第5話 築港
舵は、俯きかげんに座していた。着付けは、台所で働く者と澪が手伝ってくれた。
澪は、まるで召使のように恭しく畏れ入って舵の化粧を整えた。
いよいよ憧れの嫁入り衣装が舵の肩に掛けられ、舵は部屋に一人残された。
静かだった。
海の音も聞こえない。みんな鳴りを潜めて、知らないふりをしているのだ。
襖がそっと開き、嘉平が入ってきた。嘉平はじっと舵を見つめ、そして静かに近づき、その大きな腕で舵を抱きしめた。
舵があれほど憧れた嘉平の腕の中に今いるのだ。それは天災から身を守る為ではない。嫁ぎ行く娘を愛しむ為でもない。なぜ確りとこの女子を抱きしめて自分のものにしてしまわなかったのかという後悔に彩られた熱い思いの伝わる力強さだ。舵は目をつぶり、花嫁衣装を通して感じられる嘉平の体温を確かめた。後悔はない、自ら望んだ嫁入りだ。
花嫁御寮を乗せる舟は、店の直ぐ前の浜に舫われていた。浜の男が二人、丸太屋の半纏を着て片膝を付いている。まるで武家のように落ち着いて礼儀正しく、姫さまに接するように思慮深い面持ちだ。舟には船頭が一人いて、舵と浜の男二人を乗せるとゆっくりと漕ぎ出した。
月の綺麗な晩だった。誰もいない静かな海に魯の音だけが響いた。
誰も見ていないはずなのに、たくさんの目が闇夜に光り事の成功を見届けようとしている。舵は慣れ親しんだ澪の儚げな姿をまんまと演じ、花婿の石蔵爺さんに近づいていった。
二人の男が、まず海に入り、両手を高々と挙げた。
「どうぞお入りください」とその手はいっている。
船頭が軽く手を貸して、花嫁が海に入るのを手伝った。
海に入ると直ぐに海中に沈んだ舵だったが、衣装のためか音もなく、すうっと浮き上がった。
月夜の海は、この世の悪事を映し出す魔法の鏡。
花嫁衣装は、ふわりと広がり、大きな花を咲かせた。黒い魔鏡に映し出された花びらは直ぐにも散ってしまう儚い命を精一杯ほころばせ、介添えの男三人の手出しをしばし拒んだ。
海面に出てしまった舵の顔を隠すように右手の男の手が伸びて、舵の肩を抱き、ゆっくりとしかし力強く押し沈めた。花嫁は目を閉じ、あがらいの身振り一つない。
左手の男は、華と咲いた花嫁衣装を必死に抱え込んで、二度と浮き上がらないように舵を押さえた右手の男の後を海中に追った。
直ぐに、石蔵の下に辿り着いた。二人の男は、舵を花嫁衣装と共に大きな置石の一つに確りと縛りつけると振り返ることを怖れるように、この世に帰って行った。
翌七月十五日、和歌江島の築港工事が始まった。
執権北条泰時の許可とともに経済的援助も約束され、諸々の人々の助成も得られた工事であった。北条一門の支配地域である伊豆半島や酒匂川、早川、また丹沢方面から石材が運び込まれ、泰時の家来が立ち会った。
そして、わずか二十六日後の八月九日には竣工完成をみた。
日本最古の築港といわれている。
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