第二話 善悪ある思想が

 お久し振りです。二年三組所属、辛見ツラミクラです。


 早速ですが、経過報告です。

「ヒーちゃん、お昼だよ!」

 私が声を掛けると、ヒーちゃんは私の方を向いてくれます。

 四秒間、沈黙。

 ヒーちゃんはゆっくりと口を開きました。

「…たしか、辛見さん、でしたっけ?」

「はい。そうです。辛見伖です」

 どうですか! 結構な進展でしょう!

 毎日ヒーちゃんの席に通い詰め、つい最近、名前に興味を持ってもらえました。

 まあ、嬉しかったのですが、そこそこ驚きもしました。ヒーちゃんが「何さんでしたっけ」と訊いてくれたのです。再びヒーちゃんから訊かれるとは思っていませんでした。

 ヒーちゃんは人間概算ガールなのです。

 ただ、そう考えますと…。

「ヒーちゃん、人の認識が苦手と言いつつ、名前を覚えるの自体は早かったですよね」

 流石です。

 私は近くの椅子を拝借し、ヒーちゃんの机にお弁当箱を置かせてもらいました。

 ヒーちゃんは鞄からランチボックスを取り出しました。

「…まあ、授業の度に名前を聞くので、流石に」

「あー。…えへへ」

「ダメだと思いますよ。授業は真面目に受けなくては」

「はーい」

 そう言われれば、そうでした。私、毎回、先生に名前を呼ばれていました。「辛見さん、起きてください」と。

 きっと、私が覚えていない相手にも、私の名前は知られているのでしょう。

「ところで…」

 ふと、ヒーちゃんは眉を顰めました。

「私、人の認識が『苦手』だと言いましたっけ。『得意でない』と言っていたつもりなのですが」

「あ。そうでしたね。『苦手』とは言っていませんでしたね。すみません」

 私がへらっと笑うと、ヒーちゃんも眉の皺を引かせました。

 使い熟せば便利なものって、この世界の至る所にありますよね。例えば、表情とか。

 まあ。その話はまたの機会に。


 合掌。

「いただきます」

「いただきます」

 食前の挨拶、今日はヒーちゃんのほうが少し早かったです。あるいは、私のほうが少し遅かったです。別に、どちらも言っている事は同じです。表現としての誤差はありますけど、その差は実に小さいものです。

 でも、同じ『早い遅い』の話にも、小差で済まない場合がありますよね。「そっちが早い」と「こっちが遅い」のどちらかは正しくないって事、ありますよね。

 例えば、みんなでペースを合わせる時とか。合唱や、共同制作や、団体行動など。

 …こういうの、ペースに正解がないと多数決の原理が自然発生しますよね。時折、正解があるのに発動してますけど。

 あと、『遅い』と『早くない』だと意味合いが変わりますよね。『遅い』は「基準より遅い」で、『早くない』は「全体からすると遅いほうだが、基準からは外れていない」って感じがします。

