第6話 波濤を越えて
揺れていた。
ぐずぐずと。
じくじくと。
海で死んだ者は、ずっとこのように揺れているのだろうか。手も足も縮こまり、寒くて寒くて仕方ない。海の石蔵は舵を気に入ってくれなかったのか。嘉平のように温かい腕で抱きしめてはくれないのか。身代わりの花嫁は厭われて、ずっとずっと悲しい毎日を過ごすことになるのだろうか。
揺れている。暗い先は、閻魔さまがおわす地獄の入り口か。
皆を騙し、嘘をついた舵は舌を抜かれるのか。
薄っすらと明るい中で揺れている。
柔らかいものに包まれた舵は、花嫁衣装をなくしてしまったようだ。裸の乳房に柔らかいものが触れる。耳元に小さな吐息。優しい手が舵の肩を撫でさすり、舵の前髪をかきあげる。
(あっ、駄目)
顔を露にしては、舵が偽者だと分かってしまう。そんなことでお嬢さまにもしものことが起これば、舵が死んだ甲斐がないではないか。
「舵、舵。戻ってきて」
誰の声だろう。ささやく声は力なく、まるで死神の声音。
舵は、思わず応える。
「澪さま、澪さま。大丈夫ですか」
澪はしくしくと泣き出し、舵は裸体の澪の肩を抱きしめた。
澪は、恥ずかしげもなく身につけていた布のすべて剥ぎ取り、凍えきって死にそうな舵の身体を温めていた。
舵のお嫁入りは、十三歳のみぎりの澪と同じように破談となったのだ。
誰が舵を助けたか。その方はここにはいない。舵らを送り出した嘉平は、もしもに備えて刀を背に隠し、半裸の半纏姿で仁王立ちしていることだろう。
和歌江島には、僧が精魂込めて祈り、書き上げた有難いお経の石版がたくさん沈められたと後に聞いた。それは、人柱の代わりに前もって用意されたものだ。
それでは、丸太屋嘉平の娘に下された人柱の話は、誰の発案で誰の利益を生むものだったのか。
波濤に揺れる船には、澪と新助が乗っていた。船底の隅には、舵の旅仕度。嘉平から送られた螺鈿の箱には、琳さんから貰った仏像が入っていた。反対側の隅には澪と新助の小さな旅仕度も転がっている。
舵が回復してからは、二人は離れることなく寄り添い、船首のその先を見つめている。
舵は帆柱の影に座り、若い二人を見つめた。嘉平の英断を誇りに思い、改めて澪に一生仕えしようと誓った。
舵の隣には長孫琳。今では日本人かと思えるほどの流暢な日本語で話しかける。
「心配はいらないんだ。すべて丸太屋嘉平さんの仕組んだことなのだ」
ええ、分かっていますとも。嘉平だからこそ、大事な大事な娘を異国の地に向け旅立たせるなんて豪気なことが出来るのだ。舵まで救い出して、あの方は誰の手も借りずこれからも一人で戦うのだ。
隣に座った琳の腕から、かすかな異国の匂いと十分な温かさが伝わってくる。
舵は、きっとこの異人に嫁ぐのだ。一度は断った縁だったけど、これから異国の地で生きていく若い二人を支えるには、どうしたってこの異人の助けが必要だ。だとしたら、舵はこの人の思うように従い、この人に満足を与え、この異人の庇護があの若い二人にいつまでも続くようにしなければならない。
怖くはない。舵は、何時だって与えられた情況に早く慣れたいだけだ。
船は、最後の徒花を咲かせる南宋の臨安府に向かって波濤を蹴散らしている。
舵は、「もっと漢字を知りたい」と長孫琳に伝え、微笑みかけた。
和歌江島恋唄 千聚 @1000hakurin
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