送別

玉城生龍

第1話

                    「一週間後死ぬことにした」

話の途中にさらっと出てきた言葉を一瞬、僕は聞き流してしまいそうになった。

その日、彼と僕は公園で会った。少し汗ばんだ彼の顔は街灯の影に隠れていた。僕にはなんだか彼が笑っているように感じた。彼の言葉にはどこか現実味があった。


あれは小学四年のときのことだった。休み時間、彫刻刀を持ってきていた彼は突然、ランドセルに向日葵を彫り始めた。僕らは呆然とそれを眺めた。ランドセルに花を刻むその姿が、僕らには、剣を掲げた勇者に見えた。次の日、僕らのロッカーにはたくさんの花が咲いていた。一週間後、その光景は小学校中にひろがった。事態は、それを問題視した大人達が保護者を交えた集会を開くまでに発展した。高価なランドセルに彫刻刀で落書きをするなんて容認されるはずがなかった。彫刻刀で満足のいく絵が彫れるはずもなかった。けれど、親や教師がどれだけ叱ってもその流れは止められなかった。歪んだ花の咲いたランドセルは僕達に自信を与えたから。あの頃、彼自身が流行だった。

彼は「思い立ったが吉日」ということわざに手と足が生えたような人だった。

あれは去年の十月ごろのことだ。朝目が覚めて、ふと漁師になろうと思った彼は空港に向かい、その日の正午には北海道にいた。別に北海道にあてがあったわけではなかった。彼の中で漁師といえば北海道というイメージがあっただけだった。

北の大地に降り立った彼はとりあえず港を目指して歩き出した。しかし、彼の大冒険は早々に打ち切られることになった。未成年で親の承諾書がなかった彼は、港にたどり着く直前に警察に補導され、八時間後帰ってきた。結局彼は、ただ飛行機に二度乗って日帰り北海道旅行をしただけだった。

その話を聞いて僕は笑った。けれど、その姿に僕は憧れた。次に彼がなにをするのか、僕は胸を躍らせた。そんな僕もその日は笑って話を聞くことはできなかった。


「自分の長所をノートに書き出してみた」

 彼は話し始めた。

「そしたらおれが周りに優っているとこがなにもなかった」

 彼も自分と周りを比較していたのだ。そのとき初めて彼も十九歳の青年だったんだと気づいた。

「だからさ、死んだら周りとは違って見える気がした」

他の人が聞いたら呆れられるような理由だった。しかし僕には彼を否定しようという気持ちは起きなかった。それどころか止めようと思う気持ちさえ少し萎えてしまっていた。僕にも彼の気持ちが分かったから。

十年後、僕がその日のことを思い出したら、幼稚な考えだと恥じるのだろうか。それとも大人になった僕もまだそんな考えを持ったままなのだろうか。

ただ、十九歳の僕らにとって周りの人と違っているということは自分自身を表現するということだった。

だから僕は静かに彼の言葉を聞いた。彼の発する言葉を一言も聞き漏らさないように意識を集中させた。汗とたばこが混じった臭いがつんと鼻をついた。

「死ぬことって本当に悲しいことなんだろうか」

自販機で買ってきたコーラを飲み干した彼は、一呼吸おいてまた話し出した。

「俺は死ぬつもりでいるけど、それはなにも生きていくのが辛くなったからってわけじゃない。それどころか生きてきて楽しいことの方がたくさんあった。ただ、だからって死なないっていう理由にはならないんじゃないか?」

はじめ、彼が何を言っているのかよく分からなかった。よくよく聞いてみても彼の主張は反論する余地の余りあるものだった。しかしそれと同時に、なかなか興味深いものでもあった。

「『死=悲しい』なんて誰がそんなこと決めたんだ? それを決めたのって生きてる俺達だろ? 死んだ経験もない俺達がなんで死ぬことが悲しいって分かるんだ? そうやって考えたら、『死=悲しい』なんて考えはただの残された側のエゴっていう風にも考えられないか? 死んだらどうなるかなんて結局死んでみないと分からないからさ」

たしかにそれはその通りかもしれない。「死」というものは死ぬ本人の捉え方次第で悲しいことにも、単なる経験の一つにも、もしかすると本人を救う希望にもなるのかもしれない。しかし、死ぬ本人からしたら単なる経験の一つでも残された側が悲しむとしたら、やはりそれは悲しいことになるのでないか。