 先ほどヒーちゃんが言っていた事も、こんな感じだったはずです。『苦手』か『得意でない』か。おそらく、ヒーちゃんは「苦手」と明言することを避けたかったのでしょう。

 そして、ずっと前にヒーちゃんが言っていた事も、ここに行き着くはずです。

「ヒーちゃん。質問いいですか?」

「なんでしょうか」

 満を持しまして。

「『道徳的』って、どういう意味ですか?」

「「道徳に沿っている」という意味ではないですか?」

 ヒーちゃんは不思議そうに首を傾げました。

 そうですよね。辞書にはそう載っていると思います。でも、そうじゃなくて。そうじゃなくて、ですね…。

「私は、ヒーちゃんが使う『道徳的』って言葉、それの意味を聴きたいんです」

 私はヒーちゃんのロジックが知りたいのです。

 ヒーちゃんは目を伏せました。

「私、『道徳的』って言葉、使いましたっけ」

 確かに、この教室では一度も聴いていません。二年三組の教室でなく、一年二組の教室で聴いた単語です。ですが、確かにヒーちゃんが使った言葉です。

 一歩離れる。

 ヒーちゃんの顔は陰っていました。この話は聴くべきでないのかもしれません。

「あ。どうしても聴きたいって訳ではないです。ただ、ちょっと気になっただけなので…」

「いえ、大丈夫ですよ。話したくないって訳ではないので」

 ヒーちゃんは私に顔を向けました。

「ただ、ちょっと、こういう話は恥ずかしいので」

 ヒーちゃんは微かに笑みました。表情です。


 ヒーちゃんはサンドイッチを咥えました。噛み切りました。噛み、噛み、呑み込みました。そして、話を始めました。

「では、まず、『的』という接尾語から」

 接尾語…。

「道徳的の『的』は一般に「その分野の」という意味だと、私は思っています」

 科学的とか現代的とかの『的』ですね。科学的は「科学分野の話題である」という意味、現代的は「今の時代に相応しい」という意味、道徳的は「道徳に沿っている」という意味、ですかね。

「対し、『道徳的』の『的』は「それに近い特徴を持った」という意味で使っています」

 例えば、科学的。

 科学は自然が舞台です。当然、必然、整然の世界です。起こるべくして起こる現象の世界です。1+1=2。力が働けば物体は運動を行う。形ある物はいつか壊れる。

 しかし、人間には心があります。個性があります。私と同じ感性を持つ人は一人として存在しません。

 私の言う「壊れる」と誰かの云う「壊れる」は意味が異なります。私の言う「運動」と誰かの云う「運動」は意味が異なります。私の言う「1」と誰かの云う「1」は意味が異なります。

 私と誰かで「1」も「+」も「=」も「2」も意味が違えば、「1+1=2」の意味は全くの別物です。私が「正しい」と考える事も、誰かが考え直すと「正しくない」事に変わってしまいます。『起こるべく』も『起こる現象』も消えてしまいます。

 このままですと、人間は科学を語れません。科学を語るに、人間は自由が過ぎていました。

 そこで、人間は定義や公理を掲げました。みんなの云う「1」を統一しました。「運動」という単語の指す現象を決めました。「正しい」を定義しました。定義や公理に従い、科学を考え始めました。これが論理です。

 科学は、言わば、絶対正しくなるように語られているのです。

 科学的とは「そんな科学に近い特徴を持った」状態、すなわち、「正しくなるように語られている」という意味でも使われます。論理的ってやつです。

 さて。科学の話はまたの機会に、ということで。

 今は『道徳的』の話です。

「『的』が「それに近い特徴を持った」という意味ですから、『道徳的』は「道徳に近い特徴を持った」という意味になります」

 ではでは。続きまして、道徳の特徴とは?

「私は、道徳のことを『善悪ある思想』だと思っています。表裏がある、清濁がある、そういう考え方です」

 決まり事でなく考え方である、と。規範でなく思想である、と。

「本来、善も悪もないじゃないですか。この世界で起こる事は全て、何かが何かを守った結果です。私物は個体や種を保つために活動しています。自然現象は物体がエネルギーの流れに従っているだけです。善も悪もないんです。

 面には表も裏もなかったはずです。好き好きなら、世の中に清澄も汚濁もなかったはずです。

 ですが、道徳には善悪があります。ならば、それらは道徳を語る誰かが設けたのでしょう。善を、表を、基準を、誰かが定めたのでしょう」

 科学みたいですね。

 道徳を語るため、誰かが「善」を定義した。定義された「善」に従い、みんなは道徳を考え始めた。「悪」を考え始めた。…みたいな。

「道徳は、ある事を「善」と定めました。善でない事を「悪」と定めました。二択です。モノクロです。善か悪かしかありません。

 そして、誰かが定めた善を、一人一人が善だと信じました。短絡的に定められた悪を悪だと信じました。信仰です。ステレオです。善は善、悪は悪としか考えていません。

 私は『道徳的』をそういう意味で使っています。「二択に縛られている」や「考え方が固定されている」といった感じです。

 二択にしても思想にしても、それは誰かが定めたものです。その誰かは縁や所縁のない人かもしれません。何度か会った人かもしれません。あるいは、自分自身かもしれません。ですが、誰が定めたものであろうと、誰かが勝手に定めたものであるに変わりありません。そんなものに苦しんであげる義理はないと思いません?」

 ここでの「苦しむ」はストライクゾーンが広いのでしょう。お昼に何を食べるかで迷うことも含まれるのでしょう。泣けないほどの切羽も含まれるのでしょう。

 『道徳的』の例。ある本が「難しい」か「難しくない」かを、文字の濃度が教科書より高いか低いかで判断すること。これも『道徳的』な考え方なのでしょう。

 ヒーちゃんは自分の手元を見つめていました。

「もちろん、比較は有用です。基準がなければ、社会で人は行動できません。また、いくら選択肢があっても、最後に選ばれる肢は一つだけです。

 ですが、勝手な基準に縛られて、無意味に苦しむなんて、嫌じゃないですか」

 食わず嫌いも『道徳的』の一例かもしれませんね。その食べ物は野菜か否か。その本は難しいか否か。その行動は善か悪か。怒られるか否か。

「…まあ。具体的な話はまたの機会に、ということで」

 ヒーちゃんは再びサンドイッチを咥えました。


「でも、そう考えると確かに、人間って一概に言えちゃいそうですね」

 私は弁当箱を包みで覆い、口を結びました。

「どう言えちゃうんですか?」

 ヒーちゃんは私に顔を向けました。一切れ目のサンドイッチは食べ終えたようです。

「え。いえ、特には考えていなかったんですけど…」

 なんと言いますか…。

「ほら。人間の輪郭は人間にできない事で象れるなー、とか。人類皆同じ行動をとる状況はあるよなー、とか。…です」

 道徳的だったでしょうか。

 ところが、ヒーちゃんは「そうですね」と笑いました。案外、好感触です。

 ヒトは生物学だか分類学だかで定義されています。形態や習性で定義されているのでしょうか。

 では、人間はどう定義されるのでしょうか。人間を定義できた時、そこに全てのヒトは収まるのでしょうか。そこにヒト以外が入ることはあるのでしょうか。

 まあ。この話もまたの機会に、ということで。

 ヒーちゃんは二切れ目のサンドイッチを食べ始めました。



 放課後。二年三組の教室。

 私とヒーちゃんの二人きり。

 お昼休みと違い、放課後は「進展」の一言で表せない状況です。なんと言いますか、妙な経過具合です。

 初日と同じ状態が続いています。ヒーちゃんは帰り支度の後、読書を始めます。私がすべき事はヒーちゃんの気を引くことです。毎日、ヒーちゃんが乗って来そうな話題を提示しなければなりません。アラビアンナイトですか?

 とにかく、ヒーちゃんは私を待っています。もしかすると、ヒーちゃんは性格がよろしくないのかもしれません。

 ただ、それでも、私を待ってくれているんですよね。そこがちょっと嬉しいかもです。


 ヒーちゃんは鞄を閉め、机の上に置きました。帰り支度は終わったみたいです。

 それから、ヒーちゃんは椅子を少し引きました。鞄の陰にあった本を取り、開き、栞を人差指と中指で挟みました。一、二ページ戻り、読書を始めました。

 その流れを、私は隣の席から眺めていました。

 …いや。別に何もしなくてよいのかも。

 私はヒーちゃんの話を聴きたいです。ヒーちゃんのことを知りたいです。あと、私の話にヒーちゃんが答えてくれることも嬉しいです。

 でも、その機会を与えられれば満足なのかもしれません。権利が欲しいだけなのかもしれません。行使したい訳ではないのかもしれません。

 私、ヒーちゃんが嫌がる事は基本的にしたくないのです。ヒーちゃんの邪魔になりたくはないのです。

 私は机に顔を伏せました。


「辛見さん?」

 名前を呼ばれました。名字を呼ばれました。なんの授業でしたっけ。今回は眠っていました。

「おはようございます。すみません、寝ていました」

 黒板が遠い。後ろの席ですね。でも、先生は居ません。クラスメイトの姿も見えません。教室は仄暗いです。私、何してましたっけ。

 見慣れぬ光景、見えぬは当世。とりあえず、何か失敗しているのは確かっぽいです。移動教室? 集会? 今さら、なんでもいいですけど。

「…大丈夫ですか?」

 左を向くと、そこにはヒーちゃんが居ました。私の隣に立っていました。なぜ、ヒーちゃんもここに残っているのでしょう。

「ヒーちゃん。今、どんな感じですか?」

「あの、寝惚けてます?」

 ネボケテマス? 寝惚けてます? 寝惚けてます。

「はい。少し」

「ここがどこだか、わかりますか?」

「学校…」

 学校、ですよね? それで…。

「あ。放課後か」

「はい」

 随分と日が長くなったものです。この時刻、冬だったら真っ暗でした。

「ヒーちゃん、こんな時間まで本を読んでいたんですか?」

「…はい」

 ヒーちゃんは私の方を見ていませんでした。顔はこちらに向いているようでしたが、夕暮れ、表情はよく見えませんでした。

 ヒーちゃんが言いました。

「大変お待たせしました。帰りましょうか」

 私はゆっくり過ぎたようです。


 冬ほどでないとは言え、廊下も十分に暗くなっていました。窓の外には点々と人工の灯が見えました。

 そう言えば…。

「ヒーちゃん、教室の電灯は点けなかったんですか?」

「ええ」

 ヒーちゃんは前を向いたまま答えました。

「まだ文字が読めるから大丈夫だろう、と。それで、気付けばこんなに暗くなっていました」

「目、悪くなっちゃいますよ?」

 ヒーちゃんにもマヌケな一面があるのですね。好感です。時が経つのも忘れ、本を読んでいたのですね。

 しかし、それはどういう事なのでしょう。「ヒーちゃんは集中力がすごい」という事なのでしょうか。「ヒーちゃんは明暗に対する感覚が鈍い」という事なのでしょうか。それとも、「ヒーちゃんは読書が好き」という事なのでしょうか。

 そうでした。聴かなければならない話がありました。

「ヒーちゃん、質問です」

 ヒーちゃんは私に顔を向けました。

「ヒーちゃんは何を以て、何かを『好き』と言いますか?」

「何を以て、でしょうね」

 ヒーちゃんは再び前を向きました。

「よくわかってないです」

 では、尋ね方を変えます。回答者が困るは質問主の非です。

「ヒーちゃん。ヒーちゃんが読書を好きと言わないのは、どうしてですか?」

 『道徳的』と同じく、読書の好き嫌いをヒーちゃんから聴いたのは去年です。ヒーちゃんは不思議に思っているかもしれません。

 ですが、ヒーちゃんはそこに頓着せず、答えてくれました。

「私が「何よりも読書を優先する」と言えないからです」

 構わないのでは? むしろ、何よりも読書を優先する人って居るんですか?

「例えば、私は本を読んでいましたが、今、帰途に就いています。読書より下校を優先しました」

 構わないのでは? むしろ、分別がついていて素晴らしいと思います。

「例えば、何もする事がない時、必ず本を読むとは限りません。読書以外で時間を潰すこともあります」

 構わないのでは? 読書週間でもそこまでしませんよ? そこまでしたら読書修行ですよ? 御経じゃあるまいし。

「例えば、読書を拒む時があります。本を読むくらいならば、もっとマシな事をしたい。読書だけはしたくない。そう思ってしまう時があります」

「構わないのでは?」

 声に出してしまいました。

 ヒーちゃんは私に顔を向けました。

「そうですか?」

 …でも、声に出してはいけないという決まりもないですよね。言っちゃいますか。

「ええ。構わないと思いますよ。私は『好き』がそういうものだと思っています。

 別に、「読書が好き」といっても、読書の全てを肯定する必要はないと思っています。物事はそう簡単にできていないはずですから、一点で全ては語り切れないはずです。

 「よい」と思った点に「好き」と云えば、それでいいと思います。「本を読みたいな」という瞬間があれば、それだけでいいと思います。「本は読みたくないな」って時があっても、構わないと思います」

「ですが、でしたら、「悪い」と思った点は「嫌い」と云えてしましませんか? 「本を読みたくないな」という瞬間があるなら、「読書が嫌い」という事になりませんか?」

 ヒーちゃんの声はどことなく悲しそうでした。

 でも、ごめんなさい。堪え切れず、私は表情を緩めてしまいました。

「ヒーちゃん。それは、あまりにも道徳的じゃないですか?」

 私は、ヒーちゃんが何か答えるより先に、言葉を続けました。

「もちろん、ヒーちゃんの言う通りです。『好き』が自由なら、『嫌い』も同じくらい自由であるべきです。

 でも、自由なんですよ。誰がどう思っても勝手じゃないですか。何に「好き」と云おうが勝手じゃないですか。「嫌い」を云わないのも勝手じゃないですか。

 私はヒーちゃんの『好き』が何かを尋ねました。でも、ヒーちゃんに『好き』がなくちゃいけないって訳じゃないんですよ? 聴きたいなって、私が一方的に思っただけですから。むしろ、それでヒーちゃんに変わられたら寂しいです」

 まあ。変わるかどうかも、ヒーちゃんの自由なんですけどね。

「…そうですか」

 ヒーちゃんは俯いていました。

 私は要らぬ事を言ってしまったみたいです。


 ヒーちゃんは少し顔を上げました。

「辛見さん。変な話、してもいいですか?」

「はい。もちろんです」

 歓迎です。ぜひ聴かせてください。

 ヒーちゃんは前を向いたまま、私の方を見ないまま、話し始めました。

「私は私が好きです」

 ?

「私にとって、『好き』の指標はそこなんです。

 私は何より私を優先します。何をなすにも、私自身の利を考えます。私が苦しいだけの事はしたくありません。私は「他の何より私が好きだ」と言えます。

 私は生まれてからずっと、私と一緒にいます。私の事を私より知っている人は居ません。そして、私は私のよい点も悪い点もよしと思えます。私は他の誰より「私が好きだ」と言えます。

 私にとっての『好き』って、そういう事なんです」

 自分に対する感情こそが『好き』である。

 ナルシストとは違うと思いました。自己の評価については触れていません。優れていようと劣っていようと、ヒーちゃんは自分自身を好きでいるのでしょう。

 一方、自己と他の比較はしています。自分自身を特別扱いしています。でも、自分を優先するって、当たり前な気がします。

 『好き』を語る上での前提。これは、『好き』の定義というより、『好き』の公理ですね。「私は私が好き」を認めた上で、ヒーちゃんは『好き』について考え始めるのでしょう。

「…笑ってます?」

 ヒーちゃんは私の方を見ていました。私は笑っていたそうです。ヒーちゃんがそう言うのなら、そうなのでしょう。

「はい。ヒーちゃんが何を以て『好き』と言うか、聴けてしまったので」

 あれ? これ、受け答えとして合ってましたか?

 ヒーちゃんは「そうですか」とだけ答え、再び前を向きました。


 『好き』の話はここまで、ですね。これ以上進むと、私はまた余計な事を言ってしまいそうです。

 続きはまたの機会に、ということで。



 昇降口に近づいてきました。そろそろお別れです。

「…あ。そう言えば」

 私はヒーちゃんに尋ねました。

「『人は一人で生きていけない』って、どういう意味だったんですか?」

 いつだか、昇降口でヒーちゃんから聴いた文言です。

 ヒーちゃんは「え?」の後、「あぁ」と零しました。

「大した話じゃないのですが…」

 ヒーちゃんは簡単に話してくれました。

「社会で人が生きるには、他の人から助けてもらう必要があります。

 ですが、それは社会があるからではないか。他に人が居るからではないか。…という話です。この先の時代、人が生き辛くなる要因は一般常識や社会様式にあるのでないか、という話です。

 今、人類が滅亡しても、人っ子一人くらい、慣性的に生きていられるんじゃないかなーって思っただけです」

 へえ…。そうですか?

「まあ。この話はまたの機会に、ということで」

 昇降口に着いてしまいました。ヒーちゃんは上履きを下駄箱に入れ、下履きを取り出しました。

「それでは、辛見さん。また明日」

「あ。はい。また明日」

 ヒーちゃんは靴を履き、昇降口を出ていきました。

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