカキはどこか確信を持ってそう感じていた。港街には東洋と西洋の建物が混在していて、画一的でない街並みに次第に心が落ち着いていく。窓を開けて息を吸う。吐き出さないでさらに吸う。
「今日からここがおまえの街だ。どうだ」
明るく深い声に問われて、サカキはうなずいた。
「悪くねえよ」
うしろから頭をはたかれる。手で押さえて振り返ると男はかっかと笑って口の悪いクソガキだと嬉しそうに言った。
いつしか船酔いはおさまっていた。
本部の倉庫がサカキの仮の住まいとなった。習慣や言葉に慣れるまでは一人暮らしもままならないだろうという総統の計らいだ。はじめ客室を用意されたがどうにも落ち着かず、気づいたら倉庫に居ついていた。
帰り道を忘れてしまったようにふらりと家を出たのは真冬のことだった。夏の盛りのいまとなっては、あのころの息苦しさはサカキにとっては過去のものとなりつつある。それでも時おり眠りにつく瞬間、次に目覚めたとき、本当の自分はまだあの冬に取り残されたままなのではないかと、おさな子のように不安になるのだった。そんなときサカキは扇風機すらない部屋で、首や背中を伝う汗に縋りつくようにして息をとめた。
ある暑い日の午後だった。
日が傾きかけたころから重たげに曇りはじめ、やがて空が裂けるような雷鳴とともに驟雨となった。落雷と思しき揺れがあり、部屋の電気が息を吹きかけたように消えた。
休憩室で読み書きの練習をしていたサカキは手をとめ、大きく伸びをした。しばらく待ってみても電気が復旧する兆しはない。冷凍庫に買っておいたアイスがあるのを思い出し立ち上がったとき、玄関扉が風で強く閉まる音を聞いた。月初は構成員がそれぞれの持ち場を見回りにいくので、人はほとんどいない。報告に来るにもまだ早い時間帯だった。不審に思って休憩室から顔を出すと、急速に翳りはじめた玄関に人影があった。ひょろりと背が高い、学生服姿の男だった。全身ずぶ濡れでシャツは体に張りついて、髪からは絶え間なくしずくが滴っていた。
急な雨だったのはわかるが、ここは雨宿りには不向きな場所だ。母国語でまくし立てれば去ってくれるだろうかと思いつつ、サカキは傘立ての傘を掴んだ。並んで立つとサカキがわずかに見あげる格好となる。黙って学生の腕に傘を押しつけた。
そのときひときわ眩い光があたりを包んで白く照らした。
「え……」
激しい雷鳴に窓が揺れた。目の前の学生からは雨と血のにおいが濃く立っていた。暗がりで判然としなかったが、彼のシャツは胸から腹にかけて真っ赤に染まり、首には指の形の痣がいまもなお彼を絞めつけていた。
「カイトは」
掠れた声で彼は短く言った。サカキはすぐに返事ができなかった。返り血であることは学生が平然としていることからわかったが、であればなおさらなぜ平然としていられるのかがわからなかった。ここは子どもが安穏と暮らせる平和の国ではなかったか。
サカキが呆然としていると、学生は眉をわずかにしかめて繰り返しカイトはどこかと訊ねた。我に返り、サカキはたどたどしく口をひらく。
「今日、カイトさん、ない」
「いない?」
学生は唇をつりあげて、わずかに笑ったようだった。
「月初はここにいるってカイトは話してたけどな。じゃあ、どこにいる」
「わからない」
サカキの返事に学生は舌打ちを洩らした。
「電話を貸せ」
学生はサカキを押しのけて行こうとする。サカキは彼の腕を掴んで引きとめた。
「待つ、待て。あんた誰」
空調が切れたせいで息苦しいほど蒸し暑い。水底にいるような閉塞感があった。肩越しに振り返った学生は鋭い目を手負いの獣のように血走らせて小さな声で告げた。
ナルオミと。
***
本部の前で車を降り、サカキはビニール傘を広げた。薄汚れたビニール越しに仰ぐ空は重く垂れ込めていた。台風とはいえ、もう丸二日降り続いている。サカキは紫煙とともにため息を吐きだして玄関へ向かった。
扉を開けようと手を伸ばすと、それより早く内側からひらいた。なかにはナルオミが立っていた。
「ハセベさんを知らないか」
「は? こっちはいま着いたばっかりなんだ。知らねえよ」
「使えないな」
「あんたなんかに使われたくもねえ」
煙草を口にくわえて傘をたたみ中へ入ろうとするが、ナルオミが道をあけようとしなかった。出会ったころよりさらに見上げなければならなくなった顔を睨みつける。ナルオミは外へ出てきて、背中で扉を閉めた。
「サカキ、おまえはどう考えてる」
半月前に総統が血を吐いて倒れ、入院した。医師の診断によると癌がかなり進行しており、もう長くはないということだった。それから組織内は一気に騒然とした。カイトの他にも総統の血を継いだ子がいるという噂が流れはじめたからだ。事実を知ると思われる側近のハセベは口を割らないが、それこそが肯定なのだとみなは理解していた。
カイトか、もしくはもうひとりのまだ見ぬ後継者候補か。組織内はいまその話題で持ちきりだ。口では不謹慎だと言うものたちも、本心から総統の病に心を痛めているわけではない。それがサカキには手に取るようにわかった。これではもう、総統はすでに死んでしまったのとおなじであった。
そして先ほど、危篤状態になったと病院から連絡が入った。夫人とカイトが病院へ向かい、あとは本部待機となった。
「まさかあんたからもその話を振られるとはね。意外だよ」
「感傷的だな」
「さあ。ただ、まだ生きてるからな」
「それはつまり、総統にもしものことがあったら動くということか」
「どうかな。動くかもしれないし、動かないかもしれない」
遠くの空が時おり明るくなる。雲に覆い尽くされて蠢く空は冬の海のようだった。
「俺ぁ、流されるようにして親父さんの船に乗ってこの国まで来た。これからも流れるしかできねえな」
「だが泥舟には乗らないだろう」
鋭利な眼差しを細めてナルオミは断定的に微笑った。
「まったく、クソむかつくな」
「いまこの組織内で、おまえほど冷静なやつはいない。俺はそれが怖いだけだ。サカキ、おまえはいつ親父さんが死んだって平気なんじゃないのか」
「親を見送るのが子の役割だからな」
いつ死んでもおかしくない世界に生きている。今日は味方だった男が明日は敵かもしれない。総統に拾われたときにサカキは心に決めたのだ。血の繋がった両親を見送ることはもうない。ならばせめて、この縁だけは自分から断ち切ってはいけないと。
ナルオミは腕時計をちらりと見やって、短く鼻で笑った。
「だからおまえは油断ならない」
「そりゃ、どうも」
「ハセベさんを見つけたら俺が探していたと伝えてくれ」
そう言い残してナルオミは扉の向こうへ消えていった。
天気予報は知らないが、この場所はこれから嵐になる。
胸騒ぎと静寂が胸のうちで均衡を保っている。いつかその日が訪れるのなら傘を差せる今日にしてくれと、サカキは信じたこともない神に静かに祈った。
鈍色のプレリュード 望月あん @border-sky
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