『ビルの下』
N(えぬ)
やがて誰も知らなくなる物語
ここはビル建設の現場。朝の始まりは職場ごとの朝礼が行われ、それから作業員が散って仕事が始まる。それが毎日続く。
『Tスカイビル』の建設事務所宛にその手紙が届いたのは1ヶ月ほど前のことだった。
『Tスカイビルの下には三井峰夫さんが埋まっています』
茶色の事務封筒にその一行だけがポツンと印刷されたA4紙が入って届けられた。差出人の情報は何一つ書かれていなかった。切手が貼られていて消印もあり、正規の郵便物としてポストに投函されたらしいものだった。消印から考えて、このビル建設現場の周辺のポストから投函されたものと思われた。
建設現場の事務所に怪文書のようなものが送られてくるのは、さほど珍しいことではなかったから、この手紙も、嫌ないたずらをするものだという程度に受け止められて黙殺されるところだった。だが、この現場で工事の監督補佐をしていた今泉は、上司がひねってゴミ箱に放り込むのを「僕にも見せてもらえますか?」と制止して引き取った。
「この三井っていう奴に心当たりあるのか?おまえ」上司は眉間に険しいしわを寄せて今泉に聞いた。
「前に見た名前のような気がするもので」
「名前しか書いてない。おまえの思い違いだろ」上司は少し語気を強めて言ったが、今泉はそれでもその手紙を「一応預からせてください。他のおかしな手紙と一緒に保管しておきます」と受け取って自分の机の引き出しにしまった。
*
この場所は、25階建ての商業施設とマンションの複合ビルを建てている。工事が始まってそろそろ1年だ。
今泉は25才。この建設現場を主導する会社の社員で監督の補佐をしているが、主な仕事は人員の管理や事務関連の仕事だった。多くの人間が建設に従事しているし、顔ぶれの入れ替わりも多い。そんな中、現場で誰がどんな仕事をしているのかをデータ上、細かく把握しているのは彼だった。だからこそ『三井峰夫』という名前にピンと来たのだ。彼の記憶の中で、『三井峰夫』は名前と顔が一致する男だった。
今泉はパソコンでこの現場に関わった者のデータを開き、『三井峰夫』を検索してみた。「あった」。該当者は一人だけ。出入りの建設会社の人間で、建設工事の開始当初から従事している記録があった。だが2ヶ月後に記録が無断退社とされていた。
「ああ。あの爽やか青年か」
今泉は、パソコンを見ながら記憶が呼び覚まされて小さく声を発した。
思い出した三井峰夫は、人好きのする当時20才の若者だった。だが個人的にどんな人間だったかを今泉はたいして知らない。彼はすぐに、事務所を飛び出して作業員が行き交う現場を縫い三井峰夫が所属していた出入り業者の責任者に会いに走った。
「一年前、『三井峰夫』って男の子が働いてましたよね?」
今泉は世間話のような調子で50過ぎくらいで頑丈そうな、業者の責任者に声を掛けた。
「ミツイ・ミネオ?そんなのいたかな?」と業者の男は首をひねって考えた。今泉は自分が覚えている『三井峰夫』の容姿や人となりを付け加えて話すとがやがて業者の男は「あぁ~」と言った。
「よく気が利くいい奴だった。仕事も出来た……だけど、確か2ヶ月くらいしたときに突然来なくなってよ。携帯に連絡しても通じなくて、誰かに家に電話させたんだ。そしたら親も居場所は知らないって言ってたらしい。誰かと一緒に暮らしているようだ、としかわからないって。ウチもそれ以上のことは知らないよ。突然仕事に来なくなる奴は珍しくないからな」
「そうですか。ま、彼が働いていたと言うことは確かなんですね」
「うんうん。いや。思い出したよ。あいつがいなくなって、親の家に電話してみただろ?その後しばらくして、今度はその親の方からウチの会社に電話が来たんだったなぁ。親のところにはときどき連絡が来てたのに、さっぱり音信不通になって行方不明なんだって。ウチの会社に来てないか?って聞いてきたらしい。もちろんウチじゃあわからないから、そう説明したようだけど……多分それっきりだな」
「仕事に来なくなって、同じ頃に、親への連絡も途絶えて探されてた、ってことですね。警察に捜索願とか出されてるんでしょうか」
今泉は、自問自答のようにそう言った。
「さぁ。それはわからないよ」めんどくさそうに言われた。
*
「ビルの下。基礎部分という意味かな。そこに三井峰夫が埋められているのか?……そんなことがあるだろうか。ビルの下に人が埋まっているかどうかなんて、もう確かめようがない。ビルは半分出来上がってしまってる。あと1年と少ししたら完成だ。もし三井峰夫が殺されたのだとしても、遺体を回収して調べることは出来ないだろう?」