そんな僕の心の声が彼に聞こえていたのだろうか。彼は話を続けた。

「俺が死んだとしたら家族やお前、あいつらも悲しむだろう。それは迷惑をかけるということにもなる。そう言った意味では「死」は悲しいことだって言えるかもしれない。でもさ、自分の命だし最後くらいはわがままを通しても罰は当たらないんじゃないか? まあ今まで大切に育ててくれた親には本当に申し訳ないとは思う。ただ、俺自身が死ぬことに後悔がなければいいんじゃないか?」

僕の心の声は彼のわがままに簡単に説き伏せられてしまった。僕が彼を止めようとしていた行為は、彼に自分のエゴを押し付ける行為そのものだったのかもしれない。彼の今にも崩れ落ちそうな主張を聞き終わる頃には、僕の中で、彼を止めようという気持ちは完全になくなっていた。彼の意志が揺るがないのであれば、それを尊重しようとさえ思うようになっていた。

いつの間にか、彼と僕は映画の話を始めていた。僕はマイナーな映画について彼と議論を交わす時間が好きだった。

「このあいだお前に勧めた『新しい恋のススメ』って映画観たか?」

 僕は黙って頷いた。それは冴えない主人公が恋をして自分を磨く努力をし告白するというよくある内容の映画だった。

「あの映画さ、主人公がめちゃくちゃ努力して自信つけて告白して、結局振られるっていう後味悪い内容じゃん。でも最後の『彼女は残らなかったが彼の努力は形として残る』って言葉を聞くとなんか俺まで救われた気になるんだよな」

 彼の口から発せられたのは誰もが考えつくようなありきたりな感想だった。少し拍子抜けした。いつもの彼独特の視点から繰り広げられる映画論が聞けると期待していたから。 

 しかし、無精髭を生やした彼の表情を見るとそれがただの凡庸な感想ではないことに気づいた。

 彼は主人公の努力に自分を見ていたのだ。幕を下ろそうとしている自分の人生がどこかに爪痕を残すと思いたかったのだ。ありふれた映画論を語る彼が、海を見つめる引退した漁師に見えた。

 彼とのこんな時間も残りわずかかもしれないと感じた。 

 それから彼と僕は二時間程話し込んだ。

 ふと彼が言った。

「お前さ、もし過去に戻れるとしたら戻りたいと思う?」

僕は首を振った。正直なところ過去に戻って変えたいと思う出来事はいくつかあった。ただそれを変えてしまうと今の僕はいなくなってしまうかもしれない。そうなるのが怖かった。 

「俺も過去に戻りたいとは思わないな。過去を変えるってことは今の自分が変わってしまうことになる。それは今の自分を否定するってことになるだろうし。だからって今に満足せず、未来の自分をより良くするために行動していくってのが大事なんだ。まあ俺の場合あと一週間だけどな」      

笑いながらそう言った彼の顔は、彼が吐いたたばこの煙で霞んで見えた。

 帰り際、彼はなにかを思い出したように僕に言った。

「そういえばさ、さっきの自分の言葉を否定する訳じゃないけど俺達が生きてるのは過去でも未来でもなく今なんだから、難しいこと考えずに今の自分に満足するってのも大事なんだろうな」

この言葉を聞いて僕は体が軽くなった。彼と話をすると胸につっかえていたものがすっとなくなる感覚をよく味わった。僕は悩み事があると常に彼に答えを求めていた。そうして彼と僕は別れた。

「今の自分に満足する」それは周りと自分を比べて優劣をつけるのでなく、等身大の自分を認めて肯定してあげるということ。それは簡単なことに見えてとても難しいことなのかもしれない。僕自身、周りと自分を比べることがたくさんあった。これからも他人と比べ悩むことがあるかも知れない。そんな時は彼との会話を思い出そう。上ばかりを見上げ首が痛くなってしまったとき、この言葉を思い出して、一回首を回してみよう。足元を見つめ直そう。

そこまで考えて僕ははっとした。

この言葉は彼が彼自身に言い聞かせていた言葉だったのだ。頭では彼も分かっていたのだ。しかし彼の心がそれを受け入れなかったのだ。そのことに僕がもう少し早く気づけていれば彼に何か言えただろうか。彼の意思を尊重する以外の選択肢を選べたのだろうか。

そんなことを考えながら、僕は今、黒い車体を見送る。


 

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