割れ窓の向こう
律華 須美寿
割れ窓の向こう
「ところで平沢さん。 俺いま困ってることがあるんですよ」
ミルクたっぷりの紅茶を片手に目の前の男、戸川隼は唐突にそう切り出した。
時刻はもうすぐ正午になろうかという頃合い。外を明るく照らしているはずの太陽の光はまったく見えない。代わりに空を満たしているのは陰鬱で分厚い雲の行列。そこから次々落っこちてくる水滴の塊は下を歩く人間どもを撃ち抜こうとでも考えているのか。激しい打撃音と共に、傘にアスファルトに木々の枝葉に、所かまわず殺到している。
「……悩み? 君が?」
「はい」
そんな空間を突っ切ってここ、私の住居こと賃貸マンションの一室にまでやってきたこの男の目的は一つ。私の手から今回分の小説原稿を回収することのみのはず。それが「困ったことがある」ときた。用が済んだのならさっさと帰って欲しいものである。あからさまな嫌悪感と倦怠感を込めて返答してやったつもりなのだが、どうにもこいつにそのような感覚を理解させることは難しいようで。むしろ逆に私が話に興味を持ったとでも思ったらしく、前屈み気味に座り直している。
「実は今月厳しくってですね……予想外の出費? というか必要経費? ……とにかく貯金をメチャ切り崩してしまいまして、生活に全然余裕がないんですよ」
ダメですよねーホント。言葉通りには見えない能天気な口調と共に、カップをあおる。一応客人なので出してやった甘ったるい紅茶はどうやら彼の子供舌には大盛況らしかった。お代わりまでは淹れてやる気はないが、こいつの対応はあれで十分そうだ。
「金の無心かい……この私に。 ……もうちょっと人を選ぶとかしろよ、なあ」
対する私は椅子に深々と腰を落ち着け、わざとらしくジンジャーエールのグラスを傾けて見せた。すごく辛い。しかし眉に寄った皺の原因はこの強烈な風味だけでないことは明白だ。玄関先では寒かろうと家にあげてやったのは私だが、こんなにしっかり寛ぐことまで許可した覚えはない。
そもそもこの男と私の関係は『仕事仲間』以外の何物でもない。小説家と担当編集。それ以上でもそれ以下でもない。友人恋人の類いなど以ての外。そんな相手に話すことだろうか、金の話なんて。つくづく常識というものの備わっていない男である。
「あ、や。 そうじゃなくて。 その」
そんな私の内心を知ってか知らずか、戸川はあからさまに慌てた態度を見せる。
「平沢さんに相談したかったのは金貸して欲しいとかそういうんじゃなくてですね。 はい」
「じゃあなに」
居間件仕事部屋兼応接間をつつむ静かな雨音。それを遮るように響く戸川の大声。喋ると同時に肩が揺れ、それにつられて紅茶のカップも揺れている。割るんじゃねえぞ。
「あの……聞けば平沢さん、フリーター長かったって言うじゃないですか。 それでその……なんか知らないかなぁと、思いまして……稼げるバイト」
「…………」
どっちにしろ失礼だろ。言いたかった言葉は炭酸飲料と共に飲み下した。
飲み下したうえで言ってやる。
「だから、人を選べって。 質問する人を」
氷だけを残したグラスを机に押し付け、立ち上がる。
「駄目ですか?」
「ダメってかねぇ……そんな噂誰から聞いたのか知らないけど、その人言ってなかったの? 私が飽きっぽくてバイトもろくに長続きしなかったってこと……業界の常識とか裏話とか、そういうやつを私から聞き出そうったって無駄だよマジで。 知らないから」
数歩も歩けば部屋の端までたどり着く。そこに嵌った小さな窓に目を向ける。薄く開いたカーテン越しにも外の惨劇は明らかだった。僅かに青みを帯びた灰色の空模様。道を行く人々の歩みは忙しなく、車の動きは心なしか鈍足だ。今日はうちから出ないでおこう。食事は買いだめしたカップ麺でも啜れば問題ない。
「マジっすか!? ……え~、困ったなぁ……どうしよ。 ……こういうときネットの情報って信用したくないんだけどなぁ……悪い話がいっぱいそうだし……」
私が昼食の内容に思考を向ける傍ら、戸川は目下の金銭問題に頭を抱えることになってしまったようだ。しかし私が無数のアルバイトから何ひとつ身になる経験や知識を得ることが出来なかったのは紛れもない事実なので、こうするより他にどうしようもあるまい。ブツブツ呟きながらも結局携帯端末を取り出した戸川の言う『信用ならないネットの知識』と大差ないのだ。この『平沢薙子の脳みそアーカイブ』なんてものは。
「ん~……中華料理か……ハンバーガーか……。 あっ、オムライス専門店なんてのもある」
「文句言いつつスマホかい……。 てかなに、職種は飯屋で決まりなの? まかない目当てなの?」
まさかそこまで困窮しているとは。思わず振り返った先の戸川にそう言葉を投げかけてみれば、しかし彼はけろりとした表情でこちらを見返すのみ。先ほどまでの深刻さは何処へ行ってしまったのか。問いかけるより先に戸川が答える。
「いえ? ……あ、これは昼飯どうしようかと思いまして……。 この雨だし、うちにデリバリー頼もうかなぁと。 あ、平沢さんも食べます?」
「……いや……いい。 ……いらない……」
心配して損した。大きなため息と共に椅子へと帰還する。正面には店を吟味する男の姿。
わざわざ宅配業者なんて使わなくても帰りがけにファミレスにでも入ればいいような気もするのだが、何の意味が。というかそもそもそんなことする金銭的余裕はあるのだろうか。いやいやまさかこの部屋に配達させて私に払わせる気なのか?払わんぞ?絶対。
「……ああ、そうだ」
「?」
「いやね……少し、思い出したことがあってね……」
配達業者と顔を合わせる自分自身を夢想したそのとき、ふと脳裏によく似たイメージが浮上してきた。
これはそう、丁度私がアルバイトの掛け持ちで何とか生き繋いでいたときのこと。今後の生活をどうするべきかと思い悩んでいたときのこと。
「私も昔やってたなぁって思ってさ……配達バイト」
「そうなんすか? そんなことまで……」
「その経験から言わせてもらうけどね」
長い雨の日の退屈しのぎにはなるだろう。どうせこいつは注文を終えるまでは帰る気はないのだろうし、丁度いいかもしれない。
「そういうバイトはおすすめできないよ。 ……碌な目に合わないから」
片肘ついた私の正面、戸川の瞳が疑問の色に染まった。
世の中に無数に存在する仕事。それらをあえて分類しようと考えたとき、非常に大きな網目の一つとして大変分かり易いものがあると思う。つまり、天候に左右される仕事か否か。
そういう意味で見れば、私の従事するこの仕事はまさしく『天候に左右される仕事』の一つであろう。無駄に巨大なリュックを背中にぶら下げつつ考える。晴れの日には熱さと眩しさが、雨の日には寒さと湿度の不快感が。雪の日なんて考えたくもない。この仕事には辛いことしかない。
私の使命は注文客に料理を届けることだ。しかしどこかの店に専門的に雇われている訳ではないので、届けるものの種類は様々だ。汁物から丼物、ファストフードのセットメニューやカフェのコーヒーなんてのもある。それら無数の商品を届ける先もまたバラエティに富んでいる。配達エリアはそれぞれの店が指定した範囲と、私の行動可能範囲の重なる場所のみ。日によって行き先にムラが出るのは当たり前であり、また場合によっては間が悪くほとんど配達できないこともあり得た。
ある店の宅配担当ではなく、宅配員を派遣する業者の所属。それが私の社会的地位の分類だった。好きなときに働ける身軽な肩書き。吹けば飛んでしまうような不安定な足場。この危うい自由さに心地よさを感じたもの達が、互いに触れ合うこともなく、この街をせっせと自転車で走り回っていた。
「…………」
正直言って悪い気はしない。生活は全く安定しないが、実家にいたときよりは大層ましな気分だ。あの家に自由はなかった。金は沢山あったが、私が自由にできるものなんて、何一つなかった。
『まともな人生』とやらを歩ませたがった両親の目の届く範囲にいる限り、私には何一つ言う権利なんてなかったのだから。
「……おっと」
昔の苦い記憶のフラッシュバックにさらされて見逃すところだった。慌てて錆びたブレーキを握り締める。ギギッと不愉快な音を辺りにまき散らしながら黒い二輪車が歩道の只中に停車する。若干前に飛び出た上半身を引っ込めてみれば、目の前に広がるのは街路樹が作るまばらな影の絨毯と、その上に立つ無表情の老婆。片手に何やら大きな本を抱え、もう片方の手には黒い杖を握っている。轢かれるとでも思ったのか、老眼鏡越しの視線は刺すように冷たい。
「あ……すんません」
形だけでも頭を下げる。それだけで老婆は振り返り、歩行を再開した。私も彼女から視線を途切れさせ、そのまま向かって右の建物に意識を向ける。
「……浮嶋団地……ここか……」
手元の携帯端末が示す場所は確かにここ。柵に囲われたこの先の団地で間違いない。完成からどの程度経過しているのかなんて分かるわけもないが、外壁のくたびれ具合からそれなりに年季の入った建物であることは察することができた。ややくすんだ白い壁の四階建て。それがどうやら三つはあるようだ。この位置から見えるだけの情報なので確かなことはわからないが、少なくともそれなりに大きな敷地を有しているらしい。
「いや……? ……団地ってこんなもんか……? ……そもそも……」
思わず首をひねってしまうのは、私自身に団地住みの経験がなかったから。団地に住んでいる友達もいなかった。故に内部のことなんてほとんど知らない。まさしく未知の領域。さながら外国旅行。というのは言い過ぎたかも。
閑話休題。
「えーと……入り口は……」
とにかく私はここに住む人物に食品を届けなければならない。それにはまず、ここに進入を果たさなければ。
目的物は案外早く見つかった。自転車を押しながら数メートル歩いたところに巨大な門扉があったのだ。石造りの壁に挟まれた、柵と同じ艶やかな黒色の門。上部には監視カメラの目が光っている。流石に配達や郵便のものが出入りするため扉に鍵までは掛かっていないようだったが、それでも重苦しい音色と共に開かれたこの扉からは、明らかな部外者への威圧感が放たれていた。どうにも歓迎されていないようで居心地が悪い。
気味の悪い要素といえばもう一つ。
「……看板……だよな……これ……?」
門の横の石壁。そこに張り付けられた黒色の立派なプレートとくれば、それはほぼ間違いなくこの建物の看板や表札の類いであろう。煌びやかな金文字で記されているのはここの名称、浮嶋団地であるはずだ。
しかし。
「……読めない……」
全くもって読めない。知らない文字を見ているようだと言った方が適切か。形状的には漢字のような何かで間違いないのだが、その姿かたちがなんとも不可思議なのだ。例えるならそう、アメリカ映画用に適当に作った中華街の看板のような。チベット辺りのマイナー宗教の神聖文字のような。知らないけれどもこの形態で問題ないことだけは理解できる言葉。それが目の前に並んでいた。明らかにおかしい。
「…………?」
おかしいのだが、端末の表記はここが浮嶋団地で間違いないと主張している。であるなら、この看板も、それを見ている私自身も、間違いなく正しいということなのだろうか。
「……仕方……ないか……」
端末をポケットに戻しつつ一言。最新の地図アプリの内容なら信用してもよいはずだ。目の前の看板はそう、この団地と縁の深い前衛芸術家の作品だとでも考えれば辻褄は合う。
不気味であることには変わりないがそれでよしとしよう。自転車を転がしながらそう心に言い聞かせる。どっちにしても、私がさっさと用事を済ませて退散すればよいだけのことなのだ。
そうなれば次に探すべきはエントランスルームだ。部屋番号もしっかり聞いてはいるが、そもそもそれがどのあたりに属する番号なのかまではこちらの知るところではない。まっすぐ棟に入れない可能性もあるので、まずは受付棟を探すのが先決だろう。
「……ん? 三番棟?」
そう思うのも束の間、私の目の前には大きくそう書かれた建物の入り口が飛び出してきた。相変わらず文字は読めないが、数字は辛うじて判別できる。何がしかの金属で出来たプレートに、これまた何がしかの金属で縁取られた金文字が躍る看板。それがでかでかと壁に張り付けられた状態でこちらを見下ろしていた。その横には、片方だけを大きく開け放ったガラス張りの両開き扉。
「入っていい……のかな……? ……これは……」
私が向かうべき部屋番号は337。このままここに入っていって、エレベーターでも使えばすぐさまたどり着ける場所。これでもわざわざエントランスを経由するべきなのだろうか?
「……いや、いいや。 入ろう」
普通はそうするべきなのだろう。しかし私はその『普通』とやらを足蹴にすることに決めた。建物に寄り添う位置に自転車をそっととめ、チェーンを巻く。そして支給品のヘルメットを脱いで代わりに愛用の丸帽子を乗せる。見る人が見ればバケットハットだのベルハットだのその名称を饒舌に語ってくれるのだろうがそんな情報は私には不要だ。朝からの寝癖と生まれながらの三白眼を隠してくれる帽子。それだけでいい。この潰れたボウルのような帽子にはそれ以外の何も求めてはいない。
「……失礼、しま~す……」
誰かに聞かれてしまわない程度に。しかし誠意は示せる程度に。都合のいい挨拶と共に扉の先へ足を踏み入れる。そこは集合住宅の一階としてはまさにお手本のような空間だった。規則正しく並んだ扉。等間隔にせり出した消火設備の赤い箱。所々の家の前には傘立てや観葉植物の鉢が見え、各々の生活の残り香を感じることが出来る。
「……っと、階段は……」
振り返っても空きっぱなしの扉があるだけ。目を凝らしてみれば、はたして。
「……向こうか……」
視界のはるか先、玄関扉を五つか六つか超えた先にそれらしきものが見える。といってもここから班別できるのは手すりの始まりの部分だけ。それがある以上、手すりの必要な何かがそこにあることには変わりないのだが。
「…………」
訳もなく、そろりそろりと歩みだす。一つ、また一つと玄関を超えるたび部屋番号に視線を向ける。何をそんなにゆっくり進んでいるのか。考えてみて初めて気づいた。この敷地に入ってきて今まで、誰とも遭遇していない。どこのドアの先からも生活音の類いが聞こえない。
「………………」
向かって左の中庭からも。向こうに見える別の棟からも。そして上の階からも。何一つ。
「……………………」
人の住んでいる気配が、何一つ。
これでは。
「……これじゃ……まるで……」
バタン。
「!?」
思考の穴に落っこちてしまいそうになるその刹那。突如背後から響いたのは固く無機質な衝撃音。思わず肩を跳ね上げつつ振り返る。声まで出さなかったのは決して大声を出すことによる周囲への被害を考えたからではない。ただただ単純に、声帯が職務を放棄し逃げ出してしまったからに過ぎない。
「…………」
「あ……」
肩ごしの視界の先には一人の老婆の姿があった。腰をかがめた小さなおばあさん。濃い緑色の衣服に身を包み、片手に黒い杖、もう片方に赤い背表紙の本を抱えた老眼鏡の老婆。
見覚えのある姿。浮嶋団地の前で出会った老婆だ。
「あの……あの、さっき……」
「いけないねぇ」
「えっ」
さっき会った人ですよね。放とうとした言葉はまた別の言葉により遮られた。しゃがれた低い声に。活舌の怪しい女性の声に。
「いけない、いけない……戸が開けっぱなしだ……いけない、いけない……」
「あ……あの……?」
つぶやくようなその言葉は私に向けられた言葉ではないような気がした。呪文のようにずるずると薄い唇から這い出てくる文言の行く先はどうやら老婆自身。まるでとぐろを巻く蛇のように、老婆自身を締め上げているようにしか見えない。
「……いけない、いけない……いけない、いけない……」
視線もそう。こちらを向いてはいるようだが、決して私とは目が合わない。遥かその向こう側、ここではない、どこか別のところを見ているようにしか感じられない。
「……開けっ放しはいけない……いけないねぇ……いけない……」
不気味なばあさんだ。これ以上関わり合いたくない。
「あ、の……失礼します。 ……配達が、その……あるんで……はい……」
曖昧に頭を下げつつ正面に向き直る。はにかむように曲がった口の端がひくついているのは恐らく勘違いではあるまい。一刻も早くこの場を立ち去りたい。そんな思念が言葉になってしまう前に早く、上の階へ……
「いけないねぇ」
「……っ!」
今度は声が出た。出ない方がおかしかった。
階段の方を向いた瞬間、また老婆の声がしたから。
耳元から。ささやきかけるように、はっきりと。
「あ……あれ、は……。 ……あれ……」
そして体全体で振り返ったこの視界の先。そこには。
「…………いない……?」
老婆の姿はなかったのだから。
「…………ッ!」
もう限界だった。正面に向き直るや否や、手すりで体を引き上げるようにして階段を登る。荒い呼吸をそこらにまき散らしながら、私は走り出していた。
「はっ……はあっ……はあっ……」
ここに来てから今まで、不気味なことがあり過ぎた。読めない看板。異様な静寂。そして消えた老婆。この空間に属するすべてが私を否定しているように思えてならなかった。こんなところにもういられない。一刻も早く。荷物を置いて帰りたかった。
「……はあっ、はぁ……三階……!」
登り切ったその場で膝に手をつく。急に激しく呼吸した影響か、喉が痛くてうまく空気が吸い込めない。薄い胸板を打つ心臓の打撃が苦しい。本当ならこれが収まるのを待ちたかった。余裕を持ってゆっくりと、客の前に立ちたかった。
「…………」
でも、そんなもの待っていられない。柵に手をつき、やや前屈みになりながらも前進をはじめる。部屋番号は337。手前の部屋は331。向かうべきは、最奥部。
「……332……3……4……」
階段を登るとき、背中の荷物を激しく振り回してしまった気がする。中身が乱れていたら謝らないと。
「……335……6……6……」
半ば朦朧とすらしてきた意識の中、考えるのは配達のこと。果たすべき役目のこと。ここから帰るための条件のこと。
「……ろく……」
会うべき人物のいるはずの、337号室のこと。
「……………………」
視界一杯に広がった白い壁の先にあるべき部屋番号のこと。
「…………は?」
ここにはない、部屋のこと。
「なん……えっ、は? ……え、どうして……?」
思わず数歩後退る。勢いよく振り返り、指さしながら部屋番号を数え直す。
「いち、にい、さん、よん、ごお、ろく……ろく……」
ない。
「ない……」
七号室が、ない。
「ない……ない。 ……冗談……」
部屋が六番までしか、ない。
「なんで………っ!」
思い出すのは、この建物に入ったときのこと。
確かに私は数えていた。通路の向こうの階段を見たとき。無意識だが、確かに。
部屋が七つないことを数えていた。
「なんで……冗談じゃ……なんで……」
あのときすでに。いや、もっと前。この建物の前に立ったあのときから。
なぜそのときに疑問を抱かなかったのか。
この建物、ここの異常に、なぜ。
「いけないねぇ」
「ッ!!」
また、声。
今度は真正面から聞こえてきた。いつからそこにいたのか。六号室の前に、いつの間にか老眼鏡の老婆が立っていた。
杖を携え。本を抱えて。
「いけない……いけないねぇ……おまえ……」
老婆が一歩踏み出す。
「な……っ、いけな……?」
私が一歩下がる。
「いけない……いけないよ……いけない……おまえ……いけない……」
老婆が進む。
「いけない……。 何だよそれ……いけないって……何が……」
後退る。
「いけないんだよ……おまえは……いけないんだ…………」
進む。
「やめろ……」
下がる。
「いけない、いけない……いけない……おまえは……ここには……」
本を開く。視線はこちらに向けたまま。ぱらぱらとページが捲れていく。
「やめろよ……やめろ……。 ……来るな…やめろ……」
下がる。
背中に何かがぶつかる。
「あ……っ」
振り向く。
柵だ。
階段横の柵だ。
背中に柵がぶつかっていた。
「下がれな……」
「いけないねぇ」
耳元でまた、老婆の声が聞こえた。
「…………あ…………」
その吃音が私の喉から出たものだとわかるまでに数舜を要した。
かばん越しに柵の硬さを感じながら。右の耳でだけ老婆の声を聞きながら。私はこの場から全く動けなくなっていた。
その気になればこんな小さな老人如き、突き飛ばして逃げることも容易いはずなのに。配達なんて諦めて階段を降りることもできたはずなのに。
なぜだか私は動けないでいた。まるで誰かにそうせよと命じられたかのように。指の一本も動かせず、見たくもない灰色の空を見つめながら。
見たこともない色の空の方を向きながら。
「…………」
冷や汗が喉を伝う。眼球が渇いているのがわかる。
ゆっくりと、視線を老婆に寄せていく。
「あんた……あんた。 あんたは……ここは……?」
答えはない。代わりに聞こえるのは、規則正しい小さな物音。
「ここ……違うのか……? 浮嶋団地じゃないのか……? ……だったら……?」
ぱらぱらぱら。紙のこすれる音が相槌のようだ。相変わらず体は動かないが、その代わりだとでも言わんばかりに口が動き出し、言葉を吐き出している。
「どうやってこんなところに……私は……出口は…………」
「いけないんだよ」
ページを捲る音が途絶えた。それと同時に、老婆が口を開く。
「いけないんだ……ここにいたら……こんなところにいたら……」
「あんた、私を追って来たな……! いったい何が起きて…………!」
唐突に体が動き出した。誰かの暗示が消えるのがわかった。弾かれたように柵から離れ、今度は体ごと勢いよく、老婆の方へ向き直る。
「…………『行け』っ!! 」
その目の前で、老婆が本を掲げていた。
高らかに持ち上げられた本。開かれたそこにはいったい何が書いてあったのか。
「なん……っ、だ……これ……!」
読むことはできなかった。それは決して、文字が読めないからではなかった。
「あ……っ、ぐ…………うう……」
唐突な頭痛。動き出したばかりの体を縛るには十分すぎるほどの重圧が、私の頭を抑え込んできた。
「あんた……。 あんたは、あんたは…………!」
「いけないよ……二度と……二度と……ここに来たら……」
俯きながらも睨んだ先、柵で支えた身体の感覚すら怪しい中でも確かにその声は耳に届いた。
「……く……っ」
その意味を問いただすことが出来るほど、私の意識は強靭ではなかった。
正午を迎えたワンルームアパートに響く雨音は衰えることを知らない。ただただ一定のリズムを忠実に守りながら、道路や屋根を一途に濡らし続ける。
「……んで……どうしたんすか……? ……その後は……?」
背後から聞こえるこの男の声音は違った。いつの間にやら緊張感を帯びていた言葉を何とか絞り出している。『相談事』とやらについて話していたときより遥かに真剣そうだ。ため息がこぼれる。
「別に。 ……普通に配達したよ」
「えっ!? ……いや、え? イキナリですか?」
「イキナリだよ」
窓の外を意味もなく眺めるのなんていつぶりのことだろうか。うっすらと映る自分の輪郭を目線でなぞりながら考える。退屈な雨だ。