今泉は自室のベッドに寝転がって思案した。三井峰夫について調べてみたい衝動を持った。
「けれど、事実かどうかは別にして、そんなことが外部に漏れて噂にでもなったら、あのビルはどうなる?……完成しても入居者がいなくなってしまうだろうな。興味本位で下手なことをしたら、大問題になってしまう」
彼は考えながら幾度も寝返りを打った。
*
日がたつにつれて今泉は例の手紙について気にはなったが重く捉える気持ちは大分失せていた。たった一行の何の説明もない文面では、どうにもならなかった。
だがある日、もう一度同じ手紙が来たのだ。今度は今泉が最初にそれを見つけて、誰にも言わず秘匿した。そして後から開封した。
『Tスカイビルの下には三井峰夫さんが埋まっています』
前回と同じく茶の封筒にコピー用紙で一行だけの文面。
「あっ」今泉は思わず声が出た。
「封筒と紙と文に使われているフォントに切手……この組み合わせ、見覚えがある!」
その日、今泉は手紙を持って早退し、『三井峰夫』が勤めていた会社の現場事務所で事務員として働く井坂京子を待ち伏せた。
「すみません。僕のこと知っていますか?」今泉が彼女の前に出てそういうと、彼女は一瞬驚いて青ざめたが、「はい。今泉さん」と小さく応えた。彼女に今泉はポケットから茶色の封筒を出して見せ、「この手紙。あなたが出したんじゃありませんか?この封筒と紙に切手、文面のフォント。この組み合わせはあなたの会社のものですよね。以前に、何かの書類をわざわざ封書で送ってきたのを僕は見た覚えがあります」と言うと彼女は無言でこくりと頷いた。
井坂京子が今泉に話したのは次のようなことだった。
三井峰夫は井坂京子と消息を絶つ前まで交際していて、同居していた。
三井峰夫は消息を絶った日は残業がありいつもより退勤が遅くなった。その帰り道にスマートフォンを職場のロッカーに忘れたことに気づき井坂京子に、スマホを取りに戻るからと公衆電話で知らせてきたのだという。ところが、三井峰夫はその電話を最後に消息を絶ったという。その後、ビルの建設を主導している今泉の会社に気づいて欲しいと思い、手紙を出したのだった。
「警察に相談したんですよね?」
「しました。……けれど、事件性を疑うものがないので、といわれました」と井坂京子はコーヒーショップのテーブルでうつむいた。
井坂京子に話を聞いても、結局彼女が知っていることに決定的な証拠らしいものはなかった。
小説に出てくる頭脳明晰な素人探偵のように捜査を続ける能力は今泉にはなかったし、おおっぴらに三井峰夫のことを聞いて回るような行動は、それを考えるたびにこのビル建設のプロジェクトを抹殺してしまう可能性が立ちはだかって今泉にストップをかけた。
*
1年と少し後『Tスカイビル』が完成した。
今泉は人知れずTスカイビルの最上階に登った。ビルは完成したが三井峰夫の問題は何の進展もないままこの日を迎えていた。そんないきさつを知っているのは今泉修一と井坂京子だけだった。
あの日、「三井峰夫は、忘れたスマートフォンをロッカーに取りに戻ったらしい」という事実だけがあり、その間に何が起きて彼がどこへ行ったのか。犯罪に巻き込まれたのか?事故があったのか?それともただふらりと気まぐれに蒸発を思い立ち、彼はどこかで元気にしているのか?
落成式で関係者は喜び、皆が拍手をした。だが、このビルの落成に関して三井峰夫のことを気に掛けている人間は今泉以外に誰もいなかった。
ビルに入居者が入る前、今泉はビルを訪れ最上階に登り、誰も見ない隠れた部分の壁にポケットから取り出したクギを使ってガリガリと『三井峰夫 ここに眠る』と彫った。何の証拠もないし確信もなかったが、彼は実行した。
*
今泉修一と京子は夜の道からTスカイビルを見上げた。
周囲には広々とした公園が広がり緑が多く配置されていた。曲線を配した、異空間を感じさせる不思議な美を見る者に感じさせるビルは燦然と輝く美しい光を放っていた。
「幸せにします」
修一が呟くとTスカイビルの窓の明かりが突然全て消えた。そして建物の下の窓からゆっくりと明かりは電光掲示板のようにビルの上方へと向かって行き、やがて光が文字を作り出した。
『ア・リ・ガ・ト・ウ』
修一は京子の少し膨らんだお腹を見た。
おわり
『ビルの下』 N(えぬ) @enu2020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます