終章 振り返ると君の言葉が

 「純平!純平!早く来なさい!」


 母親が玄関から大声で僕を呼び出していた。高校時代の思い出に浸っていた僕は、その声でやっと我に返った。

 由香子との出会いは今思い出してもほろ苦く、僕は大きなため息が出た。思い出をたぐり寄せるうちに、あの時の辛い気持ちが蘇ってきてしまった。


「純平!美紀ちゃんが来てるわよ。今日、一緒にご飯食べに行く約束したんでしょ?待ってるから早く玄関に来なさい!」


 再び、母親が僕を呼ぶ声が聞こえてきた。

 そうだった。今日はこれから式場で結婚式の打合せをして、その後は彼女の好きなイタリアンのお店でご飯を食べる約束をしていた。

 この手紙……どうしようか?このまま処分したら、もうあの時の苦い思い出を完全に断ち切ることが出来るかもしれない。でも、僕は由香子からの手紙を、保存用のレターケースにしのばせた。


 僕が最後の手紙を出した後、由香子からの返事は来なかった。

 でも僕は、手紙を出したことで彼女について良くも悪くも踏ん切りがついたような気がした。その時僕は、彼女から送られてきた手紙をことごとく処分した。

 由香子と別れてからの僕の人生は、人前で堂々と語れるような人生では無かったかもしれない。進学した大学は目指していた早稲田ではなく、東京近郊の中堅の私立大学だったし、卒業後は地元に帰り、中小企業で事務仕事をしている。もちろん、その間も合コンする機会もあったし、インターネットの出会いサイトで女性と知り合う機会があった。けれど、昔と変わらず話がつまらない、頼りない自分のままで、案の定、お付き合いする前に振られてしまうことばかりで、この歳になるまで彼女すら出来たことがなかった。

 でも僕は、彼女を作るためにわざと自分という存在を大きく見せよう、偽りの自分を見せようということはしなかった。由香子と出会わなければ、僕はずっと自分を偽って生きてきたかもしれない。そして偽った自分を好きになった相手と付き合い、その後もずっと自分を偽り続け、本当の自分を晒すのが怖くなり、本性がバレるのを怖れて毎日びくびくしながら生きていたかもしれない。

 

 由香子とのことは、自分の人生の中では苦い思い出であり、一度は全て捨て去ったはずなのに、気が付けば、由香子は今も僕の心の中に生きる「勿忘草」になっていた。あの頃の由香子にとって、僕が「勿忘草」だったように。

 由香子との思い出は辛いことばかりだけど、由香子のことはいつまでも忘れずに、ありのままの自分でこれからも生きて行こう。


「純平!何やってんの?美紀ちゃんをいつまで待たせるつもり?」

「はーい、今すぐ行くから、ちょっと待ってくれよ!」


 あの日と同じく、窓からは桜の花びらがはらはらと舞い降りてきた。まるで僕のこれからの人生を祝うかのように。

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勿忘草~僕の初恋は、一枚の手紙から始まった~ Youlife @youlifebaby

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