「気が付いたら『浮嶋団地』にいたんだ。 そこの三号館。 階段前に突っ立ってたから入居者の人に睨まれたよ……。 何か訳わかんなかったけど、とりあず337号室はあったから牛丼届けてきた。 ……中身はやっぱりぐちゃぐちゃだったね。 すげえ怒られた」
「はあ……」
あのときの客の顔は今でも覚えている。神経質そうな眼鏡の男性が、怒り慣れていない人特有の金切り声でもって怒鳴り散らすのを聞くのは中々に稀有な体験だった。そしてあれだけ怒り心頭だったくせにキッチリ小銭でお代を払ってくれたこともまた覚えている、流石は神経質な人物だということか。
「……ていうか平沢さん。 俺よくわかってないんすけど」
次々浮かんでくるあの日の記憶をいたずらに反芻する中、割り込んでくる現在からの声。戸川の声は確かに納得がいっていないようだった。
「その……平沢さんの行ったところ、そこがホントに『浮嶋団地』じゃあなかったとしてですよ……? ……じゃあ平沢さんはそのとき、どこに行ってたんですか?」
そんでどうやって帰って来たんですか? ていうかあのおばさんは何なんすか? そもそもその話が現実だってことがまず信じられないんですが? 矢継ぎ早な質問の嵐。ガラス越しの景色より明らかに暴力的なそれを振り払うように首をひと釣りし、私は反対側の壁につま先を向けた。
「信じろってのが無理な話だよねそりゃ……。 でも、私が思うにあそこ……、あの空間は『この世のどこ』でもないけれど、確かにあった世界なんだよ……。 それが『どこ』……例えば『並行世界の浮嶋』なのか『過去や未来の世界』なのか……そこまではわからない。 ……わからないけど確かに、この世界じゃないどこかに『あの団地』はある……そう思ってる」
「……ここじゃない……どこか……?」
窓に触れた頭が冷たい。この感触をもたらし、また外の雨を防ぐガラス板は確実に強固にここに嵌っている。
しかし例えば、縁のゴムが劣化していたら。何かがぶつかってひびが入ったら。そんな簡単なことで窓ガラスが発揮していたはずの『断絶性』はことごとく消え去ってしまう。室内と屋外、向こうとこちら、境界線は限りなく曖昧になる。
その『曖昧さ』が空間自体にも適応される考え方だったとしたら。この世界を取り囲む空間それ自体にも崩壊しうる『断絶性』が備わっているのだとしたら。きっとその裂け目にうっかり近づいてしまうと、いともたやすく世界の垣根を越えてしまうのだろう。合図もなしに、出口も知らされずに。
「そして……。 そしてそう、あの老婆は……」
あの老婆は監視していたのだろう。だから私についてきた。だから私に警告し続けた。
「……私みたいな不届きものが生み出しちゃった『概念』なんだろうね……。 不用意な人間のせいで、いつからか……」
「はぁ……」
うっかり別世界に進入してしまう人が出ないように。そんな人を元の世界に返すために。『あれ』はそういったシステムなのだろう。きっと今もまた、どこかで誰かを追いかけているのだ。元の世界に『行け』と言うために。いけないいけない、とつぶやきながら。
「…………あっ」
不意に声が出た。思わず窓の方へ振り返る。
「今度は何です」
すかさず後ろから飛んできた声に、ただひらひらと手を振ってみせる。
「いや。 なんでも。 ……でもそうだね、ひとつ朗報があるよ、君に」
「はい……?」
この両目がとらえたものは、確かにこの世の境界線だった。
「配達……頼まなくてよさそうだよ」
雨の音が、やんでいた。
割れ窓の向こう 律華 須美寿 @ritsuka-smith
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